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そして僕はバケモノになった  作者: 夢見 裕
第一章 始まりの一週間
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第一話 異変

「――ッぶは!」


 蓮華は目覚めがいい方ではなく、むしろぐずぐずと寝ていて起きないタイプだが、今朝は目覚ましが鳴る前に飛び起きるように勢いよく目を覚ました。

 夏とはいえ寝苦しい程暑い夜でも朝でもなかったはずなのに全身にはぐっしょりと汗をかいていて、肌に服が貼り付いて気持ち悪い。


「あれは……夢?」


 まだ感触の残る唇を撫でる。

 キスなど未経験。故にそれが本物の感触なのかはわからない。しかしマシュマロみたいに柔らかくて、妙にリアルだった。そしてなんだか、胸がドキドキしている。


「いやいや、あんな幼女に興奮しちゃマズいだろ……。ったく、どうしてあんな夢を……」


 まさかのロリコン疑惑に危険意識を抱きながらも部屋を見回して、目を見開いた。

 部屋の扉からベッドに向かって床に足跡の汚れがついていた。恐る恐る自分の足の裏を確認して――戦慄する。足の裏が砂のような汚れで黒くなっていた。


 じゃあ、まさか――とすぐに右手の甲を確認して、震えを起こした。

 手の甲には痣のような赤い模様があった。


「嘘だろ……。夢じゃ……なかったのか……? だとしたら僕は……」


 ジリリリリリ――と朝を知らせる目覚ましの音が空気を震わせ、体がびくついた。慌ててアラームを止め、一息ついて少し心を落ち着かせる。


 ――あれが夢じゃないのなら、あの不気味な鬼も、不思議な幼女も、全て現実。

 そして僕は――


「鬼に……餓鬼に、呪われた……?」


 確かに、あの幼女は最後にそう言っていた。


 しかしどういうことだろう。何も飲むな、食うな、とは、つまり朝飯も、昼飯も、夕飯も、水すらもということだろうか。まるで絶食中の修行僧だ。それに、そんなことに何の意味があるのだろう。


『人間のままでいたければ――』


 彼女のその一言が妙に引っかかった。

 何か、嫌な予感がする。何故だか、あの幼女の言うことに従うべきだと本能的に思った。


 だがその直後。ぐう――と腹が機嫌を損ねるように鳴いた。


 蓮華は基本的に朝食を食べない。朝はお腹が空かず、胃が受け付けないから。朝から空腹と言えば、そんなの前の晩に夕飯を抜いた日くらいのもの。しかし昨晩、蓮華は夕飯をしっかり食べ、デザートにチョコプリンまで平らげた挙句、夜食にポテチひと袋を空にした。

 だと言うのに。


「どうしてこんな日に限って……」


 さらに、とても喉が渇いている。

 それについては寝ながらこんなに汗をかいていたのだからそれも当然かもしれない。まるで炎天下の中フルマラソンをした直後のように喉がからからで死にそうだった。


「蓮華ー? 朝よー。早く起きなさーい」


 下の階から母の呼ぶ声がした。


「そっか。今日から学校なんだった……」


 衝撃の連続ですっかり頭から抜けていた。昨日で夏休みが終わったのだ。

 サボろうかという考えが頭にちらついた。今は、学校なんて行っている場合じゃないんじゃないだろうか――

 でも、かと言って授業に置いてかれるのも困った話だ。今日は始業式とはいえ、授業は普通に行われる。授業をサボれば後に苦労するのは自分だ。自分には休んだ分の授業を教えてくれるような友達もいないのだから。


 部屋を出て一階に降りて、そういえば、と自分の足が汚れていることを思い出す。親にバレれば厄介なことになりそうだと考え至り、こっそりと風呂場に寄って足を洗ってからリビングに顔を出した。


「おはよー」

「おはよう。……そういえば、朝起きたら玄関から蓮華の部屋まで足跡みたいな汚れがあったんだけど……どうしたの?」


 ぎくりとした。そしてすぐに自分の見落としに気付く。

 部屋に足跡があったのなら、当然部屋までの廊下にも足跡があったということになる。先ほど見た限りでは廊下に足跡などなかったが、既に母が綺麗にした後だったというわけだ。


「あー……そう言えばトイレに起きた時に寝ぼけて一度玄関から出ちゃって……」

「おいおい、大丈夫か? そのまま寝ぼけてどっか行くなよー?」


 テーブルで新聞を読みながら朝食を食べていた父が剣呑な声で言った。

 冷や汗ものだったが、変に疑われている様子もなく安堵した。当然だろう。昨晩、息子がバケモノに襲われていたなどと考えるはずがない。


「ん? 蓮華、どうしたの? 今日は朝食食べてくの?」

「は? ……え? あれ?」


 母に言われて気がつく。いつの間にかテーブルに腰掛けていた。完全に無意識のうちだった。

 目の前には父の朝食が並んでいる。味噌汁にご飯、そして卵焼きにウインナーなどのおかずが少々。ごく普通の、よくある代わり映えのしない朝食。普段の蓮華だったら見向きもしないようなメニューだ。

