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そして僕はバケモノになった  作者: 夢見 裕
第一章 始まりの一週間
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第二話 見知らぬ欲望

 悩みに悩んで、結局学校に行くことにした。


 こんな状態で学校に行って、もし急に大量のヨダレを垂らしてしまったら……考えるまでもなく、残りの一年半の学校生活を孤独に過ごすことになるだろう。とは言っても、今でも十分孤独に過ごしているのだが。

 しかし、孤独の質が変わるのは目に見えている。孤独ではなく、一ランク上の迫害を受けるに違いない。一人は別に嫌いじゃないが、いじめは嫌いだ。するのもされるのも――見ているのさえも。

 だったらそのリスクをゼロにするためにも学校になんて行かなければいい――しかし頭にちらついたのは、やはり授業のことだ。だから結局このまま登校するという結論に至った。


 いつもより早く家を出たのだから、当然いつもより早く学校に着いた。

 蓮華の教室――二年一組に入る。

 規則正しく机が並べられた殺風景な教室があった。

 いつもはほとんどのクラスメイトが既に教室にいてがやがやと騒がしい中に入っていくのだが、今日は教室に一番乗りだ。今頃皆、部活の朝練の真っ最中なのだろう。夏休み明け初の朝練とあってはしゃいでいるに違いない。事実、開け放たれた窓からはグラウンドで練習している野球部の活力溢れる野太い声が聞こえてくる。青春を感じる声だ。


 青春――自分とは無縁のその言葉に、なんだかセンチメンタルな気持ちになる。仲間と一つの目標にひたむきに突っ走ったり、お互いを切磋琢磨し合ったり、あるいは時に衝突したり……そんな魂の燃えるような生き方を、生き様を、蓮華は知らない。

 それを羨ましいと思ったことはある。でも、踏み出そうと思ったことはなかった。なぜだか気持ちが湧いてこないのだ。そう、自分は諦めている。始まる前から、何もかも――


 蓮華は自分の席に着いて机に突っ伏した。

 ぐう――と、また腹が我が儘を言った。

 腹が減った。ご飯を食べたい。暑い。喉が渇いた。冷たい水を浴びるように飲みたい。

 止めどない欲求が湧いて出る。しかし、我慢。我慢だ。とにかく、今日一日だけ――我慢だ。


「あれ? 蓮華?」


 女の子の声が蓮華を呼んだ。首だけ動かして声の方を見る。そこには世にも珍しいものでも見るように蓮華を見下ろす女の子がいた。


「どうしたの、蓮華? いつも遅刻ギリギリで来るくせに、今日はやけに早いじゃない。それに具合悪そうだし、風邪でも引いた?」

「別に……。特に理由なんてねーよ。漆戸こそ――」

「あれー? 漆戸ー? 私のお母さんのことかな? お父さんのことかな? 穂花って呼んでくれたら私のことってわかりやすいんだけどなぁ?」

「今この状況で急にお前の親を呼ぶわけねーだろ!」

「だって昔は名前で呼んでくれたじゃない。どうして今は名前で呼んでくれないわけ?」

「それについてはもう何度も言っただろ? 思春期の男子は女子を名前呼びすることに抵抗があるんだよ」

「だからそれが意味わかんないって言ってるの。もうちょっと論理的に説明してくれない? それに、蓮華のくせにいっちょ前に思春期を語るなんてナマイキよ?」

「はあ……ぶっ飛ばしてぇ……」


 朝から小うるさいこの少女――漆戸穂花(うるしどほのか)は蓮華の幼馴染であり、そして蓮華の数少ない――友人の一人だ。いや、唯一と言っても過言ではないかもしれない。

 しかし友人なんて一人か二人いれば十分だと思っている蓮華にとって、それは不幸でも何でもなかった。むしろこんな自分と友人でいてくれる人が一人でもいるだけ幸せだとすら思っている。故に、自分の友好関係の狭さを悲惨だと思ったことなど一度もない。


