三歩目 現の夢、煙る道(前半)
石炭を砕いて塗した様な黒灰色の雲が空を覆い、息も絶え絶えにたどり着いた日の光がぼんやりと世界に色を与えている。無理くりに積み重ねた積み木のごとき建物とそれを繋ぐ無数の橋は、まるで何年も放置されている倉庫と主のいなくなった古い蜘蛛の巣のようだ。
道を行き交う人々は黒や灰、ベージュの外套で頭まですっぽり隠し顔には物々しいマスクをつけていた。それがこの街で生きていくために必要な格好であると知っていても外から来た者には陰気で暑苦しく映る。環連合鉄道の第十ステーションを擁する鉱山都市バイネルケルンは一年のほとんどをこの景色で過ごすのだ。旅人たちが色と空気のない街、竈の煙突に巣くう街などと呼ぶのをどうして口さがないと咎められるだろう。
「先生、またお勉強をみてくださらない?」
街の外れにある大きな、そしてバイネルケルンでは珍しいことに他国で一般的とされる形状をしたお屋敷の一室。シルク張りのソファと香木のローテーブル、温かみのある光を振りまくシャンデリア。外の景色とは打って変わって品のいい煌びやかさに包まれたその場所に一人の少女がいた。目鼻立ちのはっきりとした顔に勝気な笑みを浮かべている。まだ子供だが薄紅色の生地が体にぴったりと貼りつくドレスには、ほとんど起伏のない体形と大きく開いた胸元に見える白い鎖骨が危なく香っていた。
「申し訳ありません、お嬢様。これから出かける所なので」
少女に話しかけられた部屋の先客は冷静な口調で答えた。ルビーのように濃密な赤の髪と翡翠の様な透明感ある瞳を持った女性だ。大理石から一級の職人が彫りだしたかと思う程滑らかな肌が美しいが、その頬には白い布が当てられて上からテープ止めされている。
ローテーブルの上のカップにミルクコーヒーはもう残っておらず上着にも袖が通っていた。誰が見ても出かける直前であった。
「あら、私も連れて行っては下さらないの?」
そんなことは分かっていたとばかりに少女は笑う。実際その通りで、彼女は女性が出かけるつもりであることなどとっくに承知していた。もう三日も前から聞かされていたことだ。そして分かっていたからこそこうして足を運んでいるのである。
「お嬢様、私が奥様に怒られます」
「大丈夫ですわよ。私が強く言ったら貴女が断れないことくらい、聡明なお母様は分かっていらっしゃるわ。それと私のことはパティと呼ぶ約束ですわよ!」
「パトリツィアお嬢様」
「パティ!」
両側に結われた黒檀の髪を揺らして少女は言う。彼女、パトリツィア=ジネッティはバイネルケルンの都市議会議員ガレアッツォ=ジネッティの一人娘だ。そのパトリツィアに無理を言われているのはヨハンナ=バークリー。二週間の約束でジネッティ家に家庭教師として身を委ねている旅の女だった。
「パ、ティ、イ!誰もいないときはそう呼ぶ約束ですわよ!」
「……はい、パティ。でも無理を言わないでください」
再度の要望にヨハンナは諦めて呼び方を改める。小さなお姫様が言い出したら聞かない質の人間であることを彼女は既に把握していた。なにより約束は約束だ。侍女も居ないこの部屋の中でくらい果たさなければ、なんの約束だか分からなくなってしまう。それでも要求そのものは拒否して雇い主である議員夫人に義理立てするつもりのヨハンナは首を縦に振らない。
「連れて行ってくださったら劇場に行けるようお父様にお願いしてあげますわよ?」
「……」
「先生行ってみたいってこの間言ってらしたじゃない?」
パトリツィアが年に似合わない妖艶な流し目でヨハンナを見る。一滴の青を含んだ濃緑の瞳は的確に相手の欲しい物を見抜く魔性の力でも備えているかのようで、自分の家庭教師が最も興味を示す物を提示して見せた。上流階級が偶の贅沢に向かうテアートルは二月待たねばそう人気でもない演目ですら見ることができないのだ。半月しか滞在する気のないヨハンナはもう諦めていた場所である。
「お父様にお願いしたら猫と風なんて、貴賓席を取ってもらえますわ」
「猫と風、ヴェント・エ・ガトのチケットですか」
それはヨハンナが旅の標としている母の手記に書かれた演目である。テアートルでは中級演目の扱いだが、かつてそれを見たヨハンナの母はいたく感動したとあった。研究者らしく微に入り細を穿つ、それでいて詩的で長編的な記録を好んだ母が詳細を記していないことも彼女の好奇心をくすぐる。
「約束ですよ」
「やった!」
