05
「こっちだ」
ところどころ塗装がはげた青い鉄扉をピートが手で押して開けると、蝶番が錆ついてギィィと耳触りな軋んだ音を立てた。
一瞬、薄暗さで何も見えなかったが、目が慣れると、天窓からほんのりと漏れる光だけで充分に物が見えると分かった。
「助けて欲しいの、こいつなんだ」
倉庫の奥には、大きな檻があった。薄暗い中で、両目が爛爛と赤く光っている。
「鉄狼……」
修太はぽつりと呟いた。
体中の毛を針状に逆立て、牙を見せてうなる鉄狼は、口端からだらだらと涎を零している。
「クォーン……」
仲間の様子を想ってか、コウが悲しげに鳴く。
(道理でコウが怒らないわけだ)
修太はすとんと納得した。
きっと仲間のにおいがピートからしていたんだろう。
「こいつの名前、ケティーっていうんだ。俺の家、鍛冶屋でさ、ケティーは三年前に親父が買ってきて、それからずっと素材を採取してきた。でも俺、ケティーのこと、ただのモンスターとは思えなくて……」
狂って檻の中で暴れる鉄狼をピートは悲しそうに見る。
世話をしているうちに情が移ったというところか。修太はちらっとコウを見る。修太はペットに興味などなかったが、何となくコウには情が移りだしているから、気持ちはなんとなく分かった。
「狂いモンスターは、人や動物、仲間のモンスターも襲う。それで狩られる死に方をする奴もいるけど、狂い続けると、自分で自分を痛めつけてそれで死んじまうんだ。ケティー、最近、自分の足を噛んだり、檻に体当たりし続けたりしてさ。死期が近いと思う」
埃っぽい煉瓦床を見下ろし、ピートはしんみりした声でそう話す。そして、パッと顔を上げた。
「それでどうにか出来ないかなって思ってたら、あの人が、〈黒〉に頼めばいいんだって教えてくれて……。知り合いの〈黒〉を教えてくれるっていうから、お前に伝言したんだ。正直、来てくれるかどうかは五分五分だったから、来てくれて嬉しかった」
頼りない中で希望を見つけたような顔で、ピートは薄ら笑った。今にも泣きそうなのに、嬉しいという不可思議な表情だ。
「あの人?」
修太は眉を寄せる。
(誰だ?)
修太が〈黒〉だと教えるような者は、修太の仲間にはいないはずだ。もし教えたなら、教えたと修太に伝えるだろうに、何も聞いていない。
「なあ、頼むよ! ケティーを助けてくれ。そうだ。もしタダじゃ診れないっていうんなら、うちの家、小遣いねえけど、俺が鍛えた剣ならあげられるから」
必死に頼んでくるピートに気圧され、修太は一歩下がる。
「あ、ああ、分かったから、何もいらないから、ちょっと待ってくれ」
両手を前に押し出し、どうどうと宥める。ピートは思いこんだら一直線タイプに違いない。
ピートの表情が明るく輝く。
「助けてくれるのか!?」
「ああ、まあ……」
だから詰め寄るなって。
たじたじになりながらも、修太はひとまず鉄狼のケティーを助けることに決めた。コウも物言いたげに見てくるし、それに、モンスターを助けるのに否やはない。
修太は深く息をして、檻の前に立つ。
低くうなりながらケティーが修太を赤く光る目で見据える。ピートの言う通り、足にあちこち噛み痕があるのか、血が点々と床に黒い染みをつけていた。
修太は落ち着こうと、一度目を閉じる。
青空を雲が流れる景色を思い浮かべる。東から西に風で流れて行く雲。視界を横切るところまで想像すると、気持ちが和らいだ。
短く息を吸い、目を開けてケティーを見据え、言葉を紡ぐ。
「――こっちだ」
ケティーのうなり声がぴたりと止む。
「出口は、こっちだ。戻ってこい」
ケティーに向けて静かに告げる。
