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一歩目 星の涙、歩む女(後編)

「どこで体を拭けばいいですか?」


 背後からかけられたガラス細工のような声にハマードの肩が跳ねる。彼は水汲みに向かったヨハンナが戻るまでにはまだ時間があると思っていた。加えて家のドアは開けるにも閉めるにも何かしらの音が出るはず。それがいきなり背後から声をかけられれば誰だって驚く。


「お、お姉さん、早かったんだね」


「井戸の場所は覚えていました。作業も難しくはありませんし」


「ほんとにお姉さん、見かけによらず力持ちだね。あ、それで体を拭く場所だっけ?ここ洗い場だから使って。中に洗いたての布があるからそれも使っていいよ」


 ハマードはキッチンの奥の扉を指さす。二つある片方は厠でもう片方が洗い場になっている。皿も体も服も全てそこで洗われ、排水はトイレと一括して下水に流れていく仕組みだ。ドナーリ王国の主要な街に下水が整えられてから早20年と少し、大戦の被害が少なかったアファルジャナーナでは何の問題もなくそれらが活用されていた。


「わかりました」


 竈に向いたままのハマードの視界に極彩色の布切れが映り込む。扉が開かれるときと閉められるときに一度ずつわずかな軋みが聞こえ、布切れは洗い場へと吸い込まれて行った。

 脂がはじける鉄鍋を竈の火から下し、そっと湿らせた布巾の上にそれを置いた。じゅっと黒く焼けた鉄の肌から火の残り香が布巾へと乗り移る。余分な熱で肉が焼けすぎないよう処置をしたハマードは一息ついた。これであとは葉野菜を咥えて待つアエーシに具を入れれば夕飯の完成だ。よく食べるヨハンナのために彼は店から少し余分に肉を持って帰っていた。


「体拭くのは後でいいかな」


 独り言を呟きながら竈から余分な木を取り出して火を抑える。店は繁盛していても無駄遣いができるほど生活に余裕があるわけではない。

 肉汁がはじけて踊る音も竈のごうごうという火の唸りも収まって静寂が訪れたとき、ハマードの耳になにか小さな音が届いた。ごそごそとしたそれは明らかに人の立てる音で、くぐもってはいるがすぐ近くから聞こえている。聞き覚えのある音にぼんやりと思考を巡らせば、それは朝晩自分が服を着替えるときに耳元で聞こえるのと同じものだ。


「あ……」


 そこまで気が付けば異国から来た美しい客人が服を脱ぐ音だとすぐに察しがついた。するりするりと届く衣擦れはハマードが着ている厚手の安い布とは違う、上等で薄い生地を使った服を連想させる。


「て、ダメダメ」


 まるで盗み聞きしているかのような状況に慌てて頭を振る少年。たとえ自分の家であろうと女性が服を脱ぐ音を盗み聞くような破廉恥なことはできない。彼は商人としても料理人としても年齢に見合わない腕前を誇りつつ、まだ純粋で潔癖なところを手放せない程度には幼かった。

 ふと、衣擦れの音が止んだことにハマードは気付いた。それは同時に服を脱ぎ終わったことを意味していた。つまり今、あの無機質で透き通る乳白色の肌が全て露わになっているのだ。解かれた髪が熟れた林檎(タファーハ)より鮮やかな赤の衣となって柔らかな体を包み込んでいることだろう。細長い象牙細工のような指が水を含んだ布を捕らえ、たおやかな動作で体を拭っているかもしれない。ドナーリの焼き尽くすような光の下でさえボタン一つ分も衆目に許されることがなかった体を。


「……は!」


 ハマードは我に返った。自分の腕が知らぬ間に持ちあがっていることに驚き、ついで足が半歩ほど扉の方へ向けて動いていることに慄く。彼は想像の中に生まれた甘美な光景へと我知らず手を伸ばしていたのだ。いや、あるいはその甘美な光景は想像の産物ではなく、目の前の薄い扉一枚を超えたところにあるのかもしれない。そんな確信めいた誘惑が心の奥から滲みだすのを感じてハマードは数歩下がった。九十度向きを変えて先ほど自分が火入れを終えた肉を見る。


