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二歩目 車窓の月、旅人の靴(後編)

「父と母には実の子をもうける時間がありませんでした」


 場所を老人の部屋に移してからもヨハンナの物語は続いていた。ほかならぬ老人が先ほどは省略されたその部分を聞きたいと言ったからだ。食堂車から態々会話の場を移したのは、その方が語りやすいだろうという老人なりの配慮でもある。同時に彼にはなにやら考えがあるようだったが、特に害意を含んだものに思えなかった彼女は大人しく従った。


「両親が描いた人間と機械の子供をそれぞれもうけるという夢は叶いませんでした」


 老人の客室は当然のようにヨハンナのそれと全く同じ造りだ。ただ家具の配置だけが鏡写しになっていた。白木造りの明るいそこは列車内だけあってやや手狭な印象だが、これでも相部屋である二等客車や寝台だけが並ぶ三等客車よりずっと肩の力を抜いて休める場所だ。床に固定された机と椅子が一つずつ、やや硬い寝台と手荷物用の棚、それに施錠された扉。その扉で隔てられた二部屋はそれぞれ一組となり両側の乗客が望めば開錠されるのだ。家族連れや広く使いたい金持ちのための仕様と言える。


「つまり私が二人にとって唯一の子供となるわけです」


 ヨハンナは見るともなしに窓へ視線をやる。三度目のトンネルで外は黒に染まっており、鮮やかな色彩を持つ己の鏡像だけが佇んでいた。唯一の子供と自分を呼んでおいて、どこかその瞳は嘘をついてしまったような揺らぎを抱えていた。彼女の母であり実際に育ててくれた人物であるアナベラはヨハンナを一人娘と呼んだ。会うことはできなかった父ジュリアスはそれに対し、戦時下に置いて量産された軍用モデルを全て我が子と呼び、最後の瞬間まで特別に思っていたという。どちらの考えに準拠して己を定義すべきか、彼女は結論を出せていない。


「父と母の感覚の違い、その根本がまだ理解できません」


 左目を手で隠してみる。すると窓の向こうにいるヨハンナは右目を隠した。目は別の角度からそれぞれ見ることで正しい距離を測る。片目で母の、もう片目で父の立場から物を見れば本当のことが見えるのだろうか。


「君自身はどちらが正しいと思っているんだね?」


「論理的には父に近い立場です。母の心情も察することはできますが」


 短く答えた女に老人の視線が注がれる。理由を言うまでは離さないとばかりにじっくりと。


「私の演算脳は父が発表せずに残した四十八番系といいまして、それまでの演算脳とは基礎構造以外共通点がない仕様です。ですが体は軍用であった七型基本フレームを素体に大幅な改造を施した物。つまり肉体的に軍用モデルとは近しい関係にあります」


 思考や頭脳が違っていて身体的には近い。その関係性はまさしく人間で言えば兄弟や従兄弟に当てはまった。そのことからヨハンナは軍用に量産されたモノ達を己の兄や姉と捉えているのだ。

 父のような愛情ではなくあくまで合理性と整合性による判断。それが育ての親、ある種の上位自我である母と違う結論に至ったことはそうおかしくもない。だが合理性から見て父寄りの考えだと言ったヨハンナは母の考えを間違っているとは言わなかった。そのことが老人を再三驚かせた。


「感情を解するモノは初めてですか?」


「あ、ああ……そうだなあ、僕はあまりモノと交流したことがないけど、たぶん初めてだと思うよ」


 顔色を読まれたことに老人は赤面する。たとえ相手が人間でないとしてもこれほど精巧で知的なのだ、あまり驚いたり繁く観察したりするようなことは控えなければ。彼はそう考えて手荷物を寝台に広げる。別の作業に意識を少し向けることで不躾な態度を誤魔化そうというわけだ。


