表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
そして僕はバケモノになった  作者: 夢見 裕
第一章 始まりの一週間
19/103

第十六話 今日から僕は、バケモノでいい

 空腹も忘れ、渇きも忘れ、左腕の痛みさえも忘れて、蓮華は走った。

 苔色の水が流れる外堀の橋を渡り、立派に構えた櫓門を抜け、上田城跡公園の敷地内へと辿り着く。


 名称からわかる通り、ここに既に城はなく跡地を公園として開放している場所だ。荘厳な櫓門や立派な石垣や塀など、僅かながらに城の周辺建築物が残っているが、あとはほとんど緑豊かな木々で埋め尽くされている。春には満開の花を咲かせる桜の木だ。しかし光がなく薄暗いからなのか、こちらの世界ではその木々の眩しい色でさえ、褪せて見えた。


「どこだ……どこにいる……!」


 元城の建っていた跡地。今は公園になっているとはいえ、散歩コースが作られるほど広大な敷地だ。木の葉が風で擦れる音に遮られ、人の気配を探るのも難しい。


「穂花ァー!」


 闇雲に走り回る。片腕がないせいでバランスを取りづらいのか、何度も転んだ。転んでは立ち上がり、走り続けた。

 そして堀に囲まれた本丸の跡地に踏み入れた時、背筋を逆なでされたような寒気に襲われる。


 ここは、何かおかしい。嫌な気配がする。ここにいちゃいけない――そう本能が訴える。


 凄まじい焦燥に駆られたが、しかし蓮華は直後に穂花を見つける。

 本丸跡地に置かれた、天然の巨石を半分にスライスしたみたいな石碑の台座に、穂花が横たわっているのが目に入ったのだ。


「穂花……穂花!」


 まさか手遅れだったんじゃ――そんな最悪の結末が頭を過ぎり、穂花に駆け寄って片腕で抱き起こし、まず脈を確かめる。


 ――ある。温かい鼓動を、確かに感じる。生きている。気絶しているだけだ。


「良かった……!」


 そう安堵しかけた時。


「安心するのはまだ早いですよ」


 どこからともなく響き渡る丈一郎の声。そういえば、奴の姿が見当たらない。


「どこだ! どこに隠れてやがる!?」

「ここにいますよ」


 すぐ背後で声がして振り返る。すると、その空中から湧き出すように水が出現し、膨張。そして人型を形成していき、スーツからハットまでを再現した、半透明に揺らぐ丈一郎のシルエットが完成した。


「ま、私の本体はどこか遠くで隠れさせて頂いていますがね。だって、ここは危険ですから」

「危険……? どういうことだ!?」

「耳を澄ませなさい。そして目を凝らして、辺りを見回してみるといい」


 散らかっていた意識を周囲に集中させる。

 相変わらず木の葉の囁きが聞こえてくる。いや、蓮華は勝手にそう思い込んでいた。しかし、すぐにその間違いに気がつく。これは風で木の葉が擦れる音ではない。だって、気候の存在しないヘルヘイムに風は吹かないのだから。

 だとすれば、それは何かの足音。それも、木の葉の擦れる音と勘違いするほど無数の……。


 注意深く周囲の薄暗い闇を見渡して、蓮華は戦慄する。

 闇の中で揺れる無数の影。

 何かに、囲まれている。


「おわかりになりましたか? ここはヘルヘイムに点在する『餓鬼の巣』の一つです」

「餓鬼の巣……?」


 やがて姿を現し始めた、異形の姿をしたバケモノの数々に蓮華は震える。

 脚が四本あるモノ。怪しく光る眼球が四つあるモノから、八つあるモノ、数え切れないほどついているモノ。口が二つあるモノ。八本の腕と脚で這いずり歩くモノ――個々で異なる姿形をしたバケモノたちが、蜘蛛の巣にかかった獲物を捕食するがごとく、ヨダレを垂らしてこちらに向かってくる。


