Scene5
「お前さあ……ここらで手を引いとけよ」
「え?」
松井大輝にそのように言われたのは、補習終わりの他に誰もいない教室の中だった。
傾きかけた日が、彼らの横顔の陰影を色濃くしていた。
先程まで談笑する声が響いていた教室に束の間の静寂が訪れる。空気がにわかに少し閉塞的になり、校庭で練習に励む野球部の威勢良いかけ声がやけに大きく聞こえてきた。
「後輩から聞いたんだけどさ。お前こないだ、二回の廊下で、藤田加奈子にビンタされたんだって?」
槇原健介は何も答えなかった。
人目を気にするという感覚をどこかしらに置き忘れている彼でも、一番親しく付き合っている友人から改めてそう話題に出されると、さすがに忸怩たる思いに駆られざるを得なかった。
殊に大輝に対してはどう反応していいものなのか迷う。彼は年の割には身長が高いし、その体躯は長年のクラブ活動で鍛え上げられていて、コンビニ前でたむろしている高校生にも威圧感を与えることができるような奴だった。しかしその見た目に反して意外と気の小さい少年で、どんな時でもはにかんだように薄く笑っていた。
だからそれ故、こういう風に一対一で話をしているとき、真剣な話なのか冗談の延長線なのか、判別しにくいことが度々あった。
無言の健介に痺れを切らした大輝が、続けて言う。
「…他学年の奴らも噂してっぞ。転校生が、藤田加奈子にゾッコンで、ずっとそのケツ追っかけ回してるってな」
「うるせえな。ケツは追っかけ回してねえ」
ここにきてやっと健介はむっとした様子でそう反論する。大輝は小さく眉をひそめた。
「お前にごちゃごちゃ言われるまでもなくんなこと分かってんだよ。第一それの何が悪いって言うんだよ」
健介はもう、この学級内では「藤田加奈子」という固有名詞そのものに侮蔑のニュアンスが込められていることを肌で感じとっている。そのことへの反感と照れ臭さで、語気が随分と剣呑になった。
大輝は微笑んだままの口元を歪めながら足下に目線を落とした。
「…もうすぐ受験もあるし。藤田とか気にしてる場合じゃないだろ。それに、せっかく越してきたんだし、残りの期間他の奴らとも仲良くやっていきたいだろ。このままじゃお前、居場所がなくなっちまうぞ」
小さな子どもに教え諭すように言った大輝に、健介はますます腹を立てた。
「これぐらいのことでなくなるもんなら、なくなっても別にかまわねえ」
大輝は困ったようにふっと笑う。
「………恵美だって可哀想だろ」
「なんでここで谷岡が出てくるんだよ」
健介が怪訝そうな顔をする。
大輝は一人頭を抱えた。
傾いた日が、広いグラウンドでこまごまと動く野球部員達の姿を黒くかたどっていた。
はじめはよくある部活内抗争かと思った。
同じ部活の先輩が、放課後学校の裏手に後輩を呼び出して、説教をしたり吊るし上げたりするアレだ。
見るからに剣呑な雰囲気だったし、女子同士のそういうめんどくさいイザコザに巻き込まれるのはご免だったので、健介は足早にその場を立ち去ろうとした。
「何とか言いなさいよ!!」
しかし聞こえてきた声が彼のよく知る人物のものだったため、健介は足を止めて振り返った。
「……谷岡?」
谷岡恵美は、部活動には所属していないはずだった。
だとしたら……イジメか何かか?
にわかに興味に駆られた健介は、遠目からじっと彼女らのいる場所を注視した。
五六人の女子生徒が、校舎の壁を背にして立っている一人の女子生徒をぐるりと取り囲んでいる。その女子生徒の顔と表情は、前に立つ女子の肩が邪魔で見えない。
「最近調子乗ってるんじゃない」
肩を怒らしながら恵美が言う。
「まあ、アイツが来るまであんたを気にかける奴なんて一人もいなかったわけだし。浮き足だっちゃって当然だけど。最近ちょっと目に余るよ」
本当よ。ふざけんなよこのブス。
取り巻きから野次が飛ぶ。
女子中学生の醜悪な一面を目の当たりにして、油を飲んだような不快を感じる。やっぱり帰ろうかな、と目線を下げた健介だったが、次に恵美が放った言葉に再びはっと顔を上げた。
「ビンタとかはないんじゃないの。なんなのあんた。ヒロイン気取ってるわけ?」
読者諸賢には既に察しがついていたと思われるが、この輪の真ん中で糾弾されている女子生徒は藤田加奈子だったのである。
健介はそのまま歩を進め、何やってるんだお前らと声を上げようとした。しかしあることに気付いて、はっと息を呑み歩みを止めた。
まだ誰も彼の姿に気付く者はない。
「ねえ。あんただって、飽きられたらきっとまた一人だよ。誰もあんたのこと見向きもしないよ」
恵美が言葉を投げかけるが、加奈子からの反応はない。
その青い目はぞっとするほど冷やかな光沢を携えて恵美を見据えていた。
正確に言うと、恵美を見据えていたのでもなさそうで、その向こう側の遙か彼方にでも視線を走らせているかのような虚ろな瞳だった。
糾弾されている当事者にも関わらず、まるで今目にしているもの全て自分には関わりがないとでもいうような。
「ねえなんであんたなの。見た目も中身も、幽霊みたいなくせに」
加奈子は何も答えない。
健介は、加奈子を初めて見たときのことを思い出していた。
あの時もこんな感じだった。
周囲とはまったく異なる空気が彼女の周りには流れていて、それは他人を寄せ付けない目には見えない壁のようなものだった。
あれは自らの身を守るために、彼女が作り出した盾であり鎧であったのだ。
今ならそう理解出来る。
健介は初めて、加奈子の瞳に恐怖を覚えた。
「ねえ。なんで」
震える声で恵美が問う。
加奈子は何も答えない。
「……なんか言えよ」
震える声で恵美が言う。
加奈子は何も話さない。
「言えっつってんだろ!!」
「おい、やめろ!」
恵美が手を上げそうになったところでやっと我に返った健介が飛び出して静止をかけた。
その場にいた全員の視線が健介に集まる。加奈子も同様に健介に目を向ける。
その瞬間、真っ青な瞳は大きく開いて震えるように光った。気のせいか、なんだか少し泣きそうな顔をした。
日頃健介がよく目にしていた、人間的な表情の加奈子がそこにいた。
ああ、良かった。
何も解決していない内から、健介はそう安堵した。