第序話 始まりの夜
高校二年生の夏は人生で最も輝かしい時間だ――その言葉はまったくの嘘だった。高二の夏は、地獄の入り口だった。
それは夏休みに入る直前、学校の先生たちが口を揃えて言っていた言葉だ。受験勉強の始まる前の、最後の羽を伸ばせる夏だから、と。
でも、友達なんていない、部活にも入っていない、休日なんて家で机に貼り付いてペンを走らせて過ごし、息抜きに本を読んで時間をいたずらに浪費するだけ。そんな白崎蓮華にとって高二の夏は特別でもなんでもなかった。例年通り何の起伏もなく、何の思い出もなく、熱い汗もなければ悲しい涙もなく、すっからかんの夏休み。
そうして迎えた、なんでもない夏休み最後の夜――のはずだった。ところが、最悪の夏は唐突に幕開けを迎えた。
蓮華は外に立っていた。そこはよく知る近所の工業団地で、その道路のど真ん中だった。パジャマ姿で、裸足で、外に突っ立っている少年。それが今の蓮華の状況だった。
ハッキリと覚えている。時刻にして夜十一時。翌日から始まる学校生活を憂鬱に思いながらベッドに潜り込み就寝した――はずだ。そのはずだった。だがどういうわけか気がつくとここにいた。
「なんだ……これ……」
周囲は闇が舞い降りていた。夜――なのだろう。だが、ただの夜ではない。
静かすぎる。そして、夜という表現では足りない不気味な暗さ。夏の夜特有の虫の鳴き声すらも聞こえない無音。それに、どういうわけか周囲の街灯が一つ残らず消灯している。近くにある自販機でさえ明かりを消して息を潜めている。
さらには星空はおろか、月明かりすら見えない。雲も無く、果てしない闇空が広がっていた。蓮華の住む田舎町では夜空に広がる満点の星だけが自慢だったのに。星一つ見えない空など、蓮華は生まれてこの方十七年見たことがなかった。それなのに、辺りは視認できる程度にはぼんやりとした明るさが保たれている。不気味の一言に尽きる情景で、まるで異世界にでも迷い込んでしまったかのようだった。
そうしてこの不気味な闇夜の中で棒立ちし、周囲を見渡して――固まった。
その視線の先にあるのは朧気に揺らぐ炎だった。薄暗い闇の向こうからその赤く揺らめく〝何か〟が近づいてくる。一目見て、蓮華の本能がそれを〝やばいもの〟だと訴えた。体が一気に強ばり、呼吸が苦しくなる。心臓がうるさい。張り詰めた緊張感はまさしく、天敵を前にした草食動物のそれだった。
早く、早く逃げなきゃ――そうは思っても、恐怖に硬直した体は金縛りのように動かない。
やがて〝それ〟は明瞭に姿を現した。
〝それ〟は見上げるほど大きく、体長は優に三メートルを超えていた。体表は燃えるように紅く、左右ともに肘から二本の腕が枝分かれして生えていて、さらに地面につくほど長い。目は一つしかなくギョロっと大きく、巨大な口からはおやつを前にする犬のように大量のヨダレが滴っている。そして頭や肩、肘など至るところにトゲとも角とも言える鋭い突起が生えている。
言うなれば〝それ〟は〝鬼〟だった。
その鬼は巨体を左右に揺らしながら、ゆっくりとした足取りでのそのそと蓮華に近づいてくる。大きな単眼で蓮華を見据え――笑っていた。
恐怖から体が震えた。悪い夢なら早く覚めてくれと願った。
鬼が目の前で立ち止まった。
熱い。空間が溶けてしまいそうな熱風がその鬼から発せられていた。
呼吸を忘れるほど硬直し、鬼を見上げたまま動くことができなかった。すると、鬼は蓮華の体をすっぽり包み込むように四本の腕を伸ばした。炉に放り込まれたような熱が肌を焼く。何をされるのだろうかと、真っ白になった頭で妙に冷静に考える。
「いッ――!」
突然、右手の甲に刃物で刺されたような鋭い痛みが走る。首だけ動かして視界の隅で右手の甲を盗み見た。
血に酷似した赤色をした、スライム状の何か。形状は蛭に近い。それが意思を持ったように動き、手の甲に貼り付いてじゅるじゅると体内へ入り込もうとしていた。
ゴキブリを素足で踏み潰したような嫌悪に襲われた。
今すぐ振り払いたい。逃げ出したい。だが――やはり体は動いてくれない。
やがてそれは全て蓮華の体内に潜り込み、手の甲に赤い痣のような模様を残した。
