第三話 怪異の少女
「のぞみはどこに住んでるんだ?」
「……わかんない」
「……お母さんとかお父さんは?」
「……いない」
「…………」
蓮華は返答に困って黙る。もしかしたら踏んではいけない地雷を踏んでしまったのかもしれない。空気が重い。
「いやー、今日は良い天気だな!」
「ヘルヘイムに天気なんてないでしょ? 何言ってるの? この真っ黒な空が良い天気だと思ってるならおめでたい話だけれど」
「…………」
辛辣だった。ちょっとした冗談のつもりで話題を逸らすときの常套手段である天気の話題をぶっ込んでみただけなのに、なぜここまで憎たらしく罵られなければならないのか。実に理不尽である。そもそも発言が子供らしくないしすごくトゲがある。
「だいたい、お兄ちゃんは何なの? どうして見ず知らずのわたしなんか助けようとするの?」
「いや、それは放っておけないからというか……。普通、目の前であんな危ない目に遭った女の子をそのまま放っておく奴はいないだろ。少なくとも、僕は放っておけない。そんなの、寝覚めが悪いからな」
「……バカみたい。助けてなんて一言も言ってないのに」
そう言う割には素直に蓮華についてきているあたり、ただ強がっているだけなのだろう。
「お兄ちゃんって、絶対人生損するタイプだよね。こんな面倒事に自分から首を突っ込むなんて、自分の人生棒に振ってるようなものじゃない」
「はは……そうかもな」
ちょっと前の蓮華では考えられないことだった。
いつも平凡で、起伏もなければ刺激もなく、損もなければ得もなく、色すらないモノクロの人生。それが蓮華の生きる道だった。これから先もずっとそんな人生なんだろうと漫然と思っていた。――緋鬼に出遭うまでは。
バケモノとの出遭いは蓮華の中で、ある種の革命だったのだろう。めんどくさがりで生きる活力すら枯れていた蓮華が、人助けをするなんて。
「お兄ちゃん、そんなんで人生楽しいの? 幸せなの?」
「……どうだろうな。幸せだと思ったことはないけど……いや、幸せ〝だった〟んだろうな。失ってから気付いただけで」
もしかしたら今も、小さな幸せに気付けていないだけかもしれない。
「なにそれ? どういう意味?」
「なんでもない日常が幸せだったなぁって思っただけだよ」
「うわ、なんかおじいちゃんみたい……」
「ひどくない?」
おかしい。涙が出そうだ。
「……じゃあ、お兄ちゃんにとって幸せって何? 平凡な日常とかいうつまらないもの以外で」
いちいち胸を抉られる。どうしてそんなこと訊くんだろう、と思いながらも逡巡した。自分の幸せを。
「……なんだろうな。わかんね」
でも答えは出なかった。そんなこと急に聞かれても思い浮かばない。
「なにそれ。生きてる価値ないじゃない。そんな様子じゃどうせ彼女もいないんでしょ? プププー」
「辛辣すぎだぞお前……」
子供のくせになんて達者な口なんだ。
しかし、いや待てよ、と思い至る。紗良々のように見た目は子供でも中身は年上という可能性が考えられる。鬼人は成長が止まってしまうのだから。
「そういえばのぞみっていくつなんだ?」
「なにが? バストのサイズ? サイテー」
「僕は女児に唐突に胸のサイズを聞くような変態じゃない! 歳だよ、歳」
「レディに年齢を訊くなんてサイテー」
「おいこらのぞみ。どうあっても僕をサイテーな人間に仕立て上げようとするな。それにどう見てもお前はガールだ」
「……お兄ちゃんよりは年下だよ。前世も含めたらわたしのが年上だけどね」
「あ、そう……」
前世を含めたらってなんだよ、と肩を落とす。どうしてずばっと年齢を言わないのだろう。
そんな調子でお話ししながら歩くこと三十分。蓮華たちは目的の場所へと到着した。
蓮華や紗良々たちが現在拠点にしている、超高級タワーマンションだ。
そう、蓮華たちは今、東京の超高級タワーマンションの一室に住み着いている。間取り3LDK。リビングはなんと大理石の床。最上階では開放的な窓から東京を一望できる景観の良さ。クリーニング受付に鍵預かりサービス、マッサージサービス、ワインセラーサービスなどサービス盛りだくさん。お値段なんと五千八百万円!