「それで、漆戸こそどうしてこんな早いんだ? 部活はどうしたんだよ?」


 まだ教室には蓮華と穂花しかいない。窓から夏の香りが漂ってくるような静かな教室だった。

 ちなみに穂花は中学生の頃からずっと美術部だった。


「いやー、私も今日から部活だと思って張り切って来たんですよ? そしたら美術部は今日の放課後から始動だってさ。聞いてないよ私。まったく、皆さん情熱が足りませんね」

「どうせお前が人の話聞いてなかっただけだろ」


 そんなオチが目に見えている。


「蓮華は今日どうしたの? 目の下のクマすごいし、頭もじゃもじゃだし、本当に具合悪そうだよ?」

「クマも髪型もいつも通りだろうが。ケンカ売ってんのか」

「ありゃ、こりゃ失敬。でも具合悪そうなのは事実だよ。どうしたの? ……あれ? その手の痣はどうしたの? すごい痛そうだけど……」


 やはり気になるくらいには目立つのだろう。穂花は少し顔を引きつらせている。

 しかし今は痛くもなんともない。ただただ得体が知れなくて不気味なだけだ。だが、せめて絆創膏か何かで隠せば良かったかもしれない。とは言っても、今朝はそんな余裕などなかったが。


「……別になん――」


 なんでもない、と言おうとした矢先、本日三度目にして最大級に、ぐるるるる――と蓮華の腹が盛大な鳴き声を上げた。聞かれた相手が幼馴染とはいえ、すごく恥ずかしい。


「……すごい音だね。蓮華くんはお腹にモンスターでも飼ってるのかな? 餌あげようか?」

「いらねーよ! あと餌とか言うな!」

「私、お昼用に買ってきたパンしか持ってないけど……よければ食べる? メロンパンなんだけど」

「メ、メロンパン……」


 想像してしまった。

 外はサクッと、中はふんわり。甘くてしっとりとしたメロンパンを……。


「――いい、いや、いらないから! 大丈夫だから!」


 前の席に座ってバッグの中を探り出した穂花に、蓮華は慌ててストップを掛ける。危うく想像しただけでヨダレを垂らすところだった。

 想像しただけでこの破壊力。もし目の前にメロンパンが現れてしまったら……考えるまでもない。唯一の友人がいなくなることだろう。


「え、いいの? 別に遠慮しなくてもいいんだよ? 私のお昼ご飯はまた購買で買えばいいんだし」

「いや、別に遠慮とかしてねーから! そう、僕メロンパン嫌いなの! メロンパン見るだけで蕁麻疹が出るの!」

「えー? 何それ? 初耳なんですけど。それが本当なら面白そうだから試して――」

「嘘ですごめんなさい」


 容赦ない穂花の好奇心。蓮華は光の速さで頭を下げて屈した。


「でもとにかくいらねーから! 僕の目の前に食べ物を出さないで! てか食べ物関連の話題禁止! 頼むから!」

「意味わかんないんですけど。断食でもしてるの? 何かの修行? 新手のドM? 変態? バカ?」

「お前それ、後半言いたいこと言ってるだけじゃん」

「あ、バレた?」

「お前の下らない考えなんて全てお見通しだ」

「うわー、なんかそれエロい」

「どこがだよ!」

「全てを見透かされている、みたいな? なんか裸にされた気分。いやん、蓮華くんったらエッチね」

「はいはい、勝手にやってろ」

「覗くのは女風呂だけにしなさい!」

「急になんだよ……」

「人の頭の中は覗いちゃダメよ、的なことを言いたかった」

「誰かこのバカをどうにかしてくれ」


 余計な体力を使ってしまい弱々しい溜め息が出た。ただでさえお腹が空いて力が出ないというのに。

 ぐう、と、また腹が鳴る。蓮華は力尽きるように再び机に突っ伏した。


「また朝ご飯食べてこなかったの?」

「うん……」

「ダメだよ、しっかり食べなきゃ。蓮華は今成長期なんだから、しっかり食べないと骨と皮だけになっちゃうよ? まったく、お姉さんは心配だよ」

「いつからお前は僕のお姉さんになったんだ。てか僕のが生まれたの早いんだから、どちらかといえば妹だろ」

「たった数ヵ月の差で勝ち誇るなんて、器の小さい男ね」

「イラッ」

「擬音を口で言うなんて、痛い男の子だこと。中二病なのかしら? もう高校二年生なのに」

「心配するな、中二病はちゃんと中学生で卒業した」

「え……じゃあ蓮華も中学の頃に『僕の封神されし右腕が……!』とか言ってたの……?」


 どっと冷や汗が噴き出す。


「じょ、冗談に決まってるだろ……。誰がそんな幼稚なことするか。中学の頃の僕は勉強に忙しくてそれどころじゃなかったさ。お前もよく知ってるだろ」

「そうだよね。蓮華ったらいつも部屋にこもって勉強してて……。でもたまにカーテンを締め切った暗い部屋で、ロウソクのような明かりだけで何かしてる時もあったような……」