やがてヨハンナが自らの欲望に屈して答えるとパトリツィアはそれまでの澄ました口調を捨てて大きく歓声を上げてみせた。直後にそれがはしたなかったと気づいて頬を染め、コホンと一つ咳払いをして見せる。
「も、もちろんですわ。約束を違えるなんて栄えあるジネッティの娘にあるまじきことですもの。ましてお友達との約束ですもの!」
ことさら上品ぶってそう言って見せる少女にヨハンナはあえかな微笑みを浮かべる。自分が人間ではないと知っていて暖かく迎え入れてくれるジネッティ家の人々に彼女は感謝していた。特に目の前の小さなレディのことは己の両親と旧知だったという議員夫妻以上に。パトリツィアは家庭教師の旅の目的を聞くなり目を輝かせて友達になりたいと言いだしたのだ。呼び名もその際に決めたことだった。
「では行きましょう。遅れては先方に申し訳ないですから」
「そうですわね。もう外出の用意は整っていますから、すぐに行きましょう?」
押し込めると思ったところでは強かに押し込んでくるパトリツィアだがその本質は良家のお嬢様。人に待ってもらうのは当然でも待ち合わせの時間に遅れる様な失礼はしない。彼女が指を鳴らせば待っていましたと年若い侍女が数人部屋に入ってきた。果たして呼べばすぐに侍女が来る環境は「誰もいないとき」に当たるのか、そんな素朴な疑問がヨハンナの中には浮かんだ。
「徒歩でいかれるのですか?」
分厚い外套に顔を覆う大きな防塵マスクという武骨な装備品をそぐわない上品さで着付けられているパトリツィアにヨハンナは尋ねた。目的地はそう遠くないとはいえ身分の高い人間は徒歩で移動したがらないのがこの国だ。いや、どこの国でもそうだろう。しかしここは環境が環境なので他の国に比べてもことさら馬車を使いたがる。
「あら」
そんなヨハンナの疑問に対するお嬢様の解答は実に明快だった。
「立派な足があるのに使わなくてはもったいないですわ」
~▲▽▲~
ジネッティ家の屋敷を出たヨハンナとパトリツィアは街路を中心へ向けて歩く。その足取りは自然だが同時に慎重だ。黒く汚れた石畳は煤が潤滑剤になってよく滑る。確かな歩みを約束してくれる厚底のブーツで踏みしめてなんとか行儀よく道の端を通るのだ。ちなみに真ん中は人同様に厳重な装備を着せられた馬が車を引いて行くので危ない。
「今向かっているのはシルヴァーノ工房ですわよね?」
「はい」
誰だかわからないほど防塵装備で身を守ったパトリツィアの確認に同じ姿のヨハンナは頷く。二人の外套は灰色の布地に金の植物の刺繍がされており議会に縁のある者だと示している。顔をすっぽり覆うマスクにも金色の植物模様は施されていた。外で顔を見ることができないバイネルケンならではの権威付けと言える。ちなみに一般市民たちは同じく絵を描くかオプションパーツで飾るなどして互いを識別していた。
バイネルケンは鉱山都市の名の通り数種類の鉱山を複数ヵ所ずつ所有する大都市だ。金山や銀山もあるが最も多いのは炭鉱と鉄山。当然製鉄業も盛んであり産業の多くは採掘と精錬、その加工によって成り立っている。先の大戦の影響で金属類がまだ足りない連合にとっては必要不可欠な街、従って懐は非常に潤っていた。
「その潤いの代償がコレですわ」
パトリツィアが肩をすくめて頭上を指示した。ヨハンナが目で追うと案の定空はたっぷりと立ち込める雲にべっとりと炭の残り物をかけた様で、元の柔らかな白さや透き通る青さは欠片ほども見つからない。大量に生産される鉄材はすなわち大量に消費される石炭の存在に支えられ、つまるところ大量の煙が街を覆い尽くす結果へと繋がっていた。最初にこの空を見たヨハンナはまるで写真のようだと思ったものだ。
「パティお嬢様はこの空がお嫌いなのですか?」
「嫌いじゃありませんけど」
正直飽きましたの。そう続けたパトリツィアの心情はこの街の住人に共通するものだろう。故郷への愛着もあればその光景への親しみもあるがひたすら味気のない写真の様な白黒の世界では飽きてしまう。毎日の時間に合わせて、あるいは四季の流れに応じて表情を変える普通の空に憧れを抱くのも無理からぬことだ。
「それに旅人には汚い街と言われてしまいますもの」
それまで見上げていた空から地面の石畳へと顔を向けるパトリツィア。防塵マスクで見えないその白い顔に浮かぶのは悲しみか憤りか。ヨハンナに想像はできなかったが笑顔でないことだけは察せた。
「私は美しいと思いました」
「え?」
「私はこの街を美しいと思いました。生きるための活力が街を覆っているようで、美しいと思いました」