「飯の用意をしよう。そうだ、そうしよう」


「お待たせしました」


「え、はや!?」


 彼が銅のトングで肉を持ち上げたところで扉が開きヨハンナが顔を出した。そちらを向いたハマードはまるで再び幻影にとりつかれたように凍り付く。


「どうかされましたか?」


 首を傾げるヨハンナはあの異様なインバネスを折りたたんで腕に下げていた。纏っているのはコートの前から見えていたドレスシャツとスカートのみ。しかしそのシャツは少年が想像していたものとは大きく違い袖がなかった。ついでに背中も大きく開いていて、正面からでも二の腕や脇腹の一部がはっきり見える。

 この姿で外に出ようのものなら役人が顔を真っ赤にして走ってくるに違いない。この国ではそれほど肌を露出させる文化がなかった。ハマード自身奔放な異国人には慣れていても、想像していたことと相まって顔が赤くなるのを抑えられなかった。


「お、おね、お姉さん……!?」


「ご安心を。外ではコートを脱ぎませんから」


「いや、そりゃそうだろうけど!」


「それより汲んできた水が半分余りました。ハマードさん、使いますか?」


 洗い場の扉を閉めて歩み寄るヨハンナからはほんのりと花の香りがした。ハマードが嗅いだことのない、脳裏に小さな白い花弁を思い描かせる控えめな異国の香りだ。彼女が持ち込んだ石鹸の匂いはきっと洗い場を満たしている。そこで真新しいとはいえヨハンナが使った残りの水で体を洗うというのは、まるでさきほどまでの想像そのものの残り香に浸るようではないか。


「だ、大丈夫です……」


 純粋で潔癖な心の裏側に確かに存在する生物的な本能が唸りを上げるのを感じ、ハマードは顔を覆ってその場にしゃがむ。


「大丈夫ですか?」


「う、うん。先に屋上に行ってて?シュワルマ持ってすぐに上がるからさ」


「わかりました」


 キッチンを後にするヨハンナの赤髪からちらちらと見える背中へ視線を注ぐ少年。耳まで染まった彼の顔を竈の火がぼんやりと眺め、呆れた様に小さく爆ぜた。


~▲▽▲~


 ハマードの家の屋上へと上がったヨハンナは空を見上げる。水汲みに出かけたときと同じ濃紺の夜が点々と輝く光の粒を纏って広がっていた。


「綺麗です」


 吹く風が少し冷えてきたことに気づいて彼女はインバネスを羽織る。父の形見を仕立て直した軍用コートに母がケープを縫い付けたそれは、ある意味ではヨハンナの弟か妹に当たるとても大切な存在だ。そしてなにより優秀な防寒着でもある。


「お待たせ」


 しばらくヨハンナが空を見上げているとハマードが梯子を上って屋上へ現れた。器用に両手でシュワルマをどっさり乗せた皿を持ち足だけで体を支えている。


「持ちます」


 返事を聞くことなく彼女は少年の手から皿を取り上げる。一種類だけ足された香辛料が昼間とは違う香りを辺りに振りまいた。店に出せるほどの量は確保できない珍しい香辛料であるが、それは彼女の知るところではなかった。


「おいしそうです」


「たっぷりあるから遠慮せずに食べてよ。俺は二つあれば十分だからさ」


「いいのですか?」


「一日中味見してるからあんまり腹減ってないんだ」


 ハマードが浮かべる苦笑から彼女は控えめな気配を感じなかった。よく食べる客人に気を遣っているわけではなく、本当に一日中調理の合間に味見をしていて空腹感はないのだろう。


「では、いただきます」


「空も見てなよ、お姉さん。ダウワーマは始まりを見逃すと後悔するからさ」


 親切な忠告に視線を天へと戻すヨハンナ。そのまま全く手元を見ることなくシュワルマを一口齧りとった。塩と黒ココの辛さを追加された香辛料がやわらげて夕飯にちょうどいい落ち着きのある味になっている。そう彼女は思ったが口に出すことはなかった。なぜならその翠の瞳が見据える先で星々がゆっくりと、だが確かに動き始めたからだ。


「きた」


 少年の声がまるで開会宣言だったかのように、東の空に昇る満月を中心に大小様々な星がじわりじわりと動いていく。ただまばらに光を放っていた小さな点は隣の点と連れ立って月へにじり寄る。宴の主催者が昇るよりわずかに早いペースでの移動はとてもとても緩やかで、それなのにはっきりと目に見えた。


