Scene8
「私、未来が視えるの」
藤田加奈子は確かにそう言った。
その発言は確かに非現実的であり、にわかに解しがたい内容であった。しかし、その時の槇原健介にとっては、ついさっき目の前で起こった出来事の方が遙かに信じられなかった。
信じたくなかった。と言った方が適切かもしれない。
「死んだ」
健介が、ぽつりと言った。
「そうね」
加奈子が返した。
「人が、死んだんだ」
「見れば分かるわ」
「救急車……き、救急車を……」
「不要よ。死んでるんだから」
ふいに足下に目をやって、無様に潰れた一匹のテントウムシがいるのに気付いた。
周囲には自分の足跡が散乱している。一体踏みつぶしてしまったのだろう。
こいつもさっきまでは生きていたのだろうに。可哀想に。
混乱した頭とは不釣り合いに、健介の目はぼんやりと塵のようになった上翅やら脚やらを見やっていた。
人が死ぬところを見たのは初めてだった。
「なんでだよ」
唸るような声が出た。
「なんで、そんな冷静にしていられるんだよ」
鼻腔の奥が熱くなり、それに呼応するように沸々と何かが湧き上がる。これは、怒りだ。
「お前未来が視えるんだろ。なんで何もやらなかったのに、仕方なかったなんて言えるんだ。さっきのおっさんは、死ぬと分かってたら助けられてたはずだ。はじめっから死ぬ場所が分かってたなら、なんでこんな――――――――」
高いところに。
そう言おうとした。
言おうとして、一度健介は口を噤んだ。
「お前…全部、知ってたんだな」
声が震えた。
「目の前であのおっさんが自殺しようとしたら、俺が助けようとするかもしれないって、無茶するかもしれないって、分かってたから、だから、この場所を選んだんだな」
高見の見物をするために。
高くて見晴らしの良い場所から、あの中年男死に様を観覧するために。
「何も、屍体をもう一つ増やす必要はないでしょ」
加奈子は相変わらず冷ややかな目をしている。
この一言で、健介の頭に完全に血が上った。
「ひょっとしたらあのおっさんを助けることだって出来たかもしれない…なのに、お前は見殺しにしたのか!」
加奈子もキッと健介を睨んだ。
「見殺しになんて、してない。何も知らないクセに。分かったようなことを言わないで」
「ああ、俺は何も知らなかった。でもお前は違う。知ってたんだ。知ってた上で、何もしなかった。それを見殺しって言わずに、なんて言うんだよ!」
「絶対に未来は変えられないの!今日あの男があの場所で死ぬことは、絶対不変の決まり事だった。あんたが騒ごうが私が介入しようが関係ない!私たちが与り知らない、何か大きな力が働いているのよ!」
「力がどうのとか意味わかんねーけどな、俺は何よりまずお前のその態度が気にくわねえ。人が死んだのに、よく冷静にそんな理屈捏ねていられるよな、この――――――」
化け物。
その言葉が少々行き過ぎたものであったことを、健介は吐いて早々に気付いた。しかし興奮していた頭からは、訂正の言葉も謝罪の言葉も出てはこなかった。
重い沈黙が長いことその場を支配していた。
テントウムシの欠片の大部分が風に飛ばされ、ほとんど跡形がなくなっていたことに気が付く。
ふいに、俯いていた加奈子がくつくつと笑い始めて、健介はぎょっとした。
「そうよ。私は化け物よ」
真っ青な瞳が、健介を捉えた。
「どうせ化け物になるんだったら、私だって力のある化け物になりたかった。人の生死とか運命とかを決定付けられるような、そんな力が欲しかった。でも、私にそんな力はない」
いつだってただ、視せられるだけ。
そう言って加奈子は笑った。笑いながら泣いていた。
ごうっと風が吹いて、肉眼で確認できる最後の一部分だったテントウムシの上翅を飛ばした。
「せめて、自分に都合の良い未来を視ることが出来たら良かったのに。視せられる未来は、いつだってどうでもいいような、どうしようもないような、そんなのばっかり。もし私が良いように出来ていたら、そしたら、」
お母さんは。
そこまで言って、加奈子は口を噤み目を伏せた。
「なんだよ」
健介が尋ねる。
「なんでもないわよ」
「言えよ。言ってみろよ」
乱暴に言いながらも、健介の心は狼狽え、戦慄いていた。
今の自分は明らかに、加奈子の心の深い部分に踏み込んでいる。穴の底を覗いているという高揚と、それが自分には測り知りかねるものであるまいかとの懸念が、心の中でないまぜになっている。
お母さんがどうしたんだ。
死んだのか。
ひょっとして死ぬことが分かっていたのに止められなかったのか。
もしそうなら、「助けられたかもしれないのに見殺しにした」という健介の発言は、この少女にとって随分と残酷な意味合いを帯びてくる。
もし幼き日の加奈子が、母親の死ぬ未来を視せられていたとしたら。母親が死ぬ未来を視せられていた上で、それでも来るべき死を阻止出来なかったのだとしたら。そんなの、ただ死に別れるよりもよっぽど残酷ではないか。そんな相手に、おれは、
ふいに以前クラスメイトが言っていたことを思い出す。
昔加奈子はあらゆる事故の現場に出没し、大人たちから気味悪がられていたのだという。
加奈子が未来を予知できたとして、何故毎度ご丁寧に現場に訪れる必要があったのだろう。放っておいても良かったのに。おかげで加奈子は奇異の目で見られ異端視された。その結末が予測できないような人間ではなかっただろうに。
幾分か冷静になった頭が今度は別の方向に回転率を上げ始める。
内省と悪い予感に突き動かされて健介は加奈子を見やる。
加奈子は大きく息を吐いて続きの言葉を口にする。
「もし未来が好きに出来ていたら、お母さんは私が殺してたのに」
絶句した。
加奈子の闇は、思っていたよりもずっと底が深かった。
「な…」
「あの女は、私のことをとても気味悪がっていたわ。凶事や人の死を予見する私のことを化物か何かだと思っていた。小学四年生ある朝、起きたらリビングにも寝室にも何処にもいなかった。アパートの裏で居酒屋を経営してた男も一緒にいなくなってた。不倫してたことは前々から知ってたから、特に驚きはしなかった」
一息にそのまで言って、加奈子はふふふと嗤った。
「殺せるものなら殺したい。でも出来ない。だって私には」
力がないから。
視ることしか、出来ないから。
そこまで言って加奈子は、ただただ絶句している健介を見て、にっこりと微笑んだ。
「ねえ。あなたに良いこと教えてあげる」
本当は誰にも言うつもりはなかったんだけど。
どこか楽しそうに言いながら笑んで、続きの言葉を口にする。
「この世界は、もうじき終わるの」
彼女のお下げ髪が軽やかに揺れて、夕暮れ時の赤味がかった日差しを反射させた。
がたんがたんと、電車がすぐそばを通る音がした。
「視えたの。隕石が落ちるのか核爆弾でも使われるのか、それは分からない。でもあと二週間。二週間後の今日、この世界は、確実に消失する」
随分と長い間、健介はその場に立ち竦んでいた気がした。
気付けば加奈子の姿はなかった。
諸々の出来事が、随分と遠い世界で起こったことのように思えた。
そしてその翌日から、藤田加奈子は学校に姿を見せなくなった。