ドナーリ王国で見た自然の神秘の極致たる星の渦、ダウワーマも美しいとヨハンナは感じていた。しかしバイネルケンの駅に降り立った時、それとは別種の、人が生きているからこそ生み出される美がここにはあるのだと感じた。美しさの在り方は一様でないのだと。
「それは、なんというか、嬉しいですわ」
「そうですか?」
わずかに早足になる少女とそれを追いかける女。彼女たちが進むと前から流れてくる外套の群れは中央側に身を寄せてくれる。煤で滑る道では壁際を譲るのが優しさだ。議会の関係者を示す金の草花のためではなく、この街では身長の高い者が低い者に譲る。親しい者にはわかるように特徴付けがされているとはいえ、人相どころか性別も年齢も分からない者同士が優しさを見せるにはそれくらいしか基準がない。それでも優しさは成立するということがヨハンナには少し不思議に、また面白く思えた。
「シルヴァーノ工房といえばバイネルケンでも指折りの技師ですわよね」
またしばらく歩いたところで独特のくぐもりを帯びた少女の声が質問する。
「よくご存じですね」
「だって技師は好きですもの」
そう答える足取りが僅かに軽くなった。楽しいことを話すときに足が軽くなるのはどこの国でも同じだ。誰か分からないのをいいことにスキップ未満の足取りをするご令嬢。そんな彼女がうっかり着地で滑らないかを注意深く監視しながらヨハンナは質問を返す。
「どういう意味ですか?」
技師が好き。その言葉に込められた意味は複数考えられる。そしていくつかの場合ではパトリツィアの立場からすると褒められない意味になる。もちろん家庭教師以上のことをするつもりのない、なにより友人だと言ってくれた相手を裏切る気など起きようもないヨハンナには告げ口という選択肢はなかったが。
「まあ、先生ならお話しても大丈夫ですわね」
そのスタンスを理解してかパトリツィアの口も足ほどに軽い。防塵マスクでもくぐもらせきれないほどに端々へ陽気を混ぜ込んだ口調で彼女は心の内を外へ出す。
「私、本当は技師に憧れていますの」
技師、つまり鉄から形を生み出して最終的にヨハンナの様な存在にする者のことだ。高い練度と知識を要求される大変な仕事であり尊敬もされている。と言っても都市議会の雄たるジネッティの子が目指すべき職業とは言い難い。特にそれが一人娘ならなおのこと。
「だって技師の方って素晴らしいと思いません?私と同じこの二つの手で色々なモノを作りだしてしまうのですわよ」
シルヴァーノ工房の様な技師の工房がこの街には多い。精錬したての鉄でパーツを作る工房から複雑な仕掛けを最後まで手掛ける工房まで大小合わせれば四桁に迫る。少し街を歩けば大きな工房の店と試作品の展示が行われているくらいだ。いくら議員の愛娘には相応しくない仕事だと周りが思っていても、そういったモノを見る子供の憧れは止められない。
「最初にそう思ったのはテアートルで演目を見た時ですわ。小さかったのでなんの演目だったかも思い出せませんけど役者が皆モノでしたの。それがとっても面白くて切なくて大好きでしたわ」
テアートルを少ない娯楽としている都市議会議員の家族にとって最初の演目。それはどれほど小さい頃のことなのか本人すら思い出せないほど昔のことだった。それでも、いやそれだからこそだろうか、幼心に焼き付いた鮮やかな感情は色褪せてなおとどまり続けている。
熱に浮かされるように語るパトリツィアを見てヨハンナはまた一つ人間を知ったと思った。魔導演算機開発の鬼才と言われた男の最高傑作を頭蓋に収める彼女には生まれた瞬間に見た天井の記憶も数分前に飲んだミルクコーヒーの記憶も同じくらいの鮮度を持っている。それが褪せていく悲しみもなければ篩に掛けられて残った欠片への愛着もない。天然物の人格はそういった要素によって複雑さと深みを得ているのだろう。
「……私は技師にはなれませんのよね」
ヨハンナが一人で深い納得を覚えているところ、パトリツィアがそんな言葉を口にした。己に言った言葉なのか仮の教師に言った言葉なのかヨハンナは分からなかった。前者だったとして何か言うべきなのか。後者だったとして何と言うべきなのか。呟きの答えを持たない彼女にはどちらだとしても容易に言葉が紡げることではなかった。ただ何かを応えるべきだ、もしくは応えたいという焦りにも似た何かが胸の奥で囁く気がして口を開く。
「……」