 しかし、どうしてだろう。ただのご飯やおかずが、どうしようもなく美味しそうで――


「ちょっと、蓮華? ど、どうしたの?」


 キッチンで洗い物をしていた母がよからぬものでも見てしまったかのような顔をして言った。


「え? 何が?」

「ヨダレよ、ヨダレ! どうしたの!?」


 言われて口元を拭うと、ぬちょりと濡れていた。


「うわ……ッ! なんだよこれ!?」


 粘ついた糸を引く大量のヨダレ。自分の口から分泌されていることが信じられなかった。

 不意に、脳裏に昨晩見たバケモノの姿が浮かんだ。ヨダレをだらだらと垂らしながら不気味に微笑む、あのバケモノの顔が。


「蓮華? 大丈夫? 顔色が悪いわよ? 具合でも――」

「だ、大丈夫だから!」


 蓮華は逃げるようにリビングを飛び出し洗面所へと駆け込む。

 思いっきり蛇口を開けてばしゃばしゃと流れ出る水を何度も口元に掛けて洗い流す。そして何度目かに水をすくった時、ふと、自分が猛烈に喉を渇かしていることを思い出した。


 目の前には水がある。新鮮で冷たくて美味しそうな水が、際限なく流れている。


 迷う理由などなかった。既に忠告のことなど頭から抜け落ちていた。

 蓮華は口元を拭うという目的も忘れ、両掌ですくった水を貪るように啜る。


 しかし、異変は起きた。


「……あれ?」


 水が消えた。

 確かに水を啜った。豪快に喉へ流し込んだ。はずなのに、喉が潤わないどころか、喉に水が流れ込む感覚すらない。


 もう一度水をすくって、今度は落ち着いてゆっくりと飲んでみる。――が、やはりそうだ。水が喉を通る前に消えてなくなっていた。

 貼り付きそうなほど乾いた喉を、潤すことができない――


「一体何が起きてんだよ……」


 鏡を見れば、くせっ毛の頭と目の下の隈が唯一の特徴の不幸面な少年がいた。いつもと変わらない、特に変わった様子のない蓮華だった。バケモノでもなく、間違いなく人間の。


 困惑の渦中にいると、吐いた息が白く曇った。驚いてその白い霧のような息に触れてみると――熱い。そして、湿っている。それは水蒸気だった。


「はは……」


 理解不能な現象に思わず乾いた笑いがこぼれた時。


「ちょっと、蓮華? 本当に大丈夫?」

「――ッ!」


 母が洗面所を覗き込んできて心臓が飛び出そうになる。


「あら、その手の痣どうしたの? どこかぶつけたの?」

「大丈夫大丈夫! 全部大丈夫だから!」


 絶対に『よからぬこと』に巻き込まれている。

 こんなこと、知られちゃだめだ。見られちゃだめだ――


 蓮華は慌てて右手を隠し、母を押しのけて階段を駆け上がり、自分の部屋に向かう。

 すぐに制服に着替えてバッグを片手に抱え、階段を飛び降りるように降下。そして「行ってきます」と乱雑に言い残して家を出ようとして、しかし急ブレーキ。急速旋回でリビングに引き返して仏壇の前に鎮座し、線香を手向けて目を閉じて手を合わせる。欠かさず行っているこの日課を危うく飛ばすところだった。

 そして今度こそ「行ってきます」と家を飛び出した。


 普段より三十分も早い登校。母は「え、もう行くの?」と不思議そうに、否、心配そうに見送っていたが、構っている余裕などなかった。

 自転車に跨り、まず向かったのは学校――ではなく、あの工業団地だった。

 一刻も早くあの幼女に会いたかった。会って、全ての説明を求めたかった。


「何が『何も喰うな』だ……。何が『百見は一験に如かず』だ……! こんなの、わけがわかんねぇよ……!」


 しかし、あの工業団地に彼女はいなかった。そこにはいつも通りの道路があって、工場や倉庫があって、大型トラックが往来し、既に人々の営みが始まっている。昨日の不気味な静けさなど影もない。激戦の痕跡もない。空間自体が別物のように感じた。


『また明日、日付が変わったちょうど午前零時にここに来い』


 あの幼女の言葉を思い出す。

 どうやら、手立ては午前零時まで待つしかないらしい。


 蓮華はかつてない空腹と渇きを訴える体に黙れと命じるように、胸元を強く握り締めた。


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