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Scene6

普段まったく人の気配のしない校舎裏の小さな広場はその日、喧噪の渦に飲み込まれていた。

谷岡恵美は泣き、その取り巻きの女子共は怒り、どれもこれも茹で蛸のように真っ赤になっている。

槇原健介の投げかける言葉はことごとく油のようになって、ますます逆上の炎を燃え上がらせてしまっていた。


「健介君がいけないんだよ!」

「恵美ちゃんが可哀想じゃん」

外野の女子がヒステリックに恵美を擁護する。

恵美が多勢に無勢で藤田加奈子を取り囲んでいるこの状況下で何故恵美が可哀想ということになるのか健介には皆目理解出来ない。

「俺に文句あんなら直接俺に言えよ!藤田はなんも悪いことしてねえ」

「藤田なんかに興味持ったりするなんて健介おかしい。殺人も売春もやってるし、みんな危ないって言ってるんだよ。そんな奴に興味を持つなんて、絶対健介おかしいよ!」

恵美は泣いていた。

おかしいよ。

みんな危ないって言ってるんだよ。

それらのセリフがエコーがかかったように健介の脳内で反響した。

「ね、もうそんなことやめよ?私は普通にしてる健介が好き」

恵美はぽろぽろと涙を流していた。

しかし健介は、その涙が一滴こぼれ落ちるごとに自分の中の何かが急激に冷めていくのを感じていた。


普通って何だよ。

どういうことだ。

他の人間と、同じだということだろうか。

他の皆と同じもので笑い、同じところで泣き、同じような事を考えるということだろうか。

芸人がネタをやっていたら笑って、体育祭で自分の組が負けたら泣いて、無難で盛り上がりそうな話題を選びながら会話して、部活動に所属して、テスト期間中は焦りながら勉強をやって、食堂で一緒にお昼を食べる仲間がいるというということなんだろうか。

皆が興味を持っていることに、一様に興味を持つということなんだろうか。

他の人間と同じだということなんだろうか。

見た目が。髪が。格好が。目の色が。

だったら、藤田加奈子は一生普通にはなれない。

だってほら見ろよ。こんな状況でも無表情だったんだぜ、あいつ。

おかしいだろ。あんなの普通じゃないだろ。

中学生の女ならもっと泣いたり喚いたりしたりするだろ、普通。



人は不可解なものに直面したとき恐怖を抱く。

自分のよく知る安全な〝普通〟の状態が奪われるのではないかという恐怖。〝普通〟の状態が不可解なものに浸食されてしまうのではないかという恐怖。

だから、人はしばしばその不可解なものを、異端視して退ける。そうすることで、均衡を取り戻そうとする。

じゃあ、そこまでして守りたい〝普通〟ってのは、一体何なんだ。

普通っていうのは芸人がネタをやってたら笑って、体育祭で自分の組が負けたら泣いて…いやこれはさっきも言った。

そこまでして守りたい〝普通〟っていうものには、実際のところ、どれだけの価値があるんだろうか。

普通じゃないものを退けてまで、守る価値があるんだろうか。

健介は、険悪な表情でこちらを見据える女子数人を見やった。そして、先程からずっと、地に視線を落としている加奈子の方を見やった。

今まで考えたこともなかったような、それでいて随分と前から考えてもいたような、そんなもんもんとした思考が健介の頭の中をぐるぐると回った。

もし、そうなら、そうだとしたら、俺は――――――――


「………健介?」

恵美がじっと、押し黙ったままの健介を不審そうに覗き込んだ。

「……お前の言う通り、俺はおかしい奴なのかもしれない」


気付いたら、自分でも驚くぐらい低い声が出ていた。

いつもと違う健介の様子に恵美は一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐにまた持ち前の気丈さを取り戻し、健介をキッと睨んだ。

「…ぜッッ対に後悔する。おかしいわよ。藤田も、それにゾッコンなアンタも!だって、だってみんな言ってる!!藤田は…」

「みんなみんなって、みんなって誰のことだよ!!」

遂には怒鳴り声まで飛び出した。

周りの空気がしんと静まる。

「人と違うから何だってんだ。みんなと一緒がそんなに大事か。お前は、お前自身は、何を考えて生きてるんだよ!」

こんなふうに感情を荒げて喋ったのは中学校に入学して以来初めてかもしれない。対する恵美は、入学以来教師から叱咤されることもなく、人間関係においてもリーダー的立ち位置を確立していたため、人からこのような激しい感情をぶつけられたことがなかった。

彼女も健介同様、自分の思い通りにならない人間への耐性が無かったのである。

恫喝が堪えたものと見えて、恵美は一瞬青ざめ、そして見る見るうちにぶるぶる震えて真っ赤になった。

「何、超意味分かんない。気持ち悪いんだけど。あんた」

この鮮やかな色彩変化は、海底を移動するタコを連想させた。

「あんたなんか、あんたなんか大ッ嫌いよ!!」

健介の望み通り自身の考えを述べた恵美は、取り巻きの女子に「行こッ」と声をかけ、ずんずんと裏庭を横切っていった。取り巻きの女子数名は釈然としない面持ちで、そのうち数名は健介を睨んで罵倒を浴びせながら、ぱたぱたと恵美に付き従っていった。

後には健介と加奈子の二人がぽつねんと広場に取り残された。







雰囲気がどうにも居た堪れなくなって、健介は、恵美に殴られそうになったときに尻餅をついてそのままになっていた加奈子に手を差し出す。

「……大丈夫か?立てるか?ほら」

加奈子はぼうっとその手を見つめ、地面に視線を落としてぽつりと言った。

「やっぱり馬鹿だわ、あなた」

「…なんだよそれ」

「もう話しかけてこないかと思ってた」

生温い風が吹き、恵美の視線の先にある草花をさらさらと揺らした。正午過ぎの気怠い陽気が一帯を照らしていた。

「あなたは、人から好かれたことしかないのね」

再びぽつりと、加奈子が言う。

「…いや、別に…そんなことないけど」

「あんたなんか大ッ嫌い」。先程恵美にそう言われたことを思い出しながら、差し出したままの手を下ろしたものかどうか悩みながら、健介が答える。

「私は人から嫌われたことしかないから、あなたの考えが分からないわ」

「…」

何と答えて良いものか分からなかった。

「…食堂で、俺が転ぶことは分かってたのにな」

とりあえず健介がそう茶化すと、加奈子はくすりと笑った。

それは彼女が初めて見せた十四歳の年相応の自然な笑みで、ふいに心臓が一際大きく脈打ったのを健介は感じた。


「分からない事の方が、たくさんあるわ」

健介の手の上にそっと加奈子が自身の手を重ねた。

瞬間、手にした指の余りに薄い肉の感触と、余りに冷たい骨の質感に、健介はぞわりとする。

彼女の青い目は午後の強い日差しの中で、恐ろしいぐらいに美しく光っていた。

「ねえ」

微笑み、立ち上がりながら彼女が言う。


「面白いものを見せてあげましょうか」


耳の奥で、何か警告のようなものが鳴った気がした。

恵美が以前声高に繰り返していた、藤田加奈子に関するありとあらゆる噂が頭の中で鳴り響く。

しかしそれら全てを無視して健介は頷いた。

中学校生活三年目。五月下旬の、よく晴れた放課後のことだった。

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