すぐには声が出なかった。最も簡単で非情な現実を告げるのはヨハンナの良識と、取る物も取りあえず口を開かせた囁く何かが良しとしない。希望的で夢見がちに過ぎる楽観を告げるのも教師としての立場と、これもやはり言葉にできない囁きの様な胸中の感触が許してくれない。
「パティお嬢様の道はパティお嬢様の道です。未来を求める自分に正直に生きるのも、大切なご家族に寄り添って生きるのも選ぶのは全てお嬢様です。焦らずにしっかり悩んでください」
白にも黒にもなりきらない昼間のこの都市の空の様な感覚が喉の奥でしばらくとぐろを巻いて、結局外へと出てきたのはそんな毒にも薬にもならない台詞だった。言ったヨハンナ自身が一番がっかりとしてしまう様な、そんな宛もなく彷徨う言葉だった。
仕方がないといえば仕方のないことである。なにせヨハンナには生まれや周囲の期待とそれに反する夢を持つ幼くも複雑な少女の人生に説教をくれてやれるほどの経験も知識もない。それどころかパトリツィアの方がまだしも多くを知っているだろう。ただ当の本人はそう思わなかったようで、暗澹たる曇天をその柔らかな胸の奥に生じさせる。ヨハンナにとって教師とは生徒の未知を既知で塗り替えられる人の事であり、時にその範囲は教師自身の未知にも踏み込んでいなければいけなかった。己にとっての既知を人に伝えることはできても、未知を既知へと変えながら人に伝えることができない自分は教師に向いていない。そんな風に結論付けがなされたのだ。
「そう、ですわね」
案の定パトリツィアは何かを得た風でもなく、さして響かなかった様子で真っ直ぐ伸びた道を進んでいく。表面的には神妙に答えつつも僅かに落胆が含まれていることをヨハンナは察した。それまで軽やかだった足取りは石畳にへばり付く煤の欠片のようになって、考え込んでいるかのように黙したパトリツィアはただとぼとぼと歩く。結局彼女が再びスキップを刻むことはシルヴァーノ工房へたどり着くまで一度もなかった。
~▲▽▲~
天上まで並の建物三階分はありそうな吹き抜けとちょっとした集会が2つほど開けそうな床面積を持つ屋内に、壁からところどころ足場や作業場、階段や橋が飛び出している。それがシルヴァーノ工房の内側だ。もともとは白かっただろう壁は真ん中に据えられた大きな炉の火に炙られ煤に戯れられて黒く染まっている。炉からは今もオレンジの光が吹きこぼれていて時折鉄が出入りしていた。大勢の男たちがせっせと細い足元を渡って工房の各所を繋いでいる様はまるで蟻の巣の中のようでもある。
「よう。来たな、お嬢ちゃん」
防塵の為に二重になった玄関で防護服を脱いで中心へとたどり着いたヨハンナ達を見上げるほどの大男が向かえる。人間ではなく剣闘士型のモノだと言われた方がしっくりくる巨体。それに見合った恐ろしい形相と野太い声。無造作に逆立てられた髪は白く、胸元まで伸びる髭も白い。ボロボロのタンクトップがはち切れんばかりに膨らんでいるのは決して脂肪のせいではない。
「よろしくお願いします、親方さん」
「まかせとけ」
見れば見るほど人間には見えない巨漢は子供をぺろりと食べてしまいそうな口でニッと笑って見せた。彼こそがこの鉱山都市にその名をとどろかせるシルヴァーノ工房の親方である。
「お邪魔いたしますわ、シルヴァーノ様」
ヨハンナに遅れて品のある挨拶をするパトリツィア。ゴチャゴチャとした防塵装備を外すのに少しだけ手間取ってしまったのだ。薄紅色のコタルディに身を包んだ少女は毅然とした所作の中に子供らしい期待を滲ませていた。憧れの工房主を前にした以上当然の反応だったが、ヨハンナは直前までの陰鬱な空気を払拭できたことに軽い安堵を覚えた。
「これはこれはジネッティ家のパトリツィアお嬢様じゃねえですかい。こんな汚い場所へ態々ようこそ」
対するシルヴァーノは腹の底に響く声で精一杯慇懃な歓迎を述べた。生来の荒っぽい言葉と混じってまるで皮肉か恫喝に聞こえる。それでも初老に差し掛かった鍛冶師の不器用な礼儀は少女に届いたようだった。偽りのない笑顔を浮かべたパトリツィアを見てヨハンナはそう思った。
「さて、ちょいとお嬢様には悪いんですがね。これからお嬢さんと商談があるんで、ちとお相手できんのです」
「お構いなく。先生に無理を言って連れて来てもらったんですもの、大人しく見学させていただきますわ」
「そりゃありがてえ」
ほっとしたようにそれだけ言うとシルヴァーノは工房の奥へと二人を案内した。そこは工房本体の竈の様な雰囲気とは打って変わって落ち着いた色調の応接室だ。壁は塗りたての漆喰のように白く滑らかでダークブラウンの調度品が全体を引き締めている。赤い天鵞絨地のソファに女性たちを座らせて男は壁際の棚を漁りだす。