「彼らは今、非常に興奮している。腹を空かせた彼らの前に餌が降ってきたのだから、それも当然です。恐らく彼らはまず彼女に呪いをかけ、鬼人もどきにするでしょう。そして都合の良いことに、ここには君と彼女、二人の人間がいる。彼らは君らを互いに喰わせ合い、無理矢理鬼人へと変えた後に、君たちを喰い殺す。生きたまま八つ裂きにされて、骨も残らずにね」

「そんな……」


 景色から色が落ちていく。そんなの嫌だ。そんなのだめだ。


「僕はどうなったっていい……。でも……でも穂花は関係ないだろ! 穂花を巻き込まないでくれよ! 僕の大切な人を……これ以上奪わないでくれよ……ッ!」

「なら君が護ればいいだけの話ではないですか。自分の大切なモノくらい、自分で護らなくては。そうでしょう?」

「あのバケモノの軍勢を相手に、僕が何をできるってんだ!」

「君が鬼人になればいい」

「なっ――!」

「あの餓鬼王『緋鬼』の眷属となれば、絶大な力を得るはずです。それこそ、今ここに集まって来ている低級な餓鬼などもろともしないほどの力が」

「……そんな力が……」

「ええ。君が彼女の血をひと舐めするだけで、彼女を護れるのです」


 穂花を見る。気絶しているのか、ただ寝ているのか、どちらなのかわからないほど安らかな寝息を立てている。丈一郎に付けられた唇の切り傷はまだ塞がっておらず、今も鮮やかな血を滲ませている。


「このまま二人とも餓鬼に喰われて死ぬか、君が犠牲になり鬼人となることで、彼女だけでも助けるか。天秤にかけるまでもないのでは?」


 蓮華の心が波打つように揺さぶられる。


 この血を舐めるだけで、穂花を助けられる。僕が、バケモノになるだけで――


「そんなの許さないヨ!」


 突然空から聞こえてきたその声に、蓮華は我に返った。

 見上げると、なにやら猛烈な勢いで二つの影が落ちてくる。ズシン、と凄まじい衝撃と共に着地したその二つの影は、ターヤンと暮木だった。


「二人とも……どうして……」

「勘違いするナ、クソガキ。ボクがここに来たのハ、紗良々たんの苦労と苦しみを無駄にしないためダ。だからキミが鬼人になるなんテ、そんなことボクが許さナイ」

「ふっ。素直になれ、ターヤン。真っ先に『助けに行くぞ』と言って飛び出したのは、お前じゃないか」

「くれっきー……それ言っちゃダメなヤツ……。恥ずかしいじゃないカ……」


 はあ、とターヤンはため息を漏らす。


「……キミを認めるヨ。正直、見直しタ。まさか本当に腕を差し出すとは思わなかったヨ。ボクの完敗ダ」

「ああ、あれはなかなかできることではない。俺も胸を打たれた」

「だからボクらハ、紗良々たんのこととか差し置いテ、キミを助けたいからここに来タ」


 胸の奥から目頭に向かって熱い何かが込み上げてきて、蓮華はぐっと堪える。人の温かさというものに触れている。目に見えないそれを確かに感じ取っている。そんな気がした。


「ありがとう……二人とも……!」


 二人はニッと笑ってくれた。


「ところで、丈一郎ハ? さっき話してたよナ?」

「あれ? そういえば……」


 ターヤンに言われて気がつく。丈一郎の水人形がいつの間にか姿を消していた。


「ま、いっカ。今はそれどころじゃないシ。しっかシ、厄介な場所に誘い込まれたもんだネ……」

「ざっと三十……いや、五十はいるな……」


 ターヤンと暮木は周りを見渡して苦い顔をする。


「ま、でもやるしかないネ。くれっきーは後ろを頼むヨ」


 ターヤンは体に力を込めるような仕草をすると、弛んでいた肉体が引き締まり、マッスルボディへと変身を遂げる。これが、ターヤンの鬼の力なのだろうか。


「ああ、任せろ」


 暮木は掌で膨張させた血で自身の体よりも遙かに大きい大剣を造り出し、肩に担ぐ。


「蓮華ダッケ? キミはそこで観戦していロ。すぐにボクらが突破口を造り出してヤル。ってワケで……行くヨ、くれっきー」

「ああ」


 そして――散開。二人は餓鬼の群れへと特攻を仕掛けにいった。

 ターヤンは自分よりも大きな餓鬼だろうが軽々と担ぎ上げ投げ飛ばし、餓鬼が地面に叩きつけられる度に怪獣の足音みたいな轟音が響き渡る。さらにターヤンの豪腕が繰り出す拳打は餓鬼の硬質な外殻を砕き、砲弾でも撃ち込んだかのように餓鬼の体を粉砕していく。