無音の衝撃に、ケティーはびたっと動きを止める。逆立てていた毛はしんなりとした灰色の毛に、踏ん張っていた足から力が抜け、鼻に寄せていた皺は消え、剥き出しになっていた牙も隠れる。そして、赤く爛爛と光っていた目の色は、金色に変わった。
その目の光を見て、ああもう大丈夫だと修太は悟った。それはピートもだったらしい。
「ケティー! ケティー、俺だよ。ピートだ。分かるか!」
ピートは檻にとびつく。ケティーはのそりとピートの方へ歩み寄り、鉄格子の隙間から、べろりとピートの頬をなめた。
「ケティー!」
ピートは感極まった様子で、ケティーの頭に両手を回して抱きついた。そして、緊張が抜けたのか、「うわあああ」と泣きだした。
「ケティー、ケティー! 良かった。良かったよぉ……!」
「狂うのが嫌なら、定期的に〈白〉に浄化して貰え」
ぐずぐずと鼻をすすらして泣くピートに、修太は疲労を覚える肩をぐるぐる回しながら言う。
「ぐずっ、うう、じ、じろ……?」
「そ」
「う、うん。よく分からないげど、わがっだ……」
すっかり鼻声である。
檻の前にしゃがみこんでわんわん泣くピートの横で、コウとケティーは互いの鼻先を頬に押し付けたりして挨拶を交わしている。コウが中型犬サイズなので、親子のように見える光景だ。
そうしてひとしきり挨拶して気が済んだのか、コウはたたっと修太の元に戻り、今度は修太の足に鼻先をぐいぐい押し当ててきた。
「ワフッ!」
「なんだ、礼でも言ってるのか?」
「ウォン!」
分かりやすい奴だとコウの頭をわしわし撫でる。
「良かったね、君。助けてもらえたんだ」
カツンと踵の鳴る音がした。
振り返ると、修太達が開けっぱなしにしていた鉄扉に、金茶色の髪をした女性が寄りかかって立っていた。――ソイルだ。
「あ、お姉さん!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔をしたまま、ピートはパッと明るい顔をする。
「ありがとう、紹介してくれて! お陰でケティーは助かったんだ」
「え?」
修太はフードの下で目を瞬く。
「紹介? ソイルさんが?」
ピートは大きく頷いた。
「そうなんだ。俺がここで困ってたら、通りがかったお姉さんがお前のことを教えてくれたんだよ」
「え――?」
信じられない。
「何で……?」
ソイルの前ではフードをずっと被っていたのだから、修太が〈黒〉だとは知りようがないはずだ。どうして知っているんだ?
「何で知ってるかってこと? 一週間くらい前に、待合室で話してたでしょ。その時に見えたんだよ」
顔を触られた時か……!
冷たい視線に気を飲まれて、そこまで気付かなかった。
「ありがとう、お姉さん。本当にありがとう!」
ピートは泣きながら何度も礼を言う。
「ううん、いいんだよ。こっちこそありがとう、その子を連れてきてくれて。子ども同士だから警戒されずに済むかなって思ったんだけど、その通りだったね」
「え?」
ピートの笑みが強張る。何を言っているのか分からないという様子で、目を瞬いた。
どこか異様な空気に修太はピートの方に下がる。
その二人の間を、銀色の線が走った。
「ガァッ」
ピートのすぐ背後でうめき声がする。
ピートと修太が何の声だと後ろを振り返った時、眉間にナイフが刺さったケティーの姿がすぅと掻き消え、黒い霧へ変わった。その霧もまた、すぐに空気に溶けて消える。
――カラン
そして、ナイフが床に落ちる空疎な音が、倉庫にこだました。
「――え?」
ピートは何が起きたのか分からないというように、ケティーが消えた空間を見つめる。そして、そこへ手を伸ばし、何も無いのだと分かるなり、鉄格子にしがみついた。
「ケティー! ケティー! そんな、嘘だ! こんなのって……! 何で……!」
訳が分からないが怒りを覚えたらしきピートの問いに、ソイルは不思議そうに首を傾ける。