「私に感情はまだありませんが、感情を推察し理解することは四十六番系から搭載された機能です。高級モデルですので滅多に見る機会はありませんがいなくはないのですよ」


 感情という人間自身がまだ理解しきれていない物を解する人工物。その存在は神秘的なようでいてやや背筋を寒くする気配を含んでいる。そんな気がした老人だったが、彼はそれ以上に気になる言葉を聞き取って下げていた顔をすぐに上げた。


「まだ?」


「はい、まだです」


 まだない。つまりいずれは「ある」状態になると示している。ヨハンナ=バークリーが感情を得るということは、すなわち人類が自らの手で感情を創出することに成功するということでもあった。


「私の四十八番系は学習能力に長けた演算脳らしく、多くの感情を知っていくことでいずれは自らの感情を持つこともできるとされています」


 感情を知り、感情を体験し、感情を生み出す経験を積むことで感情を得る。まるで夜天を焦がす無数の篝火から火の粉を掻き集めて新しい灯りを燈すように。


「なるほど、その為の旅というわけだ」


「それから母の遺言ですね」


「遺言?」


 なにやら会話をしている間に老人の寝台は様々な道具で溢れていた。巻き尺や筆記用具から始まってヨハンナの見たことがない物まである。好奇心を刺激されながらも彼女は質問に答えを紡いだ。母が目の前で命を絶ったこと、100人の友人を作っていつかはその死を嘆いて欲しいと言われたこと、嘆けないことが苦しいと感じることを。


「……」


 作業の手を止めて老人は黙した。戦慄する心を悟られないように。まるきり狂人ではないかと思ったからだ。すぐに天才とは狂人であることと、たった一脚の椅子に座るこの客人の母もまた戦争で壊れた人物だということに思い至って余計頑なに口を噤む。代わりにヨハンナを部屋へと誘ったときから決めていた言葉を出した。


「友達100人とは、いよいよ長い旅になりそうだ」


 寝台から巻き尺を持ち上げて彼は言った。


「僕がピッタリの靴を作ってあげようじゃないか」


 ~▽▲▽~


 鋼鉄の道を鋼鉄の車輪が踏みしめる度に僅かな振動が客車を訪れる。リズミカルで鬱陶しいその来訪の中で老人は一切の油断なく作業を進めていた。靴を脱いだヨハンナの足元に屈み込んで革製の巻き尺を伸ばし、象牙でできた芸術品のごときそれを採寸しているのだ。それはまるで妖精に跪き足を清める人を描いた宗教画の様な光景だった。特に色味を増した光が窓から斜めに差し込んでいる時間帯の中では。


「僕の旅はね」


 彼は穏やかな口調で語り始めた。ヨハンナの物語を聞いた後に語ると言っていた自分自身の物語を語るために。その間にも職人らしい荒れた手は右足の白い肌に革紐を宛がい、温もりを湛えた瞳は目盛りを老眼鏡越しに記憶していく。


「息子に会いに行くためのものなんだ。遠く離れた国に住む、僕と同じ靴職人の息子さ」


 巻き尺を押当てるときに触れる女の肌は一見大理石や象牙のように硬質で、その実しっとりと水気を含んでいた。これが人でないなら一体何だと言うのかと思えるほどに生々しく艶やかな質感。だがそれが同時に人ではないのだと強く意識させられる。これほど完ぺきな足を人間が持ち得るはずないと。


「その国というのは?」


「十三番の名を冠する駅、水の都ルヴァツィアだよ。行ったことはあるかい?」


「ルヴァツィアはまだです。バイネルケンの後に行こうかと思っています」


「そうか……それならまた尋ねておいで」


 鉱山都市バイネルケンと同じく都市国家として栄えるルヴァツィアは積み上げた歴史と悲哀の上に建つ海の都。太古の昔には島であったと伝えられるが、度重なる地盤沈下の影響で足場となる大地は海面の遥か下に没している。建築物の上に新たなる建築物を乗せることで水の上に顔を出している、永遠に溺れ続ける悲しくも美しい都市として有名だ。


