第十七話 決戦
蓮華は丈一郎に傷つけられた穂花の唇を指で撫でる。するとかさぶたが剥げて、新たな鮮血が滲み出す。
「……ごめん、穂花……」
そして蓮華は――キスをした。
温かな体温。柔らかい唇。そして――鉄の味。
その味を喉の奥まで流し込む。
どくん――と心臓が跳ねる。
熱い……燃えるように体が熱い。さらに左腕がむず痒くなってきたかと思うと――暮木が止血のために付けてくれた業血の蓋を突き破って、新しい腕が生えてきた。
握って、開く。それらは蓮華の意思通り、自由に動く。紛れもない、蓮華の左腕だった。
「素晴らしい……なんという再生力。まさか血を舐めただけで腕を再生させるとは……。さすがは緋鬼の眷属。他とは比べものに――」
「ごちゃごちゃうるせぇ」
なにやら感嘆とした様子で言葉を並べる丈一郎の水人形に対し、蓮華は腕を振り払う。すると紅蓮に輝く爆破が巻き起こり、丈一郎の水人形を一瞬にして蒸気に変える。跡形もなく消し去った。
「これが、鬼の力……」
鬼人もどきの時とは段違いの火力。血が煮えるような、不思議な感覚がした。鬼人もどきの時は不純物が混じっていて燃焼が悪いような感じだった。例えば、ガソリンに水が混ざっているような。それが今は、高純度のガソリンだけに抽出されている――そんな感覚だった。
蓮華はそっと穂花を寝かせ、立ち上がる。そして、緋鬼を見据えた。
緋鬼もまた、蓮華を見ていた。どうやら蓮華が鬼人となった気配を察知したらしい。表情などほとんどなくいつも通りの不気味な笑い顔だが、どこか歓喜に満ちているように見えた。
待ちわびた。やっと鬼人になってくれた――まるで気持ちを隠さない子供みたいに、そんな感情が剥き出しになっているような気さえする。
「お前の目当ては僕だろ?」
もう遊び飽きたと言わんばかりに緋鬼は紗良々たち三人を投げ捨てる。
「ォォォオオオオオォオオオオオオォオオオオオオオオオッ!」
相変わらずの気色悪い雄叫びを上げ、緋鬼は蓮華へ突進した。今にもかぶりつこうと大口を開けながら。でも、蓮華は何故かもう怖くもなんともなかった。
蓮華は緋鬼の突進に対し、真正面から立ち向かう。一度地面を蹴ると、一瞬で緋鬼の懐に潜り込んだ。
嘘みたいに体が軽い――
ガリ勉だった今までの、人間の蓮華ではあり得ない動きだった。
丈一郎やターヤンたちが驚異的なジャンプ力を見せていたように、鬼人になると身体能力が人並み外れて向上するようだ。凄まじい空腹に反して、全身の筋繊維が脈動を打つように力が漲ってくる。
しかしだからといって、蓮華は緋鬼に殴りかかるようなマネはしない。いくら力が増したとはいえ、単純なパワーでは今の蓮華より遙かに強いであろうターヤンの渾身の一撃でさえ通用しなかったのだから。
だから緋鬼の懐に潜り込んだ蓮華は、その腹に掌を添えた。そして力を込め――爆破。
蓮華の掌から放たれたゼロ距離の爆破は、緋鬼の巨大な図体を吹き飛ばす。しかしその程度では緋鬼の頑丈な体を抉ることも、火傷を負わせることも、ましてや緋鬼を転ばせることさえもできなかった。緋鬼は足を踏ん張らせ、地面を削りながら勢いを殺し、踏みとどまったのだ。
しかし、それは蓮華の予想の範疇だった。これでいい。皆から緋鬼を遠ざけることができた。これで心置きなく――全力でぶちかませる。
元中二病の蓮華にとって、こういう能力に目覚めた時の予行演習はイメージトレーニングでばっちり済ませてある。炎の能力なんて、その中でも代表格。蓮華にとって最も妄想の捗る能力だ。だから今すぐにだって使いこなす自信があった。
蓮華は右腕を真っ直ぐ伸ばし、緋鬼へと狙いを定めてデコピンの構えを取る。そう、初めて出会った時の紗良々のマネだ。その折り曲げた指の先には炎が渦を巻き球体を形成していき、ビー玉ほどの大きさまで圧縮されていく。極限まで圧縮された膨大な質量の火焔は、周囲の空間を歪めるほどの超高密度の塊となり、甲高い高周波音を響かせて完全な球体へと形を安定させた。