「これがダウワーマ、星の渦……美しい」


 ヨハンナは二口目を食べることも忘れてその摩訶不思議な景色に見惚れた。帝国で一年かけてもこれだけの星を見ることは叶わないと思うほどの数が一斉に月を迎えて踊る。ドナーリ王が国の至宝と呼ぶのも頷けるほど、尊さすら感じる絶景。


「お姉さん、感動してるとこ悪いけどさ」


「なんですか?」


 動き続ける星々を目で追ったままヨハンナは聞き返す。その姿はまるで少しでも目を離してしまえばこの素晴らしい踊りは二度と見られないのではないかと心配する子供のようだ。


「渦になるのは月が真上に来る頃。今からずっと見てたら首が痛くなるよ?それとシュワルマも冷める」


「それはいけません」


 空から視線を動かさないままヨハンナは二口目を齧る。そのまま一つ目をぺろりとたいらげた彼女は手だけ動かして二つ目を掴み取ってまた口に運んだ。まるでどこに何があるのか見なくとも把握しているかのように迷いのない動作だ。


「……」


「……」


 月と星がやんわりと渦を形成する様を瞬きすら惜しんで眺めるヨハンナ。ただ手と口だけが食事を続けていく。そんな彼女の横顔をハマードも食い入るように見つめている。二人はまったく違うものを似た感情で記憶に刻んでいた。


「!」


 そんな中、ヨハンナが突然視線を空から外した。屋上の一点、何もない普通の石材の角を凝視する。大きく見開かれた目の中で虹彩が薄っすらと光を帯びていた。


「え、ど、どうしたの?」


「ハマードさん、あちらには何がありますか?」


 ヨハンナは屋上の角を見据えたままそう尋ねる。もちろんその直線状にはなにがあるかと尋ねられているのはハマードもすぐに分かった。そこは住宅地とスークの丁度中間地点、あるのは彼の住まいと同じ石造りの家と安い宿くらいのものだ。


「あ、傭兵さんの宿がある!」


「その傭兵は信用のおける方ですか?」


 もとよりあまり感情の察しやすいものではないヨハンナの声は今や月の光より冷たい雰囲気を纏っている。あるいは星々に傅かれている分、今は月の方が暖かいかもしれない。そのことにハマードはなにか只ならぬ気配を感じて自分の記憶を掘り返した。


「えっと、結構前からいる人たちだから信用は皆してるよ。何回もうちの店にだって来てくれてるし、態度が悪いとかもない」


「そうですか。では、ハマードさんはここで待っていてください」


「へ?」


 少年の口から間の抜けた声が漏れる。ヨハンナはそれに構うことなく立ち上がり、気負いなく屋上の柵を飛び越えた。


「ちょっと、お姉さん!?」


 常軌を逸した行動にハマードが慌てふためく声を背に、屋上からの着地をなんなく成功させる。そのまま路地の小道へとわき目もふらずに飛び込んだ。


~▲▽▲~


 砂漠の国には年に一度、数日だけ月と星のカーニバルが訪れる。その間は国中の大地が真っ白に照らし出され、誰も道に迷うことがない。妖しくも美しい光景がなぜ起きるのか、今の人の技術力では全く理解できない。しかしそれが美しく、そして素晴らしいものであることだけは理解の範疇だ。


 ヨハンナは入り組んだ路地を走り抜けながら母の膨大な手記に記された一節を思い出していた。三年前に母が死んだあと発見した、研究についてではない手記。そこには旅の思い出や聞きかじった話などが取り留めもなく書き綴られていた。ヨハンナが旅をする理由の半分はその手記の中身をその目で見るためだ。


「あそこですね」


 狭い路地から空は見えづらいため住民の多くが屋上で星を眺めているこの時間、ヨハンナは誰にも邪魔されることなく全力で走っていた。彼女の横で窓や入口が矢のように後ろへと流れて行き、目指していたとある反応の場所が遠目に見え始める。周りの建物より若干立派な造りの三階建てで表には宿屋の看板が掛かけられている。

 ほどなくその宿屋の前にたどり着いたヨハンナは髪と同じルビーの眉を寄せた。彼女の脳裏に執拗(しつこ)く居座っていた水汲みの時と同じ奇妙な感覚は宿屋の中からしている。他には何も、本来陽気とされる傭兵の喧騒も宿の従業員が活動する気配も何も感じられなかった。まるで誰もいないような静けさと奇妙な感覚の発信源だけが宿泊客のようだ。