 暮木の振るう大剣は餓鬼の軍勢をまとめて一刀両断していく。噴水のように真っ赤な血飛沫が上がり、地面に餓鬼の残骸がごろごろと転がっていく。

 まるで妖怪大戦争の最中(さなか)にいるような、そんな光景だった。


 ……だが、状況は芳しくなかった。


「うっ!」

「ぐアッ!」


 暮木は鋭い爪で背中を切り裂かれ、ターヤンは肩に噛みつかれた。二人ともすぐに振り払い事なきを得ていたが、しかしこのままでは二人が力尽きるのも時間の問題であることは火を見るより明らかだった。二人とも大量の餓鬼に囲まれてしまい、背後から反撃を受け始めている。顔には明確な疲労が現れ始めていた。それもそのはずだ。ターヤンと暮木は丈一郎との戦闘で既に満身創痍の状態なのだから。

 数が多すぎる。対応しきれるはずがない。


「蓮華! 餓鬼がボクらに集中している今のうちに逃げロ!」


 突然、ターヤンが叫んだ。


「なっ……何言ってんだよ! それじゃあ二人が――」

「だからといってお前がここにいて何ができる! いいから行け!」


 暮木の怒号が飛ぶ。


「まさか、突破口ってこのことかよ……? 二人を犠牲にして僕だけ逃げろってのか……?」


 確かに餓鬼が二人に夢中で群がっている今なら、蓮華は穂花を担いで逃げられる。


 でも……でも――


「そんなの……無理だ! 納得できるわけねぇだろ!」

「チッ……! これだからクソガキハ……!」


 ターヤンの舌打ちが聞こえた。


 だって、できるわけがない。助けに来てくれた二人を見捨てるなんて、そんなこと。


「だったら、僕も戦う……! 僕だって一応鬼の力は使えるんだから……!」


 蓮華は掌に血を集めるようなイメージで力を込め、小さな火球を生み出す。蓮華にとっては必死の力で振り絞った渾身の炎だったが、ロウソクの灯火のような、ゆらゆらと揺れ動く頼りない炎だった。先ほど感情にまかせて鬼の力を解放してしまったがために、もうほとんど力が残っていない。


「そんなマッチの火で何する気ダヨ! 大人しくお家に帰って花火でもして遊んでろクソガキ!」

「うるせぇ! とにかく、二人を見捨てるようなマネは、僕にはできない!」


 噛みつくように反論した、その時だ。


「よくぞ言った、小僧」


 惑う蓮華の耳に少女の声が届く。刹那、闇空を染め上げるほどの雷光と、耳を劈くほどの雷鳴が轟いた。

 天から降り注いだ稲妻は二人を取り囲んでいた餓鬼の群れに直撃し、爆散。数体の餓鬼がまとめて消し飛び、群れの輪に穴を空ける。その穴から二人は緊急脱出し、群れから距離を取る。


「この稲妻……」

「来てくれたんだネ……紗良々たん」


 状況を察した二人の顔に日が差した。二人の視線の先には、全身に電流を纏った浴衣幼女――紗良々がいた。


「まったく、ウチを置いていくなんて……。薄情な仲間どもやなぁ……」


 言葉とは裏腹に、紗良々は微笑みを浮かべていた。


「紗良々……もう傷は大丈夫なのか……?」

「プヒヒ。ご機嫌よろしゅうなぁ、小僧。見ての通り、絶好調や」


 しかし紗良々は蓮華の腕を――蓮華のなくなった左腕を見て、笑顔から一転、顔に影を落とす。


「……意識が朦朧としてたもんやから正直よく覚えとらんのやけど……ウチが食ったんは、ホンマに小僧の腕やったんやな……。スマンかった。でも、お陰で助かったわ」


 蓮華はふっと肩の力が抜けて、顔が緩んだ。

 