もちろん、ヘルヘイム側で勝手に住み着いているだけだ。そのため、サービスなんて一つも享受できない。タワーマンションで景色最高と言っても、エレベーターは使えないから最上階なんて住めたものじゃないし、まず行く気が起きない。何かあった際の逃走経路の確保とかを考えると一階に住むのが無難という結論に至り、一階の一室に住んでいる。それでも高級マンションだけあって窓からは綺麗に整えられた庭が見えるが、やはり薄暗くて楽しめない。
そんな中途半端にもったいない感じの蓮華たちの拠点。蓮華はその入り口のドアをコンシェルジュみたいに開けて、
「ま、とりあえず入れよ」
とのぞみを招き入れる。
「……まさか密室に連れ込んでわたしにいやらしいことを――」
「しねーよ。鏡見てその色気のない体を認識してから今の発言を百回反省しろ」
のぞみは視線を蓮華と部屋に何度も行ったり来たりして泳がせておどおどしていた。警戒しているのかもしれない。あるいはもしかしたら冗談じゃなく、本気で監禁されるかもと思われているのかもしれない。
まあ仕方ないか、と蓮華は思う。蓮華も『知らない人にはついていっちゃダメだよ』と両親に口を酸っぱくして言われて育った。だからのぞみのその反応を正しいとさえ思った。
「安心しろって。ここに住んでるのは僕だけじゃなくて、お前と同い年くらいの女の子もいるんだ。きっと仲良くなれるぜ」
さらりとそんな嘘をついてみる。しかし見た目は同じくらいだし、完全な嘘ではない……はずだ。そう自分に言い聞かせ、蓮華は罪悪感から逃れる。
その一言で警戒レベルが下がったのか、のぞみの表情が和らいだ。というより、何か期待するみたいに、顔が綻んだ。
「お、お邪魔します……」
のぞみは恐る恐る部屋に上がる。蓮華も靴を履いたまま上がり、長い廊下を歩いてまずはリビングを目指す。もう紗良々たちが帰っている頃だろう。ちなみに、靴を履いたままなのは欧米を意識しているわけではなく、有事の際に対応できるようにするためだ。
「ただい――」
「蓮華ぁああああ!」
ただいまと言いかけて、紗良々のはしゃいだ声が鼓膜を劈く。耳がキーンとなるほどの大声だった。
「見てや見てや! ほら!」
頼りない電池式のランタンの明かりがついただけの、だだっ広い大理石のリビングを駆け回ってくるくると不思議な踊りを踊る紗良々。何事かと思えば、浴衣がいつもと違う。見知らぬ白い浴衣を着ていた。
「どうやどうや~? 綺麗やろぉ? かわええか? かわええやろ!?」
紗良々はどうやら大変ご満悦な様子。買い物ってそれだったのかよ……と蓮華は半分呆れた。
「お前、最近新しいやつ買ったばっかりじゃん。あれはどうしたんだよ?」
三ヶ月前の丈一郎や緋鬼との戦いで黒い浴衣はズタボロになってしまったため、紗良々はあのあとすぐ浴衣を新調していたのだ。まったく同じ柄の、全く同じ真っ黒なやつを。話によると、他にも何着かストックがあるらしい。なら買わなくても良かったじゃん、という話をしたばかりだった。
「あれはあれ、これはこれや! 服くらい何着も持っとくもんやろ! それとも蓮華は着替えへんの? 不潔やわぁ……」
「イラッ。って、別にそういうことを言ってるんじゃなくて、無駄遣いし過ぎなんじゃねってことだよ。浴衣って高いだろ。それにもう浴衣って季節でもないし。こんな季節によく売ってたな」
「別にええやん! ウチの金やもん! ウチが何買おうが何着ようがウチの勝手やろ!」
「うわっ、それ夫が妻に言っちゃいけない言葉だぜ? 僕たちが夫婦だったら夫婦仲破綻コース間違いなしだ」
「でも蓮華は紗良々たんと夫婦じゃないダロ? なに言ってんダ? ンン?」
ぬっと影から現れたマッチョモードのターヤンに蓮華は頭を摘ままれた。笑顔を浮かべながらも怒りを全面に押し出した複雑な顔をしている。
「な、なんだ……ターヤンいたの……。ただいま……はは……」
冷や汗が垂れる。こと紗良々の話となると、ターヤンは見境がなくなるから厄介だ。
「なあなあ、それより蓮華ー。どうなんや? これ、かわええやろ? なぁ……かわええって言うてくれへんか……?」
上目遣いな紗良々が詰め寄ってくる。
――こいつ……完全にこの状況を利用して弄んでやがる……!
