第六話 孤独な背中
とりあえずヘルヘイムを抜け出す方が安全だろうという結論になり、蓮華たちは紗良々の案内で一番近場にあった神社の社殿の裏手にある〝隙間〟から表の世界へと戻った。
暖かみのある陽の光が三人を明るく照らす。その安堵感からか、どっと疲れが押し寄せて、蓮華はのぞみから手を放すと同時にその場に倒れるように座り込んだ。息が苦しい。
紗良々も息が上がっていて、足を伸ばして石段に腰掛けていた。
「た、助か、った……。なんだったんだ、あれ……」
「ウチだってわからんわ……。もしかしたら、自分の餌に手を出されて怒っとったんかもな……」
「あー、なるほど」
あり得ない話ではない。蓮華は緋鬼にとって唯一の餌だ。それを横取りされたら、緋鬼は当然怒るだろう。
でも不可解なのは、左腕が再生していたこと。それに、紗良々が気配を察知できなかったのも気がかりだ。蓮華だって、あの独特な嫌な気配は感じ取れる。けれど、今回は直前まで何も感じなかった。
「とにかく、東京に緋鬼がいるってわかった以上、暮木さんとターヤンにも早く知らせない……と……?」
立ち上がった途端、視界がぐわんと傾ぐ。足に力が入らなくなって数歩たたらを踏んだかと思うと、地面が起き上がってきた。
いや、蓮華が倒れたのだ。そしてそのまま視界がブラックアウトしていき、蓮華は意識を失った。
目が覚めると、蓮華は石畳の上に仰向けで寝ていた。
「あれ……僕どうして……」
「気を失ってたんや。血が足りんくなってたんやな」
蓮華の頭上で仁王立ちしていた紗良々が答えた。その視点からでは紗良々のパンツが見えそうで、蓮華はそっと目をそらす。
陽の高さがさほど変わっていない様子からすると、それほど長い時間気を失っていたわけではなさそうだ。
そこで、そういえば、と気がつく。空腹感が若干和らいでいた。
「安心せえ。血を飲ませたから、鬼の力を使わん限りもう倒れることもあらへんやろ」
「え、血なんてどこに……」
「ん」
紗良々が人差し指を突き出す。その指の腹には切り傷があり、血を滲ませていた。
――マジかよ……僕、幼女の指をしゃぶっちゃったのか……。
すごくいけないことをした気分になった。
「ウチだけやないで」
「え……?」
体を起こして横を見ると、今にも泣き出しそうな目をうるうるとさせたのぞみが、何故か正座をして蓮華を見ていた。
「まさか、のぞみの血も……?」
それはつまり、本当に怪異も食べれるということを意味する。いろんな意味で衝撃だった。
「わたしのせいで……わたしのせいで……!」
「のぞみ……」
「わたしがいるからいけないんだ……全部わたしのせいだ……!」
のぞみの涙を貯蔵していたダムは容易く決壊し、ぼろぼろと大粒の涙を滝のように流し始めた。
元はと言えば、蓮華が勝手に首を突っ込んだ話だ。のぞみが責任を感じる必要などない。その上、蓮華に血まで分けてくれたのだ。蓮華は、のぞみの心の根っこにある優しさを感じ取った。
「紗良々」
蓮華が紗良々を見て目で訴えると、紗良々は堪忍したようなため息を吐く。
「蓮華が気を失っとる間に聞いたで。その子、疫病神なんやってな」
「でも、こんなに優しいんだ。自分のことより人を想える子なんだ。僕はこんな子を放ってはおけねぇよ」
今なら彼女の行動原理がわかる気がした。
蓮華に近寄るなと言って突き放すような態度を取ったのは、蓮華を不幸にしたくなかったからだ。虚勢を張って、強がっていた。
でも本心は寂しくて、誰かと一緒に過ごしたくて仕方なかった。だからのぞみはダメだとは思いながらも、蓮華についてきた。同い年くらいの紗良々がいると聞いて、目を輝かせた。本当は、助けを求めていた。そういうことなのだろう。
「ホンマ、お人好しなやっちゃなぁ。そうやって巡り会った迷える子羊を片っ端から救ってく気かいな? 優しさを安売りしすぎちゃう?」
「べつに僕は優しくなんてねーよ。僕はただ、罪のない誰かが傷つくことが許せないだけだ」
この理不尽な世界への復讐とでも言うべき抵抗。
それが今の蓮華の生きる意味だった。
だからこそ、不当に損を受けている誰かを見逃せない。出来ることならば、全世界の不条理を受けた者を救い、罪を犯した者を等しく罰したいとすら思っていた。それは、そういう世界であって欲しいという蓮華の願望でもある。
だから蓮華にとって、これは優しさでもなんでもない。世界への抵抗の一つに過ぎないのだ。
紗良々はやれやれとでも言いたげに首を振った。
「ま、どうせ何言っても無駄やろうしな。勝手にしたらええ」
「ありがとう、紗良々」
なんだかんだ優しい紗良々に、蓮華は嬉しくなって頬が緩む。
「なあ、のぞみ。僕や紗良々や、暮木さんやターヤン……案内したあの部屋にいた人たちは、餓鬼から身を守るために身を寄せ合って一緒に暮らしているんだ。のぞみも僕たちと一緒に暮らさないか?」
「え……?」
のぞみは面食らったように大きな目をぱちくりさせた。
「ダメだよそんなの……。わたし、疫病神だもん……。みんなを不幸にしちゃうだけだもん……」
「僕ら鬼人の人生なんて不幸だらけだ。なんなら毎日不幸の連続だし。今更ちょっとやそっと不幸レベルが上がったところで、何も変わらねーよ。それに、僕ら鬼人は半分怪異。公園の時も言ったけど、のぞみの仲間なんだよ。だから頼ってもいいんだ」
「……頼っても、いい……?」
「ああ。寂しさを我慢する必要なんてない。独りで抱え込む必要なんてない。寂しかったら寂しいって言えばいいんだ。僕らがいる。人間が人間同士支え合って生きているように、怪異だって支え合って生きていけばいいじゃんか」
のぞみは顔をくしゃくしゃにして、
「――うわぁあぁああああぁあああああん! 寂しかったっ……寂しかったよぉ!」
虚勢を捨てて、子供らしく泣きじゃくって、蓮華に抱きついた。蓮華はそれを受け止めて、小さな頭を撫でる。のぞみはわんわんと泣き続けた。
辛かったのだろう。寂しかったのだろう。
ふと、想像してしまった。静寂のヘルヘイムを独り、裸足で歩くのぞみの姿を。
生まれた時から孤独で、近寄った人間を不幸にしてしまうことを恐れて、そんな特性を持つ自分を嫌って――そんな彼女の歩んできた日々を思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられて涙が込み上げる。
もう二度とのぞみにそんな孤独を味わわせたくない。そう思った。