二歩目 車窓の月、旅人の靴(前編)
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン
力強くレールを踏みしめるその音に合わせて僅かな振動が体を揺する。間隔が変わることなく訪れるそれと窓から差し込む穏やかな日差しは人を眠りへ誘う睡魔の手だ。特に灼けつくようなドナーリ王国の日差しから逃れたばかりとあって、乗客達は吸うも心地よく吐くも心地よいこの空気を存分に楽しんでいた。彼の国の太陽と風と砂と人情はいずれも胸躍らせる異国情緒に富んでいたが如何せんどれをとっても暑すぎる。帝国風の調度と文化に合わせられた車内はそんな熱に中てられた旅人に涼む場所を与えているのだ。
チ……チ……チ……チ……チ……チ……チ……チ……
緩み切った空気は環連合鉄道の汽車が一室、一等客車の食堂車をも満たしていた。艶やかな光沢を帯びるまで磨きこまれた焦げ茶の木製車、金の縁飾が施された厚みある赤の絨毯、染み一つない純白のテーブルクロス、青い蔦草が描かれた白磁の食器。高級感に溢れるその場所にはまばらな人影があり、それぞれに食事や喫茶を楽しんでいる。
熟れた林檎色の髪を長い三つ編みにしたエメラルドの瞳の女。国々を巡って旅をするヨハンナもまたその一人だった。彼女は日の当たる窓辺に座って目を瞑っている。テーブルには並々と注がれたカフェオレボウル、ショートブレッド、それに一冊の本が置かれているがそのいずれにもまだ手は付けられていなかった。ただ日差しの中で目を閉じ、まるで時が止まってしまったかのように佇んでいる。窓から見える峻険な山を入れるなら、あるいは険しさと温かみを共存させた名画だろうか。左頬に貼られた大きな傷用テープだけが雰囲気に水を差していた。
カチッ、キ、キ、カチッ、キ、キ、カチッ、キ、キ、カチッ、キ、キ、
いずれにせよ彼女は他人の目など意識せず、己の中から聞こえる二つの音に感覚を集中させていた。そこに食い違いがないかを確認し、もしあるのであれば差を縮めるために。あたかも時計の歯車みたく狂いない二重奏を奏でるのはヨハンナという人類史で最も精巧なモノの心臓であった。
より厳密に言うならば一方が体や諸機関を調整する本当の人工心臓、もう一方が自意識や感覚を調整する魔導演算脳の中の時刻装置だ。前者はエネルギーの過不足や無理な挙動を繰り返すことで、後者は不規則な生活や過度の演算で乱れを生じる。そしてこの二つが誤差なく揃っていない場合、ヨハンナの体と意識にはパフォーマンスの低下という不具合が発生する。つまりは何かと言うと体調不良や寝不足に似た状態に陥るのだ。
週に一度自ら行う心臓の調整はヨハンナの数少ない弱点であった。他のモノには自分から不具合を生み出すこの仕様が当然搭載されていない。何を思って彼女の母は手間のかかる不具合の種を態々組み込んだのか。答えは本人のいない今誰にも分からない。それでも彼女はその仕様を疎ましく思うことなく、むしろ何か特殊な気分でもって噛み締める様に過ごしていた。たった一人の娘として、ヨハンナ=バークリーとして生まれた自分にだけ組み込まれている「無駄」という仕様。そこにはきっと大切な意味が込められているのだと信じている。
「お嬢さん」
「……はい」
二重奏が完全な同調を果たしたときだった。ヨハンナに声を掛ける人がいた。彼女が目を開けるとそこには生成り色の上下を着こんだ身なりのいい老人がひっそりと立っている。オールバックの黒髪と小綺麗に揃えられた口ひげには白い物が多く交じり、口角と眦に深く刻まれた皺は柔和な印象を醸し出していた。重心がやや右前に寄っていることから、手に持った年季を感じるステッキがどうやらファッション用でなく第三の足らしいことを推測できる。
「相席しても構わないかね?」
「はい」
食堂車にはまだまだ誰もいない席があったのだが何故か老人はヨハンナの向かいを選んだ。そのことに欠片ほどの疑問を抱きつつ彼女は席を立つ。ブーツの足音を絨毯に呑ませながらテーブルを回り込んで杖突く彼に椅子を引いた。本来は給仕の仕事なのだが今はあいにく裏に回っていて居なかった。
「すまない、ありがとう」