この状況を切り抜ける最善の選択を探すべく、蓮華は思考をフル回転させる。
――かわいいと言えばターヤンに何か勘違いされ殺される。ならばここは『は? 全然似合ってねーよ鏡みて出直しな』と罵って切り抜け――い、いやダメだ! よく考えろ僕! そんなことをしたら『紗良々たんを侮辱するなんて赦さナイ!』とかいってターヤンにキレられる! これ詰んだ!
「なぁ……なんで黙っとるんや? 言うてくれへんのか……?」
紗良々がぴったりと蓮華に体をくっつけた。そして細い指で首筋をなで回し始める。
ターヤンの蓮華の頭を掴む力が倍増する。みしみしと頭蓋骨の軋む音が聞こえてくる。ターヤンを見れば、殺気立つ笑顔がぴくぴくと揺れていた。
――なんだこれ……なんだこの状況……! このままじゃ黙ってても殺される……! てか、すり寄ってきてるのは紗良々の方なのになんで僕がターヤンにキレられなきゃならないんだ!?
紗良々みたいな美幼女にくっつかれるのは正直至福だが、今は話が別だ。紗良々のターヤンを利用した悪巧みが見え透いている。紗良々はあどけなくも妖艶な顔で蓮華を見上げているが、心の中ではこの状況におもしろおかしく笑っているに違いない。
――くそっ……どうすれば……!
と、窮地に追いやられていた時だった。なにやら黒い煙がキッチンからもくもくと漂ってきた。焦げ臭い。
「――アッ! ヤダ、お鍋焦がしちゃったヨ!」
急にオネェ言葉になったターヤンがぱっと蓮華の頭を解放し、慌ただしくキッチンに走って行った。どうやらクッキングの最中だったらしい。お陰で助かった。
ちなみに、キッチンにはIHクッキングヒーターが導入されているが、もちろん使えないのでその上にカセットコンロを置くという意味不明な利用法をしている。
「チッ、もうちょっとでおもろくなったんに……」
「全然おもろくねぇよバカ。殺されるかと思ったわ」
紗良々はやっぱりからかっていたようだ。
「で、どうなんや?」
「何がだ?」
「これ、かわええか?」
紗良々はくるくると回って、また聞いてきた。その姿に蓮華は一瞬胸が苦しくなる。脳裏で夏祭りの日の穂花の姿と重なって見えてしまったのだ。
「……ああ、かわいいな。似合ってるよ」
紗良々は「プヒヒ! おおきに」と満足そうに笑った。
「おんや? 誰かおるんか?」
紗良々が廊下を見て首を傾げる。
「やべっ、そういえばすっかり忘れてた……」
いきなり紗良々が騒ぎ出したせいだ。
振り返ると、のぞみがリビングのドアに隠れて顔を覗かせている。
「紹介するよ。のぞみちゃんだ。さっき拾ってきた」
蓮華はリビングのドアを開け放って無理矢理姿を現せさせ、雑な紹介を述べる。のぞみは怯えたように縮こまっていた。
「拾ってきたって……まさか誘拐……!? ロリコン!? うすうす感づいとったけど……やっぱりウチのこともそういう性的な目で見とったんやな!?」
「ちげーし。いろいろちげーし」
仕切り直して、蓮華は一つ咳払いをする。
「実はこの子、妙な男に追われてて……危ないから保護しようと思って連れてきたんだ」
「妙な男?」
「餓鬼教の幹部らしき男だった」
紗良々はおふざけモードから一転、神妙な顔になった。
「ほほーん。餓鬼教なぁ……。そんで?」
「……丈一郎も現れたよ」
「そんで?」
「いや、そんでって……もっと驚かないのかよ? 丈一郎が東京にいたんだぞ? 僕たちを追いかけるように!」
「そんな情報はもうとっくに掴んどった。なんも驚かんわ。そもそも、餓鬼教の本部がこの東京にあんねんから当然やわ」
