第九話 湯煙の中の信念
食事も終え、のぞみの質問ラッシュも終え、それで満足したのか安心したのか、あるいは疲れていたのか、のぞみはぐっすりと布団の中で寝息を立てていた。安らかな寝顔がとても癒やされる。心が浄化されるようだ。
蓮華は世の中に「これが疫病神の真の姿なんだぞ!」と熱意を持って表明してやりたい気持ちになった。そうすればのぞみが言っていたように、人の疫病神に対する意識、認識が変わって天使にでも昇格するかもしれない。名付けて『のぞみ天使化計画』。
それにしても、今日は疲れた一日だった。早く布団に包まって寝てしまいたい。――が、その前に風呂だ。
「先にお風呂使うけど、いい?」
キッチンで洗い物をしていたターヤンは「紗良々たんに訊いテー」と横流し。胡座をかいて腕を組み瞑想するように寝ていた暮木も頷くだけだった。
蓮華は紗良々の部屋をノックする。
「紗良々ー? 先にお風呂使うけどいいかー?」
「よろしー」
ご主人様の許可も下りたところで、蓮華は着替えを持って風呂場に向かう。
紗良々が風呂に拘っていただけはあり、湯船は大きく、何より汚れの見当たらない清潔感がある浴室だった。
頭を洗って体を洗って、ゆっくりと湯に体を沈める。
「ふぃ~」
気持ちいい。体が芯から解されるようだった。
表の世界から姿を消して早三ヶ月。蓮華は高校を退学し、警察の聴取を全て「わかりません」「覚えていません」で貫き通し、そして両親の葬儀前には姿を眩ませた。それは穂花と会う危険性があったからだ。だから出席はせずに遠巻きから眺めた。
雨の中、両親の葬儀は粛々と行われた。葬儀に訪れた人たちは親の葬儀にも出席しない蓮華を影で罵倒していたかもしれない。あるいは、同情してくれていたかもしれない。今となってはショックのあまり自殺したなどの噂が流れているかもしれない。何にせよ、蓮華は警察の最後の聴取の時に「療養のためにしばらくはどこか遠くで静かに暮らします」と抜かりなく伝えてある。変に騒ぎ立てられることもないだろう。蓮華はひっそりと、ただ消えたのだ。
ヘルヘイム側に住み着いていた時は銭湯を利用していた。それはそれで贅沢だったけれど、やはり他人と一緒に入浴するというのは気が休まらない。だから銭湯より窮屈な湯船でも、こうして一人で落ち着いて湯に浸かる方が蓮華は好きだった。
ボトル式の入浴液が置いてあるのを見つけたので使ってみた。とろみのある乳白色の液体が煙のように広がっていき、湯を白く濁らせる。甘い香りがする。肌がつるつるするし、美肌効果がありそうな気配。きっと紗良々が買ったのだろう。
「蓮華ー。湯加減はどうやー?」
脱衣場から紗良々の声。ごそごそと何かやっている様子が磨りガラスの向こうで伺えた。
「ああ、めっちゃ気持ちいい。最高」
「そかそか。そんならウチも入ろかな」
がらり、と浴室のドアが開いて、蓮華は思わず吹き出した。
体にタオルを巻いただけのあられもない姿の紗良々が躊躇なく入ってきたのだ。
「なななな、何してんだよ!?」
「でっかい声張り上げて……ご機嫌よろしゅうなぁ。何って、蓮華と一緒にお風呂入ろ思て。裸の付き合いってやつやな。プヒヒ」
「プヒヒじゃねーよ! 出てけよ!」
平然とした様子で風呂椅子に腰掛けてシャワーを浴び始める紗良々に、蓮華は慌てて背を向ける。紗良々が何を考えているのかわからず、パニックになりかけた。
「別にええやろ? ウチの見た目は十二歳やで? ロリコンやない蓮華がウチの裸見たって欲情するわけあらへんもんなぁ? それとも……ウチの体に欲情してもうたんか小僧? プヒヒ」
「そういう問題じゃねぇって言ってんだよ! 見た目が子供だろうがお前は女だろ! 恥じらいってもんを知れ! それに、お前と違って僕は見られたら恥ずかしいんだよ!」
「プヒヒ。ウブなやっちゃなぁ。かわええもんや」
さっきまで久々の一人湯でリラックスしていたのに、全く落ち着けない。魔物でも住み着いてしまったかのように心臓が暴れている。
――くそっ……動揺するな……落ち着け……落ち着くんだ……。平常心……平常心……。
恐らく紗良々は、蓮華の慌てふためく姿を見て面白おかしく楽しんでいる。ここで蓮華が動揺してしまったら、それこそ紗良々の思うつぼ。付け上がらせるだけだ。