「そんな顔すんなよ。むしろ助けられたのは、僕の方なんだから。紗良々の助けがなければ、僕はとっくに鬼人になってた。もしかしたら、人を殺して喰ってたかもしれない。そう考えると……ゾッとする。だから、紗良々には本当に感謝してるんだ。腕一本の恩返しじゃ足りないくらいに」

「バカタレが……。むしろ腕一本も貰ってもうたら、釣りを出さなあかんっちゅうの。アンタは、ウチの命の恩人や。せやから、借りはこの場で返させてもらうで。アンタを鬼人にはさせへん」

「僕が緋鬼に喰われると、お前たちの苦労が水の泡だもんな」

「……確かに初めはその考えしかあらへんかった。でも今はちゃう」

「え?」

「蓮華。ウチはアンタに惚れたで」

「はい?」


 意表を突く紗良々の言葉に蓮華はしばし意味が理解できなかった。


「勘違いするナ。紗良々たんは『異性として』という意味で言ってるんじゃないからナ。『友として認めた』という意味で言ってるんダ。絶対そうだからナ。いいか、勘違いするナヨ? 絶対勘違いするナヨ?」


 ターヤンに鋭い眼光と共に猛烈な訂正を加えられる。

 紗良々は「ま、大方そんな意味や」と笑った。


「さーて、ウチの可愛い仲間たちをずいぶんといたぶってくれたみたいやなぁ……。ええ? クソ餓鬼ども」


 紗良々は前線へと躍り出る。その体に電流が跳ねると同時、大気の震えるような気迫が放たれた。


「五分で木っ端微塵にしたるわ」


 彼女は掌を翳し、遠方から餓鬼を狙うと、


「散れ」


 掌からレーザービームのような電撃を乱れ打つ。さらにもう片方の掌では五指の間で雷気を圧縮し凝縮された電気エネルギーの塊を生み出して、放つ。それは餓鬼に着弾してドーム状の蒼白い爆発を起こし、大地ごと椀状に消し去った。

 幾重もの雷鳴が唸り、その度に餓鬼が塵のように消し飛んでいく。


「すごい……。これが『菜鬼』の眷属の力……」


 圧倒的だった。ターヤンと暮木がどうにもできなかった餓鬼の軍勢を容易く片付けていく。


「じゃ、ボクらも汚名返上と行きますカ」

「だな」


 ターヤンと暮木は再び敵陣へ特攻を仕掛け、人ほどの大きさの餓鬼から二メートルを超える巨体の餓鬼まで、問答無用でなぎ倒していく。ターヤンは餓鬼の頭を握り潰し、豪腕で叩き潰し、食い掛かってきた餓鬼は拳で砕き伏せた。暮木は業血の大剣で横薙ぎし餓鬼の群れを一太刀で両断すると、振りながら大剣をハンマーへと形状変化させて紙のように叩き潰す。さらには爪を振りかざしてきた餓鬼には掌を向けると、鋭い矛状の業血を飛び出させその胴体を貫いた。かと思うと、さらにその業血は枝分かれして伸びていき、縫うように次々と餓鬼を貫いていく。

 その二人の背後にそれぞれ餓鬼が襲いかかった。だが、二人はまるで警戒を見せない。警戒する必要がないことを〝わかっていた〟のだ。

 紗良々の稲妻が迸る。雷鳴と共に、二人の背後に迫った餓鬼が爆散するように消えた。

 雷撃の弾幕をかいくぐった餓鬼が一匹、紗良々の背後に迫った。だがそこへ暮木の生み出した業血の槍が飛来し、紗良々が振り返るまでもなく餓鬼を串刺しにして滅する。

 三人が三人とも餓鬼に背後を取られようがお構いなしに暴れ回る。これが彼らの〝本来の力〟なのだろう。お互いの絶対的な信頼関係が垣間見えるコンビネーションだった。


 そして三分も経った頃には餓鬼の数が三分の一に減っていた。このまま行けば紗良々の言葉通り、本当に五分で片がついてしまうんじゃないだろうか――そんな光明を見出した時、しかし、唐突に悪寒が走る。


