第十五話 腕一本の償い
暮木に連れて行かれたのはそう遠くない場所の袋小路の奥だった。
そこで息を潜めるように二人はいた。紗良々は壁に沿って置かれた簡素なベンチの上に横たわっていて、それを見守るように、元通りの体型に戻った蝶ネクタイデブが胡座をかいて地べたに座っている。
蝶ネクタイデブがこちらに気がついて振り返る。
「あ、くれっきーおかえリー。早かったネ」
「まあな。様子はどうだ?」
「んー相変わらずってカンジ」
蝶ネクタイデブは抑揚のない声で答えた。近づいて見てみると、紗良々はとても苦しそうに呼吸をしている。腹部に傷があるのか、浴衣に赤い血が滲んでいた。
「紗良々の容態……悪いのか……?」
「見てわかんねーのカ? 今の紗良々たんが大丈夫そうに見えるのカ? 誰のせいでこうなったと思ってやガル……。オマエがいるから……オマエのせいデッ!」
途端に醜悪な態度へと変貌したデブに蓮華は胸倉を掴まれた。
――そうか、その言葉は、怒りは、そういうことだったのか。
これまでの彼の怒りの意味を飲み込んだ。
「落ち着けターヤン。ここで騒ぐな。紗良々の体に障る。それに、俺だってその事情は知らなかったんだぞ」
暮木が止めに入ったお陰でターヤンと呼ばれた彼は舌打ちして蓮華を放し、再び胡座をかいて地面に腰を下ろした。
「悪かったな。こいつはシェン・ターヤンだ。ターヤンと呼んでやってくれ。最近ずっと気が立っているみたいでな。特に、紗良々のこととなるとすぐコレだ」
シェン・ターヤン。その外国人としか思えない名前に蓮華は違和感を覚える。見た目は日本人と変わりない。少なくとも、アジア系の顔だ。それに、この前はなまりのない日本語もしゃべっていた。
「その……僕はまだお前たちのことをよく知らないんだけど……オーガキラーだっけ? なんなんだそれ?」
「それは周りの奴らが勝手にそう呼んでるダケダ。ボクたちは組織でも何でもナイ。存在の不明瞭な有志団体みたいなものダヨ」
「だからなんでそんなふうに呼ばれてるんだよ?」
「行き過ぎたマネをした鬼人を俺たちが殺して回っているからだ。鬼人の世界の秩序を守るためにな。その辺は紗良々からも聞いているはずだが?」
暮木が代わって答える。
そういえば紗良々もそんなことを言っていた。警察などの取り締まる組織や牢屋などの設備がないから、殺して始末するしかない、と。それを繰り返していた結果、オーガキラーと呼ばれて畏怖されるようになったということだろうか。
「……じゃあつまり、お前たちは無闇に人を殺して喰ったりしていない……のか?」
警察が罪を犯していたら話にならないのと同じように、自分たちのことを棚に上げていたとしたら秩序もクソもない。
蓮華の問いかけに、ターヤンは「もちろんダ」と言い切った。
「生きた人間を喰うべかラズ。それが紗良々たんの決めタ、ボクたちの鉄の掟ダ。ボクたちが普段食べるのハ、裏で出回っている死刑囚の肉とか、それを加工した食品ダケ。あとは自分たちで処刑した鬼人の肉。それ以外は食べナイ」
「そう……だったのか……」
胸がチクチクと痛くなる。
紗良々に人を喰うバケモノだなんて言ってしまったことを、激しく後悔した。
紗良々は生きるために最低限のルールを設けて、その中で生きていたのだ。無闇に人を殺して喰ったりなんてしていなかった。
もっと早くに知りたかったと思った。そうすれば、丈一郎ではなく、紗良々のことを信頼していたかもしれないのに……何かが変わったかもしれないのに。
「……僕は、丈一郎さんに騙されていたのか? あの人は、何者なんだ……?」
「餓鬼教という、餓鬼を神と崇める狂った宗教団体がある。奴は、その宗教団体の一員だ。餓鬼教の奴らは、餓鬼に呪われた人間を積極的に鬼人へと変えていくよう動く。そのためなら手段も選ばない。そうして鬼人になった者を餓鬼教に引き込み、勢力を拡大させているんだ。何のためにかは知らんがな」