「何で? おかしなこと言うんだね、君。狂ったモンスターと最後に意志疎通出来たんだから、それで良いと思うんだけどな。こんな狭い所で飼われて、素材にされながらじわじわと狂っていって殺されるより、幸せなまま死ねたんだから、むしろ感謝して欲しいくらい」
手の中でくるくると短剣を回しながら、ソイルは淡々と語った。
力無く口を開閉させるピートを背に庇うようにして立ち、修太はソイルを睨む。
「それはあんたが決めることじゃないだろ。助けてやると言いながら、助けたら、今度は殺すなんて、あんたいったい何がしたいんだ? 余計な真似をするんじゃねえ!」
低い声で言葉を叩きつける。修太の足元では、コウも低くうなりだしている。
「別に。最初は助けるんならそれでもいいかなって思ったけど、見てたらイラッてしたんだ。八つ当たりかもね。私の仲間は死んだのに、そこのガキのお友達は無事救われたっていうのがね……」
「あ、あんたの仲間と、ケティーは関係ないだろ!」
ピートが涙混じりの声で怒鳴る。
「何で殺したんだよ! せっかく、せっかく助かったのに……! 八つ当たりなんて、そんなの、納得いくかよぉ……っ」
喉の奥で声が引っかかったような泣き方をするピート。キッとソイルを睨みつけると、拳を固めてソイルに飛びかかっていく。
「あ、よせっ!」
修太が止めるより早く、ピートは修太の傍らを通り抜けていた。
ガツッと鈍い音がして、ピートが床に倒れる。殴りかかった拳をソイルがかわし、ピートの首裏に手刀を叩きこんだせいだ。
「ピート!」
ついさっき会ったばかりの奴だが、情の深さは良い奴だと思う。
「大丈夫だよ、気絶させただけだから。だって、こいつには用はないし」
ソイルは場違いにふんわり微笑む。大人が子どもをあなどりを込めて見るような、そんな色合いの中に、冷たい気配が漂っている。修太はピートに駆け寄ろうとした足を止め、自然、後ろに下がっていた。コウが修太の前に出て、歯を剥きだして低く唸る。
「……はは、用って、コウにか?」
冗談混じりに聞いてみる。
「まさか。君にに決まってるじゃない」
そうですよね、聞いてみただけです。
ソイルは道化師じみた仕草で肩をすくめる。
「だってさあ、賊狩りときたら、全然隙を見せてくれないんだ。黒狼族の男は女には基本的に甘いって聞いてたんだけどなあ。あんなに煙たがられるなんて予想外だったよ。遥々レステファルテから追ってきたってのに……」
話すうちに、だんだんソイルの高い声が低くなっていく。
修太は冷や汗をかく。
(なんかこの声……。いや、まさか……)
「付けたくもない香水を付けて、着たくもない女物の格好をして、油断したとこを首を頂こうかと思ってたんだけどさぁ。もう、まどろっこしいのはやめにするよ。大丈夫、下準備は出来てるんだ」
そうしてにっこりと艶やかに微笑むソイルの笑みは、もう不気味なものにしか見えなくなっていた。
修太は盛大に頬を引きつらせる。
「お、男だったのか、あんた……」
「“だった”じゃないよ。生まれた時からずーっと男だ」
「へ、変態……?」
「失礼だな。ちょっと声変えと変装が得意ってだけだよ。お陰で、よく一人だけ別の地に潜り込んだりしててね。ある日、アジトに戻ってきたら、賊狩りに仲間が全員殺されていたんだ」
ソイルの深緑色の目に、物騒な光が宿る。
「あの時の気持ち、分かるか? 自分一人だけ生き残った気持ちがどんなものか……っ」
ナイフを手にした右手をぶるぶると震わせ、ソイルは低く笑う。
「あの男、絶対に殺してやる。あの地獄のような光景、忘れるものか……っ!」