 時間が止まったかのように音が止んで、餓鬼たちの動きが止まる。かと思うと、今度はじりじりと後退を始めた。まるで怯えるように。


「この気配……まさか……!」


 紗良々の顔が焦燥に染まる。


 西側の空が赤橙色に明るく照らされている。木々が燃えているのだ。その炎は次第にこちらへ近づいて来ていた。

 やがて周囲の木々を灼熱の業火で焼き尽くしながら現れた、炎に包まれたバケモノ。


「あいつ……は……」


 体長は三メートルを超え、体表は燃えるように紅く、単眼の巨大な目をぎょろつかせる、肘から先の腕が二本ずつ生えた鬼――緋鬼。

 やはり口元は不気味に笑っていて、大量のヨダレが常に滴っている。


「紗良々たん……これはさすがにマズいんじゃないカナ……」

「丈一郎との戦闘から立て続けに力を使っている。こんな状態で緋鬼と戦ったら干からびて死ぬぞ」


 ターヤンと暮木が一旦退き、紗良々のもとへ集結する。

 蓮華は緋鬼の恐ろしさを知らない。でも、今こうして他の餓鬼たちと並べ見ることで理解した。他の餓鬼とは比べものにならない。質が違う。格が違う。あいつは正真正銘の――バケモノだ。


 蓮華の本能が全力で警笛を鳴らしている。今すぐ逃げろ、と。

 初めて緋鬼に出遭った時の恐怖が再燃して体が震え、蓮華は穂花の肩をぎゅっと強く抱き寄せる。


「くっ……! 撤退や! 全員今すぐ逃げ――」


 紗良々が振り返った瞬間、周囲の草木が一瞬にして燃え上がる。その炎は燃え盛る巨大な壁となり、まるでコロシアムのリングのように蓮華たちを取り囲んだ。


「そんな……」


 逃げ道を塞がれた。熱に耐性のある蓮華ならまだしも、他の皆は逃げようにも逃げられない。


「紗良々たん!」


 ターヤンの張り詰めた声が響く。紗良々が前に向き直ると、もうその目の前に緋鬼が迫っていた。


 ――疾い。一瞬にして距離を詰められた。あの巨体からは想像もできない素早さだった。


「ぐ――ッ!」


 巨大な二本の腕に殴られた紗良々が短いうめき声を上げて突き飛ばされる。咄嗟に腕を構えガードしていたものの、その衝撃は凄まじく、紗良々は軽々と弾き飛ばされ地面に体を打ち付けながら転がった。


「紗良々たん! ――っクッソォオオオ!」


 ターヤンが大きく右腕を振りかぶって殴りかかり、その反対側からは挟み撃ちするように、暮木が大剣で斬りかかる。

 しかしターヤンの振り込んだ全力の拳は一本の腕でいとも簡単に受け止められ、さらにもう一本の腕により腹部へ反撃を喰らう。ターヤンの腹にめり込んだ緋鬼の拳は屈強な腹筋を破り、太鼓を叩くような重低音を響かせ、ターヤンは吐血した。

 暮木の振り抜いた大剣は肘から伸びた二本の腕で挟み込むように押さえられ、さらに緋鬼が力を込めると大剣を粉々に粉砕。緋鬼は武器をなくした暮木をまるで虫を払いのけるように弾き飛ばす。