瞳を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、これまでの何気ない日常。
朝起きると母がキッチンで洗い物をしていて、父が新聞を読みながら朝食を食べていて。家に帰ると母が晩ご飯の用意をしていて、しばらくすると父が仕事から帰ってきて――そんな身近過ぎて、当たり前過ぎて気づけなかった『幸せ』な光景。
丈一郎に奪われたその『当たり前』は、もう二度と帰ってこない。しかしそもそもを言えば、全ての元凶はこいつだ。このバケモノのせいだ。こいつさえいなければ、その幸せが守られたのに――
蓮華は多くを望んだことなどなかった。ただ当たり前の日常を、当たり前のように過ごせれば、それだけで良かった。なのに、こいつのせいで――そんな憎しみと怒りと悲しみが込み上げて、絡まった糸のように混ざり合い、目が煮えたぎるように熱くなる。やがて一筋の涙滴が頬にこぼれて、蓮華はかっと目を見開いた。
「失せろ、クソ餓鬼……!」
全身全霊の力を込めて指を弾くと、超高密度の小さな火球が風を切って弾丸のように放たれる。
緋鬼は本能的に危険を察知したのか、咄嗟に四本の腕で頭を守る。その腕に火球が衝突した次の瞬間、火球は周囲の大気を吸収し――炸裂。大爆音と共に嵐のような爆風が吹き荒れ、火炎の花が咲いた。
緋鬼の巨体が豪速で吹き飛び、炎の壁を作り上げていた木々に衝突して何本もなぎ倒しながらその奥へと消えていった。もう炎に紛れてしまって姿は見えない。
「――ッはぁ……はぁ……!」
凄まじい疲労感が押し寄せる。体が鉛のように重い。
けれど、今は休んでいる時間はない。
「おい、皆大丈夫か!?」
「……問題……ない……」
「ボ、ボクも……なんとカ……」
やっとこ答えたみたいに暮木とターヤンから返事が返ってくる。
「紗良々! おい紗良々!」
ぐったりとして応答がない紗良々を抱き起こす。すると紗良々の目がパチっと開いて――
「うべあっ!」
蓮華をど突き飛ばした。
「な、なにすん――」
「なにしとんねんアホ! バカ! 何で鬼人になっとんねや! ウチらが何のためにここに来たと思っとんねん!」
「だ、だってお前たちが危なかったから……! それに、結局僕は喰われなかったんだから問題ないだろ!?」
「そういう問題やないやろ! アンタ……あんなに人間に戻りたがってたやないか……! あんなに、バケモノになりたくないって……言うてたやんか……。なんに、ウチらのせいで……」
紗良々は突然ぼろぼろと涙を流し始めた。
「お、おい紗良々……。何泣いて……」
そこで蓮華はふと、笑みが零れる。
「いいんだよ、紗良々。もういいんだ。僕なんかを助けに来てくれて、命まで張って戦ってくれて……そんなお前らを犠牲にしてまで、僕は人間に戻りたいとは思えない。むしろ、そんなお前らを助けられるなら、僕はバケモノになったって構わない。そう思った。これは、僕の意思だ。それに――」
蓮華は立ち上がる。
「お前らみたいなバケモノがいるなら、その仲間入りも悪くないかな、って」
あれほど人間に戻りたかったはずなのに、不思議と心は洗い流したようにすっきりしていて、晴れ晴れしかった。
「……ホンマ、お人好しなやっちゃな」
「まあな。なんせ、僕はあの緋鬼に魅入られた男だから」
どうやら自分は目の前の誰かを見捨てられない人間らしい。今日という日を通じて、蓮華はそう痛感した。人との関わりというものが面倒で、嫌いで、いつもお一人様を決め込んでいたから気付けなかった自分の新たな一面だった。
そうして、蓮華たちはある意味ハッピーエンドな雰囲気に包まれていたのだが――甘かった。
燃えさかる炎の森から、再び緋鬼が現れたのだ。
緋鬼の左腕は肘から先で枝分かれした内の一本が爆破の威力で吹き飛び、なくなっている。しかし、それだけ。それ以外のダメージは確認できず、まったくもって平気そうに相変わらず不気味な笑みを浮かべている。
「マジかよ……全力でやったんだぞ……」
