Scene7
がたんがたんと、電車の通る音がする。
恐らくこの近辺に駅があるのだろう。電車が停まる際の、鉄が軋む悲鳴のような音が鳴り響く。槇原健介は、騒音にうんざりさせられているであろう近隣の住民達に、心密かに同情した。
狭く入り組んだ路地に密集する家々は、どれも古びている割に生活感に溢れかえっている。屋根の瓦は欠け、壁には蔦が這い、玄関には缶やら瓶やらが転がり、ベランダにはよれた下着が掛けっぱなしになっている。長い年月を経て錆びたり朽ちたり剥げたりしたそれらには、同じように錆びたり朽ちたり剥げたりしているベニヤ板やトタン等で応急処置的な修理が成されており、薄汚れた看板を掲げた飲み屋や、何を取り扱っているのかよく分からない怪しげな事務所などもよく目に付いた。歓楽街と呼ぶには侘しく、住宅地と呼ぶには小気味悪かった。
画一的で小綺麗な住宅が行儀良く並ぶ健介の住むニュータウンとは、明らかに様相を異にしている。
足下のブロック塀に繁茂している銀苔を眺めながら、健介はただただ歩を進めた。
「別に帰っても構わないのよ」
気付けば、前を歩いていた藤田加奈子が、歩を止めて振り返っている。ぼうっとしていた健介は、半ばぶつかりそうになりながら慌てて自分も歩を止めた。
「ここまで連れてきといてそれは無いだろ」
ムッとしながら健介は言う。歩き始めて半時間以上が経過していた。黙々と付き従ってきた自分の気長さに賞賛を送って欲しいが、加奈子の口からそのような言葉が送られることはまず期待出来ないだろう。分かっている。
「あとどれぐらいで着くんだ?…っていうか、まず、どこに向かってるんだ」
言外に、まったく情報を提示してこない加奈子への批判を込めながら、そう問うてみる。加奈子はそんな健介の気持ちを知ってか知らずか、無表情のまま健介をじっと見つめた後、
「もうじきよ」
そう短く答え、再び背を向けて歩き出した。
健介は小さく溜め息をつき、大人しくそれについて行く。
がたんがたんと、電車の通る音が聞こえてきていた。
加奈子が再び立ち止まったのは、それから十分後のことだった。
「わっ」
今度こそ完全に呆けていた健介が、加奈子の背中にぶつかる。無言のままこちらを睨んできた加奈子に謝罪の言葉を口にするも、やはり無言のまま視線を外された。今日の彼女はいつにも増して口数が少ない。
仕方なく、健介は加奈子の視線の先を辿り、自分も同じ方角を視野に納める。
その場所は他よりも十五メートルほど高い位置にある丘の上だった。奥には神社があるらしく、道の小脇の古びた鳥居の周りを鎮守の森が覆っている。その丘からはフェンス越しに今まで通ってきた町並みを少し俯瞰的に見ることが出来、加奈子は丘の真下にあるプラットホームをじっと見下ろしていた。脈々と伸びている線路が、ありありと見て取れる。
「連れてきたかった場所って、ここなのか」
がたんがたん。またしても遠方から、電車が近付いてくる音がしていた。
「…で?」
健介は聞いた。
「見せたかったものって、結局何なんだよ」
「…」
加奈子はやはり無言のままスッと腕を上げ、線路の上を跨ぐ歩道橋を指した。欄干の脇には一人、背の低い猫背の男が佇んでいた。
「あの人」
「…え?」
再び健介は男に目をやる。
なんのことはない。何処にでもいそうなぼんやりしたオヤジである。
位置が遠いため表情や年齢等は分からないが、渋い苔色スーツに身を包んでいることや、全体の雰囲気から、三十代から五十代ほどの会社員であることは容易に推測出来る。特に目立って変わったところのない、風采の上がらない呆けた中年男であった。
踊り出したりでもするのかとしばらく注視してみたが、その観察に値するだけの変化は垣間見られなかった。どれだけ見てみたところで、盆暗は盆暗である。しかも遠目からなのでぼんやりと輪郭を辿ることしか出来ない。
見せたかったのは、あの男なのか?