「どうして息子さんを尋ねて行くのですか?」


 合いの手のような質問だった。老人もそれを待っていたはずである。しかし、彼は一瞬言葉を紡ぐことを躊躇った。やはり人はヨハンナほど割り切って己の人生を語れないのかもしれない。それでも口の中で彷徨わせた続きを、老人は自嘲気味な笑みに混ぜて吐露する。自分で言ったように話し好きだからか、それとも誰かに聞いてもらうことで心を支えようとしているのか。まだ心を持たない女には分かりかねた。


「僕は息子を勘当してしまってね。かれこれ八年も前のことだ」


 戦争が終わってちょうど五年目のことだ。日々の生活や街並は逞しい人間の鼓動によって蘇り、しかし心の傷からは血が溢れて止まらない。取り戻した物や残された未来に目を向けてはそこに居ない誰かを強く意識して視線を足元に戻してしまう。そんな時代だった。ちょうどヨハンナが目を覚ました頃でもある。


「ほんの些細な口論が始まりだったんだ」


 老職人の息子は戦時中を徴募兵として戦い、片足を失いこそすれ生きて戻ってきた。幸いなことに戦争後遺症に陥ることもなく不自由ながらも靴職人として生きていくことができた。


「妻は違った。戦火に巻かれて死んでしまった。老いてなお美しい自慢の妻だったがね、焼けてしまえば人間誰が誰だかなんて分からなくなってしまうもんだ」


 悲しげに老人はヨハンナの足をなぞった。くすぐったさに小さく彼女が身じろぐと彼ははっとしてすぐに謝る。つい昔のことを考えていたらしてしまったのだと。それは彼が妻の為に靴を作るとき、愛情を込めて行っていた癖のような物だった。


「あれは息子が器用に片足で脚立に立って看板を補修していたときだった。そんなことは両足揃った僕がやると言ったのに、あいつと来たら若い自分がやった方が安全だなんて言い返してきて……いや、そうじゃない。そこはどうでもいいんだ」


 懐かしそうな微笑みを口元に浮かべる様は八年経ってもその日のことが鮮明な記憶であるのだと伺わせる。まるで手だけが別の意思を持っているように左足を測量している。


「道に子供たちが居たんだ。遊んでいた。すっかり元通りになった大通りの歩道を、危なっかしい調子で走り回っていた」


「それを見て、息子さんが何か言ったのですね」


「ああ、そうだよ。あいつは子供たちを見てこう言ったんだ。親父、色々と辛いこともあったし失ったものも多い。けど俺は戦争があって良かったと思っているんだ、とね」


 息子の足と愛する妻を奪った戦争を息子自身が肯定する。そのことが耐え難いほどの苦痛であったことはヨハンナにも想像がついた。今や老人の口調に憤りも失望も見当たらないが、当時はきっと大いに心掻き乱されたはずだ。彼女の想像は全くその通りで、彼はそのまま息子を殴りつけて勘当してしまった。


「分かってくれとは言えないが、許せなかったのさ。妻と息子はとても仲がよくてね、成人してからも月に一度は連れ立って観劇に行ったりしていたんだ。そんなあいつが、母親を奪った戦争を良かったなんて言うのはただただ許せなかった」


 あまりの剣幕と「勘当だ、出て行け」という言葉、そしてそれ以上の言葉を聞かない父の態度に隻足の若職人は肩を落として出て行った。そのまま家に戻ることなく国すら出て、翌年に葉書が一枚届いて以降は連絡すらなくなってしまった。葉書には水の都で靴屋を始めたことだけが短く書かれていた。