「失礼いたします」
シルヴァーノが棚からいくつか容器を取り出している間に扉を開けて若い女が入ってきた。抜ける様な白い肌を煤で染めた彼女はちょうどパトリツィアとヨハンナの間くらいの年齢だ。豊満な胸を灰色のタンクトップに包んだ軽装から肉体労働者か職人だとうかがえる。
「ミント水をお持ちしました。冷えてないけどね」
「バカタレ!これ以上ない上客だぞ、冷えた奴を持ってこい!」
雷のごとき怒鳴り声で親方が叱責するも女性は肩をすくめるだけ。そのままトレイに乗せたガラスのトールグラスをヨハンナたちの前に置いた。赤く薄いガラスはまるで蜻蛉の翅のようだ。
「そんなこと言ってもアニェッラが全部飲んじゃったんだから、仕方ないじゃない」
「あんのバカ……炉にくべちまえ!」
「はいよ。じゃあごゆっくり」
殺伐としたやり取りを交えつつ女性は最後に愛敬を振りまいて退室した。額に青筋を立てた親方はその大きな手に四つの容器を持ってソファに座る。彼が大きく気分を害したことには理由があった。暑苦しい格好で出歩くこの都市の人間にとって冷たい飲み物はなによりの歓待として受け取られる。最上級の客に対して冷たい飲み物も出せないなど都市一番の工房の名が泣くというものだ。
「すまねえな、お二人さん。うちの孫娘が粗相をした。アニェーゼは腕も常識もあるってのに、アニェッラのやつは腕だけなもんでな」
「いえ、お構いなく」
「ええ。私たちは気にしませんわ」
ヨハンナたちの言葉を聞いたシルヴァーノは申し訳なさそうに後頭部をさする。そして付け足した言葉によると飲み物を持ってきた女性がアニェーゼで妹共々ガラス細工師を目指しているらしい。ローテーブルに置かれたトールグラスも二人の作だった。
「さて、そんなことはいいんだ。それよりも試作品を見てくれ」
四つの容器はいずれも女性が使うファンデーションほどの大きさであり、金属でできているため中が窺えない。それぞれの蓋には数字が三桁で書かれている。
「四つもですか?」
「まあ、言われた素材で調合はしたんだが……色調とかでお嬢さんの好みもあるだろうしな。そうだ、アレがねえと始まらん」
シルヴァーノは立ち上がって棚からもう一つ物を持ってくる。それは置き型の鏡だ。簡易な化粧台のためのもので鏡部分が傾きを変えられるようになっている。それをヨハンナの前に置いて彼は再び腰を下ろした。
「これはなんですの?」
工房主がセッティングを行うのを視界に収めながらパトリツィアは家庭教師に小声で訪ねる。もちろんこれとはテーブルに置かれた四つの金属の容器だ。話の流れからしてヨハンナが注文してシルヴァーノが試作したものだろう。
「皮膚です」
「……へ?」
「私の皮膚です」
予想外の言葉にパトリツィアは凍り付く。親方は彼女の反応を見越していたのか気まずげな顔でそれを見、ヨハンナはただ返事をしただけのつもりで黙る。ミント水の炭酸が抜けていく音だけが沈黙を掻き乱した。
「お嬢さん、いくらなんでも私の皮膚ですじゃわかんねえと思うぞ」
「ああ、たしかに」
指摘されてから一拍の考えを経て納得を示すヨハンナ。人間より精巧でモノよりも有機的な気配を持つ彼女だったが、やはりその感覚も多少両方からずれているようだ。
「まずはこれを見てください」
大理石のように白く滑らかな肌に貼られた布。表情一つ変えずにその痛ましい傷を連想させる物を彼女は剥がした。ただしそこに生々しい血と肉の惨状はない。柔らかく滑らかな白い肌が真横に小指ほどの長さでぱっくりと切れているだけだ。その奥に赤は見えず、冷たくも美しい光を照り返す銀色が代わりに覗いている。
「本当にモノなんですのね」
「はい。でもあまりまじまじと見ないでください。基礎骨格を見られるのは少し恥ずかしいですから」
「その感覚はちっともわかりませんけど、失礼しましたわ」
分子の一粒まで観察できそうなほど見つめていたパトリツィア。どことなく釈然としない気持ちを抱えつつ視線をヨハンナの目に戻した。翡翠の瞳も作られた物だと思って見れば虹彩が生物のそれよりきめ細かな気がしてくる。
「私の基礎骨格は製法が軍にも開示されていない特殊合金です。滅多なことでは錆びません。しかし負荷がかからないわけではありませんし、なにより基礎骨格が露呈したままというのは品がありません」
「そ、そうなんですの?」