 そして緋鬼は、蓮華を見下ろす。餌を待ちきれない犬みたいにヨダレを垂らし、不気味な笑みを浮かべて。


「なんだよ……これ……」


 レベルが違う。今まで餓鬼の軍勢を圧倒していたはずの三人が、まるでおもちゃのように遊ばれている。


「こんなの、敵うわけ――」

「なに勝手に諦めとんねん」


 強烈な閃光が突き抜け、緋鬼の巨体が雷鳴と共に吹き飛ぶ。その巨体が地面に転がり、大地が揺れるほどの地響きが唸る。


「この程度の修羅場、これまでぎょうさん潜り抜けてきたっちゅうの。問題あらへんわ。ええから小僧はそこで安心して見とれ」

「紗良々……」


 あんなバケモノに臆することなく立ち向かって行くなんて、なんという強さだろう。小さな背中が、この上なく頼もしく見えた。


 紗良々は左手首を覗き込む。


「アンタら。今、十一時四十五分や」


 何故か、唐突に腕時計の時刻を読み上げた。すると、どういうわけか暮木とターヤンが気合いを入れ直すように息を吐き、


「承知した」

「フー……十分ちょっとくらいならなんとかなるかナ」


 二人とも何かを理解したような顔をして起き上がった。


「おい、紗良々。どういうことだよ?」

「世界の〝同期〟が始まるまでの時間や」

「世界の同期?」

「ヘルヘイムは、午前零時になると表の世界と同期を始める。表の世界で起きたことをヘルヘイムにも反映させるんや。極論を言えば、表の世界で新しく家が建てば、午前零時にヘルヘイムにも家が現れるっちゅう話や。そして逆に言えば、ヘルヘイム側がどんなに壊れようと、午前零時になれば表の世界と同じ状態に戻される。つまり、この炎の壁もあと十分で消えるんや」

「そんな仕組みになってたのか……! じゃあみんな逃げられ――」

「せやから小僧!」


 紗良々は張り上げた声で蓮華の言葉を遮る。


「ウチらが奴を引きつける。せやから火が消えたら、小僧はその小娘を連れてすぐ逃げろ。小僧が呪われたんは、午前一時十二分や。あと一時間ちょっと、身を隠しとき」

「な……っ! 何言ってんだよ! だから、さっきも言っただろ! お前たちを身代わりにするような、そんなことできるわけ……!」

「プヒヒ! たわけ小僧。ウチらだって死ぬ気なんざさらさらあらへんわ。頃合い見計らってトンズラするっちゅうの。せやから……ええな? アンタは逃げて、人間に戻るんや」


 そう言い残して、紗良々は再び前線へと躍り出る。


「アンタら、いくで!」


 そして三人は緋鬼を囲むようにトライアングルのフォーメーションを取る。


「ハァアッ!」


 始めに仕掛けたのは暮木だった。

 地面を殴るように拳を叩きつけると、地中から植物の根のようなものが飛び出し、緋鬼の体にまとわりつく。地中に走らせた暮木の業血だ。その業血の根は緋鬼に絡みつき大地と繋がってピンと糸を張る。


「これでもくらっときや!」


 続けて紗良々が天へと掲げていた腕を勢いよく振り下ろす。直後、闇を打ち払うかのような雷光が周囲を照らし、神の怒りのごとき雷撃が天から緋鬼へと降り注ぐ。


「フンッ!」


 雷鳴が止むと、トドメを刺すようにターヤンが緋鬼の無防備な腹に渾身の拳を打ち込む。コンクリートを叩いたような轟音が轟き、大気が震えた。


 しかし、三人の顔は全く晴れ渡らない。むしろ、切羽詰まっているように苦い顔をしている。


「――ォオオオオォオオオオオオオ!」


 骨の髄を震わせるような緋鬼の雄叫び。全身にゾクリと悪寒が走る。


 緋鬼はその怪力で暮木の業血の糸を引きちぎる。再び自由を手に入れた緋鬼が巨大な拳を振り回し、猛攻を始めた。

 ターヤンはその拳をスレスレのところで潜り抜けながら反撃を仕掛ける。暮木は再度巨大な大剣を構築し、その刀身を盾のように使って猛攻を防ぎつつ、斬りかかる。紗良々はその二人をサポートするように緋鬼へと幾度となく稲妻を打ち込んでいく。