「はあ!? なんだよそれ! どうして教えてくれなかったんだよ!」
「そう怒鳴んなや。ご機嫌よろしゅうなぁ。蓮華は頭に血が上ると周りが見えんくなるタイプやん。せやから丈一郎のこと知ったら猪突猛進するんやないかと心配したんや。……せやけど、取り越し苦労やったみたいやな。丈一郎を前にして、大人しく引き下がったんか?」
「……僕だって力量差がわからないほどバカじゃないさ。今の僕には、丈一郎は殺せない」
もちろん悔しかった。仇が目の前にいるのに、何もできずに見逃すことしかできなかった自分が情けなくて悔しくて、腹立たしかった。それも全て……自分の覚悟の足りなさが招いた結果なのだから、余計に。
「なるほどな……。プヒヒ! 案外大人やないか。見直したで。ちなみに東京で鬼人が見つかりにくい〝特殊な理由〟もそれや。餓鬼教がほとんどの鬼人を配下に取り込んでまう。せやから野良の鬼人が少ないねん」
電話口で紗良々が歯切れの悪い口振りをしていた理由はそれだったらしい。蓮華のことを気遣って餓鬼教のことを伏せていたというのだから、怒るに怒れない。疲れた笑みと溜め息がこぼれた。
しかし、そこで疑問が生まれる。鬼人から情報収集するのが今の目的のはず。なのに、どうして目当ての鬼人が少ないとわかりきっている東京にわざわざ来たのだろう?
「それで、その幼女っ子はどうして餓鬼教に狙われてたんや?」
「ああ、そういえば珍味がどうとか言ってたかな……」
「珍味? なんやそれ?」
「さあ、僕に訊かれても……」
「珍味なぁ……」
紗良々は値踏みするようにのぞみを覗き込む。蓮華と話していた時の虚勢が嘘のように、のぞみは先生に叱られる直前の子供みたいに俯いて視線を泳がせていた。
「実はここに来るまでに両親のこととか住んでるところとか色々聞いてみたんだけど、首を横に振るばかりで……。鬼人のことも知らないみたいだし、多分、まだ鬼人になりたてなんじゃないかな。このままじゃかわいそうだし、ここで匿ってやろうぜ?」
「んー……」
無視。というより、紗良々の耳には蓮華の声が届いていないようだった。眉に皺を寄せて真剣な様子でのぞみを見物している。かと思えば急に口角を歪め、
「……なるほどなぁ。プヒヒ! その餓鬼教の幹部とやら、ずいぶんと悪趣味な男やなぁ。まあ、誰かは大体察しはつくけども」
卑屈な笑みを浮かべた。
「どういう意味だよ……?」
「この幼女っ子……鬼人やあらへんで」
「はあ? 鬼人じゃない? ……えっ、じゃあ……人間なのか……?」
ヘルヘイムに出入りしていたから鬼人だと思い込んでいたが……そういえば、と、人間でも鬼人が手引きすればヘルヘイムに入れるということを思い出す。
ということは、よくよく考えればヘルヘイムにはあの餓鬼教の男――レオが連れ込んだと考えることもできる。
「やべぇ……だとしたら僕、マジもんの誘拐犯じゃん……」
しかし、次に紗良々の口から放たれた答えは、蓮華の懸念を別のものへと書き換えた。
「ちゃうわ。怪異や。餓鬼以外の、な」
「……は?」
蓮華はマヌケな声を漏らす。
「いやいや、どう見ても人じゃん? それに、怪異って餓鬼が他の種を喰い尽くしちゃったから存在しないんだろ?」
「バカ者。人の姿をした怪異なんてぎょーさんおるっちゅうの。それに、怪異やって新しく生まれてくるに決まっとるやろ。ただ、生まれた途端に餓鬼に喰われてまうからほとんど見かけんっちゅう話や」
「……そうなの?」
蓮華は恐る恐るのぞみを見る。のぞみは否定することなく、俯いたままワンピースの裾をぎゅっと握った。