「それからしばらくは怒りを紛らわそうと仕事にばかり打ちこんだよ」


 何足も何足も、今こうしてヨハンナにしているように足を見ては靴を作った。


「足を測ったら次は膝から下を触らせてもらうんだ。お嬢さんには嫌がられるけども、失礼するよ」


 脹脛(ふくらはぎ)の筋肉を触ることで歩き方の癖をより詳しく把握する。足形や歩く姿だけでなく手に入る情報は全て手に入れることで最高の靴を作れるのだと、老職人は持論を強く頷いて教えた。本当は太腿や腰回りまで観察したいのだが、いくらなんでもそれを許す客はいないとも。


「構いませんよ」


 椅子に腰かけたままヨハンナはそっと屈んでスカートをたくし上げる。既に愛用のブーツと赤いリブ生地の靴下は脱いでいる。半透明の白に肉色を透かす爪、人差し指を頂点に規則正しく並ぶ指、梁のように親指から真っ直ぐ通る骨、小指から細く張っているのが見える腱、抜けるような皮膚の下で枝分かれする静脈。繊細で緻密な構造物を丸と呼ぶには尖った形のくるぶしが受け止め、何とも言えない滑らかなふくらはぎの線へと繋げている。きめ細かな表面は蝋人形のようで、よくよく見ると実際には小さな毛穴まで作り込まれていた。


「ほぅ……」


 我知らず老人は息を吐いた。これを作れる者は神から天啓を与えられたか、はたまた悪魔と契約したか。なんにせよ人間ではない。


「見れば見るほど人間にしか思えないよ」


 乾いた指を膝下の曲線に這わせながら、彼に言えることはそんな陳腐な言葉だけだった。


「ありがとうございます」


 しかし人に最も近い存在として設計されたヨハンナにとって、その言葉は一万編の詩で讃えられるよりも光栄なことだ。白く凍っていた氷の欠片が春の陽気に溶けだすような笑みを浮かべた。その小さく上がった口角にも本物の喜びが宿っているように老人には見えたが、果たしてよくできた人工物なのか。いよいよもって分からなかった。


「続きを聞かせてください」


「え、ああ、そうだったね。結局僕の怒りはいつまでたっても収まらなくて、届いた葉書に返事も出さなかったんだ」


 それから八年の月日を優秀な靴職人として過ごした老人は先日ようやく店を閉めた。それまで連絡どころか靴屋同士の寄り合いを通じてさえ噂も聞かなかった。違う国に居たとしても優れた職人の噂はすぐに伝わるというのに。老人は自他ともに認める職人であり息子もその薫陶を受けて若くとも腕のいい職人に育っていたというのに。


「店を閉めたのは体力の衰えからだったけど、ちょうどいいかと思って息子を訪ねることにしたのさ。八年は長い時間だった。一人で靴とばかり向き合っていると余計にね」


 ひとしきりヨハンナの足を触って筋肉や骨格の癖を把握したのか、老人は手を放して寝台の上に置いていた手帳へ所感を書き留め始める。スカートを元通り下した女がこっそり盗み見ると大まかな足の絵に線を引いて関連付けていた。


「お嬢さんの足が本当に作りものだとすれば、僕は造形者に職人として嫉妬するよ」


 老人は鞄からくるぶしから先の形をした木の塊と濃い灰色をした粘度を取り出した。革靴を作るには履く人間の足に合わせた木型(ラスト)をまず削り出す。そこから革を切り取るための紙型(パターン)が切られ、裁断した革を木型(ラスト)に沿って組み立てる。全ての工程が終わるまで靴の履き手はその木型(ラスト)が務めるのだ。


「靴ばかり見てきたとはいえ、靴を履く人間のこともきちんと見てきたつもりだった。だからだろうね。八年の間にふとあいつの言っていた言葉が、脳裏をよぎる瞬間が何度かあったんだよ」


 女性の足にしてもやや細すぎる木型(ラスト)に粘度が一塊、また一塊と配置されていく。彼はヘラで細かくちぎった灰色を木肌に塗り込むように引き延ばし、荒い足の形を作り始めた。