暮木が低く響く声で答える。
丈一郎は言っていた。緋鬼のことを『あの方』と。あれは、やはり崇拝を意味していたらしい。
「あいつは鬼人もどきが鬼人になることを拒むト、その家族を皆殺しにスル。そうすることで身寄りをなくシ、心の拠り所も奪われた鬼人もどきハ、絶望の末に抵抗することを諦めル。人間に戻ったところで帰る場所がナイ……その思いが鬼人になる道へと背中を押してしまうんダ。それがあいつの常套手段ダヨ」
ターヤンはこれまで見てきた鬼人の凄惨な末路を思い出すかのように語った。
「奴に騙されるのも無理はない。奴は嘘を使わない。真実だけを口にし、言葉巧みに人を動かすカリスマ性を持っているんだ。だからどんなに嘘に敏感な者でも、奴には騙される。奴は、そういう男だ」
暮木の慰めのような言葉。
騙されても無理はない。仕方ない……。でも、蓮華はそんな言葉では片付けたくなかった。
こんなぼろぼろの紗良々を前にしてそんな逃げ道を使うのは、卑怯だと思った。
「紗良々……どうしてお前は、嫌われ者なんて演じたんだよ……」
「表に生きる人間を二度と裏側の世界に関わらせないためニハ、恐怖心を植え付けるのが効果的ダ。妙な好奇心を抱かれるのが一番厄介だからネ」
答えたのは紗良々ではなくターヤンだった。
「だから紗良々たんハ、これまでもこうやってわざと嫌われ役を買ってきタ。でもその度に怖がられテ、心ないことを言われテ、傷ついて落ち込むんダ。ま、つまり紗良々たんは不器用なんダヨ。そこが紗良々たんの可愛いところなんだけどネ」
裏側に迷い込んでしまった人を守るために、そうやってずっと嫌われ者を演じてきた紗良々の姿を想像すると、酷く胸が痛んだ。
「……ごめん……紗良々。本当に、ごめん……!」
申し訳なくて涙が溢れて、蓮華は崩れるように膝をついて紗良々の手を握りしめる。その小さな手は見た目相応にか弱くて、力が感じられなかった。
「紗良々たんの功績はそれだけじゃナイ。キミが無闇にヘルヘイムに出入りするもんだかラ、ボクたちで手分けして周辺の餓鬼を一掃しておいたんだゾ。まったク、表の世界で大人しく引きこもってればいいものヲ。勘弁して欲しいヨ」
そういえば、とハッとする。蓮華が頻繁にヘルヘイムを駆け回っても、ただの一度もバケモノに遭遇しなかった。まさか裏でそんなことがされていたなんて。
「どうしてここまでしてくれたんだよ……。どうして僕を助けてくれたんだよ……。どうしてこんなになってまで僕の家族を助けようとしてくれたんだよ……。お前のこんな姿見たら、僕は申し訳なくて、どうしたらいいか……」
「勘違いするナ。紗良々たんはキミを特別扱いしたわけじゃナイ。あの餓鬼王『緋鬼』に力を与えないためニモ、キミが鬼人になって喰われることを避けたかっただけダ」
「緋鬼に力を与えないため……?」
「鬼人が鬼の力を使ったらその分の食事を摂らなきゃいけないのと同じデ、餓鬼も力を回復するには食事をするしかナイ。つまりキミが緋鬼に喰われてしまうト、ボクたちの今までの苦労がパーにナル」
「今までの苦労って……お前たちは何を……」
「緋鬼を滅し、人間へと戻るコト。それがボクらの最終目標ダ」
「……緋鬼を倒せば、鬼人は人間に戻れるのか?」
「紗良々たんの教えてくれた言い伝えによるト、餓鬼の王を倒せばそれまで支配されていた鬼人は解放されるらしイ。確証はないけどネ。デモ、僕らは紗良々たんを信じてル。誰よりも紗良々たんが一番傷ついテ、ボクらのために戦ってくれているカラ。『菜鬼』の眷属の力を駆使してネ」
「菜鬼って、丈一郎が言っていたあの『三色鬼』とかいう……」