「はい。強度と靭性、腐食耐性に優れた合金ですよ」
問い返した少女の意図とは違う答えが戻ってくる。それほどまでにヨハンナというモノにとって基礎骨格云々の話は当然の事だったのだろうか。そしてそれはモノに共通の感覚なのだろうか。次から次へと疑問が湧きだしてパトリツィアの小さな頭蓋を圧迫する。ただ聞いたところでなんとなく理解のできる答えは得られる気がしない。考えてみれば彼女自身、根本的になぜ服を着ないと羞恥を感じるのか説明しろと言われても大いに困ってしまう。
「それで傷がついてしまった部分の補充材を買いに来たのですわね?」
ヨハンナはこくりと頷く。それからローテーブルの上の容器を一つとって開ける。中はそれこそファンデーションのように肌色のクリームで満たされていた。色は大理石の様な白。つまりヨハンナの肌と同じだ。
「皮膚というよりクリームに見えますけど」
技師に秘かな憧れを抱いているパトリツィアは多少モノの皮膚について知識があった。ヒト型のモノの皮膚は質感が極めて人間のそれに近い質感をもっているが別物だ。タンパク質ではなく樹脂などでできている。モノの用途によっても素材は変化するが形状だけは基本的に一括成形したシート。
「あくまで補充材ですから。外気を遮断して人目に触れないようにするだけです」
その点は規格外の塊であるヨハンナも同じである。ただし工場生産ではなく専属の職人が作ったという点で顔の似た別個体はいない。
「早速試させてください」
生徒への教授を終えてヨハンナはシルヴァーノに確認を取る。この四つの試作品は数日前に工房を訪れて仕様を協議した末の物。これで問題がなければ少量生産してもらい使用することになる。
「頼む」
パトリツィアは驚いた。バイネルケルンの誇るマエストロが今の短い言葉に多大な緊張と期待を込めているのを感じ取って。シルヴァーノといえばこの都市で最高の職人と言われる男だ。視力はやや弱いがそれも全て炉を覗き込み続けたため。指先の感覚だけで痺れる様な造形美を生み出し、剛腕を振るって屈強な鉄器を鍛える巨匠なのだ。それが声を震わせて華奢なヨハンナの感想を待っているのは滑稽を通り越してなにやら恐ろしい光景であった。
「一つ目は質感がいいです。滑らかさだけならかなり馴染むでしょう。ただ色味が少し私には黄色すぎますね」
「やっぱりか……今うちにあるタルクでその細かさを出すとなるとどうしても黄味がなあ」
透き通る様な白い肌に女性らしい筋感や骨の細さと柔らかさを同居させたヨハンナの手には言われなければ分からないほどに黄色味が強いクリームが一筋。黄色いと言っても人間であれば十分白い部類になる色だ。だが確かにこれを彼女の頬に塗るとなると違和感はある。
「次ですね」
最初の容器にきっちりと蓋をしてから二つ目を開ける。金属同士が擦れる特徴的な音が耳障りでない程度に聞こえた。中身は色を失った様な、あるいは遠く帝国に振る初雪の様な白だ。
「色の再現度は高いだろ?」
「ええ、とても」
ヨハンナは付属の箆で掬い取って肌に塗る。全く違和感を与えない色の近さでパトリツゥアの目にはこれこそが求めた逸品に見えた。だが注文主としてはまだもう一歩だったようでこう口にした。
「水と相性が悪いですね?」
「やっぱりお嬢さんは分かっちまうか」
「どういうことですの?」
補充材には色々な物が混じっている。滑らかさと白さを出すためのタルクや弾力と靭性を出すための樹脂などだ。その中で水溶性の物質が多いと水に弱い補充材になってしまう。雨など滅多に降らないドナーリ王国であればそれでも事足りるがヨハンナの活動は連合全域に及ぶ。特に故郷である帝国は雪の多い地帯であることを考えると水に弱いことは致命的とさえ言えた。
「三つ目を試しましょう」
特にがっかりした様子も見せずにヨハンナは次の容器を開ける。色はやや黄味掛かっているものの十分白い。キメも細やかで粘度もしっかり宿している。
「こいつは自信作でな。お嬢さんの皮膚ほど多機能とはいかんが、防水性と靭性にはかなりこだわった」
一つ目が滑らかな粒子状、二つ目が弾力のあるジェル状、そして三つ目は角がしっかり立つまで泡立てた生クリームのようだ。シルヴァーノの説明を聞きながら三本目の箆を使って手に少量塗り付けるヨハンナ。色味の違いは言われなければ気づかない程度で違和感を覚えることはない。パトリツィアの素人目からすると質感もヨハンナの生々しい様な硬質な様な不思議な質感に似て見えた。
「これはいいですね。強度がかなり私の皮膚と近いです」
