Scene4
「なあ」
鬱陶しい。
「おい」
鬱陶しい。
「待てってば!」
鬱陶しい!!
槇原健介の執拗なアプローチに、ついに藤田加奈子がキレたのは、二週間後のことだった。
奇妙なもので、鈍感さと社交性というものは逆説的な相関関係にある。人の気持ちに気付きにくい者ほど臆することなく人と関わる事が出来るのである。
渡り廊下、階段の踊り場、図書室、理科室、家庭科室。とにかく健介は目に付く度に加奈子のもとへ近寄っていったし、加奈子はその度に鬼のように不機嫌な顔でそれを流した。
しかしそんな彼も、いきなり
「人を殺したことあるの?」
「援助交際やってるって本当?」
と一番核心に当たる部分を聞くわけにはいかないという最低限の礼節は心得ていて、その日の天気だとか小テストの点数だとか興味の対象からはだいぶ外れた当たり障りの無い話題を毎日彼女の背中に向かって吐き続けていた。
そしていくら鈍感だとは言っても、この頃にはもう健介にも加奈子から疎まれている自覚もあり他の生徒達から嘲笑されていることも知っていた。
しかしその事実はますます健介を行動へと駆り立てた。
思えば他人からここまで邪険にされることは彼の十四年間の人生の中で一度もなかったし、それ以前に自分を拒絶するような人間に執着するようなことも一度もなかった。そんなことをせずとも人間は向こうの方から寄ってきていた。なのに。
なんでだよ。
ここまでしてるのに。
もともと純粋な好奇心だったものはやがて理不尽な怒りへと変わっていき、健介は意地になって加奈子を追い詰めた。
決定的な出来事が起こったのはとある日の三時間目の休み時間のことだった。
移動教室に向かう加奈子の背中を追いかけ、健介は言葉を投げかける。
「次の授業って彫刻刀いるんだよな」
しかしその言葉は虚しく宙を舞う。
加奈子は無言で歩みを進め続ける。
「俺忘れてきたんだわ。速見先生怒るかな。あの先生普段温厚だけど怒ったら怖いよな」
再び無言。
「……なあ。お前。なんか怒ってんのか」
無言。
加奈子の歩く速度が、心持ち速くなったような気がする。
通りかかった教室の小窓から、お喋りに興じてけたけたと笑う女子生徒の声がした。
「………どうなんだよ」
コトコトコトコト。
廊下を歩く上履きの音が妙に響いて腹立たしい。目の前で、加奈子のお下げ髪が歩行に合わせ軽やかに揺れる。なんだかそれまでもが自分を馬鹿にしているような気がしてきて、今の状況に耐えられなくなってきて、健介はついに加奈子の肩を掴んだ。
「待てってば!」
気付いたら彼女の薄い肩を壁に押しつけていた。加奈子の顔が怒りで真っ赤になり、真っ青な瞳が戦慄くように震えたのを見た次の瞬間には、パンと乾いた音が廊下に響いていた。
頬を押さえてよろめいて、自分が加奈子に横っ面をはたかれたことを知る。
心臓がそこに移行したかのように、左頬が痛みでばくばくと脈打った。
なんだこれ。ドラマみてえ。
混乱する意識の中で妙に冷静な自分がいてそう呟いた。
「私にかまわないで」
華奢な身体から出されたとは到底思えないドスの利いた声と強力なビンタの余韻とがいつまでも健介を呆然とそこに突っ立たせていた。顔をあげなかったので、加奈子がどんな表情をしていたのかは分からない。
ぱたぱたと加奈子が走り去ったことで、それまで呼吸を止めたかのように静まりかえっていた多くの目撃者は息を吹き返したように一斉に話始めた。
誰もが衝撃的な光景を目の当たりにしたことに興奮し、頬は上気し目は爛々と輝いていた。
しかしその中には例外もいた。
谷岡恵美は人の輪から離れて一人立たずみ、加奈子の後ろ姿が角に消えた後もずっとその方角を睨んでいた。