Scene3
ご飯、鮭の塩焼き、ワカメスープにマカロニサラダ。
トレーの上に機械的にそれらを並べる。
ご飯は左に。汁物は右に。副菜は左上部に。二年以上続けてきた所作は身体に染みついて最早熟練の域に達し、そこには無駄な動きが一部もない。
藤田加奈子は基本的に、上に記した献立のものしか食べない。
というのもこれらは固定メニューであって、冬季限定メニューなどのように期間に左右されることなく休日を除く年間三百六十五日毎日食べることが出来る。そして毎日同じメニューしか注文しないため、食堂のスタッフもそれを心得て、最終的には言葉を交えることなく加奈子の望むものを把握して配膳してくれるようになる。
この〝言葉を交えることなく〟というのが彼女にとって重要なポイントだった。
しかし今日目の前に立つ田嶋というネームプレートを下げたこの女性スタッフ。此奴は明らかにこの食堂の新顔で、超能力者でもない限り加奈子が鮭の塩焼きを所望していることなど知る由もないだろう。
現に、彼女は池の底のナマズのような顔をしながら加奈子の注文をじっと待っている。
加奈子は心の中で密かに舌打ちをした。
「鮭の塩焼き」
そう注文する。
「それ不味いって。やめとけ。こっちの豆腐ハンバーグにしろ」
右隣から声が聞こえる。
無視する。
「鮭の塩焼き」
右隣の発言を受けて少し躊躇した田嶋を叱責するように、もう一度そう告げる。
「まあ聞け。それほんと不味いから。カッスカスだから」
右隣が五月蠅い。
加奈子が無言の圧力を込めて見据えているのもあって、田嶋は狼狽え始めた。
「いやまじでほんと不味いから。保証する。お前そんなの食ったら胃を悪くするぞ」
我慢の限界に達した加奈子が、キッと右隣の人物を睨んだ。ついでに厨房で働いていた数人の女性スタッフもその人物を睨んだ。田嶋は完全に怯えている。
「私が何を食べようと私の勝手。あなたに指図される筋合いはない。それと鮭の塩焼きは不味くない」
「はあ?親切で言ってやってるのになんだよその態度。お前味覚おかしいんじゃねえの」
「お節介だって言ってるのよ。私のすることに口出ししないで。あなたは味覚じゃなくて人との距離感がおかしいんじゃないの」
「それこそお前に言われる筋合いはねえよ!人の親切が素直に受け取れないとか根性ねじ曲がってるんじゃないのか」
「ええそうよねじ曲がってて悪かったわね!」
田嶋がおずおずと口を挟んだ。
「あ、あのう…」
「「何!?」」
「ヒィッ!」
怯えながら、再びおずおずと言葉を続ける。
「鮭の塩焼き、今日は完売したみたいです…」
加奈子は絶句し右隣の人物はにやりと笑う。加奈子はしぶしぶ豆腐ハンバーグの隣の野菜炒めを注文してテーブルに着いた。
いつ自分は選択を誤ったのだろうと加奈子は考える。
出来るだけ人と関わらないように生きていこうと決め、そしてそれはほとんど成功していたかに見えた。
数日前、目の前のこの男子生徒に話しかけられるまでは。
「絶対豆腐ハンバーグの方が美味いのに…」
槇原健介は了承を得ていないのに当然のように加奈子の前の席に腰を下ろしている。
恐らく自分が選択を間違えたというより、目の前のこの少年が特殊なのだろうと考える。ぼんやりと箸で皿の上のものをつつく姿は、憂いや嘆きといったものからはきっと無縁だ。無条件で他人を信頼できるという希有な性質が加奈子には羨ましく、そして同時に心底恐ろしいものでもあった。
だって、そういう人たちは、みんな…。
加奈子は浅く唇を噛む。
「私、もう行くから」
なるべく健介の方を見ないようにして言った。
「は、なんで。ほとんど食ってねえじゃん」
その言葉を無視してその場から立ち去る。背後から健介がガタガタと椅子を引く音が聞こえ、追ってこようとする気配を感じたが、それからすぐに彼の彼女と思われる女子生徒の声も聞こえてきた。