 木製の扉を押せば宿はその口をあっさりと開く。ランタンの明かりはなく窓から差し込むわずかなダウワーマの光が薄く宿の(はらわた)を見せている。夜のさなかに外よりも暗いそこはまさしく内蔵だった。宿のではなく、人の内蔵だ。件の傭兵なのか従業員なのか、はたまた別の宿泊客や用事で立ち寄った近隣の住民なのか分からないほどに破壊された人体が部屋を埋め尽くしている。斬られ、砕かれ、裂かれ、潰され、穿たれた上で天井にまでぶちまけられた人の成れの果て。悪夢にもなかなか見ないほどの惨状がそこにはあった。


「惨いことを」


 ぽつりと呟く。ただそれだけの言葉で彼女は宿の中へと足を踏み入れた。人肌よりやや冷めた熱気と、まだ粘り気を帯びていない新鮮な血液から臭い立つ鉄臭をかき分け、湿った足音を引き連れて奥へと向かう。そのまま二階の階段を上がりきったところでヨハンナは目的のモノを見つけた。


「聞こえているかは分かりませんが、こんにちは」


 細い廊下の端と端に位置する相手に声をかける。ボロボロになった濃い色のコートを纏う女性だ。体格はヨハンナと概ね同じで髪も腰まである。違いと言えば肌や瞳、髪の色がハマードやバドバヤールのようなドナーリ王国人に近く、より一層作り物めいた顔立ちをしている点と全体的に酷く損壊している点だろうか。顔の左側の肌が大きく捲れて茶褐色に錆び付いた素地が露出している。両腕も肘から先が剥き出しになっていて、指先に至っては鋭利な刃物の形を見せていた。


「その錆び方は軍用五型基本フレームですね。前後に小刻みな揺れを刻むクセは四十番台以前の演算脳の特徴です。軍用フレームでありながらの美しい顔と指先の仕込み刃から察するに暗殺カスタム機ですか」


 ヨハンナは顔色一つ変えずにつらつらと相手の情報を当てて見せる。相手が人間でないことを彼女は把握していた。錆び付いた女の正体は国によってアンドロイドやオートマタ、ゴーレム、人造人間などとも呼ばれる存在。すなわち人によって作られたモノだ。


「私の言葉が分かりますか?」


 女からの返事はない。ただ茶褐色の粉を落としながら左目の眼球がぐりぐりと動き、虹彩から黄色の光が少量こぼれるだけだ。


「一階の惨劇は貴女ですね。故障してしまったのですか?」


「……所属ノ……確認がトれナイ……識別コーどヲ……」


 外見より一層錆び付いた声で途切れ途切れに女はそう言った。


「敵などもういませんよ。貴女はもう戦わなくていい。戦争は終わりました」


「……所属ノか、カ、確認……ガ取れナイ……しキ別こオドヲ……」


「私に所属はありません。貴女にももう」


「識ベつコおド……ニ返トうなシ……排除すル」


 聴覚機能まで破損していたのか、うわ言のように繰り返していた女が動き出す。予備動作を伴わないぬめりのある動作で前へと倒れたかと思うと両手足を使って床を走る。首だけで真っすぐ前を見据えて長くはない廊下を迫る女に、ヨハンナは静かな視線を向けた。翡翠の輝きに宿るのははっきりとした哀れみの色だ。


「貴女では私を壊せません」


 ヨハンナの足が一歩前に出される。次の一歩で彼女は宙に浮く。風に巻き上げられた羽毛のようにふわりと舞って地を這う怨霊のさらに向こう、廊下の奥側へと着地する。


「危けン度ホ正……排除かラ……セん闘にイ行……」


 上半身を起こして二足歩行に戻った女は髪を振り乱してもと来た道を駆ける。錆び付いてなお切れ味の鋭さを窺わせる指先の刃に銀の残光を灯して。ヨハンナの白い肌など撫でただけで見るも無残に斬り裂かれてしまうだろう。

 それでもヨハンナはわずかに腰を落とすだけで逃げることはなかった。暗闇にぼんやりと光る瞳で錆びた女の挙動をつぶさに見つめ、振り下ろされる凶刃に不似合いなほど穏やかな動作で腕を上げる。


「しネ」


「お断りします」


 白い手が錆び付いた手首を掴む。茶褐色の粉が耳障りな鳴き声を上げて舞う。錆び付いた女の動作が一瞬止まったかと思いきや、ヨハンナが腕を引っ張ったことでそれまでよりも加速をつけて怨霊は窓に向けて射出される。