わけもわからず、もう一度鬼を見上げる。鬼は、満足げに笑っているように見えた。
その時だった。
「しゃがめ小僧」
突然背後から聞こえてきた可愛らしい少女の声によって、氷が砕かれるように蓮華の金縛りが解け、瞬時にその場に身を屈ませる。
すると次の瞬間、鼓膜の破れんばかりの雷鳴が頭上で轟いた。驚きのあまり顔を上げると、鬼がいない。何かに吹き飛ばされたのか、道路に巨体を打ち付けながら盛大に転がっていた。
「チッ、間に合わへんかったか……! 最悪や……!」
声のした背後に振り返ると、真っ赤な髪を腰まで伸ばした少女がいた。
いや、少女というよりは、幼女。
西洋の血を感じさせるその顔は、触れれば崩れてしまいそうなほど可憐に整っている。眼差しは鋭くかつ力強く、信念というべきか、野心というべきか、何かしらの確固たる意思や、彼女の背負っている生い立ちを感じさせるような深みが備わっていた。だが、異様なのはその姿だ。どういうわけか彼女は、黒い浴衣を着こなし片手にりんご飴というわびさびの夏の格好だった。
西欧系ロリっ子幼女な見た目からは想像もできないような流暢な関西弁を吐き出したことや、そもそもこんな真夜中に幼女が出歩いていることなど、普段なら驚きの連続だったろうが、今はそんな余裕もなく、ただ頭が混乱するばかりだった。
地面に這いつくばった紅い鬼が顔を持ち上げ、牙の生えた大きな口を彼女へと向ける。その口先には渦を巻く火球が生み出されていて、鬼が口を閉じると同時に射出された。
大気を飲み込みながら迫る巨大な火球に彼女は腕を伸ばす。その手にはバチバチと電流が迸っていた。
そして、一筋の迅雷が放たれる。
火球と衝突した迅雷は大地を揺るがすほどの爆音を轟かせ、辺りを一瞬昼間よりも明るく染め上げる。火球は迅雷と融合するように縮小し、その威力を相殺。熱が及んだ範囲だけ丸く道路が溶け、溶解したガラスのように赤く熱を帯びていた。
「もう用は済んだやろ。失せろやクソ餓鬼」
訛りきった関西弁を喋る彼女は、伸ばしていた腕をそのままに、今度はデコピンの構えを取る。
そして彼女の中指が宙を弾いた瞬間、指先からまるで龍のような巨大な稲妻が放たれ、周囲を明るく染め上げた。
三度目の雷鳴が轟き、鬼が吹き飛んだ。
蓮華は言葉を失って、開いた口も塞がらず、もうこれは夢なんじゃないかとぐちゃぐちゃに混乱する頭で考えながら目の前の光景を目に焼き付けた。
再び地面を転がった鬼は、しかし何事もなく起き上がる。そしてこちらを向きながら後退ると、溶けるように闇の中へと姿を消していった。牙の生えた大きな口からヨダレを垂らし、不気味な単眼で蓮華だけを見据えて、笑いながら。
恐怖から解放され、思い出したように呼吸が荒くなる。胸が早鐘を打ち、体はまだ震えていた。
「災難やったなぁ。大丈夫か小僧?」
まるで転んだ人に声をかけるくらいの気軽さで彼女は言った。
「お、お前は一体……?」
「さあ……何に見える?」
彼女は不敵な笑みを浮かべ、問いに問いで返した。
何に――一体何に。燃えるような赤い髪。透き通るような白い肌。薄い唇。大きな瞳ながらも鋭い目元。異国の血を感じさせる顔つき。魔法のような雷の力を使っていたが、しかしその見た目はどう見ても――
「……幼女」
「プヒヒ! 幼女か、そうかただの幼女に見えるか。そらおめでたいなぁ」
見たままを述べた蓮華に、彼女は愉快そうに笑った。
「ウチは紗良々や。アンタは?」
「僕は……蓮華だ」
「レンカ……? どんな字を書くんや?」
「蓮の華と書いて蓮華だ」
「バカ者。それは『レンゲ』と読むんや」
「知ってるよ……」
蓮華は過去に幾度も繰り返されたその間違いに肩を落とす。
「でも僕の名前の場合は『レンカ』なんだよ」
「ふぅむ……しかし蓮の華か……。なんや、運命みたいなん感じてまうなぁ」
「運命? 何の話だ?」
「蓮の華言うたら仏教の象徴やろ。餓鬼道は仏教の考えやしな」
何やら彼女は一人で唸り始めた。完全に独自の世界を繰り広げている。
蓮華はついていけず、一息ついて肩から力を抜く。
「ま、まあいいや。とにかく……助けてくれてありがとう、紗良々ちゃん」
