一歩目 星の涙、歩む女(前編)
友達を100人作って、いつか私の死を泣いておくれ。
その時君は心の意味を理解できるだろう。
さよなら、私の愛しいヨハンナ。
~▲▽▲~
砂埃舞う道を大勢の人が行き交っている。男も女も一様に強い日差しから身を守るために白い外套で頭から足までを覆っている。それでも通りの華やかさが陰らないのは翻る白から覗く鮮烈な色使いの服のせいか、あるいは活発に交わされる商談の声のせいか。
ここはアファルジャナーナ、ドナーリ王国で最も栄える市場の一つだ。
「黒ココの実を50テントで銅貨1枚だ!買った買った!!」
「アマリア産の砂糖はどうだ!?上質で真っ白、混ぜモンなんかしてないぜ!」
「クロッカと黒ココを200テントおくれ!」
「おじさんこっちお釣りまだだよ!」
怒号のように飛び交う謳い文句、投げ渡される硬貨、投げ返される品物と釣銭。あまりに騒がしく、けれどどこか微笑ましい日常の雑踏。そのなかを、1つの白い影が大きな旅行鞄を携えてふらふらと歩いていた。
「お嬢さん、今日の朝捕れたブロント海の新鮮な魚があるんだ!どうだ、見ていかないかい?」
手に立派な魚を尾で掴んだ男がそう叫ぶ。夏の空のような白んだ青の鱗に、自分の死にまだ気づいていないのではないかと思う程澄んだ瞳の魚だ。皮は肉でしっとりと張り、今にも空を泳いで故郷の海に帰りそうなほど命の気配が残っている。
「いやいや、こっちにおいでよ!うちはこの市場で一番のシュワルマを出すんだ!」
少年が白い平パンに削いだ肉を挟んだ物を差し出して対抗する。白く立ち上る湯気から嗅ぐだけで舌が濡れるほど香ばしく刺激的な香辛料の匂いが漂った。じっくり焼かれた鶏肉の油がザラザラとした平パンに染み込んで輝いていた。
「すっこんでろハマード!見たところお嬢さんは北の国のお人だろう?新鮮な魚の方が舌に合うってもんよ!」
「あんたこそ生臭いモン異国のお客さんに押し付けんなよ、バドバヤール!大体そんなでかい魚買ってもお姉さんが困るだろう!?」
「またハマードとバドバヤールがやりやってるぞ!」
「今度は異国のお嬢さん相手だとよー」
「そりゃ災難だな、けどもっとやれ!」
魚を手にした大柄な男が声高に主張すれば、料理を手にした少年も負けじと反論する。それを見た周りの店の主や常連の客たちはいつもの諍いに無責任な声援を送り、にらみ合う両者は売り言葉に買い言葉でどんどんお互いの商品を貶しだす。それはこの市場でお馴染みの光景だ。
「あの」
「お前のとこのシュワルマは確かに旨いが量が少ない!」
「たっぷり香辛料使ってるんだから仕方ないだろ!?そういうあんたも魚はいいが料理の腕がからっきしだろうが!」
「俺だって香辛料があればもっと旨くできるわい!大体お前のところはだなぁ!」
「あの」
「それを言うならアンタの方は!」
「あの、いいですか」
「「なんだ!?」」
顔を真っ赤にして声を張り合う二人の間を蚊の鳴くような小ささで飛び回っていた言葉が、ようやく目的地にたどり着いた。北国では十分に聞こえる声だったが、この国では蚊でももっとうるさいのだ。そしてすっかり何が原因で喧嘩をしていたのかも忘れていた男たちはそのままの声で問い返し、ようやく相手が商売の相手であることを思い出す。
「あ、ごめんねお姉さん!」
「しまった!?悪いなお嬢さん、ついカッとなってたぜ……」
泡を食ったように謝る魚屋と少年。顔色を窺おうと屈んだ彼らの目に、その時初めて相手の顔が見えた。外套から覗く肌は大理石のように白く砂丘より滑らか。髪はルビーのように濃密な赤で、瞳は市場のどの石屋に置いてある翡翠よりも透き通った緑だ。
「うっわぁ……美人さんだ」
少年の口から呆けたような声が漏れるのも仕方ない。それほど彼女は美しかった。それもおよそ人とは思えないほど透き通った美しさだ。年は二十手前といったところか。
「あの、シュワルマ」
顔と同じく表情に乏しい声で女性はそう言った。初雪を固めて削り出したような白く繊細な指が、少年の持つ料理をそっと指示している。
