第七話 親愛なる者
戸賀里丈一郎は憂いていた。いや、失望した、と言った方が正しいかもしれない。
まさか蓮華があれほどまで〝弱体化〟していたとは思わなかったのだ。
鬼人は摂取した血肉の分だけ血が造られ、濃くなる。つまり、食べれば食べるほどより強力な鬼の力を数多く使えるようになるということだ。
蓮華の貧相な戦いっぷりにはもはや笑うしかなかった。灰鬼の粗悪な〝分身〟一体すら消し炭にできないマッチの火のような貧弱な火力。彼が本当に緋鬼の腕を吹き飛ばしたのか疑うレベルだった。
あれはきっと何も食べていないのだろう、と丈一郎は推測する。必要最低限の血を摂取している程度で、生きる上で支障のない、ギリギリの状態で生活しているに違いない。そのせいで血が枯渇し、運動能力すら本領を発揮できていないのだろう。丈一郎がレオを止めに入らなければ、きっと蓮華は殺されていた。
「あれほど私への憎しみを植え付けたというのに……」
まだ足りなかったのだろうか。
如何せん、蓮華は優しすぎる。その優しさが仇になった。
蓮華はおそらく、自分のためには動かない。自分のためには怒らない。人のために動き、人のために怒りを覚える。そういう人間だ。だから『復讐』という自分のための行動に、彼は理性を働きかけてしまうのだろう。
大きな誤算だ、と丈一郎は頭痛を抱えた。
だが、蓮華の中に丈一郎への確かな復讐心が燃えていることは確認できた。その炎さえ消えていなければどうにかなるだろう。
「さてはて……いかが致しましょうか……」
丈一郎はフェルトハットを被り直し、重い腰を持ち上げる。
丈一郎が座っていたのは、雑貨店や衣料品店、飲食店などが詰め込まれた商業施設の、エスカレーター下に設けられたベンチだ。
休日のお昼時。この時間は部活帰りの制服女子高生が多い。
「うーん……今日は良きおパンツ日和でした」
二百年以上女性のパンツを追い求めているが、いやはや、おパンツの進化というものは奥深い、と丈一郎は心の中で唸る。ただの布きれに過ぎないはずなのに、どうしても飽きさせてくれない魅力がそこにある。
そんな息抜きのちょっとした幸せなひとときを終えて、丈一郎は商業施設を後にする。外に出て雑踏の中を進み、一つの建物へとたどり着く。
古代ローマ時代の面影を感じさせるレンガ造りの古びた教会……餓鬼教の持つ教会の一つだ。
表向きは『今は使われなくなった元キリスト教会』ということになっている。つまり、廃教会。
餓鬼と言えば仏教の考えだ。ではなぜ餓鬼教がキリスト教の教会を使い、そしてキリスト教の位階制度を用いているのか。それは餓鬼教の創始者である教祖が大きく起因している。どうやら教祖は元々、大層熱心なキリスト教徒だったという話らしい。そんな教祖が餓鬼に出会い、魅入られ、そして魅入り、餓鬼教を立宗した。そこに今の餓鬼教のルーツが存在する。
丈一郎は大きな両扉を開く。歯の痒くなるような渋い音が鳴った。
「これはこれは! 丈一郎様。よくぞお越し下さいました」
「お久しぶりです。梶谷さん」
仮面のような笑顔で出迎えた男――梶谷壮士に、丈一郎はハットを浮かせて軽く会釈を交わす。
短髪の黒髪に縁なしの丸い眼鏡が爽やかな印象を持たせる。黒を基調とした祭服に身を包む彼は、この教会を任された司祭。つまり神父に相当する人物だ。見た目はまだ二十代前半といったところ。
「ところで、今日はどういったご用件で?」
「いえね、別に大した用事ではないんですが……」
言いながら、丈一郎は礼拝堂の中を見渡す。長椅子が整然と並べられた薄暗い礼拝堂にステンドグラスの煌びやかな光が差し込んでいる。
「こちらにレオさんは来ませんでした?」
「レオ様ですか? いえ、お目にかかっていませんが……」
思わずため息が漏れる。丈一郎は身勝手な行動を取った罰としてレオに今日一日この教会での謹慎を命じていたのだ。その様子を確認しに来てみれば、この有様……。さすがは問題児といったところか。
「はははは! あの方は自由奔放ですから。その代わり、教祖様ならいらっしゃいましたよ」
「教祖様が?」