「ちゃん? 初対面でいきなり年上をちゃん付けで呼ぶなんて失礼な小僧やな」
「は? いやいや、どう見ても僕のが年上だろ……」
無理のある幼女の冗談――かに思われた。しかし、彼女は至極真面目な顔で続けた。
「ウチはこう見えても二十七や」
「……ああ、そう……。はは、面白いなお前」
どう見ても小学生だ。なかなかユニークな子だなと、こんな時でも可笑しく思った。
だが確かに、普通の幼女ではないのだろうことも身に染みてわかっていた。妖怪を退治する専門家――今ならそんなものだって信じられる。彼女がそうだというのなら、簡単に信じられる。
幾千回も夢想したファンタジーの世界。魔物がいて、特殊な力に目覚めて、圧倒的な力で世界を救って――きっと今自分は、その世界に本当に飛び込んでしまっている。あれだけ夢想した世界も、本当に実現してしまうと、なんというか、素直に喜べなかった。
そう――怖い。相変わらず心臓は早鐘を打っていて、きっとそれは未知の世界への興奮のせいもあって、でもその胸の高鳴りの裏に、しっかりと恐怖が住み着いている。
「まあ、こんな見た目やし、疑うのも無理ない話やけどな。でも冗談なんかやないで。ウチは歳をとらんのや。『餓鬼』やから」
「あー……うん。見ればわかるよ。どこからどう見てもガキだな」
「だからちゃうっちゅうねん。子供っちゅう意味の『ガキ』やなくて、『餓鬼』や、『餓鬼』」
「は……?」
一体彼女は何を言っているのだろう。あまりの不可解さに蓮華の眉間に皺が寄った。
「わからんか? 餓鬼っちゅうんは、餓鬼道に堕ちた亡者のことや」
「その、さっきから言ってる餓鬼道って……?」
「なんや、もしかして小僧、六道も知らんのか? キョーヨーが足りんなぁ。よーするに、この世には迷える者が輪廻し続ける六つの世界が存在するっちゅう仏教の考えや。まずは天人の住まう世界『天道』。次が喜怒哀楽の豊かな世界『人間道』。ほんで罪を償うための世界『地獄道』。あとは……なんやったけ。まあええわ。その内の一つが、強欲と嫉妬の世界『餓鬼道』や」
人を『教養不足』と罵っておきながらあやふやでテキトーな回答だった。
「強欲と嫉妬の世界? なんだよそれ」
「なんて言えばええんかなぁ。別にウチも詳しいわけやないしなぁ……。ま、簡単な話、生前に自己中な生き方をした人間の行き着く世界やな。もう一つの地獄みたいなもんや」
「地獄って……じゃあ、お前はその地獄の住人ってことなのか……? 自己中な生き方して地獄に堕とされた……亡者……?」
「ちゃうちゃう」
彼女は呆れたように手を振った。
「ウチが餓鬼になったんは十二の時やぞ。たった十二年で地獄に落とされるほどの罪を犯せっちゅう方が無理な話やろ」
なにやらワケありげに遠い目をして紗良々は嘆いた。
しかし話が見えない蓮華は重く首を振る。
「……ダメだ、意味わかんね……。ただでさえ目の前で起きたことが信じられなくて混乱してるってのに……。もっとわかりやすくイチから説明してくれよ」
「せやな……そうしてやりたいところやけども、今日はもう遅い。詳しい話はまた明日にしよか。それに……その方が小僧も話がわかりやすいはずやしな」
「どういう意味だ?」
「百聞は一見に如かず。百見は一験に如かず、や。また明日、日付が変わったちょうど午前零時にここに来い。したら小僧の望む全ての答えをくれてやるわ。……そうや、一つだけ忠告しといたる。人間のままでいたければ、とりあえず明日の約束の時まで何も飲むな、何も喰うな。以上や」
「ちょっと待てよ。なんだよ……そ……れ……」
突然目眩がして、蓮華は額に手をついてよろめいた。熱があるときのように頭がぼやける。体が異様に熱い。
「……スマンな。ウチはアンタを助けられへんかった」
「え……?」
視界が揺れる。音がくぐもって聞こえる。意識が朦朧とし始めた。
「小僧。アンタは餓鬼に呪われた。もう手遅れや。ホンマに……スマン」
彼女は最後にりんご飴にかぶりつく。
そしてふらつく蓮華の胸倉を掴んだかと思うと、強引に引き寄せ――キスをした。
お読み頂きありがとうございます。少しでも面白いと思って頂けたらブクマ・評価頂けると嬉しいです。