「いやいや! だからって、餓鬼教の男はこの子のこと『珍味』とか言って喰おうとしてたんだぞ!? その珍味が怪異のことだったってのか!? 僕たち、怪異喰えるの!?」
「……あんまり言いたくあらへんけど、答えは〝イエス〟や。ウチらはバケモノと人間の狭間の存在。となれば、共食いの範疇にバケモノも含まれるっちゅうわけや」
「マジかよ……。つまり、僕たちは餓鬼も喰えるってこと……?」
「せやな。あんなキモいもん喰おうとは思えへんけど」
「た、確かに……」
喩え餓鬼を食べれたとしても、喰いたくない。虫は高タンパクで良質な食材と言われても食べたくないのと一緒だ。
「ってことは、この子は本当に怪異で、そんな珍しい存在を見つけたもんだから、あの餓鬼教の男は珍味とか言って喰おうとした……ってこと……?」
「ま、大方そういうことやろうな。蓮華、アンタなんちゅうもん連れて来とんねん」
「はあ!? そんな言い方ないだろ! 喩え怪異でも、かわいそうじゃんか!」
「バカタレが。ウチは厄介事ごめんやで。ただでさえ厄介な鬼人が一人増えて大変やっちゅうのに」
「おい、それって僕のことか!?」
「他におるかバカタレ小僧」
「なんだよそれ! お互い合意の上だったじゃん! 今更そんなこと言うとか酷くない!?」
「アンタは緋鬼の鬼人なんやぞ。確かに合意はしたが、厄介な鬼人であることには変わりあらへんやろ」
口論がヒートアップを見せたところで「ハーイ、そこまデー」とターヤンが割って入る。その手には湯気の立ち上る鍋を持っていた。
「まアまア、これでも食べて落ち着こうよ二人トモ。お腹は満たされないケレド、美味しいものを食べれば幸せな気持ちにはなれるヨ」
ターヤンはリビングのテーブルの真ん中に鍋を置いて、次いでグラスに人数分のジュースを注いだ。血の混ぜられたグレープジュースだ。
一瞬時が止まったように口論が静止する。――が、
「お前、僕をそんなふうに見てたのかよ!? 今のところ緋鬼絡みの問題なんて起きてねぇのに! それに、僕は紗良々みたいに無駄遣いしたりもせずちゃんと慎ましく生きてるだろ!」
再び口撃開始。蓮華の腹の虫が収まらなかった。
「なんやと!? ウチが金遣いの荒い問題児みたいな言い方やないか! 調子乗んなやすねかじり小僧!」
紗良々がソファーにあったクッションを投げつけてきて、蓮華の顔にクリーンヒット。クッションなので当然痛みなどないが、しかし不愉快ではある。
「なにすんだよ、このっ!」
蓮華は苛立ちに任せてクッションを投げ返す。しかし、それは蓮華の狙いを大きく外して飛んでいく。くるくる回転しながら直線的な軌道を描くクッションは、テーブルの上に並べられたジュースの入ったグラスに命中した。
盛大に倒れるグラス。飛び散るグレープジュース。その飛び散った紫色の液体は、運の悪いことに、紗良々へと降り注いだ。
一瞬にして怒りが氷点下まで下がり、蓮華は青ざめる。紗良々の大喜びしていたおニューの白生地の浴衣は、大きな紫色の染みをつくっていた。
「そ、その……ごめん……。わざとじゃ――」
「……せっかく買った、お気に入りの浴衣やのに……。かわいいって……言ってもらえたんに……やのに……」
紗良々はぶち切れるかと思いきや……違った。大きな瞳に目一杯の涙を溜めこんで、
「うわぁああああぁあああああああん!」
泣いた。それも、子供みたいな大泣きだ。
「ごごごご、ごめんて! ほんとごめんて! 弁償する! 今すぐ同じの買ってくるから!」