「子供向けの靴が多かったように思う。きっと息子と違って帰っては来れなかった大人が大勢いて、そのせいで子供のための依頼が多く感じたんだろう」


 手元から視線を動かさずに老人は語り続ける。まるでどう撫でれば目的の場所に収まってくれるか、粘度と話し合いながら作業をしているようだ。ヨハンナが裸足を揺らしながら見つめている限りその交渉事は順調に進んでいる。


「最初は父を失った子供たちを哀れに思ったね。そしてふと思い出す言葉にそれ見たことかと言ってやりたくなった」


 戦争さえなければ彼自身が妻と息子の足を失わずに済んだように子供たちも父親を失うことはなかった。それを思えばいくら自分が戦地に向かったとはいえ息子の言い様は不謹慎で愚かしく思えたのだ。


「考えが変わったのですね」


「そう。変わったのだよ。変わったのだ」


 噛み締めるように、口の中で音に込められた意味を味わうように老人は頷く。


「僕の国は戦前、あまり国民のことを考えていない国だった。もしあの時に戦争へ参加していなければ、きっと大戦が終結してそう遠くない内に同じことをしていただろう。それくらいには口が上手く、そのじつ利己的な考えしかない政府だった」


「……」


「そう思えば、あいつが自分たちの世代で戦争という清算ができてよかったと言ったのも間違っていないように思えるんだよ」


 子供たちが戦争にいかずに済むように、あるいはその妻や子を失わずに済むように、自分たち大人が大きな代償を払って汚れた社会構造の決算を済ませた。職人の息子は自分の足と母の命という大きすぎる支払いに意味を見出したかったのかもしれない。


「僕は息子のために、息子はその次の世代の為に代償を支払った。僕や僕の父が積み重ねてきた愚行の数々を継がせないために。きっとあいつが言いたかったのはそういうことだったんだ」


 真実がどこにあるのかヨハンナには分からない。老人も納得したような顔をして、実際には八年経ってなお本当に納得できる結論を探している途中なのだ。立場こそ違えど彼女も結論を探して旅をしている。共通点と言っていいかもわからないほど希薄な繋がりが、今こうして現役を退いた名工に一足の靴を作らせているのかもしれない。


「ふう、かなり出来上がったな」


 一息ついて木型(ラスト)を持ち上げる老人。使いこまれた油染みの目立つ木型(ラスト)には粘土がまるで一体化したように繋がっており、ヨハンナの為だけに存在する靴の土台になっていた。曰くこの型はそのまま靴には使えず、実際に使う木型(ラスト)のモデルになるのだと。手が感触を忘れてしまわない内に原型を作るためこうして整えやすいセットを持ち運ぶようになった、老人なりの工夫ということらしい。


「もう靴を履いてもらっても構わないよ。ありがとう、お嬢さん」


「こちらこそありがとうございます。それで息子さんに会って、どうされるのですか?」


「どう?」


 白魚のような指で赤い靴下をつま先に被せながら、ヨハンナはこの瞬間に最も知りたいと思った質問をした。八年も前に勘当した息子と再会した老人が何をするのか、人の心を知りたい彼女にとってそれは重要なことだ。そこには怒りと悲痛を乗り越えて納得と寂寥を宿した老人の心が表れるはずなのだから。


「どうする、か。きちんと考えていなかったけど、そうだね……」


 やすりを動かす手が止まる。考えるときの癖なのか彼はその細長い工具でトントンと鼻の頭を叩いて見せた。それから困ったような笑みを幾本かの皺が刻まれた顔に浮かべ、やすりを靴に当て直す。


「とりあえず殴ったことを謝ろうか。それからどうするかは、その時考えるよ」


「その時ですか」


「そう。あれこれと先に考えるのはね、疲れるだけであまり意味がないんだ。覚悟だけ決めてやってみた方がいい結果になることも結構あるのさ」


 投げやりとも取れる言葉だが、そこには深い実感のような物が込められていた。伊達に初老と呼ばれる年齢まで生きてきた訳ではないのだと、胸にすんなりと入って来るような説得力がある声音だ。


