第終話 さよならは言わない
二階の窓から穂花の部屋に侵入し、そっと穂花をベッドに寝かせる。窓の鍵が開いていたのが幸いだった。
穂花は気を失ったまま起きる気配がない。というよりも、おそらく寝ているのだろう。安らかな寝息が聞こえてくる。
唐突に、その無防備な寝顔がとてつもなく愛おしくなって、蓮華は穂花の頭を撫でる。髪がさらさらでとても心地が良かった。
愛しくて、ずっと一緒にいたくて、離れたくなくて……だからこそ切なくて、悲しくて、寂しくて、胸が詰まった。
「ごめんな……穂花」
静かに窓から出て穂花の家を抜け出すと、門の外には紗良々とターヤンが待っていた。
「なんや、もう別れの挨拶済ませたんか?」
「まあな」
「そんなんでええんか? あの小娘寝たままやったろ。何か一言くらい伝えてったらええやないか」
「いいんだよ。そんなことしても余計つらくなるだけだ」
蓮華も泣いてしまうだろうし、穂花も泣かせてしまうだろう。
そんな別れ方より、このくらいあっさりと、また会えるだろうみたいな気軽な感じで別れたい。その方が、なんだか希望がありそうじゃないか――そんなふうに、蓮華は自分を騙していた。
「そんなこと言っちゃっテー。後で後悔しても遅いヨ? 蓮華、あの子のこと好きなんダロ? その想いを伝えておかなくていいのカ?」
ターヤンが茶化すように肘で突いてくる。
「うるせぇよ。そんなの別に、今じゃなくたっていいだろ」
「……蓮華。そうは言うても、もしかしたらあの小娘にもう二度と……会えへんのかもしれんのやぞ……?」
紗良々は少し言いにくそうに、言葉を詰まらせながら言った。
蓮華は立ち止まる。
横を見上げれば、雨の上がった夜空の下に蓮華の家があった。いや、正しくは、蓮華の家の残骸が。
現時刻は午前三時。既に現場検証などは終えたのか、警察も消防もおらず、ぐるりと取り囲むように黄色い規制線テープが張られている中に、ひっそりと我が家は佇んでいた。
肝心の家は黒焦げで、外壁が焼け落ちている。けれど全焼する前に消火が完了したのか、家の中まではそれほど燃えていない。
蓮華は家から目を落とし、右手首に結ばれたミサンガを見つめる。そして、それを強く、手首ごと握り締めた。そういえば――と、ミサンガの意味を調べ忘れていたことを思い出す。
「……わかってるよ。本当はわかってる。多分、僕はもう二度と、穂花と逢うことはない」
逢いに行こうと思えば、いつだって逢えるだろうけれど。でも、逢わない。
「というより、僕は金輪際、穂花に逢うべきじゃないんだ。穂花をこんな危ない世界に巻き込みたくないから」
丈一郎に連れ去られた穂花を見て、蓮華は思い知った。穂花が自分にとってどれだけ大切な存在かを。
穂花にまで何かあったらと思うと、気が気ではなかった。あんな思いは、もう二度としたくない。
「それに……もう僕は穂花に逢う資格はないだろうしな」
「なんやそれ?」
「人間としての僕は死んだ。消えた。今の僕は、バケモノとしての僕だ。だから僕は人間の心を捨てて、バケモノらしく生きようと思う」
「……何を――」
「僕は丈一郎を殺すよ」
清々しいほどに、蓮華は言い切った。
「……あいつは二百年以上も生き続けてる本物のバケモンや。一筋縄じゃいかへんで?」
「そうだな。だから、紗良々たちの力を貸して欲しい。その代わり、僕はお前たちに力を貸す。緋鬼を倒すことに命を懸けて協力する」
「プヒヒ。なるほどな。ウチも丈一郎はいつか殺そうと思とったんや。ウチとしては一つの損もない、願ってもない話やな。ええで、その話乗ったる。それに、蓮華が目の届かんところでのたれ死んで緋鬼に喰われよったら一大事やしな。ウチらと行動を共にしてくれた方が安心やわ」
「紗良々たんがそう言うならボクも異論はないヨ。ボクは紗良々たんについて行くだけだからネ。きっト、くれっきーも同じことを言うと思うヨ」
「ありがとう、二人とも」
本当に心強いと思った。
「ほんじゃま、こうして仲間になったんや。改めて自己紹介といこか。ウチは紗良々。日本人の父親とフランス人の母親のハーフや。ちなみに関西弁しゃべっとるけど、関西出身やないし、行ったこともあらへんで。よろしゅう」
「うん、よろしく――って、えっ!? そうなの!?」
「ちなみにボクもシェン・ターヤンって名乗ってるけど、生粋の日本人ダヨ。ヨロシク」
「ええっ!? なんで!? 名乗ってるって……どうして!?」
「さっきアンタも言うてたやろ。鬼人になった時点で、人間としてのウチらは死んだんや。鬼人になってからは第二の人生の始まり。人間としての自分を捨てて、新しい自分を創る。そういう意味で、ウチらは名前も個性も自分の好きにしようて決めとるんや」
「なるほどな……」
そんな深い理由があったなんて、と少し驚く。
「蓮華。アンタはどうするんや? 名前変えるんか?」
蓮華は逡巡する。名前を変えるという、まるで全ての過去を断ち切ってしまうような、その意味を。
「……いや、僕はいいや。僕はこの先も、白崎蓮華のまま生きるよ」
「……そか。ま、それは自由やしな」
蓮華はもう一度、焼け跡と化した我が家を見上げる。
「……行ってきます」
蓮華は誰もいない我が家に向かって呟いて、歩き出す。
「さよなら」とは言えなかった。だって「さよなら」は、永遠の別れの言葉のような気がするから。
いつか「ただいま」と言いに帰って来れるように――そんな甘ったれた思いが表われていたのかもしれない。
蓮華は言葉では決意したフリをして、揺れていた。
人間と、バケモノの、その狭間で――
まだあともう一話だけ続きます。