「ギッ」


 それがうめき声だったのか軋みだったのかは分からない。直後に響いた鎧戸の砕ける音に比べれば随分と細やかな音だったことだけは確かだ。女は窓にぶら下がる板切れにいくらかの皮膚を残して路地へと落下していった。

 腕一本で女を投げ捨てたヨハンナもすぐに後を追って窓から飛び降りる。宿屋の暗さを夜とするならまるで昼のように明るい星たちの祭りに照らされ、遠くからはそれを讃え祝う人々の祭りの声が聞こえる。そんな活気などどこ吹く風、路地に着地した彼女はすぐに数歩後ろへ跳び退いて濁った閃きを躱す。


「……コろす……殺ス……こロス……」


 踏み込んで指の刃を振るう女。コートはボタンが千切れたのか肩にだらしなく引っかかっており、破けていた左の顔の皮膚は顎下まで垂れ下がっている。月に暴き立てられたその素顔は人間に極めて似た配置の錆びた骨格と断裂しかけの筋繊維で化け物じみていた。


「診断してみましたが、私に貴女を修理することは」


「お姉さん!」


 ヨハンナが見据える女のさらに先、石でできた路地と路地の交わる角から一人の少年が姿を現した。それは突然姿をくらました彼女を探しに出たハマードだ。後ろ姿からは女の恐ろしい顔や手が見えないために彼は二人の方へと走りだしていた。


「ハマードさん、来てはいけません!」


 この街に着いて初めてヨハンナは声を荒げた。その顔に驚きと焦りを浮かべて。


「こロ・・ろ、ろ、ロス……」


 女の首がみしみしと音を立てて背後を振り返る。途中で負荷に耐えかねたフレームのどこかから破断する音が高らかに響いた。


「え」


 少年の足が止まる。代わりに女の足が動き出す。首と鋭い手だけを背後に向けてバランスを崩すことなく。


「う、うわぁああ!?」


 あまりの光景にハマードは腰を抜かしたようにへたり込んだ。顔の半壊した女が後ろ向きに走り寄ってくる様はその美貌と相まってあまりに狂気的だった。


「させません!」


 紅の長髪が翻る。革のブーツが小気味のいい音を立てて砂を噛み締め、それまでで一番の加速を小さな爆発音とともにヨハンナに与えた。わずか五歩で女に追いついた彼女は右手を突き出す。ぴったりと揃えられた指先がコートの内側に見える青いスリップと人工皮膚を貫き、赤錆びに耐久性を奪われた合金フレームを打ち砕く。


「ガギ!」


 即座に右腕の刃が閃いて離れようとした彼女の頬を斬りつける。眉を少しだけ寄せたヨハンナは上体を横に倒して痛烈な回し蹴りを女の脇腹へ叩き込む。鈍い金属音をさせて女は木造の倉庫へと吹き飛んだ。


「ハマードさん、怪我はありませんか?」


「う、うあ、お姉さん、あれは一体……あ」


 ヨハンナが差し伸べた手にすがるようにして立ち上がったハマードの視線が彼女の頬に固定される。空気が漏れだすような少年の声には驚愕以外の色が宿っていた。納得したような、理解したような色が。

 女の刃に斬られたヨハンナの頬はぱっくりと開いているが血は一滴も零れていない。代わりに暗い銀と赤い繊維が月陰を弾いて輝いている。ヒトではなくモノ、錆び付いた女と同じ作られた存在なのだ。


「ハマードさん、私は怖いですか?」


 穏やかな声で彼女は尋ねる。相変わらず笑みも浮かべずじっと少年を見つめるその(かんばせ)からはどんな感情もうかがい知れない。ただハマードの目にはルビーで紡いだシルクの髪も大理石の柔肌も翡翠の瞳も、全てが美しいと同時に儚く優しいものに映った。