「アア、その通りダ。その絶大な力を借りテ、ボクらはこれまで幾度となく緋鬼に戦いを挑み、緋鬼の力を削ってきたんダ。正直、紗良々たんがいなけれバ、紗良々たんの力がなけれバ、ボクらは今頃死んでいただろうネ。つまり、ボクらはそれくらい死ぬ気で戦ってキタ。だから、キミに鬼人になられちゃその努力が全て無駄にナル」
「どういうことだ? 緋鬼が僕以外の鬼人を食べちゃったら、結局力を回復されるんじゃ……」
「緋鬼だけは特殊なんダヨ。緋鬼はあの灼熱の体温のせいデ、普通の鬼人の肉じゃ食べる前に炭にナリ、血は気化スル。ちょうド、ボクらが人間以外を食べようとする時みたいにネ。だから緋鬼の呪いで鬼人になった耐火性のある血肉しか緋鬼は食べられないらしいんダ」
見ず知らずの自分のために紗良々がどうしてここまでしてくれたのか不可解だったが、得心が行った。
「でも、理由なんてどうでもいい。紗良々が僕を助けてくれたことは事実だ。本当にありがとう、紗良々」
すると、今まで呼吸をするのも精一杯みたいにずっと目を瞑っていた紗良々が、うっすらと目を開けて蓮華を見て――微笑んだ。
「プヒヒ……うっさい小僧や。ご機嫌よろしゅうなぁ。ウチはそんな恩着せがましいこと言うつもりあらへんわ。ターヤンが言うたように、ウチにはウチの都合があってアンタをバケモンにしたくなかった。ただそれだけや。それどころか……最悪、アンタを殺すことも考えた。緋鬼に喰わせるくらいなら、殺して始末するべきやないか、って。そんなウチが礼を受け取れるわけあらへんやろ」
紗良々は息も切れ切れに、やっとの事で言葉を紡ぎ出す。その姿に蓮華はまた涙が込み上げてきて、ぐっと堪える。
どうして紗良々のことを勘違いしてしまったのだろう。どうしてすれ違ってしまったのだろう。どうして演技を見抜けなかったのだろう。紗良々はこんなにも、優しい奴なのに――
「でも、結局お前は僕を殺さずに護ってくれた。ありがとう。でも、もう大丈夫だから。だから、僕にかけた呪術とやらを解いてくれ。じゃないとお前がもたないだろ。僕はそんなの、絶対に嫌だ」
陰陽師が本当に存在して、呪術とかいうものがあって、それを紗良々が使っていたなんて、いろいろ驚きで訊きたいことが山積みだったが、とにかく今は紗良々に助かって欲しいと蓮華は願った。
紗良々は少し考え込むように蓮華の目を見て、我が子を見守る母のような笑みをこぼした。もう大丈夫だ、と納得してくれたのかもしれない。
紗良々は細い人差し指と中指の二本を揃えて、蓮華の唇に触れる。それからパチン――と指を鳴らした。すると指先から星屑のような光の粒が弾け、溶けるように消えていく。
その光の粒たちが全て消えてなくなった、次の瞬間。
「ぐううううああ……あぁあ……ッッッ!」
凄まじい空腹と喉の渇きが蓮華を襲った。
いや、もうこれは空腹を超越している。激痛だ。まるで胃袋を握り潰されているような痛み。
つまり紗良々は、この一週間ずっとこんな苦しみを背負っていたことになる。
紗良々を見ると、憑き物が落ちたみたいにすっきりとした顔で寝息を立てている。
その顔を見て、蓮華は勇気が湧いてくる。
大丈夫。紗良々の味わっていた苦しみに比べればこんな程度どうってことない。耐えられる。耐え抜いてみせる、と。
「……なあ、これでもう紗良々は大丈夫なのか?」
「わからん。倍増した飢えの苦しみから解放されたとはいえ、傷が癒えたわけじゃない。傷を癒やすには人肉を食うしかないからな」
「あるいは血でもいいケド……肉を食った方が回復量も回復速度も段違いだからネ。でも丈一郎との戦闘前に、ストックしてあった全ての人肉を紗良々たんが食べちゃっテ……もう残ってないんダヨ」
「人の肉……」
蓮華は自らの左手を見る。
「……何か刃物ってあるか?」