「……四つ目を試してもらってもいいかい?」
「もとよりそのつもりです」
親方の声は依然として固い。それは三つ目の試作品が概ね好評だったとは思えないほどだ。そこに込められた意味を理解しないままヨハンナが蓋を捻じって外すと中身は先ほどとまったく同じに見える。薄っすらと黄色を含んだ白のクリームでキメも細かく粘度もある。うっかり中身を間違えたと言われれば納得するほどに似ていた。
「ああ、これは」
手の甲に伸ばしてからも寸分違わない四つ目。それでもヨハンナは違いに気がついた。皮膚や筋繊維に配置された高感度センサーが質感、硬度、保水力を感じ取ってとある結論へと導く。
「下位互換ですか」
「廉価版と言ってくれ」
素人どころか見た目だけならば作った本人にも分からないほどよく似た四つ目と三つ目の試作品。その違いはいくつかの機能物質であり、つまり性質である。特に大きく影響するのは靭性。僅かな表情の違いにさえ動きを余儀なくされる顔の皮膚は高い靭性が必要だ。
「そこら辺の素材が今高騰しててな……価格を抑えるとどうしても」
通常のモノに使うのであれば四つ目でも問題はなかった。だがヨハンナはあらゆる意味で普通とは違うモノだ。彼女の顔は固定された表情パターンを使いまわすのではなく細かい調整をかけた生の表情をその場その場で作っている。パターンに合わせて高級な皮膚材と安物を使い分けている量産品と違って彼女の皮膚は全て信号素子を練り込まれた高度センサー対応型なのだ。
「この補充材では数日で傷が開きます」
「長旅に大荷物は無理だしな……やっぱダメか」
職人の仕事は良い物を作ることだ。ただし安く抑えるのも大切な仕事。値段設定は職人の生活費や今後の開発費、弟子を育成するなど工房を運営するための費用、さらには良質な仕入れ先を保つための真面な材料費を加えて算出される。だがそのために暴利を貪るのは二流の所業。客がその商品に心から払いたいと思える額を提示してこそ三方を得させる一流と言える。それがどうだろう、最高傑作は廉価版の三倍近い値段になる。とても胸を張って売れる代物だとは思えなかった。少なくとも生粋にして一流の職人であるシルヴァーノには。
「滞在はこれ以上伸ばせねえんだよな?」
「そうですね。予定がありますから」
ヨハンナがこの灰色の街を後にするのはなにも飽きが原因ではない。彼女はどちらかと言うと訪れる場所全てに等しく愛着を抱いている。目的を達成しては次に行く気の長い旅路は始まって短いが定住してもいいと思えたことは数度あった。それでも先へと進むのは母の残した大きな謎を解くため、すなわち友達を100人作るためである。こと、今回に限っては厳密に期限を設けている理由もある。バイネルケンに来る鉄道で知り合った初老の靴職人が靴を一足作ってくれているのだ。靴作りは二週間ほどで完成すると聞き、ヨハンナはできるだけ遅くならないうちに水の街ルヴァツィアへと向かいたかった。住所こそ渡してあるもののもし叶うなら直接それと事の顛末を受け取りたかったのだ。靴職人とその息子の顛末を。
「気にしないでください。三つ目の試作品を頂きます」
どうしても値段が下げられないことに申し訳なさそうな顔をする親方。そんな彼にヨハンナは微笑んで頷いた。途中からは黙って商談を聞いていたパトリツィアの目がこっそりとその顔へ向けられる。僅かに口角が上がるだけで開いた傷口は形を歪めた。内側に覗く銀色はよく見ると単一の金属ではない。銀色の細い繊維とそれを固定する白い物が見えた。それらはヨハンナの表情が変わるときに同じく動く。金属と化学物質でできた筋肉と腱だとすぐに分かった。
「けどな……」
「お金はあります。使わなければ腐らせるだけですから」
腕を組んでうんうんと唸りながら渋っていた親方も依頼人が繰り返し承諾を示すと折れざるを得ない。ヨハンナから無理を言っている気配を感じなかったことと品質には誇りが持てたことが大きな理由だろう。老鍛冶師の監修した補充材は仕様の面で満点に近かった。値段を抑えられないことは市場経済の問題であると言われれば食い下がって商談をふいにすることもない。
「それじゃあコレを二つ渡せばいいんだな?」
「はい。お金は現物と引き換えで。アロガナイト燃料石もお願いします」
「おう」