「いっけね!買ってくれるんだろ?」
「おい、クソガキ!なにしれっと自分の商品買わせようとしてんだよ!」
「あんたまだ魚売る気でいたのかよ!?」
魚屋が慌てて割って入り、また口論に戻るのかと思われたそのときだった。女性が外套の奥から銀の長方形を一枚つまんで取り出した。親指の先ほどの大きさに精悍な男の横顔が描かれた、煌めく銀貨だ。とたんにその一帯から音が消える。騒ぎ立てていた野次馬も一斉に息をのんで黙った。それはこのスークで誰もが使っている銅貨より高い銀貨、そのさらに上の価値を持つ上銀貨と呼ばれる物だった。
「シュワルマとお魚、両方買います」
女性が落ち着いた声でそう言う。突然差し出された上銀貨と意外な注文に魚屋も少年も間の抜けた顔で止まってしまった。なにせ彼女が買うと言った魚は大柄な魚屋の腕ほどもある大物だ。シュワルマも働き盛りの男には少ないというだけで、線の細い女性には十分一食に足る量がある。
「シュワルマとお魚、両方買います」
聞こえていないと思ったのか、女性はもう一度はっきりと宣言する。その様子を市場の人々は石像の群れのように黙って窺った。鶏屋の籠の鶏が鳴く声だけ、妙にけたたましく聞こえた。
「いや、でもなお嬢さん、魚は日持ちしないぜ?」
「今食べます」
やっとのことで魚屋が絞り出した質問はまた予想の斜め上の回答で迎えられた。内臓と骨と皮を捨てるとしても彼のぶら下げた魚は大きい。料理にすればきっと4人家族が夜を満ち足りた気分で過ごせるだろう。
「いやいやいや、それよりお釣り出せないって!」
我に返った少年が叫ぶ。道行く人々に料理を出す彼の店はその味でかなりの人気を博しているのだが、だからといっておいそれと上銀貨に釣りが出せるはずもない。出してしまえば今度は彼が使うときに困る。
「ならまずお魚を買いましょう。調理をお願いします。そのお釣りでシュワルマを買いましょう。三つほど」
「三つも食うのかよ!?」
しらしらとした陽光の中、少年の絶叫が人の群れの間を響き渡った。
~▲▽▲~
「ほんとに魚一匹とシュワルマ三つ食った……」
呆然と少年が呟いた。赤い髪の女性はナイフとフォークを皿に揃え、ゆっくりと上品な動作でナプキンを口に当てる。とてもあれだけの量を平らげたとは思えない優雅な所作だ。結局魚屋が捌いて調理した魚は六種類もの料理になったのだが、その全てを顔色も変えずに黙々と口に運んだのだ。
「お嬢さん、おもしろかったよ!」
「豪快な食べっぷりで気分がいいや」
市場にいた人々は淑女の顔をした獅子の食事を観終え、思い思いに散っていく。そんな騒ぎでさえここでは日常なのか、人だかりが消えると市場は元通り活気と混沌に包まれた。
「おいしかったです」
一人だけ時間の流れでも違うかのように落ち着いて呟く女性。拭われた唇は淡い肉の色で、その柔らかそうな質感に少年の目は自然と吸い寄せられてしまう。作り物めいた美しさの中にあって生々しく、触れることは罪だと思わせるほど艶めかしい。しかしそこから紡がれる言葉は真逆で、艶消しもいいところだ。
「お魚は本当に新鮮で臭みもなく、脂ものっていて美味しかったです。でも魚屋さんの料理の腕が今一つだというのは本当なのですね。塩と柑橘を足せばかなり良くなると思いました」
「大きなお世話だって……」
出す先からどんどん食べ尽していく彼女に合わせて料理していた魚屋は、精根尽き果てたように力なく応える。
「シュワルマの方は焼き加減も味付けも素晴らしいです。でもたしかに量が少なめですね」
「あれで少なめって、お姉さんの胃袋どうなってるんだよ」
少年の疑問には答えず、女性は外套の中から小さな袋を取り出した。西の国に特有の刺繍が施された地味な布袋だ。そこから握り拳半分ほどの黒い欠片を取り出し、躊躇いもなく齧る。胡桃を齧る音を倍くらい硬くした音が噛むたびに聞こえてくる。まるで石炭のように真っ黒で光沢がないそれは、学のない少年の目にも体によさそうだとは思えなかった。