「ええ。と言っても、もう数時間も前の話ですが……。なにやら人肉をお求めでいらっしゃったようで。備蓄してありました人肉を数個お持ちになられて、すぐに裏手の〝隙間〟からヘルヘイムへとお出かけになられました」
「そうでしたか……。しばらく留守にしていると伺っていましたが、東京に戻られていたのですね」
初耳だった。いよいよ『天冠の日』に向けて準備を整えに来たのだろうか。
「それでは、せっかくいらしたのですし、どうです? これから呪血の採取と植え付けに向かうのですが」
「ほう……それは貴重ですね。是非」
丈一郎は梶谷に連れられ教会の地下に進む。一切の光が届かない完全な闇。頼りになるのは梶谷の持つランタンの僅かな明かりだけだ。
地下には向かい合う二つの牢屋があった。一つは頑丈な鉄格子の牢屋。もう一つは鉄格子の代わりにガラスの壁がはめ込まれた牢屋だ。
「グルルルルル……」
鉄格子の牢屋から低く響き渡る猛獣のような唸り声。「おーよしよし」と、梶谷は愛玩動物をあやすように牢屋の中を覗く。そこには四肢を切断されて衰弱しきった一匹の餓鬼が転がっていた。ヨダレを垂らし、一心不乱に正面の牢屋を見つめている。
餓鬼の見つめる先……ショーケースのようなガラスの牢屋には、一人の少女が監禁されていた。酷く怯えていて、顔が痩けている。痙攣させるように体を震わせているが、悲鳴は上げない。恐らく、声が出なくなるほどの精神的ストレスを受けたのだろう。
そんな少女が監禁された牢屋のガラス壁には、昆虫のように蠢く赤い物体がいくつか貼り付いていた。
「見て下さい、丈一郎様。五つですよ。今日は豊作ですね」
嬉々とした声を上げて、梶谷は持ってきたポーチの中から試験管のような容器を取り出す。その容器一つに一つずつ、赤い物体を回収していく。赤い物体は試験管の中に閉じ込められると抵抗するように暴れていた。
呪血。餓鬼の持つの呪いの血。つまり、鬼人の素となる血。それが、この蠢く赤い物体の正体だ。
瀕死に追い込んだ餓鬼を監禁し、その近くのガラスの牢屋に人間を置く。すると飢餓状態の餓鬼は人間を喰おうとして呪血を放つ。当然、呪血はガラスを通り抜けられず立ち往生する。それを採取するという醜い生産方法だ。
餓鬼は夜に表の世界に連れてくれば死滅することはない。が、陽の光に触れた途端蒸発してしまうため、日光は厳禁となる。強い月明かりも避けた方がいい。だからこの地下室は徹底して光を遮断している。
「さて、次は植え付けですね」
梶谷は全ての呪血の採取を終えると、少女の監禁された牢屋の裏手に回り込み解錠して中に入る。怯えきった少女は悲鳴を上げることもなく、梶谷を見上げた。
「その少女は?」
「先日、孤児院から引き取ったんですよ。明るくて元気なとてもいい子です。きっと……優秀な鬼人になれる」
梶谷の目が怪しく光る。比喩ではなく、事実として、悪魔のように赤く光ったのだ。すると少女から震えが消え、抜け殻のように表情が消える。
催眠……それが梶谷の鬼の力だ。
「さあ、親愛なる者よ……僕たちと運命を共に」
梶谷は一つの試験管の蓋を開けると、少女の手の甲へと呪血を垂らす。宿主を見つけた呪血は瞬く間に少女の手の中へと潜り込んだ。
教会を後にした丈一郎は、人気のない路地奥にやってきた。
上を見上げ、地上五メートルほどの高さにある〝隙間〟に狙いを定める。軽く飛び跳ねてその〝隙間〟に体を重ねると、昼間の明るさから一転して薄暗いヘルヘイムの世界が広がった。
「おや?」
下を見れば五匹の餓鬼が群がり、汚らしいヨダレをまき散らしながらこちらを見上げていた。きっと待ち構えていたのだろう。〝隙間〟から餌が降ってくるその瞬間を。
地面から赤黒い剣山の針のような物が飛び出す。どうやら五匹とも血を固形化し操る〝業血〟の能力を持っているようだ。
丈一郎は直下の空中に氷塊を形成し、それを足場にして蹴り、落下軌道を変える。その丈一郎の動きを見た餓鬼は、薔薇の枝のように鋭利な刃のついたツタ状の業血を生み出し、丈一郎に向けて解き放った。