ヨハンナは手際よく全ての試作品に蓋を戻してから手を拭う。乾燥しきるまで補充材は皮膚に馴染まないため引きはがすのは造作もないことだ。ただ横から見守るパトリツィアにはヨハンナの肌がボロボロと崩れていくようで少し気味が悪かった。カスタードとホイップを一対五で混ぜた様な色の皮膚がローテーブルに敷かれた布巾に積みあがり捨てられる。どことなく非現実的な光景であった。
「アロガナイト燃料石……たしかモノの動力になる石ですわね?」
ようやく会話に再参加できたことで少女の声は少し弾んでいる。話題が分かるということは話をするうえで何よりも大切な要素なのだ。そして技師に憧れる彼女にとってアロガナイトは聞きなれた名前だった。
アロガナイトと呼ばれる鉱石は本来帝国と一部の北側国家でしか産出しない高エネルギー物質だ。帝国の強力無比な軍事と産業を支える命の石とも言われる。石炭や石油を効率でも総エネルギー量でも上回るその鉱石こそが巨大な帝国を築き上げたと言っても過言ではない。転じて帝国の尊大な態度を生んだ傲慢の石と呼ばれている。
「でも先生は普通にお食事を摂っているでしょう。以前お尋ねしたらお食事からエネルギーを得ているとおっしゃっていませんでした?」
本来モノは食べ物を食べない。ところがヨハンナは食べる。それどころか大層な健啖家であり味覚も下手な貴族より肥えている。単純に細かい味の違いが分かるということなら誰もが当然だと思うだろう。なにせ人間より純粋な情報をセンサーから得ているのだから。ところがヨハンナは味のバランスから香りとの組み合わさり方などの好みとしか思えない観点から料理を評価する。淡々としていながら楽しそうに食事を摂るのだ。そんなことがモノにできるとは思えなかったパトリツィアは最初の晩餐からヨハンナに質問した。丁寧な回答とともに母親から厳しい叱責が飛んできたが。
「食事から多くのエネルギーを得ていることは事実です。とはいえそれだけでは足りないので、食後に少量のアロガナイトを摂取しています」
言われてみると少女にも思い当たることがあった。ヨハンナという客人は必ず食後に凝った北国風の刺繍が施された袋から黒い塊を取り出して食べる。説明を面倒がってか薬の様な物だと言っていたがあれこそまさにアロガナイトだったのだろう。それにしても常人の倍ほども食べておいて高エネルギー源を追加摂取するとは、さすがのパトリツィアも呆れ顔を浮かべそうになった。もちろん直前でお嬢様らしい外交スマイルに切り替える。
「さて、そろそろ戻りましょう」
「あら」
「工房なら見て回りませんよ」
「先生のケチ」
言葉とは裏腹にパトリツィアは席を立つ。心の底からシルヴァーノ工房を見て回りたい彼女だが人前で駄々を捏ねるには淑女に過ぎた。ヨハンナも無理について来る少女に折れて同行は認めたもののそれ以上を許可していない。そもそも煤けた工房の中を好奇心のままに散策すれば薄紅の衣装が汚れてたちまちジネッティ夫人の知るところとなる。それはヨハンナにとってもパトリツィアにとっても都合の悪いことだ。つまり着る服を考えなかったパトリツィアのミスとも言える。
「帰りにお菓子を買いましょう」
代わりの案を出しながらヨハンナは荷物を纏める。親方がおまけと称して渡してくれたので試作品も持ち帰りだ。金属の容器がうっかり開かないように自前の布巾に包んでインバネスの下にしまう。ケープ部分は帝国伝統の色彩豊かな刺繍生地であるのに、コート部分はまるで大戦期の軍人のそれの様な陰気な色と頑丈な質感の代物だ。
「それではごきげんよう」
「ごきげんよう、シルヴァーノ様」
「ああ。お気をつけて、お嬢さん方」
短い挨拶を交わして二人はボッテーガを後にする。二重の扉の間で防塵装備へ着替えて。マスクに填め込まれた丸いガラス越しに見上げると白黒のマーブル空は赤を含み始めている。黒い粒子を貫いて降り注ぐその光は色のない街にあっても夕日が夕日であることを強烈に主張していた。むしろ刻一刻と色合いを深めていく斜陽はモノトーンの街を美しく彩っているとさえ言える。
「美しいですね」
同行者にも聞こえないほど小さな声でヨハンナは呟く。茜色の光に照らされて防塵コートに輝く蔦草も色づいて見えた。
✖登場人物
・ヨハンナ:本作の主人公。ルビー色の髪に翡翠のような瞳、大理石色の肌を持つ女。北国の出身。
・パトリツィア:ヨハンナを泊めてくれる貴族ジネッティ家の一人娘。
・シルヴァーノ:都市有数の鍛冶工房を営む熟練の職人。
・アニェーゼ:シルヴァーノの孫。妹のアニェッラ共々ガラス職人を目指す。
✖土地
・バイネルケン:鉱山都市。連合に加盟しており、第十二ステーションを擁する。