『未来の行方』
子供は可愛い。
わたしがどこかに置いてきてしまったものを、いつもその眼に宿している。
そしてその子供がわたしの子ならば、きっとなおさら。
そんなことを考えていたら、やさしい神様は一人の可愛い娘をくださった。
大きくなったお腹のなかでさえ、彼女は本当に愛らしかった。
産声を聞かせてくれた時のことは、今も忘れられない。
その代わり、彼女が出てくるときに産道がとても痛かったことは、あまり覚えていない。
覚えていない、というのはなんだか面白いけれど、正確には、あの痛みが《懐かしく》思える、そんな思い出となってしまっているからなのかも。
それくらいに、幸せが勝っていたのね。
あれからもう数年。わたしにとってはあっと言う間のことだけれど、あなたはどうだった?
わたしは最愛の娘の黄金色に輝く滑らかな髪を撫でながら、彼女の横顔をじっと見つめていた。
閉じられた瞼の奥に、透き通った青い瞳が隠れている。わたしの瞳の色はきっすいの茶色。父親ゆずりなのよねと少し憂いめいた。
そんな気持ちが伝播してしまったのだろうか。
娘の瞼がかすかに揺れ動き、そして持ち上がった。
ターコイズブルーの瞳をゆっくりとあらわすと、娘はわざわざ両眼をこすってわたしに《ごほん》をねだってきた。
もう寝れていたのだから、と胸のなかでつぶやく。
けれども、わたしが《ごほん》を読むのは、娘にとってみれば寝る前の儀式みたいなものなのだろう。
毎日欠かさず、わたしの読み聞かせとともに寝る。その儀式を尊ぶ娘の気持ちはよーくわかっていた。
子供にとって、読み聞かせほど記憶に残るものはないと思う。
きっとそれは、命が役目を終えるまで、ずっと残り続けていくのだろうとさえ思っていた。
わたしの母は早くに逝ってしまったけれど、それでも、未だに彼女が読み聞かせをしてくれていたことは鮮明に覚えている。
わたしはこの子よりも先に逝ってしまうし、それが一番好ましい。
そのあと、娘がわたしの読み聞かせだけでも覚えていてくれるなら。
娘の部屋を明るくし、ベットの頭から一冊の絵本を手に取ると、仰臥する娘の横に座って、子守唄を歌うように朗読を始めた。
ある日、まるでお姫様のように可愛らしい女の子が、お部屋で絵本を読んでいました。
「この子とこの子、この子も、みんな大好き!」
黒い前髪をいじりながら、女の子は一枚一枚に描かれたイラストに夢中です。
彼女はエレサ。
まだ文字は読めません。
なので、誰かの手によって描かれた綺麗なイラストを見ては、楽しんでいたのです。
ときにエレサは満足しました。
パタンと本を閉じて、目を瞑ります。
甘い気持ちを味わうように、口をもぐもぐ。
お腹いっぱいになったエレサは、そのまま眠りについてしまいました。
「いただき!」
意地の悪い男の子の声がします。
夢の中で目を覚ましたエレサは、途端に顔を真っ赤にしました。
むらさき色の三輪車に跨った男の子が、エレサの大事にしているネコちゃんの人形を腕に抱えて、はしゃいでいるのです。
「返して!」
「やだよ!」
三輪車のペダルをキコキコ。
男の子が逃げだします。
エレサは頬を膨らませると、腕をぐるぐる回して男の子を追いかけました。
けれども、彼女は二本の足で一生懸命、走っています。
絶対に、男の子の三輪車には追いつけません。
走りながら、いよいよエレサは泣き出してしまいました。
するとどうでしょう。
男の子の目の前に、タイヤが一つ嵌ってしまうくらいの大きな穴が現れました。
突然のことだったので、男の子は止まることができません。
「ほら、返してよ!」
傾いた三輪車にまたがる男の子を、無我夢中でポコポコするエレサ。
とうとうあきらめた男の子は、腕に抱えたネコの人形をエレサに返しました。