でも背後ではシャワーから放たれた湯の雫が紗良々の矮躯を跳ね滴り落ちる音色が響く。次いで肌を擦るような音。シャンプーを終え、体を洗い始めたのかもしれない。
そしてついにシャワーの音が消え、チャプンと湯船の水面が揺れた。まさか湯船にまで入ってくるなんて……。入浴液入れといて良かった、といらぬ安堵を覚える。
「……なあ、蓮華」
「な、何だよ……」
「アンタ、これからどないするつもりなんや?」
身構えていたのが馬鹿らしくなるくらいまともな話題だった。声は真剣そのもの。蓮華をからかう色なんて微塵も感じられない。なんだか勝手に慌てふためいていた自分がアホらしくなって、蓮華は肩の力を抜く。
「どうするって、どういう意味だ?」
「正直な、ウチはアンタを連れてきたことが間違いやったんやないかって思い始めとる」
「……何が言いたいんだよ」
「丈一郎への復讐を誓い、緋鬼討伐への協力を条件にアンタはウチらについてきた。それがどうや。今のアンタは血が足りんくて気絶する有様。さらには自分のことはそっちのけで怪異を助け始める始末。ホンマに丈一郎に復讐する気あるんか?」
「そりゃ、もちろん……」
あるのかと訊かれれば、あると答える他ない。殺せるものなら殺してやりたい。それくらいの黒い憎しみの情念が蓮華の胸の中には焼き付いている。
でも……蓮華にはできなかった。人の命を喰うということが。それが喩え死刑囚の肉でも。処刑した極悪な鬼人の肉でも。人の命を糧にして生きるということが、どうしようもなく、相容れなかった。
それが、蓮華の人の肉を喰えない理由だった。
人の心を捨てると誓ったはずなのに。真逆の事をしてしまっている。バケモノのくせに、変に高い理想を抱いてしまっている。
「ほんならちゃんと食事せぇや。今のまま丈一郎に勝てるわけあらへんやろ。それどころか、そのうち野垂れ死ぬで」
「わかってるけど……僕の利己的な目的のために誰かの命を使いたくない」
「命を使うって、肉になった時点で死んどるやないか」
「そうだけど……そうじゃなくて……」
「血は飲んどるやん」
「あれは輸血パックの血じゃん。血は献血とかで生きた人からも提供されるし、誰かの命を奪って使ってるわけじゃないというか、まあ命の一部ではあるんだけど……」
――ああ、頭がぐちゃぐちゃする。上手く言葉にできない。
「アンタは色々深く考えすぎや。悩むんは結構やけど、結論は出してもらわなあかん。ウチらやっていつまでもアンタをお守りなんてしてられへんで。そのへん、頭に置いときや」
「ああ……わかったよ。ごめんな、迷惑かけて」
思えば蓮華は、ずっと紗良々たちに甘えていた。何から何まで助けられてばっかりだ。足手まといにしかなってないどころか、厄介事を運び込んでいる始末。
このままではダメだ。どうにかしないと――その思いだけは、強く蓮華の中に芽吹いている。ただ、実らない。
「……そういえば、目的の緋鬼を見つけたけど、僕らはこれからどうするんだ?」
「そうやなぁ……。気がかりな事が多すぎやし、もうちょい情報を集めな安心できん。それに……王位継承戦が始まってまうんなら、今手を出したところで無駄足になるかもしれへん」
「そうそう、その王位継承戦って?」
「読んで字のごとく。餓鬼の王を決めるための戦いや。およそ百年周期で起こるらしいで」
「餓鬼の王を決める、って……王は緋鬼なんだろ?」
「今は、の。餓鬼の王は王位継承戦で勝ち残った最も強い個体に決まるんや。そして敗北した餓鬼は、王への絶対服従を誓わされる。つまり、王は全ての餓鬼の支配権を握るっちゅうわけや。全国統一ならぬ餓鬼統一やな。全ての餓鬼が王の傘下に入るわけやから、それはつまり全員が仲間になるっちゅうことや。せやから餓鬼同士で喰い合うことがあらへんのよ」
なるほど、餓鬼が餓鬼を喰わない理由はそういうことだったのか、と納得した。
「でもそれっておかしくないか? 全ての餓鬼が王に絶対服従して仲間になるなら、そもそも戦いが起きないはずじゃ……。定期的に反乱分子が湧くってことか?」