「お姉さん、それなんだい?」
「薬です」
短い言葉だけ残して黒い欠片を一つ食べ終わった女性は袋をそっと外套の中に戻す。少年がサービスで出したリモネ水を半分ほど飲み、もう一度唇を拭う。滑らかなハンカチには薄っすらと黒い線ができた。
「そういえばお姉さんは何しにここに?」
「そんなの星渦を見に来たに決まってるだろ。なあ、お嬢さん」
少年の質問に魚屋が答える。この時期、ドナーリ王国では星渦と呼ばれる不思議な光景が見られる。夜に輝く星たちが月を中心に渦を描くのだ。さながら月へと星々が誘われて集まっていくような幻想的な光の大渦は、著名な詩人や画家たちもこぞって描きにやってくる有名な題材でもある。国王をして国の至宝であると言わしめるのだから、その素晴らしさは推して知るべしといったところだろう。
「はい。探し物がてら旅をしているのですが、星渦は見た方がいいと言われたのです。急がず諸国を観光しながらの旅ですから見てみたいと思いまして」
「それを言ったやつが誰だか知らないが、よく分かってるじゃないか」
地元の絶景を褒められて悪い気のする者などいない。魚屋はにやりと笑ってそう言った。しかしすぐに眉を顰めて女性を頭の先から靴の先までじっくり見てこう付け加える。
「ちゃんといい宿とってるのかい?この時期は観光客相手に阿漕なことする奴もいるからな、お嬢さんも気をつけなよ」
「そういえばまだ宿を決めていませんね。お勧めはありますか?」
「お勧めって、もう星渦は今晩なんだぞ?祭りもあるし、もう宿なんてどこも一杯だろう」
「それは困りました」
さして困った様子もなく女性は首を傾げる。
「困りましたって……ウチでよければ泊めてやりたいが、人が来ててもうこれ以上は入らないしなぁ。いくらなんでもこの国で野宿は拙いし」
「いえ、野宿でも大丈夫です」
「ダメだダメだ、お嬢さんみたいな美人が野宿なんてしてたら攫われて売り飛ばされちまうよ。大体砂漠の夜を舐めない方がいいぜ、変な連中に襲われなくとも凍えて死んじまう」
魚屋は厳つい見た目に反し心根の優しい男だったようで、険しい顔になって女性の無謀を窘める。実際ドナーリ王国は灼熱の太陽に愛された土地であると同時に、夜になれば冷たい月の女王を戴くことでも有名だ。毎年天に輝く酷薄な支配者を侮った旅人が何人か連れていかれる。もちろん肉の体を置いたまま。
「あ、俺でよければ泊められる!なあ、お姉さんさえよければ家に来なよ」
彼女のような美人、それも払いと食べっぷりのいい上客を月の女神に差し出すのは男としても商人としても許されることではない。そんな砂漠の男の心意気か、少年がそう提案した。
「そうか、ハマードのトコなら竈もあるしいいな」
「お邪魔してもいいのなら」
「邪魔なもんか!お姉さんが店先で食べてくれたおかげでついでに買ってくれる人がいっぱい居たんだ、むしろこっちは大助かりさ!」
女性としても少年の好意を態々無碍にする意味はなく、少年もその言葉に偽りはない。市場には様々な種類があるが、ここは商人組合の後ろ盾を持つ二番目に位の高い場所だ。当然出店するのも商人組合が認めた、すなわち身元と資本の確かな商人たちばかり。国王の許可を持つ。市場に比べれば品物と格式は劣るが、その分庶民に親しまれる人物が集まっているということもある。
「では、お世話になります」
「じゃあ仕事終わるまで。市場を楽しんでおいでよ。日があの塔にかかる頃にここに来てくれれば家に案内するからさ」
少年は西に聳える寺院の塔を指さして笑顔を見せた。
「はい。ありがとうございます、ハマードさん」
「そう言えばお姉さんの名前は?」
「ヨハンナです」
「そっか、じゃあまたあとでね、ヨハンナさん」
挨拶を交わしたヨハンナは席を立つ。串に刺さった肉の様子を見に戻るハマードとスークの流れに還っていくヨハンナは一旦ここで別れた。
~▲▽▲~