「え、いや……こ、怖くない!」


 彼がそう答えたのは見栄だったのか、それとも本心だったのか。その返事にヨハンナは見て取れるかどうかも定かでないあえかな笑みを浮かべる。


「私はこの通りモノです。母は偉大なるフレームアーキテクト、父は稀代の魔導演算機プログラマ。大戦に際して帝国が生産した人ならざる兵隊は全て両親の手に依る物です」


 ハマードの手をそっと放した彼女は衝撃で倒壊した倉庫を見る。おこりの発作を起こしたようにかたかたと震えながら暴走するモノが立ち上がっていた。すっかりコートもスリップも脱げて艶めかしい裸体を外気にさらしている。とはいえその姿に興奮を覚える男はいないだろう。なにせ顔や両腕の人工皮膚はほとんど失われており、むき出しになった金属製の顔面フレームの顎だけが無意味にかつんかつんと開閉しているのだ。しかも鳩尾のあたりにはヨハンナの手に依る大穴が開いて部品が一欠け、また一欠けと剥離してきている。


「アレはある意味私の姉に当たるモノです。私と違って軍用の量産型ですが、使用されているフレームと演算脳は両親が設計しています」


 腰だめに拳を構えたヨハンナはすらすらと見の上話を口にする。頭上ではちょうど月が空の階段を上りきろうとしていた。


「私は両親の最後の作品として、壊れた兄や妹に引導を渡す責務があります」


 女の体がぐらりと前に傾く。再び地を這うように迫る冷たい殺意の視線をヨハンナは真っ直ぐ見返した。穴から落ちた金属が地面を叩いて音を奏でる。月の絶頂を讃えるにはあまりに無粋な音楽を掻き鳴らす。


「さよなら、姉さん」


 愚直に正面から跳びかかってくる女の、己の姉の顔面をヨハンナの拳が捕らえる。手の柔肌に傷が入ることはなく、反対に女の頭蓋は長年の負荷と相まって砕け散った。外装がネジ単位で吹き飛び濁った保存液が後方へ噴き出す。衝撃を和らげられることなく受け取った演算脳が複雑な光を孕んだガラス管群と無数のコードに分解され、地面に落ちる頃にはただのガラスと金属の塊になり下がった。そんな中で輝く翡翠の(まなこ)は相手の無機質な目玉から光が消える瞬間まで、しっかりと視線を結んだままだった。

 ヨハンナが拳を引き戻していつも通りの姿勢に落ち着く。それを見てもハマードは何も言えなかった。二人を包む沈黙の傍で、頭を失いただの鉄と化した女が倒れる音がどこか空々しく響いた。


「あ」


 言葉に窮したままの少年が空を仰いでまた声を漏らした。彼は上を見たままヨハンナの袖を掴んで軽く引っ張る。彼女は首を少年に向け、彼が浮かべている感動の表情に疑問を抱いてその視線を追った。


「これは」


 ヨハンナの目が大きく見開かれる。真っ白に輝く天頂の満月を中心に大小数千を超える星々が渦を描くダウワーマの真の姿。今、彼女たちの見上げる中心から外側へ幾筋もの白い線が現れては消え、消えてはまた現れていた。


「流星群」


 星たちが夜天を統べる女神の下へと集い、箒星となってまた空の彼方へ還っていく。不和の象徴で酷薄とされる月から星が降り注ぐ様は、空以外の何もかもが溶けて消えたような奇妙な感覚と混じり合ってハマードの頬を濡らした。


「まるで月が泣いているみたいだ」


 その言葉にヨハンナの肩が小さく跳ねる。


「これが星読みが私に見せたかった光景ですか」


「お姉さん?」


 声の調子から自分と同じように泣いているのかと思ったハマードが覗き込むと、ヨハンナは言葉にしにくい表情を浮かべていた。一言だけ読み取るなら、切ない顔だ。


「いつか私の死を泣いてくれ。母は三年前そう言って私の目の前で命を絶ちました」


「え!?」


 突然の独白に少年は息をのむ。


「とても悲しかった。でも私はその時涙を流せませんでした」


 涙を浮かべることなく彼女は星降る空を見上げ続ける。


「泣きたい。でも泣けない。それがとても苦しいんです」


「お姉さん……」


「星空でさえも泣けるのに、どうして私は泣けないんでしょう」


 誰にともなく尋ねるヨハンナの瞳に、女神の涙は滔々と流れ込んでいった。


~▲▽▲~


 この世の全てを焼き焦がすような日差しの中でヨハンナとハマードはお互いに向き合っていた。彼の背後には五日前と変わらぬ活気を見せるアファルジャナーナのスークが広がり、彼女の背後には一台の幌馬車が出発を目前に控えている。