「ちゃうちゃう。王の支配を受けるんは、あくまで王位継承戦で敗北した餓鬼だけっちゅう話や。それより後に新しく生まれた餓鬼はその支配を受けへん。せやから、王位継承戦を引き起こすんは新しく生まれた餓鬼に限られる。ほんで今、新たな王になり得るほどの強力な力を持つ餓鬼――あの〝灰鬼〟が現われてもうた。恐らく灰鬼は今、緋鬼の支配を受けとらん餓鬼を集めて軍団を作っとるはずや。つまり、これから起こるんは灰鬼の集めた餓鬼の軍勢対、緋鬼の軍勢の全面戦争やな。そして勝った方が王座に就き、王位継承戦に参戦した全ての餓鬼の支配権を握る。菜鬼と蒼鬼も、過去に王位継承戦で緋鬼に敗れた餓鬼っちゅう話らしいで」
餓鬼の戦争……あの気色悪いバケモノがわらわらと集まった様を想像するだけで、蓮華はゾッとした。
「じゃあもしかして、今日緋鬼が灰鬼に襲いかかったのも王位継承戦が関係しているのか?」
「さあ……ウチにもさっぱりや。ウチやって王位継承戦に詳しいわけやあらへんしな。ただ、緋鬼は灰鬼との戦争に備えて力を回復させようとしたっちゅう感じな気がするわ。今までほとんど鬼人をつくらんかった緋鬼が鬼人をつくった理由がこれで説明がつく。せやから、蓮華を灰鬼に喰われるわけにはいかんくて灰鬼を襲った……のかもしれん。まあ要するに、灰鬼はあの緋鬼がそれほど警戒する強力な餓鬼っちゅうことになるわけやな」
「なんだかとんでもない話になってきたな……」
現状、緋鬼だけでも手一杯なのに。先が思いやられた。
「せやからしばらくは様子見や。今のアンタにできることは、せいぜい灰鬼にも緋鬼にも喰われんよう気ぃつけることくらいやな」
「頑張ります……」
蓮華だって喰われたくはない。
「ところで蓮華」
「なんだ?」
「ウチとチューせぇへんか?」
「はあ!?」
唐突過ぎるそれに仰天して思わず紗良々に向き直る。乳白色の湯のお陰で浸かっている体は見えない。けれど大胆に露出した肩から上の肌に、蓮華は少しドキっとする。
「きゅ、急に何言い出すんだよ!?」
「もうウチらは一度チューしとるやないか。一度も二度も変わらんやろ?」
「いやいや! 変わるよ! 変わりますよ! あれは僕に呪術を仕掛けるためだったんだろ!? それとこれとじゃ話が違うじゃん!」
「お仕置き……何されてもええって言うたやん? それとも……蓮華は嫌なんか……?」
「へっ!? いや、べつに嫌とかそういうワケじゃ……!」
――なんだこれ……なんだこの状況……! なんで急にそんなしおらしくなってんだよ! そりゃ男としてそういうシチュエーションは嬉しい限りだけれども……っていやいやダメでしょ! 紗良々は中身二十七でも見た目幼女! 犯罪だよ!
湯をかき分けて紗良々がすり寄ってくる。熱さで火照っているのか、紗良々の顔が心なしか赤くなっていた。
「じゃあ、ええやろ……?」
「えっ!? ……えっ!?」
紗良々の手が蓮華の肩に添えられて、薄く瞳を閉じた顔が近づいてきた。
顔が熱い。心臓がうるさい。頭がぐるぐるする。もうわけがわからなくて、蓮華はぎゅっと瞼を閉じた。
そして次の瞬間。唇にあのマシュマロのような柔らかさが――来ない。代わりに耳元の吐息がかかるほどの近さで
「冗談や」
と紗良々の囁き。
ぷしゅー、と蓮華の中からいろいろな空気が抜けた気がした。
「プヒヒ! ホンマ、ウブなやっちゃなぁ。おもろいおもろい」
そして紗良々は蓮華の反応にご満悦の様子で湯船から上がり、浴室から出て行った。
惨めに取り残された蓮華は、しばし放心状態で湯に浸かるのだった。
ちなみに、蓮華がお風呂から上がると鬼の形相で待ち構えていたターヤンによってサンドバッグにされたのは言うまでもない。僕は何もしてないのに――と蓮華はその理不尽に声を大にして訴えたい気持ちになったが、どうせターヤンには何を言っても無駄だろうと諦めた。
余談ではあるが、その夜のこと。
蓮華たち四人が和室側で身を寄せ合って寝ていると、パジャマ姿の紗良々がパンダの抱き枕を抱えて彼女の部屋から出てきた。まだ起きていた蓮華がどうしたのかと訊ねると、自分だけ一人で寝るのは仲間外れにされたみたいで寂しかったのだとか。ちょっと目が潤んでいて、おかしくて蓮華は思わず笑ってしまった。
だからこれからは皆で和室に集まって一緒に寝る、ということが紗良々の中で決まったらしい。そして今日のところは、のぞみの布団に潜り込んで一緒に眠る紗良々なのだった。