「なんで、わたしのネコちゃんを盗んだの?」
「暇だったからだよ!」
男の子は三輪車から降りると、大きな穴に嵌ってしまったタイヤを引き上げようとしました。
けれども、三輪車はとても重たいです。
男の子一人では、持ち上げることができませんでした。
「手伝ってくれよ」
男の子にせがまれるエレサ。
でも、彼女は大きく首を振りました。
「いやよ。だってあんたは、わたしに嫌なことをしたんですもの」
男の子はガックリ。
へなへなと地面に両手をつきました。
「オレの名前はヘッジ。父さんや母さんの期待に応えられないような、ダメなやつなんだ。この前の大事な試験だって、失敗したんだよ。もう、何もかもが嫌だ。やってられない。オレはグレることしかできないんだ」
「だからって、わたしのネコちゃんを盗んで良いわけがないわ」
ヘッジは頷きました。
「ごめんなさい」
「ごめんなさいで許されるようなことじゃないわ。もし、わたしがあんたを捕まえなかったら、あんたはわたしのネコちゃんをずっと返してくれなかったんでしょう? 都合がよすぎるわ」
ヘッジは何も言い返せなく、大きな涙をポタポタ。
「男の子なのに泣くのなんてカッコ悪いわ。それに、泣いたってわたしはあんたを許さないから」
エレサは男の子を睨みつけると、大股で歩き出しました。
「お、おい。待ってくれよ!」
「もう絶対に、わたしの前に現れないで!」
エレサはできるだけ早く歩きました。
はやく、ヘッジが見えなくなるくらいに遠くへと行きたい。
そして、あいつみたいな人間には、絶対になりたくない。
エレサはギュッと歯を食いしばるのでした。
イライラする気持ちは、エレサをうんと遠くまで運んでくれました。
どこからから、女の子の歌が聞こえてきます。
ちょうど脚が疲れていたので、エレサは歌でも聞いて少し休もうと考えました。
「今日も、私たちの歌を聞いてくれる人はいなかった」
着いたばかりのエレサを横目に、バンドは後片付けを始めてしまいます。
納得のいかないエレサは手を叩いて言いました。
「一曲で良いから、聞かせて!」
「今日はもうおしまい。それに、きっとあなただって、歌の途中で何処かに行っちゃうんでしょう?」
ドラムを片付ける女の子が目を細めます。
対して、エレサは眉を寄せました。
「なにそれ。わたしだって、そんな楽しそうじゃない人たちが歌う歌なんて聞きたくないもん!」
バンドのリーダー、パイリュはマイクを強く握りました。
でも、唇をふるわせるだけで、なにも言いません。
代わりに、ドラム担当の女の子が言いました。
「そうそう。もうおしまいなのよ。今日の活動は。それに、きっとこのバンドだって」
すっかり楽器を片付けると、四人の女の子は足取りを重たそうに行ってしまいました。
「意味がわからない」
エレサは思いました。
なぜあの人たちは楽しくもないことをやっているのだろうか。
そんなことを続けていたって、何にもならないのに。
わたしだったら、初めからそんなことに手を出さない。
彼女たちが大きな夢を持ったことでバンドが始まったことは、なんとなくですがエレサにはわかっていました。
だからこそ、エレサは思うのです。
かなわないような夢を見て、ダメな人間にはなりたくないと。
かえって疲れてしまったエレサを星の光が包み込む時間になりました。
目の前に現れた、綺麗なネオンに包まれた大きなお城の魅力も、今のエレサにとっては洞窟の退屈さと変わりありません。
そんな彼女の耳に、ビュン、ビュビュンと縄が回る音が入ってきました。
音のする方に目をやると、ぴょんぴょん飛んで両手を勢い良く回している男の子がいます。
「こんな夜に、あなたはなにをやっているの?」