西の空が熟れたオレンジのような赤に染まり、東の空には一番星が輝き始める頃合いのこと。砂色の壁に囲まれた複雑な道のさらに奥まった場所に少年と女性はいた。
「ここだよ、お姉さん」
「大きなお家ですね」
少年が扉を開けたのは砂色の石造二階建て。中天に上る頃にならなければ日が当たらない立地にさえ目を瞑ればなかなかの家だ。
「もとはおふくろの家だったんだけどさ。あ、外套はそこに掛けてね」
「お母様の?」
外扉を越えた二人は話しながら壁に取り付けられた木製のフックに白い外套をかける。日差しを遮る分厚い布のそれは乾燥した風も防いでくれるが、その分たっぷりと砂を含んでしまうのだ。玄関から奥に入ればたちまち床も家具も砂だらけになる。
「そ。おふくろはどこかのお屋敷でお手付きになって、この家をもらったんだってさ。俺って実はお偉いさんの息子なんだぜ、顔知らないけど」
淡々と語りながらハマードは肩に下げていた荷袋を下す。これも砂対策に二重になった袋の外側を外して外套の隣に掛けた。
「お姉さんはどこから?」
「私はディレンティア帝国からです」
「うわ、連合の盟主じゃん。環連合鉄道で?」
「ええ、国ごとに降りて少し旅をしているんです」
「いいなぁ、楽しそう」
二人はようやく玄関から内扉を開けて中へ入る。徹底した砂除けの先は床石に織物の絨毯を引いた広めの部屋だった。テーブルと簡素なソファがいくつか置かれたリビング、扉が三つと二階への階段が一つ。月明かりの差し込まない立地のせいで中は真っ暗だ。
「あれ、ランタンどこに置いたっけ」
すぐそばの壁際を手探りしていたハマードが呟く。いつも帰宅は暗くなってからの彼は、すぐに明かりを灯せるようランタンに所定の位置を設けていた。どうにも今日は不在のようだが。
「テーブルの上にあります」
「え……ああ、そうか。昨日油を注ぎたしたままだったんだ。どうしよ、足ぶつけそう」
「失礼します」
ヨハンナは一言声をかけてから部屋の中央へ進む。背の低いテーブルの上に置かれた手持ちのランタンを一目見て、そっと持ち上げ火をつける。
「お姉さん、こんなに暗いのによく見えたね」
「目はいい方ですから」
目がいい程度で月明かりすらない室内を迷いなく歩けるのだろうか。ハマードのそんな疑問は揺らめくランタンの光に映し出されたヨハンナの姿に掻き消える。昼間はフードに隠れて紅い髪は腰まで届く三つ編みだった。その髪と大理石のような肌、翡翠のような瞳は美しいコントラストを灯の中に生み出している。火が揺らめくに合わせて影も踊り、人形めいた女性の美しさを際立たせていた。
彼女は白いドレスシャツに質素なロングスカートを纏い、上からインバネスコートを羽織っていた。本人の美貌の次に特徴的なのはそのインバネス。ケープ部分は色彩豊かなディレンティア帝国伝統の刺繍が施された華やかなものであるというのに、コート部分はまるで大戦期の軍用品かなにかのような陰気な色と頑丈な質感の代物なのだ。
「……」
「どうかしましたか?」
「あ、いや、なんでもないよ!ほら、そこに座って、晩御飯もシュワルマなんだけどいい?」
ハマードは自宅に招いた旅人の美しさを再確認して俄かに高鳴り始めた心臓の音を誤魔化すように声を張り上げた。
「構いません。ハマードさんのシュワルマは美味しいですから」
「そ、そっか。へへ、そう言ってもらえると嬉しいな。シュワルマはおふくろの得意料理でさ、今の屋台ももとはおふくろが回してたんだ。ま、一昨年の冬に死んじまったけど」
彼はリビングから続くキッチンへと逃げ込みつつまくしたてる。店の具材をそのまま調理したのでは飽きてしまうのでいつも家にある材料を一つ加えるのだ。
「そうですか。私と同じですね」
「なにが?」
わずかに端の方が萎びだしていた葉野菜を桶の水でざっと洗いながら聞き返す少年。会話もいいが手も動かさなくては。そう思っていたのに、続く言葉に彼はすぐに止めることとなる。
「母が他界し、父を知らないという話です」
「……お姉さんも?」
「ええ、母はもう3年も前ですが。父は私が生まれるより前に亡くなったそうです」