「それなら俺の力で作り出せるが?」
暮木は掌からボコボコと血を沸き出させ、それをナイフの形に変えた。
どうやら暮木はいつしかの蓮華を襲ってきた黒い背広姿の男と同じ、血を操る〝業血〟という鬼の力を持っているらしい。
蓮華は一つ、深い深い深呼吸をする。そして――覚悟を決めた。
「頼む。僕の左腕を切り落としてくれ。肉なんてあんまりついてないけど、それでも少しは、足しになるだろ」
「正気か?」
暮木が眉を顰める。
「正気だし、本気だ」
「トカゲの尻尾みたいに生えてくるわけじゃないんだぞ?」
「わかってる」
「今後の人生、ずっと片腕で過ごすことになるんだぞ?」
「わかってる」
「後でどれだけ後悔しようと――」
「だからわかってるよ! ごちゃごちゃ言わないでくれ! 覚悟が鈍っちゃうだろ!」
蓮華は叫ぶ。
「紗良々は僕を助けてくれた。身を挺して、こんなぼろぼろになってまで。だから今度は、僕が紗良々を助けたい……! 少しでも恩返しがしたい! 僕が今紗良々にできることは、これくらいしかないんだ! 腕の一本くらいなくたって生きていける! 問題ない! だからさっさと切り落としてくれ!」
返答に困ったように暮木は頭を掻く。
その様子に見かねたのか、ターヤンが口を開いた。
「やめときなヨ、くれっきー。このガキにそんな度胸ないサ。勢いで口走ってるだけダロ。どうせ口先だけに――」
「ああ確かに勢いだ! 思いつきだ! 度胸だってないし正直怖い! でも……でも紗良々を助けたい! それが、僕の偽りのない本心なんだ! そのためだったら、僕は腕の一本くらい、喜んで差し出してやる!」
暮木が諦めたようなため息を吐く。
「腕を出せ」
蓮華は左腕を真横に持ち上げる。すると二の腕の辺りに流動的でひんやりとした感触。それは蓮華の二の腕に巻き付くと、きつく締め上げ、固形化した。暮木が業血で止血帯のような役割のものを作ってくれたらしい。
「……本当にいいんだな?」
――怖い。怖くて体が震えている。
でも、僕のために身を削ってくれた紗良々のためなら――
「やってくれ!」
とん――という軽い衝撃。まるで大根でも切ったかのような音。一瞬にして肘から先の腕の感覚が消え失せて――そこで初めて、
「――ッあああぁあああああぁあああああああああッッッ!」
激痛が押し寄せる。
痛い。痛い。痛い。じくじくと蝕むような痛みが肘から侵入してきて、脳天に突き抜ける。
けれど、激しい出血はしていなかった。
「俺の業血で切り口を塞いで止血した。あとは人間に戻ったら、ちゃんとした病院で看てもらえ」
見ると、切り口に蓋でもするように凝固した血が覆っていた。
地面にはマネキンの一部ようになってしまった蓮華の左腕が落ちていて、蓮華はそれを拾い上げる。当然だが、その腕はもう蓮華の神経の外にいて触れても何も感じない。他人の腕のようだった。
「……紗良々……おい、紗良々……」
紗良々の顔の上に、蓮華は自分の左腕を近づける。
「起きろ……メシの、時間だ……」
蓮華の左腕から血が滴って、紗良々の頬に一滴の血の雫がこぼれ落ちる。するとぱちりと紗良々の目が開き――飛びつくようにがっついて、無我夢中で蓮華の左腕を食べ始めた。
むしゃむしゃ。ばきばき。ぼりぼり。骨も関係なく、豪快に。
自らの腕が喰われているシーンというのはとてつもなくグロテスクで、蓮華は顔が引きつった。とてもじゃないが、微笑ましく見守れない。しばらく夢に見そうだ。
紗良々はあっという間に指一本残さず平らげたかと思うと、純真無垢な子供のような、満足げな笑みを浮かべ、そのまま倒れて再び眠りに落ちた。今はとても幸せそうな顔をしている。
傷は治ったのだろうか? と気になって、浴衣の裂け目から腹部の傷口を覗き見る。そこには赤黒い刺し傷が生々しく残っていたが、しかしみるみるうちにその傷口が塞がっていく。