「なんやねんコイツ……! なんで怯みもせんねや!? 今日のコイツなんかおかしいで!」


 紗良々が焦りを口にした。


 緋鬼は――無傷。何一つ通用していなかった。むしろ、ただいたずらに刺激して興奮させてしまっているだけのようにも見える。


「それも当然でしょう」


 どこからともなく見透かしたような口振りの丈一郎の声が届く。いつの間にか蓮華の隣に、また丈一郎の水人形が現れていた。


「丈一郎……! キサマ、水の分身なんかで現れおって……卑怯者が! まさか、キサマが緋鬼を連れてきたんか!?」

「まさか。私にあの方をコントロールすることなどできるはずもありません。もはや、これは運命なのでしょうね」


 丈一郎の人形は酔いしれたような声色で言う。


「緋鬼は近くに蓮華くんの匂いを感じ取り、待ちきれずにここまで来てしまったのでしょう。もうすぐ食事にありつける……その思いがあの方を興奮させている。今の緋鬼は、人間で言うところのアドレナリンが分泌した状態です。ちょっとやそっとの攻撃では怯ませることすらできませんよ。それより……紗良々さん。よそ見している場合ではないのでは?」

「な……ッ!」


 紗良々が目を戻せば、暮木とターヤンが緋鬼に体を掴まれ、捕まっていた。そして緋鬼は、最後の一人である紗良々を見据えて大きく口を開けている。

 その牙だらけの気色悪い口から炎が放たれ、紗良々を飲み込んだ。


「紗良々!」


 紗良々に火炎が直撃したように見えたが、しかし炎が晴れると、間一髪で直撃を回避した紗良々が地面に転がっていた。

 だが、状況は最悪だった。


「紗良々! 早く逃げろ!」


 蓮華の叫び声虚しく、緋鬼が紗良々の矮躯を掴み上げる。


「そんな……みんな……」


 緋鬼は三人を目線の高さまで持ち上げると――握り締め始めた。


「「ぐああああああああッッ!」」


 同時に混じり合う三人の悲鳴が鼓膜を震わせる。彼らは握り潰される圧力だけでなく、緋鬼の持つ熱により焼かれる二重苦を受けていた。緋鬼はその様子を楽しむように、じわじわと三人をいたぶっている。

 まるで虫で遊ぶ子供。蓮華たちとは生きている次元が違うように感じられた。


「蓮華くん。このままでは、あの三人は死んでしまいます。でも、君なら助けられる」


 丈一郎の悪魔の囁きがまた蓮華を揺さぶった。


 ――僕が鬼人になれば、もしかしたら、皆を助けられるかもしれない。でもあと数分で、穂花を連れて逃げることもできる。人間として、普通の生活を送ることができる。

 しかしもし鬼人になってしまったら、もう人間には戻れない。いや、人間に戻るには、いつかあの怪物を倒すしかない。もしこの先ずっとあの怪物を倒せなければ、一生を鬼人のまま、苦しみを背負ったまま、餓鬼に怯えて過ごさなくてはならない。まともな人生など送れないだろう。


 蓮華は前を見る。今もなお緋鬼により苦しめられている三人を、見る。

 その瞬間に答えは出た。迷う必要などなかった。


 ――まともな人生? 今だって既にまともじゃない。そもそも自分のちっぽけな人生のことなど、今となってはもうどうだっていい。

 自分の人生を守るより、彼らを護りたい。僕のために戦ってくれた彼らを助けたい。

 ここで彼らを見捨てたら、それこそバケモノ以下の――人でなしじゃないか。


「……蓮華……! ダメや……!」


 紗良々が蓮華を見て掠れた声を絞り出す。

 しかし、蓮華は目を伏せる。


「……ごめん、紗良々。それに、みんな」


 紗良々たちの努力と苦労が水泡に帰す結果となってしまう。期待を裏切る結果になってしまう。彼らには罵られてしまうかもしれない。でも、そんなことはどうだっていい。ただ、彼らを護りたい――


 人を喰うバケモノになるのは御免だ。


 でも、人間の皮を被った人でなしで生きるのは、もっと御免だ。


 バケモノになるだけで彼らを救えるのなら――今日から僕は、バケモノでいい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