「じゃあ旅に出たのってもしかして」
「母が亡くなったからです」
「なるほどね」
傷心を癒すために旅行をしているのだ。ハマードはそう考えた。彼はただ黙々と、水を含んで多少生気を取り戻した葉野菜を千切って平パンに挟む。朝井戸から汲んだ水はまだ日中の熱を覚えているのかほのかに温い。
「今までどんな国に寄ったの?」
自分の声が少しだけ優しくなったことを感じながら少年は尋ねる。それが同情なのか親近感なのかはまだ年若い彼にも分からなかった。旅の話を聞いてみたいというのも生まれてこの方街の外に出たことがない身としての偽らざる心ではある。
「実はまだ二国目です。ここの前はフロレンタインでした」
「あれ、3年前から旅してるんじゃないの?」
「いえ、旅を始めたのはつい最近です」
「へえ。それにしてもなんでフロレンタインの次がドナーリ?」
ヨハンナが自らの出身だと言ったディレンティア帝国からここドナーリ王国は環連合鉄道の各国停車特急に乗っても七駅かかる。それはつまり六つの国を間に挟んでいるということであり、花と緑に栄えるフロレンタイン王国を抜いても五つの国を通り過ぎてきたのと同義だ。その中には観光で有名な場所も多く、ハマードが驚くのも無理のないことだった。
「できれば全ての国を回りたかったのですが、それだと星渦を見逃してしまうと思ったので」
「そんなの六か国を見てから来年の星渦に来ればよかったんだよ」
星渦が発生するのは年に一度の数日間だけとはいえ一年廻ればまた見られる。ヨハンナ自らが急がず観光しながらの旅だと言ったのだし、間にある国々を見てから来ればちょうど言い頃合いになるのではないか。ハマードの問いに彼女はしばらく黙って、それからそっと理由を口にした。
「フロレンタインのシングベルズという街で星読みの方に遇いました」
「星読み?」
「占星術師です。その方に今年の星渦は例年と違うから是非見にいくようにと勧められました」
例年とは違うダウワーマという言葉にハマードは首を傾げる。彼にとっては物心ついてから毎年見られる不思議な光景で、精々が異国の客を呼んできてくれる態のいい集客係でしかない。もちろん美しいとは思うし愛する故郷の大切な宝だとも思ってはいる。それでも十年以上も見ていると身近すぎるというのが本音だった。それが今年は違う姿を見せるといわれてもピンとは来ない。
「どう違うのかは教えてくれなかったのかい?」
「言ってしまっては楽しくないだろうと」
「ふーん……色でも変わるのかな?まあ、もうすぐわかるか」
星渦はいつも月が高く上る頃に起きる。その時刻まであと一刻ほどだ。ここでどれだけ想像の限り違う姿を思い浮かべたところですぐに答えは分かる。それどころかあまりに派手すぎる虚像を作り出してしまうと実際に見た時の感動が減るかもしれない。慎ましい人生を最大限楽しむ秘訣は過度の期待を持たないことだと彼は知っていた。少年は意識を料理に戻して、竈の熾火を大きくしてシャワルマの具に火入れする準備を始める。
「あ、そうだ!」
「どうかしましたか?」
「すっかり忘れてたけど、お姉さんが体を拭く分の水汲んでこなきゃ!」
普段一人暮らしのハマードは自分が必要な分の水しか汲まない。水汲みは力仕事で店の仕込みもある彼にしてみれば朝は最も忙しい。余分な作業をしている余裕などない。
「私は別に……」
「ダメだよ、お姉さん女の人なんだからそんなところ遠慮しちゃあさ。ちょっと汲んでくるから、火だけ見ておいてくれない?」
せっかく竈の中をめらめらと焼き始めた火を消すのはもったいない。かといって火の見張りを置かずに出てなにか間違いがあれば家が丸ごと竈になってしまう。客人に仕事を手伝わせるのはドナーリ王国の習いに反するがこればかりは仕方ない。
「私が行きます」
ハマードが竈の前を離れようとすると開いたままの扉からヨハンナの首だけが飛び出してそう提案した。地面にまっすぐ伸びる赤い三つ編みと傾げられた顔がよくできた彫刻のように感じられる。