丈一郎は水のミストを放射し、業血に付着させると同時に氷結。ついでに地面から飛び出る剣山状の業血も氷結させ、粉々に粉砕。凶器のなくなった地面に降り立つと同時に氷剣を生み出し、地面を踏み込むと風のように五匹の餓鬼の間を縫って駆け、全ての首を瞬時に刎ねる。
いくらバケモノの餓鬼でも、首を落とされては生きられない。五匹の餓鬼は糸が切れたように倒れ、その場に血の海を形成した。
「最近はやたらと餓鬼が増えましたね……」
これも、王位継承戦が近いことを意味しているのだろう。つまり――あまり時間がない。
「さて、あの悪ガキはどこでしょうか……」
近場で一番高いビルの屋上に飛び乗り、神経を研ぎ澄ます。
南西の方角にある住宅街から物音を探知。急行してみれば、公園にはレオと蓮華と紗良々と、そして丈一郎の知らない一人の少女がいた。
いや、正確には蓮華とあの少女のやり取りをこっそり覗いていたため知らないわけではない。確かのぞみという名前の少女だ。
近くの高層アパート一棟が倒壊している。まさか、またレオが何かちょっかいを出したのだろうか……。
そんな懸念を感じていると、倒壊したアパートの瓦礫から灰鬼が這い出てきた。いや、あれは灰鬼の〝分身〟だ。なるほど、蓮華がまた灰鬼に狙われているらしい。
彼らはなにやら話を交わした後、レオが飛んでその場を去った。蓮華たちのことが気がかりではあったが……紗良々がいれば問題ないだろうと判断し、丈一郎はレオを追うことにする。
「レオさん」
建物を飛び越えながら移動するレオに丈一郎が追いつくと、レオはバツの悪そうに顔を歪めた。
「おーやおや。またまた大司教様じゃねぇか。こんなところへどうしたんだ? また説教かぁ?」
「当然です。今日一日の謹慎を命じたはずですよ? 何故出歩いているのですか?」
「かーっ。冗談キツいぜ丈一郎さんよ。こんなおもしれぇことになってんのに謹慎なんてしてられっかよ」
「まったく、あなたという人は……。生を謳歌するのは結構ですが、少しは大人しくしていられないんでしょうか……。それで、何があったのですか? どうやら蓮華くんがまた灰鬼に追われていたようですが……」
「追われてんのは緋鬼の鬼人じゃねぇよ。怪異だ」
「怪異……?」
「ああ。あのワンピースを着た子供の女。ありゃあ怪異だ。俺の嗅覚はごまかせねぇ」
「なんと、あの少女が……」
丈一郎は素直に驚いた。丈一郎でも、餓鬼以外の怪異を見たのは久しぶりのことだった。
「おもしれぇぜぇ? あの緋鬼の鬼人、必死で怪異を助けようとしてやがんだ。ぶっ飛んだ馬鹿野郎だぜ。さっさと喰っちまえばいいのによぉ! うひはははは!」
「ほう……」
怪異まで助けるなど、まったくもってあの心優しき少年らしい行動だ、と丈一郎は思った。
それに……これは使えるかもしれない。ちょうど、レオは怪異と蓮華両方に興味を示している。不安要素は多いが……いい手駒になるだろう。これを使わない手はない。
そう画策を企てていた時だった。
「――ッ!?」
突如感じたその気配に丈一郎は目を見開く。
「あ? どうしたんだ?」
レオの訝しむ声を無視して、丈一郎は一目散に駆け出した。
――そんな……。これは間違いなく――緋鬼の気配……!
だがおかしい。あり得ない。丈一郎も緋鬼の居場所までは把握をしていなかったが、少なくとも東京にはいなかったはずだ。
気配の感じた方向からは凄まじい破壊音が轟いていた。緋鬼が何かと戦闘しているらしい。
戦闘音がした間近のビルの屋上にたどり着いて街を見下ろし、しかし驚愕とした。
「気配が……消えた……?」
唐突に、消えた。眼下の街は破壊の限りを尽くされ、燃えさかり、凄惨な戦闘の傷跡が刻まれている。
もうもうと立ち上る砂煙の中に、相手を見失った灰鬼が怒り狂い暴れているのが見える。だが、やはり緋鬼の姿はどこにも見当たらない。蓮華と紗良々も無事に逃げ延びれたのか、既に彼らの姿もない。
確かに気配を感じたのに。
これまで幾度となく緋鬼と遭遇してきた丈一郎は、緋鬼の気配を間違えるはずなどないと自負していた。あれは紛れもなく、緋鬼の気配だった。だが唐突に消えるなど、あり得ない。
自分の知らないところで、予期せぬ何かが起きている。破滅した東京の街並みを見て、丈一郎はそれを確信した。