年に似合わず少年染みたはにかみを浮かべて老人は座る。彼は隣の席にステッキと上着を持たせてから机上のメニューを手に取った。その向かいにヨハンナが戻った頃ようやく給仕がやってきて注文を取っていく。老人が頼んだのはホットコーヒーとクラブサンドだった。
「お嬢さんはどちらまで?」
老人がヨハンナに声を掛けてきたのはすぐのこと。態々相席を申し出たことから話がしたいのだろうと、彼女が本を隣席にかけた上着に仕舞った後だった。一対の翡翠が見つめる先で彼はにこりと微笑んだ。
「とりあえず第九ステーションまでです」
「鉱山都市バイネルケン……これまた不似合いな場所に行くのだね」
色のない街、竈の煙突に造られた街などと呼ばれる鉱山都市バイネルケンは確かに鮮やかなルビーの髪を持つ女性に不似合いだ。彼女の赤、緑、白からなる非人間的な美しさは洗練された背景の中にこそ置かれるべきだと、そう思う者の方が多い。例えばこの食堂車の一角のような場所にこそ。ただそうした考えはヨハンナからすれば甚だ迷惑なもので、彼女がモノであると知るや否や手に入れようとする人間に多い。只人を凌駕する魔導演算脳の中で薄っすらと警戒が首をもたげる。
「ああ、思い入れのある土地だったならすまない」
老人はヨハンナの危惧を不快感と取り違えて謝罪した。それから彼女の隣席が膝に置いている上着へと目を移してこう言った。
「君は帝国の出身だと思ったので、少し言葉が過ぎたようだ。どうにも僕は無神経な人間でね……これも靴ばかり見てきたツケかな」
色彩豊かな刺繍入りケープと武骨極まりない軍用コートが合体したインバネスはたった一つ、帝国らしいという点でのみ纏まりがあった。何色もの糸を複雑に混ぜた手縫いの刺繍はディレンティア帝国が伝える最も古い伝統の模様。コートは先の大戦にて量産と画一という新しい力で覇を唱えた帝国軍の正規配給品。色も思想も時代も全てが食い違う中で帝国の象徴という共通点だけが不思議な調和と納得を見る者に与えるのだ。
「靴、ですか?」
ヨハンナにとって自分の上着はそろそろ親の顔よりも見た相手、どちらかと比べるまでもなく老人の言葉の方が気を引かれる。
「僕は靴職人なのさ。といっても先月店を閉めてしまったけどね。かれこれ大戦の前から、二十年になるかな……色々と思い入れのある小さな城だった」
懐かしさの内に喜び、悲しみ、達成感、虚無感といった数え切れない感慨を溶かした笑みが老いた男の顔へ浮かぶ。職人として店を出して二十年、師について靴作りのいろはを学んでいた頃から数えて一体何年になるのかヨハンナには想像できない。その苦楽を凝縮したような店を閉じて旅に出た彼の心境に、ある意味で似たような境遇にある彼女は興味を覚えた。それはチェス棋士がテニス選手に覚えるような、あるいは木工職人が数学者に覚えるような、とにかく言葉でどこと指し示せないほど感覚的かつ曖昧な共感だった。
「どうして旅に出たのですか?」
「ふふ、乗ってきてくれてうれしいよ。興味を引こうとしすぎてくどい語り口になってしまったかと、ちょっと心配していたんだ」
おどけた様に笑ってから続きを言葉にしようとした矢先、二人のテーブルに給仕がやってきた。腕に布巾を掛け顔に絵のような笑みを浮かべた彼は恭しく老人の前にクラブサンドとコーヒーを置く。ほろ苦い匂いがふわりと広がる。
「ああ、困ったな。見ての通りここのクラブサンドは少々食べにくい大きさでね」
苦笑の先にあるサンドイッチは確かに厚みがあった。焦げ目がついたパンこそ薄切りだが中身は量がかなり多い。ベーコンは大きなものが二枚、七面鳥のハムは裂かれてぎっしりと詰められレタスやトマトも二重に敷かれている。固定の楊枝はなんと三本。
「ただこれが美味しくて、どうにも止められない。卑しいと思われるかもしれないけど、タダと言われれば余計に手が伸びてしまうんだ。それにほら、僕はこれっきり鉄道に乗らない予定だし」
捲し立てた老人は一旦言葉を切ってヨハンナをじっと見つめる。時折皿の上に泳いでいくあたり本当に食堂車のクラブサンドが気に入っているのだろう。一等客車の料理はどれをとっても一流の宿屋に負けず美味であり、乗っている間は自由に食堂車を利用できる。その魅力を彼は存分に楽しんでいるようだ。
「そんなわけで僕が食べている間、お嬢さんの話を聞かせてもらえないだろうか」
