第隠話 悲願のために
丈一郎は壁にもたれかかりながら、閉じていた瞳をゆっくりと開く。
「……まさか私の水分身が一瞬にして蒸発するとは……」
たった一振りの爆炎。それだけで丈一郎自慢の水の分身が蒸気と成り果てた。それも、鬼人になりたての彼によって、だ。
いや、それだけではない。蓮華は血をひと舐めしただけで、失った腕を再生させた。それは他の鬼人ではあり得ない回復力だ。
「さすがは、緋鬼の眷属の力……」
やはり、彼を逃す手は考えられない――
しかし丈一郎には懸念があった。それは、蓮華が緋鬼に喰われてしまっていないかどうかだ。上手く逃げてくれていればいいのだが……水分身が完全に蒸発してしまった今、向こうの状況を知る手立てがない。
鬼人になった蓮華が緋鬼に喰われてしまっては、元も子もない。事態は最悪と言っていい。
丈一郎はもしもの時は自分の水分身で加勢するつもりでいた。それがまさか消されてしまうとは思ってもみなかったのだ。蓮華の放った炎は、それほど予想外な火力だった。
緋鬼の眷属が強大な力を得ることは身をもって知っていたが、蓮華があれほどの火力を即座に力を使いこなすことまでは計算外だった。
「こうなっては、彼が上手く立ち回ってくれていることを祈るしかありませんね……」
丈一郎は件の上田城跡公園にたどり着き、肩を落とす。
何もない。
餓鬼の巣の中心部である、石碑のある広場。彼らの戦場の舞台。午前零時を過ぎ、ヘルヘイムの同期が済んでしまった今、そこには何一つ証拠が残っていなかった。
彼らが上手く逃げ延びたのか、それとも食い尽くされた後なのか。この状況を見るだけでは判断できかねる。
しかしその丈一郎の不安も、次の瞬間には払拭された。
背後によく知る気配を感じたのだ。振り返って確かめるまでもなく誰なのかを察知し、丈一郎は歓喜のあまり口元を綻ばせた。
「……あなたがここにいるということは、彼らは緋鬼から逃げ果せた……。そう解釈してもよろしいんでしょうか?」
振り返ると、やはり相変わらずの仏頂面をした男が、季節外れなコートのポケットに両手を突っ込んで立っていた。
「ねぇ――暮木さん?」
丈一郎の問いかけに、暮木はやれやれといったようにため息を吐く。
「ああ。その通りだ。今回ばかりは本気で死ぬかと思ったがな」
「そうでしたか。いや本当に良かった。皆さんが餓鬼に喰われてしまったのではないかと、とても心配したんですよ」
「白々しいことを言うな。俺は緋鬼が現れるなど聞いていなかったぞ。あれはお前の仕業か?」
「確かに私も一枚噛んでいます。が、全てが私の仕業ではありません。本当に、緋鬼が蓮華くんの匂いを辿って近くまで来ていたんですよ。私はそれを少し導いただけに過ぎません。遅かれ早かれ、緋鬼はあの場に現れていた」
「……そうか。まあ、お前は嘘をつかない男だ。信用してやろう」
「光栄です。しかしこうなってしまったのも、元はと言えばあなたの責任なんですよ? まさか紗良々さんが呪術を使えたなんて……。どうしてその情報を私に教えてくれなかったのです?」
「俺も知らなかったんだ。どうして紗良々が暴れ回っていたのか、不思議に思っていたくらいだ。ターヤンだけは知っていたようだが、俺にも話さないよう口止めされていたらしい」
「なるほど……。呪術を使えることが鬼人に知れ渡ってしまうのは危険かもしれませんからね……。少なくとも過去の陰陽師は、〝そういう歴史〟を辿ってきた。それはそうと、どうやってあの緋鬼から逃げたのですか?」
「あの少年……蓮華のお陰さ」
「蓮華くんの……?」
「凄まじかったよ。一撃で緋鬼の腕が一本消し飛んでいた」
「あの緋鬼に傷を負わせたと言うんですか……?」
「そうだ。しかし、その一撃以降は全く歯が立たなかったようだがな……」
「なんと……」
あの餓鬼王『緋鬼』に深手を負わせた者など、丈一郎は一人しか知らない。
それを鬼人になりたての少年が果たしたというのだから、素直に驚愕した。
「……ふふふ。やはり彼の力は必要不可欠です。間違っても彼が死ぬようなことがあってはなりません。これからしっかり彼を警護してくださいね、暮木さん。といっても、あなたにとって警護はいつものことですから、その対象が二人に増えただけですが。紗良々さんも大事な力です。よろしく頼みますよ」
「ああ……わかっている」
暮木は重々しく頷いた。
「だが……どうしてこんな回りくどいマネをする? お前がこんな悪役を演じる必要があるのか? 紗良々や蓮華に、家族を殺した理由を……あのままではどの道餓鬼に親族もろとも殺される羽目になっていたことを伝えれば、そしてお前の本当の目的を話せば、必ず理解して――」
「それではダメなんです」
丈一郎は暮木の言葉を遮って、言う。
「人を武力的に強くするのは、やはり復讐心です。それ以外の生ぬるい覚悟では足りない。この私が復讐心のみで二百年以上生き延び、ここまでの力を得たように、彼らにも私という仇敵を与え、復讐心を植え付けなくてはならないのです」
「……真のお人好しというのは、お前のような男のことを言うのだろうな」
「はて、何のことでしょう。私はただ、私の復讐劇に周りを巻き込んでいるだけですよ」
「兄の仇討ち、か……」
「……ええ、その通りです」
遠い昔から丈一郎の胸の内で燃え続ける、激情の炎。丈一郎はその炎を一度たりとも絶やしたことなどない。
「今までは雲を掴むような話でした。ですが、緋鬼が眷属を造った今、我々は雲をも掴むことができるようになった……。またとないこのチャンスを逃すわけにはいきません」
どれだけ待ち焦がれたことか。何度夢見たことか。
「私の兄を喰らった、あの餓鬼王『緋鬼』を滅すること……私はそのためだけに生きてきたのですから」
二百年以上に渡るその悲願を、果たすために――
第一章 始まりの一週間 完
『第一章』完結となります。
次ページより鬼人としての人生を歩む『第二章』のスタートです。
よろしければ引き続きお付き合い頂けると嬉しいです。
また、ブックマークや感想を頂けると凄く嬉しいです。
筆者のエネルギー源であるブックマークや感想を、どうかお恵み下さい……!
ちなみに第二章では紗良々が脱ぎます(嘘です)
どうぞお楽しみ下さい。