第序話 生まれた理由
どうしてわたしは生まれてしまったのだろう――少女の抱えたその自己嫌悪は、いつしか己の存在を否定する呪いになった。
少女は心の中で断言する。自分はこの世に不要な存在だ。いや、そんな言い方では控えめ過ぎる。自分は、存在してはいけない存在だ――
でも、少女は生まれた。
この世に神様がいるならば、その理由を答えてくれるだろうか。存在意義を教えてくれるだろうか。
いや、そんなことを知ったところで何も変わらない。自分がこの世にとって邪魔な存在であることは、変わらない。
――じゃあ消えればいいじゃない。
ふとした時に、少女は唐突にそんな答えをみつけた。そうだ、消えればいいんだ。
少女は包丁を握りしめて、その切っ先を喉元へ向ける。
……でも、できなかった。あと数センチ手前に包丁を押し込めばいいだけなのに、手が震えて、それ以上動かすことができなかった。
少女は神の残酷さを憎んだ。こんな自分にまで〝死〟の恐怖を植え付けたことを。そんな感情いらないのに。それ以前に、感情なんてなければ良かったのに。そうすれば、こんなふうに悩むことすらなかったのに――
少女は行く当てもなく、暗闇の世界をとぼとぼと歩いた。
暗くて、静かで、何もない世界。周りには人間の知恵と技術の結晶が乱立し、天高くまで伸びていた。
こんなに大きな建造物を造り出してしまうんだから、人間って凄いな、と少女は月並みな感想を抱く。こちらの世界では中身が空っぽだが、表の世界に戻れば、きっとこの建物群の中には今、人がいっぱい詰まっている。
考えるだけでワクワクした。だってそれは、こちらの世界ではあり得ない光景だから。そこへ飛び込めば、きっと今の少女の寂しさなんて息を吹きかけられた埃みたいに吹き飛んでしまうのだろう。
けれど、少女は知っている。たとえ表の世界に行って寂しさを紛らわせても、それは一過性のもので、一瞬の幻だということを。台風の目みたいなものだ。またすぐに、嵐が来てしまう。
そんなふうにセンチメンタルな気持ちで歩いていたからなのかもしれない。少女は直前まで気づけなかった。
少女は、出遭ってはいけないモノに出遭ってしまった。
そびえ立つビルとビルの間に、蜘蛛の巣のような糸を張って巨大な巣を作り、獲物を待ち構えるバケモノ。
体は灰色をしていて、大きさは優に民家一軒分を超えている。ぎょろりとした不気味な目が一つ。とげとげしい角みたいなものも体中に生えている。そんな異形のバケモノが、四本の脚で糸の巣の上を器用に歩いていた。
少女は知っている。誰に教えて貰ったわけでもなく、生まれた時から知っている。
このバケモノは、怪異を喰い尽くしこの世界に静寂をもたらした――餓鬼だ。
ついさっきまで消えたいと思っていたはずの少女をあざ笑うかのように恐怖が押し寄せて、少女は体を震わせた。
――逃げ、なきゃ……。
音を立てないようにゆっくりと後ろへ下がる。しかし少女は、足下にあった空き缶に気づかず、それを後ろ足で蹴って音を出してしまった。静寂な世界で、その小さな音はうるさいくらいによく響く。
少女は冷や汗が全身から噴き出して、恐る恐る餓鬼を確認する。
灰色の餓鬼は、単眼の瞳で少女をしっかり捉えていた。そして口元がにたりと歪み、大量のヨダレが滴り落ちる。
少女は今度こそ、全速力で逃げる。小さな足を懸命に動かして、ひたすら逃げる。
けれど、少女は急ブレーキをかけた。前方の空中に、ぐにぐに動く灰色の物体を見つけたからだ。それは急激に膨張し、四本の腕が生え、角が伸び、目が開き、口が裂け――先ほど見た灰色の餓鬼そのものが形成され、大地にその足を降ろして踏みしめた。
「なんで……どうして……」
少女は進路を変え、狭い路地へと逃げ込む。この道ならばあの巨体は通れないはずだ。
……でも、甘かった。
背後で倒壊音が唸り、大地が揺れた。灰色の餓鬼は、ビルを破壊しながら追ってきた。
どうやら灰色の餓鬼は口から気弾のようなモノを放ち、ビルを破壊しているらしい。つまりあの餓鬼は、特殊な力を使える上級の部類の餓鬼ということになる。
それを理解して、ますます少女は絶望した。
あんなの逃げられない――
諦めかけていた少女は、しかしそれを見つけた。いや、見つけてしまったと言うべきかもしれない。
表の世界への扉――世界と世界を繋ぐ〝隙間〟を。
ごめんなさい。許してください――
心の中で謝罪しながら、少女は〝隙間〟に飛び込んだ。
表の世界に飛び出た途端、アスファルトの地面に両手をついて転ぶ。突然目に差し込んできた日の光に、一瞬目が眩む。痛いほど眩しい。
運良く、表の世界は昼間だった。陽の光が優しく少女を包み込む。久々に浴びた陽の光はとても気持ちが良くて、生きているという実感を少女に与えた。
〝隙間〟に振り返る。灰色の餓鬼が出てくる気配はない。
少女は知っている。餓鬼にとって太陽の光が致命的なほど弱点であることを。太陽光の反射である月の光でさえ苦手だということを。だから餓鬼は滅多に表の世界に出てこない。出てこれない。
「ふぅ……」
と安堵。少女は立ち上がって前を見て――ひっ、と小さな悲鳴を上げた。
パーカーのフードを深く被った若い男が少女を見下ろしていた。
その目は酷く淀んでいて、愚直なほど欲望が剥き出しになっている。
「……うひひ。美味そうな匂いがするなぁ、お嬢ちゃん?」
餓鬼を彷彿とさせるその男の笑みに、少女はまた体を強ばらせた。