引き出し
「緊張しますか?」
「うーん、ちょっとだけ。でも、まあ、問題ありません」
私は普段、自宅で執筆しているのだが、今日、初めて執筆部屋で書くことになった。いわゆる「缶詰」である。机の前に窓があり、ベージュの分厚いカーテンと白いレースのカーテンがかかっている。今はカーテンは開いていて、焦げ茶色の机の上に日光が落ちている。ホコリは一切無い。机の左上にはシンプルな黒い電灯が置いてある。
「原稿用紙と筆記用具はこちらにありますんで」
部屋の中央にある黒いテーブルを編集者が指し示す。白い原稿用紙が高く積み上げられている。私はそれをなるべく見ないようにした。編集者が部屋から去ると、私は深いため息をつき、のろのろと原稿用紙を机に置いて、ボールペンを握る。書けない。日光がうっとうしい。私はカーテンを閉めて、電灯をつけた。
小説は序盤がやっかいだ。序盤さえ書けてしまえば、あとは流れでそこそこ書いていける。重たい車輪もいったん回ってしまえば、転がしていくのはたやすい。しかし最初に車輪を動かすのは、かなりきつい。
私は筆の遅い作家ではなかった。しかしここ最近、筆が進まなくなった。昔から言葉が湧いて出てくるようなタイプではなかったが、それでもなんとか、作家としてやってこれた。だが今の状況はかなりまずい。最近では白い原稿用紙に恐怖さえ抱きそうになる。
45分たった。原稿は白いままだ。私は疲れた体を動かしながら、本棚を見た。この部屋の本棚は辞書しか置いてない。私はなんとなく、机の引き出しを開けてみようとした。ここで私は妙なことに気付いた。引き出しが開けられないのだ。引っ張っても開かないというのではなく、そもそも引っ張ることができない。突起も、くぼみも、何もついてない。こんな引き出しがあるだろうか? 私は爪を隙間に入れようとしたが、入らなかった。なぜこんな引き出しになってるんだろう? 中には何が入ってるんだろう? 私は想像してみた。
可能性1、ある大物作家の未発表原稿
だからこの引き出しは意図的に、引き出せないようになっているのではないか。引き出せない引き出しとはおもしろい。だが引き出せなかったら、原稿が取り出せなくて困るだろう。もしかすると発表する気が無いのか? ならなぜ保管しておくんだ。処分すればいい。そもそもこんな場所より金庫とかのほうがいいじゃないか。では、
可能性2、からっぽ
中には何も入ってないから、引き出せなくてもいい、ということか。でも引き出しは中に何かを入れられるから、そしてそれを取り出せるから意味があるのであって、それを拒否する引き出しなどあってはならないのではないか。
ダメだ。引き出しの中身を知ることができない以上、推測は無意味だ。いや、推測するだけならいくらでもできようが、無軌道な推測などおもしろくない。そんなことより私は目の前の原稿用紙に向き合わなければならないのだ。
あれから30分、なんとか執筆を進めることができた。引き出しが気分転換になったのか、書くことが思い浮かんできたのだ。変な癖を持った男と女が数人登場する小説で、我ながらおもしろいアイディアを思いついたと思う。車輪は回り始めた。あとはかんたんだ。
私は興奮していた。これは私の小説で一番おもしろくなる。いや、すべての作品の中でもっともおもしろい小説になる。そう確信していた。こんなこと絶対に誰も思いつかない。原稿用紙は次々に消費されていった。
私はお尻を横に強く引っ張られた。と思ったら部屋全体が横に揺れだした。本棚から分厚い辞書がこぼれ落ち、体が揺さぶられる。ガタガタ音もしている。私は揺れが収まるまで、原稿を抱えて机の下に隠れていた。揺れが収まった後、机の下から這い出てみると、引き出しが全部、段違いに出ていた。私は地震の恐怖と、引き出しの中を見れる喜びを感じながら、引き出しの中を見た。
中には古いノートが1冊、入っていた。私はそれをめくる。そこには私が先ほど、うまい思いつきだと考えていたアイディアが、すべて書かれていた。私は衝撃を受けた。いったい誰がこれを書いたのか? それどころか、私がそれまで見聞きしたことも無いようなアイディアもびっしり書いてあった。そして最後にこう書いてあった。
お前の思いつきなど、おれがとうの昔に思いついている。うぬぼれるな。