四十分もかけて歩いてきて、あんなしがないオッサンを見せたかったのだろうか。
そんな健介の困惑を知ってか知らずか、加奈子はじっと男を見つめたまま動かない。
「あの人、」
そっと口を開いた。
「もうすぐ死ぬわよ」
がたんがたんと、電車の近付く音がしていた。
「…え、………は?」
アノヒト、モウスグシヌワヨ。
現実感が伴わないその言葉は、緊張感の伴わない淡々としたその言い方によって、どこか異国の言葉のようにも聞こえた。
一寸の間を置いて言葉の意味を理解した健介は、軽蔑した眼差しで加奈子を睨めた。
「なんだよそれ」
全然面白くねえ。吐き捨てるように健介は言った。
そんなくだらない冗談を言うためにこんなとこまで自分を連れてきたのか。
ユーモアのセンス以前に、人間としての倫理観を疑う。何よりも連れ回されたことによる疲労感が溜まっていたし、自分の言動にまともに反応を示そうとしない加奈子への不満もふつふつと煮詰まってきていた。二言三言罵声を浴びせてこの場を立ち去ろうかと一瞬本気で考えた。
しかしそうしなかったのは、加奈子の表情に健介を馬鹿にしているような面持ちが一切無く、ただただ蒼白な能面のような顔で、歩道橋の上の小男を見つめていたからだった。
踏切がかんかんと鳴る音が一帯に響き、ゆっくりと空間が遮断されていく。
もうじき、電車が自分たちの目の前を通り過ぎるのだろう。
男は歩道橋の手すりに足をかけ、前方に大きく重心を移動させた。
健介はようやく、これがただの戯れ言ではないことに気が付く。
「なんだよこれ。…なあ。なんかの冗談だよな」
加奈子は何も答えなかった。
電車はすぐ間近に迫っていた。
「おい!そこのおっさん!!」
痺れを切らした健介が、フェンスを掴み思い切り揺らしながら叫んだ。
「すぐそっから降りろよ!!電車がそこまで来てんの見えねえのか!!!あぶねえだろ!!」
耳にその声が届いたらしく、男はゆっくりとこちらに顔を向けた。
しかし呆然としたまま、その場所から動く気配はない。
「聞こえねえのかよおっさん!!今すぐそっから降りろっつってんだろ!!死にたいのか馬鹿野郎!」
血管を浮き立たせ、健介が絶叫する。
がたんがたん。がたんがたん。
電車は目前まで迫ってきていた。
男は少し考え込むかのように高架下の地面を見つめた後、足はかけたまますっと後方に身を引いた。
健介はほっと、胸をなで下ろした。
そして次の瞬間。
男はこちらを向いて、にこりと微笑んだ。ような気がした。
後方から反動をつけた男の身体は、勢いよく宙に舞った。
健介は絶叫した。
叫びと言うよりは、咆哮に近かった。
鉄が軋む甲高い悲鳴のような音が響いて、電車は停まった。
無人駅だったホームに、どこから湧いたのか、一人また一人と野次馬が湧いて出てくる。
加奈子達のいる場所からは芥子粒のように見える、線路の淵に転々と転がる赤黒い物体が何なのか、健介はなんとなく理解して、フェンスを掴んだまま脱力し、膝をついた。ガシャンという音が響いた。
「なんだよ、これ」
ぽつりと出てきた自分の声のかすれ具合に驚く。
健介は振り向いて加奈子の方を見た。
「どう、して」
聞きたいことがたくさんあった。しかしたくさんあり過ぎて、言葉としてまとめることが出来なかった。
加奈子はそっと目を閉じて、薄い唇を動かす。
「私、未来が視えるの」
今や静まりかえった閑静な空間で、その声はやけに大きく響いた。
何かを言おうとして健介が口を開いたが、それを遮るように加奈子は続ける。
「電車の中で視る景色みたいに、未来の様子が一瞬だけ目の前を通り過ぎていくの。さっきみたいに人が死ぬ瞬間とか。グラスが割れるようなどうでもいい瞬間とか」
そこで加奈子は目を開けた。
「ただ、視ることが出来るだけ。何一つ自分の思い通りにすることは出来ない。自分の望む未来を視ることは出来ないし、未来を変える事は絶対に出来ない。だから」
加奈子は無表情で、健介を見やった。
「今のは、あなたは何も悪くないから」
その瞳は、いつか見たときと同じように、冷たく、蒼く、光っていた。