「覚悟……私には知る由もないということですね」


 明確な落胆を見せるヨハンナに老人の手はまた止まる。彼が顔を上げて窺えば物静かな女は目を伏せて何事かを考えているところだった。黄金色に染まった西日が横顔を照らし出し、深い陰影を刻み付けることであたかも印象派の絵画のような姿だ。


「そんなに知りたかったのかい?」


「はい。感情を知るために」


 感情を知り感情を得ることこそ世界最高の技術と芸術を詰め込んで目の前の女が作られたたった一つの理由。そう時間も経っていないのにすっかり忘れていたのはきっと自分の記憶力のせいではないはずだと、自然すぎる様子で眉を寄せるヨハンナを見て老人は思う。


「ああ、そうか」


 再度やすりで鼻の頭をトントンとして彼は考える。一番手っ取り早い解決を思いついたのは、足早に水平線へと逃げ込むことで知られる夕日が角度を変えるよりも前のことだった。


「そうだな……それならこうしようか。結果がどうであれ、僕は顛末を手紙にしたためてお嬢さんに送ろう。お嬢さんのための靴に添えて」


「いいのですか?」


「もちろん。どちらにせよ靴はルヴィツィアに着いてから作って送ることになるんだしね。よし、型の調整はこれくらいで大丈夫だろう!」


 それ以上の遠慮をさせる間もなく老人は立ち上がる。最初とは全く違う曲線を得た木型(ラスト)に霧吹きで固定剤を振りかけた。広くはない客室に薬剤が気化して独特の苦みを持った臭気が立ち込める。


「窓をお願いできるかい?」


「はい」


 ヨハンナは立ち上がって窓の上部を開く。客室のそれはあまり大きく開かないが、代わりに走る列車が自ら生み出す気流に乗って臭いは消えていった。吹きつけた薬剤が乾いたことを確認してから丁寧に包装を施し鞄に収める老人。ここから先の作業はきちんとした設備のある工房で行うのだ。


「きっと素晴らしい靴を渡せると思う。型を作っていてそんな気がしたんだ」


「楽しみに待っていますね」


 鮮やかさと重苦しさを縫い合わせた上着の懐からキャップを付けたペンを一本取り出したヨハンナは、一枚の白いハンカチにゆっくりとそれを走らせる。文字が滲まないように注意して書かれたのは彼女の帝国における住所だった。


「これはまた古風なことを知っているね」


 ハンカチに素性を書いて渡す。大昔の貴族男性は名前を刺繍したハンカチを意中の女性に手渡していたのだが、靴職人の世代にとっては少し違った情景が思い出されるのだ。白黒の映画が帝国を中心に始まった頃、黎明期の最高傑作と呼ばれた一本のフィルムのとあるカット。当時世界的人気を誇った女優演じるヒロインがハンカチに万年筆で名前を書いて旅先で出会った男に手渡すのだ。多くの若者に旅と恋への憧れを植え付けた名画は、老人の昔日にも確かな憧憬を灯していた。


「母が初期の映画を好んでいたので、私もよく見ていました。あの映画はお気に入りです」


「お気に入り、そうか」


 感情を持たないモノが何かを特別気に入るということがあり得るのだろうか。お気に入りの映画を持つということはそのまま感情を持っているということではないのか。


「モノが心を持つというのは、よくよく考えると不思議なことだね」


「そうでしょうか」


「そうさ。とても不思議で、素敵なことだと思うよ」


「素敵なこと……」


 ヨハンナは抽象的なヴェールの中に甘やかな響きが閉じ込められたその言葉を口の中で転がす。温かみのある言葉だ。具体性がないからこそ鋭くなく、柔らかで染み渡るような印象を与える。