それこそ、消し炭にするくらいの気持ちで。
さすがに倒したと思い込むほど自惚れてはいなかったが、しかしこの程度しかダメージを与えられなかったことに衝撃を隠せなかった。
「腕一本飛ばしたか……。むしろ、あの緋鬼にあんな傷を負わせるなんて、誇ってええことやで。緋鬼が負傷しとるとこなんて、ウチは見たこともあらへんからな」
「そんなになのか……」
――これが、餓鬼の王……。
紗良々たちが今までこんなバケモノと命を削り合っていたことに、改めて、いや、身に染みて驚きを覚えた。
「どうするんだ……? あと数分で炎は消えるとしても、あんなバケモノから逃げ切れるものなのか?」
「普段のアイツはこんなに好戦的やないんや。ウチらが何しようが、近くを飛び回る羽虫程度の扱いなんやろな。せやから容易に逃げれた。でも……今日のアイツの様子を見た感じやと、正直、難しいかもしれへん。めっちゃ興奮しとるみたいやし、何が何でも蓮華を追って来そうや。それに、今の消耗しきったウチらじゃ足止めもできひん……」
「じゃあどうすれば……」
すると紗良々はなにやら思案するような仕草をした後、
「……小僧。三分でええ。ウチに時間をくれ」
右手の人差し指と中指の二本を立てて、唇の前で縦に構えた。
「何か策でもあるのか?」
「まあの。だが説明してる暇はあらへん。頼むで」
そう言って紗良々は目を閉じ、指に言葉を吹き込むように小さな声で呪文のようなものを唱え始める。
「……わかった、紗良々を信じるよ」
蓮華は一歩踏み出る。緋鬼は急ぐことなく、慌てることもなく、緩慢な足取りでこちらに歩み寄って来ていた。
「鬼の力は血を使うんだったな……」
先ほどの疲労感と体の重さもまだ残っている。つまり、何度も連続で鬼の力を放出するのはマズいということだ。
それなら――と、蓮華は棒を握るように右手を形作る。そして、イメージする。一本の剣を。
放出した力を圧縮し、留め、成形――それらは蓮華の思い通りに進み、刀身が溶岩のように赤く光輝く、炎の力が圧縮された一本のエネルギーブレードがその手に形成された。
これなら鬼の力を乱発するよりは消耗を抑えられるはずだ。
蓮華はブレードを構え、緋鬼に突進を試みる。緋鬼を紗良々に近寄らせないためにも蓮華自身が突っ込むしかない。
「うぉおおおぉおおおおおお――ッ!」
気合い十分に雄叫びを上げ、蓮華は――飛んだ。相手は三メートルを超える巨体。地上からではまともに攻撃できないと思ったからだ。
放物線を描き、狙い通りまっすぐに緋鬼へ向かって落ちていく。その落下に合わせ、蓮華は体を捻って回転をかけ、渾身の力でブレードを振り抜く。
緋鬼の肩から腰にかけて斜めに刃が走る。細かな火花が散り、鉄板を削っているような甲高い金属音がした。
「――っつ~ッ!」
腕が痺れる。金属バッドで硬い物を叩いたときのビリビリとした感覚に似ている。
結果はもう分かりきっていたが、恐る恐る見上げると、やはり緋鬼の体には傷一つついていなかった。
――恐ろしく硬い。全く歯が立たない。
それに、緋鬼は体を守ろうともしなかった。恐らく、防ぐまでもないと判断したということだろう。
しかし問題はない。蓮華がやらなければならないことは時間稼ぎだ。緋鬼を倒すことではないのだから。
だから蓮華は、たとえ刃が通らずとも構わずブレードを振り回した。
緋鬼の繰り出す拳もブレードで受け流し、時に弾き返す。その度に火花が散る。
そんな攻防戦をしばらく続けていたが、しかし、長くはもたなかった。
疲労が蓄積され、蓮華の動きも判断も鈍くなってくる。緋鬼が横から腕を叩き込んできて、蓮華は対応しきれずに咄嗟にブレードを盾代わりにしてガードするものの、凄まじい力により蓮華の体は容易く飛ばされる。
二、三回地面を転がり、受け身を取って素早く体勢を立て直す。
「くそォッ!」
半ばやけくそに、蓮華はエネルギーの塊であるブレードを槍のように持ち替えて投げ飛ばす。光の線を残しながら弾丸のように飛んでいったブレードは、緋鬼に衝突した途端に爆発。辺りに爆炎と爆風をまき散らす。