「私のですか」
ことりと傾げられた首に従ってルビー色が踊る。あれだけ話したそうにしていた老人が食事のためとはいえ語り手を譲ったことが不思議だった。ヨハンナの経験的に話したがりの人物はずっと喋り続けているか、そうでなくとも喋り切ってからでなければお立ち台を他人へ明け渡さない。
「旅の恥は掻き捨てと言うし、人の話を聞くのは好きでね。つまり話したいし聞きたい……ふふ、鬱陶しい爺さんだろう?でも君が旅をする理由が聞いてみたいんだ」
冗談めかして答えを言った彼はヨハンナの答えも聞かずに食事を始める。その姿に人好きで社交的な面の下に潜む職人らしい図々しさが感じられた。もっとも五倍は図々しい職人である母を見て育ってきた彼女にとってその態度はむしろ懐かしさを匂わせる。曰く母よりずっと控えめで落ち着いた人物だったという父はこのような人だったのかもしれない。そんな想像のせいかヨハンナの口はいつもより軽くなる。もっとも、普段からさほど口が重い方ではないのだが。
「食事には向かない話ですよ」
最後の確認に老人は目で答える。構わない、話してくれ。活発に動く口元とは反対に穏やかな視線だった。
「私の父は帝国軍の技術者でした。魔導演算脳の開発においては右に出るものなし、それどころか後を付いて行くさえ困難と言われたほどの」
ヨハンナの父は名をジュリアス=バークリーと言った。身長が非常に高く肩幅もあるいわゆる巨漢の類であり甘いマスクとあいまって女性にはウケのいい外見をしていた。とはいえ彼がちやほやされたかと言うとそのようなことは全くない。彼の興味は異性に、というよりも人間に向いていなかった。
「天才の常と言いましょうか。父は極端に興味や人間性が研究へ特化した人でした」
別に人付き合いが下手なわけではなかったという。それどころか身なりは綺麗に纏まっており、誰に対しても愛想よく穏やかに接することから総じて人に愛される質ではあったとか。ただ魔導工学以外に興味が薄く、女性からの誘いにはまったく応じなかった。次第に男色家に誘われるようになるがそれにも応じず、ただ礼儀正しく断っては研究に戻っていく。そんな生き方をするうちに周囲の誰もがジュリアスのことを性別のある人間として扱わなくなった。
「馴れ初めを聞いたことはありませんでしたが、ある意味父と母が夫婦となったのは必然だったのでしょうね」
ヨハンナの母、アナベラ=バークリーは天才という一点を除いてジュリアスと真逆の人間だった。顔立ちはまあまあで身なりに頓着せず、行動的だが他人とのコミュニケーションは滅法苦手。情緒不安定というほどではないにしろ喧しく思い付きだけで周りを置き去りに突っ走っていく人間だ。
「母は在野のフレームアーキテクトとして帝国にその名をとどろかせる天才でした。典型的な社会不適合の天才ですが」
特にそういった周りの評価についてヨハンナ自身は思う所もないのか、ただ淡々と事実として言葉にする。艶めかしい桜色の唇から紡がれるのは両親の偉業と残念な世評だけであり、そこに彼女自身の感情は含まれていない。
「魔導演算脳とフレームアーキテクトというのは?」
一旦口の中の物が無くなった老人が尋ねる。一般人にはあまり知られていない用語だったことにヨハンナは気付き、改めてその説明を付け加えた。
「魔導演算脳は人で言うと脳になります。こうしてお話をするための言葉選びから」
一旦言葉を区切ったヨハンナはカフェオレボウルに右手を添え、左手で掬い上げるように持ち上げて口付けた。大理石の喉が小さく上下して口の中に芳ばしい火の香りとミルクの口当たり柔らかな甘みが広がる。
「物を持ち上げる速度、角度、バランスといった細かいことまで調整しています」
次にショートブレッドを二本の指でつまみ上げて見せる。液体を使わずに焼き上げるそれは粉を固めたと分かる荒い質感の中にバターの光沢を宿していた。薄っすらと振られた塩の結晶が雪の欠片のようだ。それを象牙にも似た形のいい歯で咥えて彼女はゆっくりと噛む。僅かな欠片が落ちることもなくショートブレッドは三分の二を残してヨハンナの口に消えた。目を閉じて咀嚼し味わうヨハンナを前に老人は食事中にもかかわらず空腹を感じ、大きくクラブサンドを齧った。