「……さあ。なんだろうな。そんな昔のことは覚えてないからわからないな」


 蓮華は必死に冷静な顔を取り繕う。

 中学生の頃、自室で勉強の合間に魔術の勉強をしていて、いつか本当に黒魔術を使えるんじゃないかとワクワクしていたあの頃の自分を知られるわけにはいかない。忌まわしき歴史は永遠に封印せねばならないのだ。


 しかし、まさか現場を見られていたとは……今更だが冷や汗ものだった。

 穂花の家は蓮華の家の隣で、さらに穂花の部屋と蓮華の部屋は向かい合っている。お互い窓から様子が丸見えというわけだ。カーテンを締め切っていたのが不幸中の幸いと言えるだろう。


「そんなことより、もう自分の席戻れよ。そろそろ皆教室に来始める時間だろ」

「そんなこと気にしなくてもいいじゃん」

「僕は気にすんだよ。それに僕は暇じゃない」


 蓮華は引き出しから数学の教科書とノートを取り出し、予習の準備を始める。せっかく朝早く登校したのだ、時間を有意義に使わねば。


 だが、蓮華の開きかけた数学の教科書は穂花の叩きつけた両手によって再び閉じられた。


「たまには私とおしゃべりしてくれたっていいじゃん。なんなの? 私を避けてるの?」


 ずいっと鼻先がぶつかりそうなほど顔を近づけてきた穂花に、蓮華は胸を飛び跳ねさせる。

 大きな二重の瞳。小さな鼻。薄く鮮やかなピンク色をした唇。そして前屈みになったことで隙間ができたブラウスの胸元からは、未踏の雪原のように白く綺麗な首筋と鎖骨と、男にはないほどよい膨らみ……。


 蓮華は生唾を飲み込む。

 血が逆流したのではないかというほど心臓が暴れた。次いで、喉の奥から突き上げるように欲望が込み上げる。

 健全な男子高校生なんだから仕方がない。美少女がこんなに間近に接近し胸元を覗かせていたら、当然のように興奮も欲情もするだろう。魅力を感じて胸が高鳴ってしまうのも無理はない話だ。

 ……だが、違った。


 ――喰いたい。どうしようもなく、喰いたい。


 空っぽの頭にその欲望だけが湧いて出る。抱いたそれは、情欲などではなかった。果てしない『食欲』だった。

 蓮華は抗えぬその欲望に支配され、穂花の腕を掴む。


「え? 蓮華……? ――きゃっ!」


 戸惑う穂花の腕を強引に引いて床に押し倒した。


「ちょ、ちょっと蓮華!? きゅきゅきゅ急にどうしたの!? 蓮華ってこんなに大胆だったっけ!? いいいいいやべつに嫌とか、そそそそそう言うわけじゃないんだけど……っ!」


 顔を朱色に染めて慌てふためく穂花は、しかし次の瞬間に表情を曇らせる。


「……え……?」


 蓮華は食い入るような双眸で穂花を見下ろし、ヨダレを垂らしていた。

 その滴る一筋のヨダレが穂花の首元に垂れて無垢な肌を伝い、穂花は一瞬体を強ばらせる。


「蓮華……?」


 しかし穂花の声は蓮華に届かない。

 蓮華は無心で穂花の首元に口を近づける。――あと数センチ。その距離まで。けれどその時。


「――はぅッ!?」


 穂花の容赦ない蹴りが蓮華の股間に炸裂。蓮華は悶絶してのたうち回る。

 だが、その激痛のお陰で蓮華は我に返り、同時に動揺した。


 自分が今、何をしようとしたのか。何を考えてしまったのか。


 信じたくなかった。何かの間違いだと思いたかった。

 いや、信じられなかった。まさか自分が――人を喰おうとしたなんて。


「蓮華……ここは学校だよ? そういう淫らなことは喩えおふざけでもいけません! っていうかヨダレ垂らさないでよ! ばっちぃなぁ!」


 首を拭きながら、ビシッ、と指を突き立てて叱りつける穂花だったが、今の蓮華はそれどころではなく、何も答えられない。


「……蓮華……?」


 穂花が冗談では済まされない心配そうな声に変わって蓮華を呼ぶ。だから咄嗟に蓮華は、


「――じょ、冗談だよ! あんまりうるせぇから脅かしてやろうと思って! それにしてもあんなに慌てふためくなんて、案外男の耐性ねぇんだなお前。ははは!」


 そんな空笑いで濁し、冗談として片付けるのだった。


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