しかし炎の中で、緋鬼は何事もなく立っていた。
無傷。初めの全身全霊の一撃でやっと腕一本だったのだから、消耗してどんどん力が減っている今、どう足掻いても緋鬼にダメージを与えられない。
どうするべきかと思案していると、緋鬼は背後に人魂のような六つの火の玉を生み出し、それらを一斉に解き放ち始めた。不規則に散った火の玉たちは、ターゲットをロックオンしたように急に蓮華を狙い始め、散弾のごとく迫り来る。
「くっ……!」
蓮華は苦し紛れに腕を振り払い、爆破。視界いっぱいに爆炎が広がり、全ての火球の威力を相殺する。
しかしその炎が消えて視界が晴れた時、蓮華は冷や汗を垂らした。
「な――ッ!」
緋鬼がばっくりと口を開けて、その先に巨大な火球を造り出していた。大きさは優に一メートルを超えていて、その火球がもたらす威力はもはや計り知れない。
「なんだよそれ……。僕を食べるのが目的じゃないのかよ……」
あんなものを放たれてしまったら、蓮華は塵も残らず消えてしまうことは容易に想像できる。それどころか、地形が変わるだろう。防ぎようも、逃げようもない。
頭が真っ白になりかけた――しかし次の瞬間。緋鬼の背後に二つの人影が現れる。
「少しはボクらも見せ場を作らないとネ」
「だな……」
満身創痍のターヤンと暮木だった。
「フンッ!」
「はあっ!」
ターヤンが固く握りしめた拳で緋鬼の右膝裏に、暮木が業血で創造したハンマー状の武器で緋鬼の左膝裏に、ほぼ同時に一撃を見舞う。つまり、強烈な膝かっくんをしたのだ。
体勢を崩した緋鬼は狙いを外し、あらぬ方向へと火球を発射。それは遙か遠くの山頂に着弾し、まるで昼間のように辺りを明るく照らすほどの大爆発を巻き起こした。ここまで爆風が押し寄せ、大地が揺れる。着弾した山は半分ほど消し飛んでいた。
その凄まじい威力に蓮華は寒気さえ覚える。
「た、助かった……ありがとう……」
「礼を言うのは終わってからダ! そろそろ三分だヨ、紗良々たん!」
ターヤンの催促に、紗良々はゆっくりと瞳を開けた。
「――ああ、待たせたなアンタら」
紗良々は唇の前で構えていた二本の指をまっすぐ前に――緋鬼に向けて伸ばす。その指先は青白い光を宿していた。
「我ここに彼岸と此岸を繋ぐ。落とされし星は門を開き、開かれし門は汝を導かん」
その光の宿った指先で、紗良々は呪文を唱えながら宙を素早く斬る。紗良々の指先から置いていかれた光の残像は、しかし消えることなく発光を続け、宙に模様を映し出す。紗良々が指先で描き出したそれは、星――五芒星だった。
「ほないくで! ――『羅天星門』ッ!」
紗良々はその五芒星に重ねるように、人差し指と中指の二本の指を立てた右手を突き出す。
すると緋鬼の背後に突然、五芒星を中心に幾何学的な模様の刻まれた巨大な魔法陣が描き出される。
その光輝く魔法陣からは緋鬼にだけ見えない引力でも働いているのか、緋鬼の体がずるずると魔法陣に吸い寄せられ始めた。緋鬼は戸惑った様子でキョロキョロとしながら、三本の腕と両足で地面にしがみついて耐えている。
「くれっきー! もう一度ダ! ヤツを魔法陣に叩き込むヨ!」
「承知した」
ターヤンと暮木は這いつくばった緋鬼の両サイドに位置を取ると、
「フンガァアッ!」
「はぁあああっ!」
拳とハンマーで、これまで以上に気合いの入った一撃を緋鬼の両肩に打ち込んだ。
その衝撃でふわりと宙に浮いた緋鬼は、もうどこに掴まることもできず、真っ直ぐに魔法陣へと吸い込まれる。そして、緋鬼は魔法陣の中へと溶けるように姿を消した――かに思われたが、だがしかし、緋鬼は体を吸い込まれる直前、魔法陣の縁に手足を引っかけ、留まった。
「グォオオオォオオォオオオオオオオオ!」
身の毛もよだつような雄叫びを上げ、緋鬼は魔法陣から抜け出そうと抵抗を始める。……いや、現に少しずつ抜け出している。魔法陣の吸い込む力が負けている。