エレサが声をかけると、男の子は飛ぶのをやめて言いました。
「見てわからない?」
「いいえ、縄跳びね」
「そうさ」
男の子は縄をエレサに渡しました。
「飛んでみなよ」
「なんで?」
「いいから飛んでみなって」
エレサは縄を回して大きく飛んでみました。
けれども、縄が両足に引っかかってうまく続きません。
「いやになっちゃう」
「そんなこと言うなよ」
男の子は微笑むと、エレサから縄を受け取りました。
「ただ飛ぶんじゃない。タイミングを知るのさ」
上手に飛んで見せる男の子。
それを見て、なんだかエレサはとても楽しくなりました。
「もう一度やらせて!」
「もちろん」
両手に縄を持ったエレサは、男の子がしたように飛んでみます。
するとどうでしょうか、ぴょんぴょん、上手に飛べたのです。
「ふふ、楽しい!」
「やればできるもんさ」
満足そうな顔をみせると、男の子はその場に座り込みました。
エレサもしゃがみこんで、男の子に話しかけました。
「でも、どうしてこんな時間にやってたの?」
「家だとうるさいからね」
「なにが? 縄の音?」
男の子は少し口辺を持ち上げました。
「それも、そう」
「じゃあ、他にうるさいものがあるのね」
男の子は頷くと、
「姉さんたちが、うるさいんだよ」
「お姉さんがいるの?」
「うん。四人いる。でも、みんな僕のことが嫌いみたいでね。大きなお城も、窮屈な牢屋みたいなんだ」
男の子がネオンに輝く大きなお城を指差しました。
「まさか、あれがあなたのお家なの?」
「そうさ。あれが綺麗に見えるってたくさんの人が口をそろえて言うけれど、それはあの中の状態を全く知らないから言えるんだよ」
「別に、わたしには綺麗に見えないわ。目が痛くなるだけ」
エレサの言葉に、男の子は苦笑いをしました。
「そう言われると、なんか残念」
「どうして? さっきは綺麗じゃないって言っていたじゃない」
「それはそれ。なんだと思う」
よくわからない人ね、とエレサは思いました。
でも、悪い人ではない。むしろ、わたしは好きよ。
そう胸の中で唱えました。
「どうしたの、ニヤけてる」
「なんでもないわ」
「そう、じゃあいいや。遅れたけど、僕の名前はジョーカー。君は?」
「わたしはエレサ」
「そう、いい名前だね」
「ありがと。あなたもいい名前よ」
「ジョーカーっていうのは、トランプの役で言うと変な存在なんだ。どのマークにも属さない、仲間外れな存在。そんな名前だから、僕は姉さんたちから嫌われるのかな?」
首を垂れるジョーカーを、エレサは見つめました。
なぜ、彼の姉たちは弟のことを嫌うのかしら。
同じ家族なら、愛し合うのが普通なのに。
最近、エレサは母親からこんなことを教えてもらっていました。
もうすぐ、あなたはお姉ちゃんになるのよ。
そのことを思い出しながら、エレサは己に誓いました。
わたしは絶対に自分の家族を嫌ったりなんかしない。
どんなことがあっても。
そして、エレサは……。
あら、もう大丈夫みたいね。
小鳥のさえずりのような鼻息を吹く娘を見て、わたしはほお笑んだ。優しく、それでいて力強く胸を上下させる娘の寝顔は、眼に入れても痛くない。
ふと思った。
今はこうして絵本を読んでいてあげられるけど、それももう少しで……。
大きくなったお腹をさすりながら、膝上の簡単な厚紙で出来た表紙の絵本を見つめる。
あなたを悲しませるような、そんな未来が待っているのかしら。
考えられない。いや、考えたくない。でももし、そうなのだとしたら。
小さく息を吐くと、傷みかけた絵本を持って立ち上がった。
そうして、一度だけ振り返り、愛らしき娘の部屋から明かりを消して、
「おやすみなさい、クリスティア。やさしいお姉さんになってね」