「すごい……これが、鬼人の回復力……」
腕一本を切り落とした価値は、確かにあったようだ。
「良かった……良かった……!」
そう心から安堵した――その時だった。
「蓮華……?」
この場において聞こえるはずのない声が聞こえて、蓮華は恐る恐る振り返る。
そこに心配そうにこちらを見つめる見慣れた少女を見つけて、蓮華は目を瞠った。
「……穂花……?」
――なんで……そんな……あり得ない……。どうしてここに……。
「蓮華……こんなところで何してるの? その人たちは誰? それに、さっきの悲鳴は――」
そこで初めて、穂花は蓮華のなくなった左腕を目の当たりにしたのだろう。穂花は息を吸うような小さな悲鳴を上げて瞳を揺らし、腰を抜かしてその場に膝から崩れた。
「どうして……穂花がここに……」
ここは、ヘルヘイムは、人あらざる者しか入れないはずじゃ――
「不届きながら、私が案内しました」
突如空から降ってきた答えを告げる声に、蓮華、ターヤン、暮木に緊張が走る。
見上げると、ビルの上にはあの元凶の男――丈一郎がいた。
丈一郎は穂花の横へ軽やかに着地すると、いつもの貼り付いたような笑顔を見せる。
蓮華は背後でターヤンと暮木が臨戦態勢に入った気配を感じつつ、丈一郎から目を離さない。
「人間でも、誰かが導けばヘルヘイムに出入りは可能ですから」
「……何のために、そんなことしたんだよ……?」
「それはもうわかりきっているのではないですか?」
「てめぇ……僕の家族だけじゃ足りねぇってのか……? まだこれ以上、僕の大切なモノを奪う気なのかよ!?」
穂花が正気を取り戻したみたいにはっとした顔をする。
「どういうこと……?」
失言だった。言うべきではなかったかもしれない。余計なことをしゃべれば、穂花を巻き込むことになる。既に巻き込んでしまっているのかもしれないが、これ以上穂花が知らなくてもいいことを知ってしまったら、口封じに殺される――なんてことだって考えられる。
あの男なら、やりかねない。
だから蓮華は何も答えられなかった。
「ねぇ、蓮華。この人が、何か関係あるの……?」
「……穂花。いいから、お前はこの場から立ち去ってくれ。今すぐ帰ってくれ。お願いだから……頼むから……!」
「それはさせません」
丈一郎が穂花の背後から腕を回し、首を締め上げる。さらにもう片方の空いた手に氷のナイフを作り出し、その矛先を穂花に向けた。
丈一郎の企みに満ちた目が光る。刃をゆっくりと穂花の唇へと宛がい、薄く傷をつける。
穂花の唇から滲み出た口紅のように赤い血は、一筋の線を描き滴り落ちた。
「穂花ッ!」
穂花は恐怖のあまり動けないようだった。怯えきった顔。震える体。目にはこぼれ落ちそうなほどの涙を溜めている。
「――ッてめぇえええぇえええええッッッ!」
蓮華は力の限りを尽くして丈一郎に突進する。策があったわけではない。ただ、唐突に沸点を迎えた怒りに体を任せていた。
だが、突如体を襲った流動的な抵抗によって蓮華の体は自由を奪われる。
冷たい。息が苦しい。視界が歪む。
蓮華はいつの間にか巨大な水球に捕らわれていた。
「上田城跡公園に来なさい。そこで彼女をお返ししましょう」
水球に直接語りかけているような、水の中で幾重にも反響する丈一郎の声。
水の波紋で揺れる視界の向こうで丈一郎が穂花を連れ去って空高く飛んでいくのが見える。
そして影すらも見えなくなった時、水球が弾けて蓮華は解放された。
「ゲホッ……ゲホッ! 穂花……ッ!」
気管に侵入した水を吐き出して、蓮華はすぐに立ち上がる。
「おい、お前!」
暮木の呼び止める声を振り切って、蓮華は駆け出した。
――嫌だ……絶対に嫌だ。穂花を失いたくない。これ以上誰も、失いたくない。