「掴むという動作には繊細な力加減が必要になります。そういった人が無意識で行う調整も厳密な演算を経て行わざるを得ないのがモノ。ただ人らしく振る舞うだけで膨大な処理を必要とされます」
それだけに演算脳の性能は重要になる。そう言外に示してヨハンナはもう一口カフェオレを飲んだ。
「次にフレームアーキテクトですが、これはモノの体を設計する技師のことです」
手首まである長袖のドレスシャツに包まれた細腕を老人に店、肘から先を天井へ真っ直ぐ向ける。揃えて伸ばした指を親指から人差し指、中指、薬指、小指の順に一本一本折り曲げて拳に変える。今度は小指から逆順に一本一本伸ばして見せ、最後に素早く同じ動作を一通り行った。
「人の肉体は非常に複雑です。骨があり肉があり、それらを筋が繋いでいる。繋がりは一つの単位ではなく互いに連結し複雑な動作を可能とします」
靴職人であるならご存知ですね。そう問いかける女に老人は力強く頷いた。オーダーメイドの靴を作る職人であった彼には骨の形や肉の付き方、筋の損傷具合といった違いとそれゆえに生まれる歩き方の癖が手に取るように理解できた。
「フレームアーキテクトはそうした人体の構造を把握していなければなりません。どれほど処理能力とアルゴリズムに秀でた演算脳を搭載しても、物理的に正しい構造でなければ自然な動きを再現できませんから」
たとえば世界一の踊り子が舞うしなやかで官能的な踊りを再現できる演算脳があったとして、それを乗せる体が肩肘手首や膝足首に蝶番式の関節を持つだけのガラクタでは何をどうしても踊れない。子供が操り人形で遊ぶような不気味でぎこちない動きが精々と言ったところで、演算脳の性能に見合った体を作らなければ意味がないことが分かる。
「フレームアーキテクトの仕事はそれ以外にも様々な用途に応じた器官の設計、組み込み、さらに容姿の基本デザインまで含まれます」
もちろんそれだけ技術的に高い要求をされるフレームアーキテクトに美術的センスまで求めるのは酷であるため、実際には基本デザイン以降の外見は専門家と行っていく。だが外見が機能を妨げないよう、あるいは内部フレームの動作で外見が歪まないよう調整をするのは依然フレームアーキテクトの仕事になる。
「なるほど」
説明に納得が言った様子の老人は繰り返し頷き、そして話を妨げてしまったことを謝って先を促した。ヨハンナとしてはその程度の寄り道に思う所もなく、何事もなかったかのように話題を戻す。
「人のいい父と強引なところのある母は互いの研究内容から仕事上のパートナーとなったそうです。先ほど言いましたように、素晴らしい演算脳には素晴らしい体が必要ですから」
アナベラの方も自分が開発した高機能で多様性に富んだフレームを十分に活かせる脳がないことを不満に思っていたかもしれない。己が天才であることに自覚と自信を持っていた女性だ、周囲の凡愚には日ごろから腹を立てていたことだろう。
「それが意外といい組み合わせだったわけだね」
「そのようです」
時代が許せば二人は平和の中で人々の役に立つモノを無限に作り続けたかもしれない。それどころか今でもそうしていたことだろう。
「子供は二人、人間の子とモノの子を設けて兄弟として育てよう。そんな話をよくしたものだと母は教えてくれました」
そのようなロマンチシズムは当時の帝国技師には珍しかった。より多く、より正確に、より扱いやすい技術を。それが帝国の目指す未来であり、合理性と効率に劣る古い文化はガラスケースに入れられ博物館の中でしか存在を許されない。天才技師の夫婦だからこそ、あるいはその現状に誰もが見失っていた本質を見出したのかもしれない。
「でも、先の大戦が起きました」
「……」
老人の目に悲しみが映る。大陸のほぼ全土を巻き込んだ史上初の大戦はそのままほぼすべての人間に影響を及ぼした。復興がなった今でもその傷跡を抱える者は多く、乗り越えた者も大きな負債を背負っている。特に老靴職人の年齢ならちょうど息子や娘が若者だった頃合い。一番戦争の煽りを受けた世代、その親に当たる。生々しい時代の潮流に押しつぶされてしまう子供たちを救いきれなかった悔恨はどれほど深いことか。