「もう健介!なんで一人で勝手に食べちゃうの!」
健介が彼女の登場によって行く手を阻まれたことを知り、微かに安堵しながら加奈子は食堂を後にした。
「私ら授業で遅くなるから待っててって言ったじゃん」
憤慨した様子の恵美が健介にくってかかる。
「いや別に、どうせ食堂で食うんだから先行ってても後から来ても同じだろ」
「つれねーな健介」
「恵美ちゃん寂しがってたぞ」
クラスメイトが茶化し、恵美がやめてよもうそんなんじゃないって、と返す。ここ最近お決まりの展開だ。しかし今日の恵美の声色には、いつもより覇気がなかった。
「っていうか、何。藤田と食べてたの」
どことなく恵美の顔は厳しいが、健介はそれには気付かずに「ああ」と返事をする。
「やめときなって。そういうの」
「なんでだよ」
「…だって、あんまり評判良くないんだよ。あの子」
「根暗だからか?でも意外としゃべるぞあいつ」
「それだけじゃないんだよ。ね、そうなんだよね、由香」
恵美が顔を向けると、彼女の友人の由香は「んー」と小さく呻って喋り始めた。
「なんかぁ、私と加奈子すごい田舎の方の小さい小学校出身なんだけど、今でもそこの大人たちは、藤田の家の子と遊んじゃいけないって言うよ?」
「大人が?どうして」
「えっとね、私らがちっちゃい時のことなんだけどね、」
何が可笑しいのか、由香はくすくすと笑っている。みんなの注目を集めて嬉しいのかもしれない。健介はそのじれったい口調に歯痒さを覚えた。
「私たちの近所で、いくつも事件とか起こったことがあったの。その時全部の事件が起こった場所に、加奈子がいたんだぁ。事件の起こる前の日とかにね、加奈子がその事件のことについて口にしてるのを、聞いたことがあるっていうひともいるよー?」
由香は一度そこで言葉を切った。
「事件って、どんな事件」
「えーヤバいよ。自殺とか、交通事故とか。ウチらの小学校からも死人が出たんだから」
「あーそれ昔聞いたことあるかも。アレお前んとこの小学校だったの」
悪くない反応を得て、由香の鼻が満足気に膨らむ。でね、ここからが本題なんだけどね。と前置いて彼女は続けた。
「大人のひとたちはこう言ってるの。全部の事件を起こしてきたのは、犯人は、加奈子なんじゃないかっ、て」
「サスペンスドラマみてえな話だな」大輝が率直な感想を口にする
少年たちの好奇心が、じわじわと熱気に変わろうとしていた。
心の中ではどこかで誰もが馬鹿らしいと思っている。しかし、そんなどこか馬鹿らしい話題が、代わり映えのしない学校生活に色どりを添えてくれることもまた事実だった。
「証拠は?警察とかも、きたんだろ」
「あんまし詳しいことは、私も知らなーい。でもぉ、交通事故とか自殺とかおこる前から現場にいたの。怪しくない?」
健介は想像した。
四方を山に取り囲まれた陰鬱な小さな社会の中に、ただ一人存在していた青い目の少女のことを。
奇異と畏怖の目に晒されていた幼き日の加奈子のことを。
それを聞いて健介の心に湧き上がったのは怖れでも蔑みでもなかった。
「あとこれも聞いた。こないだ橋の下んとこで、ホームレスのおっさんのテントに加奈子が入っていくのを三組の由香里が見たって。五組の小林も見たって。援交やってるんじゃないかってもっぱらの噂だよ」
恵美が早口でそうまくし立てた。
「あいつと関わるの、やめときなよ。みんな言ってるよ。あの女はマジやばいんだって」
健介を加奈子から遠ざけようとする恵美の試みは、失敗に終わったと言うほかない。
何故なら、それらの話を聞いて健介の心に湧き上がったのは、加奈子に対する好奇心今まで以上に強いだったからだ。
これ以後健介は、より積極的に加奈子との接触を試みようとしていくこととなる。