「もう行っちゃうんだね、お姉さん」


「はい。頬の傷もちゃんと修理しなければ、砂が入ると面倒ですから」


 コート(マアタフ)のフードからテープの張られた頬を見せるヨハンナ。ダウワーマ初日の事件でできた傷を応急処置した姿だ。例の事件はその翌日から三日ほど行われた捜査によると傭兵たちに骨董商が戦闘用として停止していたあの女を売りに来たところから始まったとのことだ。大方の予想は起動させた時点で壊れていた女がその場にいた全員を殺し、外に出て自分の頭にも一発叩き込んだという方向でまとまったらしい。


「そういえばお姉さんは何を探しに旅をしてるんだっけ?最初店に来てくれたときに探し物をしてるって言ってただろ」


「友達です」


「いなくなった友達?」


「いいえ、友達になってくれる人を探しています」


「へ?」


 ハマードの口から素っ頓狂な声が上がる。初日に泊まって以降、ヨハンナは家事を肩代わりする代わりにずっと彼の家に逗留していた。その間に色々な話をした二人だったが、友達になってほしいだとか言われた覚えが少年にはなかった。


「な、なんで俺じゃ駄目なわけ!?」


 彼は驚きのあまりついに素で叫んでしまう。


「いえ、ハマードさんがなってくれるならとても嬉しいです」


「じゃあ言ってよ!」


「友達の作り方を知らないので」


「えぇ」


 ヨハンナの返事にハマードは言葉を失う。色々な人種や生い立ちの人が来るスークに居てもなかなか聞くことのない台詞だったようだ。


「友達の作り方は誰も教えてくれませんでした。人を見ていてもよくわかりません」


「いや、そんなの普通に言えばいいんだよ。私と友達になってってさ」


「私と友達になってください」


「即言うんだね!?」


 少年の体からどっと気が抜ける。膝から頽れそうになるが、そんなことをしようものならよく灼けた砂にたっぷり太陽の恵みをおすそ分けされてしまうので我慢する。人の肌に太陽は偉大すぎる。


「まあいいや……俺はハマード=ハムサ。よろしく」


「ハマードさん。いえ、友達になるんですからハマードくんがいいですね。よろしくお願いします、ヨハンナ=バークリーです」


 ぺこりとお辞儀をした彼女の顔を見たとき、ハマードは五日間どうしても結論がだせなかった疑問に答えを見出した。ヨハンナ=バークリーは作られたモノだが、確かに心を持ったヒトなのだ。一人の女性なのだ。


「お客さん、もう出すから早く乗って!」


 御者に急かされてヨハンナは馬車の客席に上がる。ハマードはフードを軽く手で引っ張って日差しを遮りながらその姿を見上げる。ようやく少し知れた頃にはもう別れが目前になっていることに、少年はいつにない寂しさを感じた。


「じゃあね、ヨハンナ。また来てよ」


「ええ、ハマードくん。きっとまた来ます。だって」


 幌の後部から顔を出した北国のモノはもう一度小さく微笑む。


「君は私の初めてですからね」


「その言い方は止めて!」


 鋭い鞭の音がして馬車が動き出す。きしきしと軋みながら、顔を真っ赤に染めた少年を残して。


「さよなら、ヨハンナ……俺も初めてだったよ」


 少年は白い砂漠に立ち上る陽炎の中へと真っ赤な髪が紛れて見えなくなるまでずっと見送り、最後に口の中でつぶやいた。


新連載、というにはペースの遅すぎる「さよなら、ヨハンナ」がスタートです。

拙作「技神聖典」の元祖ファンタジーかつ軽めなタッチとは打って変わって、

スチームパンクの名のもとに様々な文化をごった煮にしたうえで表現に遊び倒した作品となります。

本当にペースは遅いですが、それでも気長に愛していただけたらと思っています。

それでは、感想や評価おまちしておりますm(__)m


✖登場人物

ヨハンナ:本作主人公。美しい外見に反し、最高傑作の「作られたモノ」。友達募集中。

ハマード:ヨハンナの友人一号。別名、初めての人。今後出てくることはあるのか……。

バドバヤール:ハマードの屋台の向かいの魚屋。いい人だが出番はなかった。

暗殺型:色仕掛けからの暗殺に特化した軍用のモノ。設計はヨハンナの両親なのである意味姉にあたる。


✖場所

・ドナリ王国:砂漠の国。毎年ダウワーマという超自然現象が見られることで有名。


※※※変更履歴※※※

2019/2/19 感想で指摘のあった「・・・」を「……」に変更を実施

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