「帝国軍に所属していた父はもとより、民間では知らぬ者のいない技師であった母も招聘されました。そして二人は多くのモノを、戦いのための悲しい子供を生み出しました」
ジュリアス=バークリーの開発した魔導演算脳は四拾七番系が最終モデルとされている。軍部要請で作った物は弐拾六番系以降の全てであり、なんと半分近くが軍用モデルであった。いくら稀代の天才とはいえ軍人である以上は兵器開発から逃れられなかった。そういうことなのだろう。
アナベラ=バークリーは夫と違い軍属でなかったことや、脳に比べて体は仕様変更で対応できる幅が広かったため多くの軍用モデルを残しているわけではない。それでも五型から七型までの基本フレームと特殊フレーム三つが軍用であり、全体の四分の一を占める結果となった。ちなみに当のアナベラは「どうせ生産台数は軍用がほとんど」と言って夫との差を笑い飛ばした。
「父は前線で亡くなりました」
戦いしか知らない哀れな子供たちに親としてできることを。そう言って定期的に前線を訪れて軍用機の整備を行っていた彼は、ある冬の日に決行された爆撃作戦にやられて一個師団と運命を共にした。遺骨どころかどの欠片が誰だかも分からない敵の占領下だったのだ、当然のようにジュリアスの墓は入居者なしのまま建てられた。
「そして三年前に母もなくなり、私は母の手帳を頼りに旅をしているわけです」
「お母さんの手帳?」
「若い頃に研究を兼ねて母は各国を旅していたそうです。その記録をつけた、ある種の日記でしょうか」
当然だが戦前になるため環連合鉄道は存在していない。馬車など様々な移動手段を繋いでの旅だ。今日では馬に跨り一人荒野を駆けでもしないと辿り着かない辺境についての記述もある一方、鉄道の発達により気軽に訪れることができるようになった場所を入国できない土地として挙げていたりもする。実はヨハンナが次の目的地を鉱山都市バイネルケンとしている理由の一端もそこにあった。
「ですから旅の目的は観光です。それ以外にも色々ありますが……いえ、長々と話してしまいましたが、これで質問の答えになりますか?」
「うん、うん」
老人は何度か頷いて満足そうな笑みを浮かべた。皿の上には少しのパン屑と楊枝以外何も残っていない。白磁のカップもほぼ空だ。ヨハンナが後半を省略したのは彼の食事が終わったからでもある。会話の構成について彼女はまだ適切な尺とディテールのバランスというものを会得していなかった。
「その歳で大変だろうが、君の旅によい出会いと発見が多くあらんことを願っているよ」
そこまで言ってから老人は一層破顔して「お嬢さんに歳の話は失礼だったかね」と付け加えた。妙齢の女性が抱く年齢への複雑な思いを知らない稼働年数十年未満のヨハンナは、一連の言葉のどこに面白みを感じればいいのかわからずカップに添えた左手で表面をそっと撫でた。
「しかし、相当長い旅を予定しているんだね。研究を兼ねた旅と言うならかなり広い範囲を渡り歩いているのだろう、君のお母さんは」
「はい。おそらく回りきるには何年もかかるでしょう。でもいいのです。その間に他の目的を達成することもできるでしょうから」
何年もかけて旅を続けるという女の言葉に老人は目を丸くした。故郷によほど未練がないのか、あるいは風に吹かれてどこまでも行く雲の如く旅情に馴染む生まれなのか。そうでもなければ一種の狂気ですらある。人は所詮一所に根を張って生きる動物なのだから。
「移動だけで幾ら掛かるのか、想像もできないよ」
さすがに失礼な感想を抱いてしまったと彼は冗談めいた言葉で誤魔化す。ヨハンナはカフェオレボウルから最後の一口を飲み干してから僅かに微笑んで
「両親が残してくれた物がありますので」
と答えた。ハンカチを宛がって水気をふき取り、今度は乾きすぎた唇をちろっと舐める。
「ああ、なるほど」
何気ない動作に気品と稚気と色香の矛盾した要素を感じつつ、老人は納得して頷いた。帝国随一の魔導技師二人分の遺産など、よほどの贅沢をしても一生遊べるのではないか。想像もできないなりに彼はそう考えたのだ。同時に目の前の美しい女が故郷に執着しないのはそういった柵があるからではないかとも邪推する。
「いや、何にせよ長旅だ。いい靴を買うことをお勧めするよ」
「今の靴ではいけませんか?」
「悪くはない」