「さて!」


 彼女の様子に頬を緩めながら、受け取ったハンカチを片手に老人は一際大きい動作で背伸びをした。話題に一つの区切りを設けるように、はたまた少し照れくさい台詞を言ったことを誤魔化すように。そして客室の扉をガチャリと開いて恭しい執事のように出口を客へと示した。


「さあ、口煩い赤コートが来る前にお逃げなさい」


 それは例の映画の最後に出てくる台詞。赤い外套が特徴的な風紀警察の訪れる前に部屋へ戻りなさいと、旅の女に気障な男が意外な優しさを見せるシーンだ。当時の風紀警察は未婚の男女が日暮れ以降に同室に居ることを許さないほど厳しかった。もちろん環連合鉄道の車掌(コンダクター)が赤コートのように風紀を取り締まっているわけではない。遅昼から始まって夕飯まで拘束するのはいささか申し訳ないという老人なりの配慮だ。それと折角ハンカチのシーンをヨハンナがしてくれたので自分も何か真似がしたかった。そんな稚気もほんのりと混じっているだろうか。


「またどこかの月の下で」


 最後まで映画の引用を口にしてヨハンナは深い青の絨毯が待つ廊下へと踏み出した。


 ~▲▽▲~


 残された靴職人はつい先程まで客が座っていた椅子に腰かけて窓の外を見ていた。すっかり夕日は沈み、遠い空には薄っすらとその残光が残っているのみ。鈍いオレンジが言葉にできない色を経て紺へ、そして青を湛えた黒へと変わっていくこの時間の色彩はいつ見ても不思議な気持ちになる。赤系から青系へ、相反する色の境目も分からないまま変わっていくのだ


「心は人間だけが持っている一番神秘的な物、だと思ってきたんだがね」


 ぽつりと老人は漏らす。


「それを人間以外に手に入れられるのは、たしかに複雑な気分がある」


 人間にとっての心とは昼が持つ太陽という無限の光のようだ。とめどなく溢れ、誰にもそれを模倣することなどできない。


「……」


 あの女性は本当にモノであったのか。打ち明けられてからその疑問だけが執拗に彼の意識を圧迫する。心と言う太陽を持たない存在。いわば夜のような存在。人の手に依って設計され作られた無機物の集合。自分が今まで何百では効かない数を作ってきた靴とある意味同じ存在だ。老人は職人として靴には愛情と魂を注いできた。だが靴が魂を持つと思ったことはない。


「まあ、でも……お嬢さんならいいかと思えるのがまた不思議だね」


 独り言の間にもすっかり暗くなってしまった景色を眺めながら老人は微笑んだ。確かに外は太陽の残り香すらない闇がねっとりと遍くまとわりついている。それでも平原や山の輪郭はしっかりと分かるし、後方へ走っていく隣の線路は煌々と銀に輝いていた。


「あれだけ神秘的なお嬢さんだからね、人間だけがこっそり隠し持っている秘密を分けてあげても……罰は当たらないだろう?」


 車窓越しに白々と夜闇へ形を与える月影を眺めながら、老いた職人はいつになく楽しい気分になっていた。息子に会えたら謝るのもそこそこにこの得も言われぬ体験を教えなければ。そんな使命感にも似た思いを胸にして。


五か月も開けてしまい申し訳ありませんm(__)m

その代わりクオリティは申し分ない仕上がりだと自負しております。

次はもう少し早く上げられるといいな・・・少なくとも年内には!


✖登場人物

・ヨハンナ:本作の主人公。ルビー色の髪に翡翠のような瞳、大理石色の肌を持つ女。北国の出身。

・老人:ヨハンナと鉄道で出会った初老の靴職人。



✖土地

・環連合鉄道:主要国の首都やいくつかの重要都市を環状に繋いでいる大規模鉄道。


※※※変更履歴※※※

2019/2/9 ルビや一部言い回しの修正を実施

2019/2/10 感想で指摘のあった「・・・」を「……」に変更を実施

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