1、誕生日の日の朝と出立
その日はマリアの10歳の誕生日だった。
「マリア、誕生日おめでとう」
「えへへ、お父さんありがとう」
マリアは父親に頭を撫でられ、嬉しそうに笑い声を漏らした。
「これは父さんからのプレゼントだ。前に約束したこと、覚えているか?」
「えっ? なぁに?」
マリアは差し出された小箱を受け取ると、期待に満ちた目で開いた。
「わぁ〜、綺麗」
中に収められていた蔓薔薇がデザインされた金色のバレッタに目を輝かせる。それぞれ葉は翠、花の部分は蒼い石がはまっている。
「気に入ったか?」
「うん、とっても。お父さんありがとう」
「そうか。それは良かった。無理を言って作らせた甲斐があった」
そう言って微笑んだ。
「アランったら、私の誕生日には大したものはくれないくせに、マリアにはそんな高そうなものをあげるなんて」
「そうむくれるなよ、エレナ。これは前々から約束していたものなんだから」
アランは苦笑いをすると、マリアに目で同意を求めた。
「うん。包丁を注文してもらった時に、お父さんが10歳の誕生日になったらくれるって言ってたの」
娘に無邪気な笑顔を向けられ、エレナは呆れたような表情になった。
「包丁って⋯⋯マリアが3つかそこらの時じゃない。そんなに前から頼んでいたの? いったい幾らしたのよ」
「いや⋯⋯注文自体はマリアが産まれて少しした頃に⋯⋯。値段は⋯⋯内緒だ」
「⋯⋯はぁ」
訊いても無駄だったと、エレナは溜息を漏らした。
「マリア、貸してみろ。付けてやる」
アランは座れと、椅子を指し示した。
「後で俺の兄さんに会いに行こうな。お前も1度あったことがあるんだが、覚えているか?」
「えっ? ううん。どんな人?」
髪を丁寧に櫛で梳かすと、妙に慣れた手つきで纏め始めた。
「どんな⋯⋯か。そうだな、頑固で真面目であまり融通が効かない。でも自分の思いを人に伝えるのが苦手なぶきっちょなやつだよ」
「⋯⋯どんな人なのかイメージができない」
「会えばわかるさ。⋯⋯できたぞ」
アランから渡された手鏡で髪型を確認する。
サイドの髪は丁寧に編み込まれ、右側頭部でもらったばかりのバレッタで留められていた。
「お父さん、ありがとう」
今日何度目かの礼を口にすると、アランに満面の笑みを向けた。
「どういたしまして。朝食を食べたら出かけるからな。その前にこれに着替えてくると良い。今日の為に用意をしておいたんだ」
そう言ってアランは布包みを手渡した。
「うん」
マリアは包みを抱え、嬉しそうに自室へと駆けていった。
「あなたにお兄さんがいたなんて初めて聞いたわ」
「⋯⋯言ってなかったからな」
アランはどこか複雑そうな顔をする。
「それで私には服は用意してないの?」
質問という体裁は取っているものの、エレナはもらえると信じて疑っていなかった。
「お前の分はないよ。今日の主役はマリアだからな」
エレナは瞬時に表情を凍りつかせた。
「それに兄さんのところに連れて行く気もない」
「な、なんで⋯⋯」
「あそこはお前には⋯⋯居心地が悪いだろうからな。わざわざそんなところに連れて行く気はないよ」
だからわかってくれと、アランは口にした。
「マリアを兄さんに会わせるのは、それが兄さんとの約束だからだ。本当はマリアもあそこにはもう連れて行く気はなかったんだ」
「⋯⋯そう」
重い沈黙がその場を包み込む。
「お父さん! どうかな? 似合う?」
そこへマリアが真新しい淡い緑のワンピースに身を包んで戻ってきた。
「? どうしたの?」
不穏な空気を感じ取ったのか、マリアは不安そうな表情を浮かべる。
「なんでもないよ。よく似合ってる。流石は俺たちの娘だな」
そう言ってマリアを抱き上げた。その拍子にスカートの裾がふんわりと広がる。
「さっ、朝ご飯を食べちゃおうな。遅くなってしまう」
「うん!」
朝食を食べている間エレナは終始無言で、マリアはそれに疑問を持ったものの、口に出すことはなかった。
ワンピースの上に着慣れた外套を羽織ると、出かける準備は整った。
「じゃあ行ってくるよ」
「⋯⋯行ってらっしゃい」
2人を見送るエレナの笑顔にはどこか陰りがあった。
「お父さん。お父さんのお兄さんってどこに住んでるの?」
住み慣れた王都の街、その大通りを歩きながら、マリアは興味津々といった様子で尋ねた。
「兄さんは王都に住んでる」
「えっ? でもほとんど会ったことないんだよね?」
アランは苦笑すると口を開いた。
「そうだな。王都とは言ってもここエルドラント王国の王都ではなく、父さんの生まれ故郷、隣国エーデル王国の王都だからな」
「⋯⋯隣の国」
想像以上に遠い場所にマリアは言葉を失った。
「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫だ。父さんのとっておきで隣国までひとっ飛びだ」
そう言ってマリアの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「お父さん、髪の毛がぐしゃぐしゃになる」
「ああ、ごめんな」
アランは口では謝ってはいるものの、顔は笑っていた。
「もうっ!」
マリアは頬を膨らませたが、それはアランの顔をだらしなく緩ませるだけで終わった。
「いつ見ても思いますけど、似てない親子ですね」
王都の外へと続く門。そこで手続きの順番待ちをしていると、同じく並んでいた冒険者たちがからかいを含んだ声をかける。
「そうそう。あまりにも似ていなさ過ぎて、時々本当にアランさんの子どもなのかと疑問になりますよ」
「⋯⋯マリアは完全にエレナ似だからな」
マリアもアランも顔立ちは整ってはいるものの、その方向性はまったく違う。マリアは綺麗というよりは可愛いらしいという表現が似合うエレナにそっくりな一方、アランは男らしい精悍な顔立ちをしている。髪の色もマリアは青味がかった銀髪、アランは黒に近い紺色とひどく対象的だった。唯一血の繋がりを感じさせるのは、夏の空を思わせる深い蒼の目ぐらいだった。
「それで今日は娘を連れてどこに行くんだ?」
「んっ、ちょっと兄に顔を見せにな」
「アランさん、兄貴なんていたんだな」
「言ってなかったか?」
「初耳だぞ」
取り留めのない話をしているうちに順番が回ってくる。
「珍しいですね。娘さんとお出かけですか?」
門に詰めている衛兵も、普段はあまり見ない組み合わせに目を見開く。
「ああ、ちょっとな」
「お気をつけて⋯⋯あなたには無用な言葉のような気もしますが⋯⋯」
「ははは、そうだな」
王都を出るとアランはマリアを抱き上げ、街道沿いに走り始めた。
「隣の国まで行くってことはアクアに乗っていくの?」
マリアはもう何年も前から見知っている蒼い龍を思い浮かべ、目を輝かせた。
「ああ、そうだな。だから母さんは置いてきたんだ」
「お母さんには内緒だもんね」
そう言ってマリアは楽し気に笑った。
アクアやそれにかかわる一切のことは、例え相手がどのような者であろうと秘密にする。それがマリアが初めてアクアと会った時の約束であり、未だにそれが破られたことはなかった。
「アクアを見るのも久しぶりだなぁ」
「ここのところ、遠出する機会なんてなかったからな」
そんな会話を繰り広げる2人の目の前には、鬱蒼とした森が広がっていた。