引退したばかりの靴職人は率直に言葉を返す。悪くはないということは良くもないということである。旅に出る前からこのブーツを愛用しているヨハンナとしても些か嬉しくない言葉であったが専門家がそう言うのであればそうなのだろうと納得もする。ほかならぬ彼女がそういった専門家の努力の結晶であればこそ、そこを否定する気にはなれなかった。むしろ椅子を引くために立ち上がったあの一瞬でそれを見抜いた老人の眼力に敬服するくらいだ。
「ああ、勘違いしないでほしい。品物はとてもいいよ」
前置きに続いて老人の顔に浮かんだのは自信と喜びに満ちた強い笑みだ。
「僕ならもっと合った靴を作れるね」
彼女の靴は素材も職人仕事も素晴らしい物だと老人は褒めそやした。ただ一点、どうにも人間に誂えた物とは思えないほど左右で違いがない。そう指摘した。言うならばよくできた靴の美術品であると。
「……」
全く以て正解だった。ヨハンナという人ならざる存在に誂えて職人が作ったブーツだ、モノに歩き方の偏りがないことから左右は完璧な鏡写しになっている。それは彼女が履くことによって完成される一つの美術品なのだ。
「……」
数秒の静寂を挟んでヨハンナはその言葉を口にした。
「私がモノだと言って、貴方は信じますか?」
率直な問いかけに老人は目を丸くして今しがた口にしたコーヒーを味も分からぬまま飲み下し、たった一言
「いや」
と答えた。
事実ヨハンナは誰が見ても人間にしか見えなかった。抜けるように白い肌は帝国人ならむしろ自然で、鮮やかすぎる髪と目も絶対的に少数とはいえ居ないではない。なにより動きが特徴的な単調さを含んでいないのだ。愛玩用や暗殺用のモノはいずれも美しく違和感のない顔に作られている。そんな存在を人間と区別するには動きを見れば良いとされていた。機械仕掛けのモノは余分な動きをせず、同じ動作をするときはまったく同じ動きになる。
ところがヨハンナは動きが全て微妙に違う。カフェオレボウルを持ち上げるとき、右手から添えることもあれば左手を先にすることもある。ショートブレッドを口に運ぶとき、つまみ上げる指の本数は二であったり三であったりする。口元をハンカチで拭いたときには、三度拭ったのに一度だけ乾いた唇を舐めて濡らした。
「そんな、いや……まさか」
見える範囲で老人はじっくりとヨハンナのことを見た。人ではないというならその証拠を、あるいは自分の感覚に自信を失わないための根拠を探して。彼が諦めたのはたっぷり一分以上も見つめてかたらだった。
「いや、すまない。あまりじろじろと見るのは失礼だったね」
落ち着くためにカップを口まで運んでからようやく老人は自分がコーヒーを飲み干していたことに気づいた。
「気分を害されましたか?」
「そんなことは、ないと思う。驚きすぎて僕自身よく分からないけども」
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン
老人が考えを整理しようと口ひげを繰り返し撫でる。二人の間には鉄道の車輪が足場を踏みつける音だけが通り過ぎていった。気がつけば日差しは山に遮られている。
「お客様、もうすぐトンネルを通過いたします」
食堂車の反対端の席で給仕が成金風の家族に忠告した。窓を開けて景色と風を楽しんでいた子供が慌てて父と窓枠を下す。どの客車でも煙塗れになりたいと思う乗客はいないだろうが、食堂車ではなおのこと誰しもが神経質になるのだ。
「君の話をもう少し聞きたくなった。僕の話もまだ聞いてもらっていないしね」
「?」
「場所を移そうじゃないか。僕の客室に」
老人はそう言ってもう一度微笑んだ。
✖登場人物
・ヨハンナ:本作の主人公。ルビー色の髪に翡翠のような瞳、大理石色の肌を持つ女。北国の出身。
・老人:ヨハンナと鉄道で出会った初老の靴職人。
・ジュリアス:ヨハンナの父。天才的な魔導演算脳開発者であり、大戦にて戦死。
・アナベラ:ヨハンナの母。天才的なフレームアーキテクトだったが、ヨハンナの前で自殺。
✖土地
・環連合鉄道:主要国の首都やいくつかの重要都市を環状に繋いでいる大規模鉄道。
※※※変更履歴※※※
2019/2/9 ルビや一部言い回しの修正を実施
2019/2/10 感想で指摘のあった「・・・」を「……」に変更を実施