蓮華は大慌てでポケットを弄る、財布を取り出そうとしたのだ。けれど、
「……あれ? ない……ない!? 財布がない! 落とした!?」
出かけるときは必ず財布を持っていく。今日も例外なくポケットに入れたはずだ。なのにないとなると、落としたとしか考えられない。今日は激しい戦闘があったし、十分に可能性がある。
「レーンーカー?」
「ひっ……!」
ターヤンの低く怒りのこもった声に、蓮華の体が硬直する。これは、やばいやつだ。
「泣かせたネ? 紗良々たんを泣かせたネ? 覚悟はいいカイ?」
「待ってくれよターヤン……わざとじゃないんだ……慈悲を……お慈悲をォ!」
「うるさい死ネ!」
「うぶへぁ!」
ターヤンの下から突き上げるようなマッスルパンチが腹部にめり込み、蓮華の体が上に吹き飛び天井に叩きつけられる。そして濡れ雑巾を落としたみたいに体を床に打ち付けた。
猛烈な痛みが腹部を蝕む。危うく魂が飛ぶところだった。
「……今戻ったんだが……。どうしたんだこれは……?」
たった今帰ってきた暮木が、混沌とした光景に戸惑いを見せた。
「アア、くれっきーおかえリー。蓮華が紗良々たんを泣かせたから制裁を――って、くれっきーこそどうしたノ!?」
暮木を見て仰天した声を上げるターヤン。蓮華も痛みに悶絶しながら暮木を見上げて、ぎょっとした。
暮木は頭から大量の血を流して顔を真っ赤に染めていたのだ。
「ああ、実はヘルヘイムから表の世界に出た直後、ダンプカーに轢かれてしまってな……。慌てて逃げ帰ってきたんだ。まったく、東京は危険な場所だな……」
「いや、ダンプカーに轢かれておいてよく無事だったネ!? 生身の人間だったら即死ダヨ!」
確かに、鬼人は身体能力の上昇に伴って体が普通の人間より頑丈になる。暮木がこの程度の傷で助かったのは、紛れもなくそのお陰だろう。
「しかし、お使いの任務は果たした。この通りだ」
「ドモドモー」
暮木はターヤンに紙袋を手渡す。しかし紙袋の中を覗いたターヤンは「ん?」と顔をしかめる。
「くれっきー……これ、人肉じゃナイヨ! 豚肉ダヨ!」
ターヤンは一つの肉ブロックを取り出して嘆いた。蓮華は見た目で判別できなかったが、ターヤンには一目瞭然らしい。
「なん……だと!?」
「くれっきー、騙されたネ……」
「くっ……! まさかこの俺がこんな失態を……!」
よほどショックを受けたのか、暮木は膝から崩れ落ちる。暮木のお使いは、裏で出回っている死刑囚の人肉の手配だった。話の流れから察するに、暮木は詐欺に遭ったらしい。
「……たしのせいだ……」
「え?」
のぞみが何か呟いた。けれど聞き取れなくて、蓮華は聞き返す。
「全部、わたしのせいだ……! わたしがいるから、皆を不幸にしちゃうんだ!」
今度ははっきりと叫ぶようにそう言葉にして、のぞみは――走り去った。
「ちょっと、のぞみ!?」
わけもわからず呼び止めようとしたが、のぞみが足を止めることはなく、そのまま玄関から飛び出していってしまった。
「ナニナニ? どうしたんダイ?」
「さあ、わからない……」
しかし、なんだか放っておけない様子だった。
「僕、ちょっと追いかけてみるよ」
「勝手にドーゾ。ボクには紗良々たんを着替えさせるという重要な任務があばばばば」
指をわきわきさせて変態面を浮かべるターヤンに、容赦なく紗良々の無言の稲妻が迸り、ターヤンは至福な顔のまま煙を上げて倒れた。
「じゃ、じゃあ紗良々のこともよろしく……」
そんなターヤンに苦笑いを零しつつ、蓮華は逃げるようにそそくさと家を出た。