「井戸は途中で見ました」
「え、でも重いよ?」
「大丈夫です。見かけより馬力はあります」
「馬力って……」
首に続いて片腕を出して力こぶを作って見せるヨハンナ。雨が降る直前の空模様のごときコートの上からではどうなのかよくわからない。だがハマードにはその腕が自分の発展途上なものより強そうには見えなかった。
「まあ、じゃあ頼むよ」
それでも彼は水汲みを頼むことにする。というのもここらの井戸はつい最近設備を新しくしたばかりで女子供でも多少マシに汲める程度には使い勝手がいい。それに家族が生活するのに必要な分の水を汲むとなると大仕事になるが、今いるのは女性一人が体を拭くための水だ。
「桶は入口のやつを使ってくれればいいから。それと、ないとは思うけどもし危ないことがあったらすぐに大声をあげてくれよ。このあたりで雇ってる傭兵のあんちゃんがすぐ駆けつけてくれるからさ」
「大丈夫ですよ」
ヨハンナは出会った時から全く変わらない落ち着き払った態度で頷いて扉から頭をひっこめる。一抹の不安を覚えながらもハマードは遠ざかる整った足音を見送った。
~▲▽▲~
井戸の周りは大通りからだいぶ離れているが住宅がひしめき合っていて治安はいい。家々に明かりが灯り、涼をとるために窓を開け放っているところも多い。ハマードがあっさりとヨハンナ一人での外出を認めるほどには人気のある場所だった。彼が最後に言ったように近所の寄り合いでお金を出し合って傭兵を見回りに雇ってもいる。
「まだ空は普通なのですね」
不安も安心も感じさせないドライな、同時に不思議がるような独特の色を帯びた声でヨハンナは呟く。足はしっかりと記憶にある井戸を目指しつつもその瞳は頭上の夜天に向けられていた。
最も色の濃いサファイアを溶かして目一杯の黒インクで薄めたような空にはおびただしい数のきらめきがぶちまけられている。しかしそのどれもが思い思いの散らばり方で青黒い夜を彩っており、話に聞く星渦の光景とは似ても似つかない。
「……」
これがあと1時間少々で渦を描く。信じがたいその話を彼女は微塵も疑ってはいなかった。疑う余地などどこにもなく、むしろヨハンナはそんな疑いを持つ暇があるのならこの広大な星空を見上げてただあるがままを記憶していたいと思った。なにせ彼女の故郷ディレンティア帝国では満天の星空自体がとても希少で素晴らしい物とされていたから。
「井戸です」
満天の星空を眺めているうちに目的地についてしまった。見れば石でできた井戸に木の枠と覆いが設置されたものが目の前にある。帝国であればありえないほど古いタイプの汲み上げ機構は整備のしやすさと頑丈さを重視してのものだ。この国で最新の機械式を導入すれば砂にギアが一瞬で破壊されてしまうことだろう。
「気を付けなくては」
誰にともなく呟きながら水汲みのためのロープを握る。彼女は丁寧にささくれを処理されたそれを真っ白な指で握りしめ、よく手入れされていることに感心する。
「?」
ふと何かがヨハンナの脳裏を掠めた。甘く切ない郷愁のようであり、苦く忌々しい失敗の記憶のようでもある。嫌悪と不快感を覚えるほど露骨な、同時に捉えどころがなくともすればすぐに忘れてしまいそうに幽かな何か。
「……そうですか、これが」
ヨハンナはもう感じられなくなった奇妙な感覚にただ納得して頷いた。その後はただ水を汲み上げる作業に戻る。まるで何事もなかったかのように。
✖登場人物
・ヨハンナ:本作の主人公。ルビー色の髪に翡翠のような瞳、大理石色の肌を持つ女。北国の出身。
・ハマード:スークでシュワルマ屋台を営む少年。
・バドバヤール:ハマードの店の向かいで魚屋を営む男。
✖土地
・ドナリ王国:砂漠の国。諸国連合に加盟しており、環連合鉄道第八ステーションを擁する。
※※※変更履歴※※※
2019/2/5 感想で指摘のあった振りガナを全体に付ける変更を実施
2019/2/6 感想で指摘のあった「・・・」を「……」に変更を実施