「クッ……! 往生際の悪いヤツだナァ……モウ……!」
ターヤンが悪態をこぼす。
緋鬼の掴む魔法陣の縁に、ピシリと亀裂が入り始めた。
「ぐぅう……っ! あかん……! なんちゅう力や……! もう……もたへん……!」
紗良々が苦しそうに声を絞り出す。
あの魔法陣がどういうものなのかはわからない。だが、ターヤンが言われるでもなく緋鬼を魔法陣の中に叩き込もうとしたように、蓮華もそれを察した。
「紗良々。もう少しだけ耐えてくれ」
蓮華は右腕を天へと突き出し、槍をイメージする。マグマのような炎のエネルギーが集結し、イメージ通りの燃えさかる槍が生み出された。
これが、今出せる力の全て。絞り出した、最後の力。
それを大きく振りかぶり、
「――いっけぇえええぇえええッッッ!」
投げた。
槍は加速し、弾丸のごとき速度となり風を切り、紅蓮の残像を残す。そして大の字に開いた緋鬼の無防備な胸へと命中すると、火炎を吹いて炸裂。
その衝撃で緋鬼の両足と右腕二本が魔法陣から外れ、支えは左腕一本となる。
「グォオオオォオオォオオオオォオオオオッ!」
そして緋鬼は最後に不気味な断末魔を残し、とうとうその左腕も外れ、魔法陣に完全に飲み込まれた。
魔法陣は役目を終えた途端にしぼみ、その口を閉じる。
今までの喧騒が嘘のように、静寂が訪れた。
「……終わった、のか……?」
疲労からか、あるいは安堵からか、蓮華は腰を抜かして地べたに座り込む。
「なんとか……な……」
紗良々も羽を伸ばすように両腕を広げて、仰向けに寝転がった。相当疲れているのか、息が上がっている。
「一体、何をしたんだ……? 緋鬼はどうなった?」
「呪術の一つ……『羅天星門の術』や。簡単に言うと任意の対象をワープさせる術でな、奴を別の場所へ飛ばした」
「呪術……陰陽師の術か」
「そうや。元々トラップ用の術やから、戦闘中に使うもんやないんやけどな……」
「へぇ……。なんだ。じゃあ緋鬼を退治できたわけじゃないのか……」
「当たり前やろ。あんなんで退治できるんやったら苦労しとらんっちゅうの」
「それもそうか。……とにかく、ありがとな」
「……そんなん受け取れへんわ」
「なんでだよ?」
「ウチらはアンタの人生変えてもうたんやぞ?」
「違うだろ。お前らは僕の人生を『変えてくれた』んだ。さっきも言っただろ? 紗良々たちがいなければ、僕は今頃人を喰い殺して本物のバケモノになってたかもしれないんだから。それに、緋鬼に喰われて死んでたかもしれない。そう考えれば、今の僕は十分救われてる。だから感謝してるんだ。それに、ほら。鬼人になったお陰で左腕だって元通りになったんだぜ。だから紗良々が気に病むようなことはもう何もないだろ?」
蓮華は再生した左腕を元気に振り回して見せる。
「はぁああ……。ホンマ、お人好しっちゅうか、考えが甘ったるいっちゅうか……。アンタの頭ん中にはベルギーチョコレートでも詰まっとるんか?」
紗良々はなんだか呆れ果てているようだったが、しかし口元には笑みがこぼれていた。
「あ……」
ふと、蓮華は遙か彼方の闇空に、いつしか見たオーロラのような不思議な光を見つけて声を漏らす。
「あれは……」
「見とき。同期が始まるで」
淡い光を宿すオーロラは猛烈な速度で迫ってきて――蓮華たちの上を通り過ぎていった。
するとその直後、蓮華たちを包み込んでいた熱が消失し、周囲が急に暗くなる。燃えさかっていたはずの草木から炎が消えたのだ。炭と化したはずの草木や倒壊したはずの樹木は元の青々しい姿を取り戻し、戦闘で荒れ果てていたはずの大地が綺麗に整地されている。
そうか、あの光のカーテンは世界の同期の時の現象だったのか、と蓮華は理解した。
「さ、鬱陶しい炎も消えたことやし、帰るで。こんなところにおったらまた餓鬼が集まってきてまうわ。それに、そこの小娘もさっさと返さなあかんしな」
紗良々に言われ、蓮華は今も静かに眠る穂花を見る。
わかっていたことだったが、やっぱりどうしても、胸が痛くなった。