Scene2
こいつだ。
藤田加奈子を初めて見たとき、槇原健介はそう確信した。
がやがやと騒がしい食堂の一角で、彼女は一人静かに食事を摂っていた。
彼女を取り巻く空間だけが、どこかから切り取られて貼り付けられたかのように、まったく異質の空気が流れている。ゆっくりとスープをすくうその動作、さらりと零れた前髪をかきあげるその仕草、小さく動く紅い唇。そのどれもが中学三年生のそれとは思えず、まるで悠久の時を生きてきたかのような印象を健介に与えた。
加えて何よりも強く健介の心を捉えたのは、その青い瞳だった。
それは彼が頭の中で思い描いていたよりもずっと蒼く、ずっと美しかった。
「気付いたか?あいつだよあいつ」
串刺しにされたかのように一点を凝視する健介に、大輝が駆け寄ってきてそう告げた。「知ってる」と何故か思わず答えそうになって、健介は慌てて口を噤む。
「またひとりぼっちでご飯食べてるの?かわいそー」
彼らの背後でくすくすと恵美が笑う。
「おい、誰か話しかけてきてやれよ」
「普段うるせえお前行けよ。あいつと話したら根暗が移るぜ」
「もー。そんなこと言ったら可哀想でしょお」
健介の背後で仲間たちが談笑する声がした。しかしこの時、それらの音は彼の鼓膜こそ揺らしはしたものの、意味ある言葉として健介の脳髄に届くことはなかった。
彼の意識はすっかり青い目の少女に集中していた。
「…健介?」
反応がないのを不審に思った恵美が声をかけたときには、もう健介は動き始めていた。持ち前の社交性が興味の対象に向かって機能することは、木を見た猿がそれに登るのと同じぐらい極自然なことであった。
「なあ。その目、遺伝なの?」
加奈子の前の席に腰をかけてそう尋ねたとき、彼女は肩を震わせて身構えるように固まった。
通行人に出くわした時の野良猫のようだと健介は思った。そして彼女が無言のまま数秒のときが過ぎた。
「……なあ。なんで青いの」
聞こえていなかったのかと、気をもんだ健介が再び尋ねる。ここにきて初めて加奈子は目線を上げた。
うかがわしげな表情を作る整った眉の下で、きらきらとした瞳が青く光る。それを至近距離で見つめ、健介は鼓動が早まるのを感じた。他人と話していて動悸が起こるという感覚を、彼は随分と久しぶりに感じた。
「どうしてか、ですって?」
憮然とした様子で加奈子が答える。
「そんなの私が聞きたいわよ」
可愛らしい容姿とは裏腹に、その態度はあまり可愛らしくなかった。
「遺伝なのか」
「……生まれつき。生まれつきよ。別に私が望んでこうなったわけじゃない」
「綺麗だな」
持ち前の素直さと、女の子と親しくなるには褒めるのが一番、という経験則からそう言った健介だったが、その途端加奈子が不動明王顔負けの恐ろしく不機嫌な顔になったので、少し後悔した。
しかしフロイト曰く、誤謬をやらかした後それを合理化しようとして、類似の間違いを犯し訂正しようとする心理が人間には存在するらしい。
焦った健介は言葉を重ねた。
「嘘じゃないって。綺麗だ。その目」
「…」
加奈子はしばし絶句した後、健介を阿呆か何かだと判断したらしくフンと鼻を鳴らして嘲笑うような表情になった。
「まあ、あなた達の目なんかよりは、たくさん仕事をしているかもね」
「……は?」
どういう意味か分からずに健介が固まっていると、食事を終えた加奈子が席を立った。
「あ、そうそう」
にっこりと微笑みながら告げる。
「足下には気をつけた方がいいわよ」
加奈子が立ち去ろうとしたところで、呆然としていた健介ははっとなって彼女を追おうとした。
「おい、待てって」
今のどういう意味だよ!と、言おうとした。しかし言えなかった。
立ち上がり走りだそうと足を踏み出したその時、落ちていた空き缶を思いっきり踏んづけて派手に転倒したのだ。
周囲からわっと笑いが巻き起こった。
「フラれちゃったな健介!ドンマイドンマイ!」
「こけてオチつけるとか、お前、昭和のコントかよ」
「もー。藤田に話しかけたりなんかするからだよー。ほら健介。立てる?」
少し距離を置いて会話の様子を見守っていた友人達が駆け寄ってきた。小突き、茶化し、笑いの渦は食堂全体にまで広がっている。まったく見識のない他学年の者達さえくすくすと笑っていた。
しかしこの時もやはり、それらは健介の耳には入ってこなかった。
「足下には気をつけた方がいいわよ」
彼の頭の中で、食堂に来る以前よりもずっとはっきり輪郭を携えた加奈子が、そう言って笑った。