そこで高ぶった気を鎮めるように深呼吸をしたソイルは、落ち着いた笑みを浮かべる。作られたのが一目瞭然な笑みは、まるで能面を見ているようで不気味だ。
「あいつはどうやら、君のことを自分の子どもか弟子みたいに思ってるようだから、悪いけど、君を出汁にさせて貰うよ」
「……だったら、何でそいつを巻きこんだ?」
修太のどぎつい視線をさらりと流し、ソイルは緩く笑う。
「君の周りってガードきつくてさぁ。最初は貴族の子か何かかと思ったけど、〈黒〉って分かって、なるほどねってね。だったらそれを利用してやらない手はない。子ども相手だからと勝手に出てきた君も悪いよ」
「…………」
ぐぬぬ。それも正論なのだが、こいつに言われると腹立たしい。
「……コウ!」
前に立つコウに声をかけると、コウはだんっと前足で踏ん張って立ち、「ウオォォーン!」と遠吠えをした。しかし、何も起きないのを見て、「ワフッ?」と目を瞬き、再度、遠吠えをする。
「あはは、無駄無駄。その犬、〈黄〉でしょ? この倉庫、〈黄〉の魔法封じがかかってるから」
ほら。ソイルは天井を指差した。
ついそちらを見ると、天井に魔法陣がチョークでえがかれており、真ん中に媒介石らしきものが一つおさまっていた。
「自分でやっといてなんだけど、他所見厳禁だよ?」
キャンとコウの悲鳴が聞こえたのに驚いて視線を戻すと、ソイルがコウを蹴り飛ばした瞬間だった。
「コウ!」
痛ましい姿にぎょっと目を瞠り、修太は叫ぶ。
ソイルがこちらに近づくのが見え、舌打ちし、後ろに下がる。
「って!」
後ろに檻があるのを忘れていた。背中をぶつけてその存在を思い出す。
床を転がったコウは、すぐに身を起こすと、地を駆けてきて、ソイルに体当たりをする。
「この! 余計なボディーガードだな!」
右手で構えたナイフの柄を使い、衝撃を受け流し、更にコウを弾き飛ばす。しかしコウもしぶとく、再度ソイルに飛びかかっていく。修太はその横を走り抜け、ピートの方へ走る。
「ピート! おい、しっかりしろ!」
ピートの側に辿りつくなり肩を揺するが反応はない。完全に気絶している。ほとんど体格が変わらないピートを急いで背負うと、出口を目指す。
「おわっ!?」
ごうと突風が吹き、内に向けて開いていた鉄扉が眼前で閉まる。ガシャンとけたたましい音がした。
「残念。そいつを見捨ててたら、逃げられたのにね?」
サンダルの底でコウを踏んだまま、ソイルは僅かに首を傾げて微笑んだ。場の空気に不釣り合いすぎて異様だ。何を言っても話が通じないような狂気じみた気配が漂っている。
「安心してくれていいよ。まだ殺さないから」
じたじたと動くコウの頭を蹴って静かにさせると、ソイルは静かに歩いてくる。
「でも、場所を移動しようか? あいつを殺すのに相応しい舞台は用意してあるんだ」
修太の眼前に立つと、ソイルは目を細め、右手に持ったナイフの腹で、パチパチと修太の左頬を軽く叩いた。
「ねえ、また訊くよ? あの男、君のこと、助けに来ると思う?」
修太は頬を引きつらせながらも、睨み返す。問いの返事は、前と同じだ。
「さてね。そこまで仲良いとは思わないから、来ないんじゃないか?」
「そう」
ソイルは満足げに笑う。猫みたいな笑みだ。
「でも、ボクは来ると思うな。君は知らないみたいだけど、黒狼族ってね、仲間と認めた相手のことはそれはもうとても大事にするんだ。それに武器を持たない者には優しい」
くくっと喉の奥で笑う。
「そうだね。武器を持っていないなら、苦しまないように殺してくれる程度には、優しくなるよ」
冷たい声に背筋がゾッとした。深緑の目は暗い光を称え、呪いのように言葉を紡ぐ。
「僕の仲間もそうだったんだ。君もいつかそうなるといいね?」
「…………」
言葉は喉の奥に張り付いて、修太はうんともすんとも口に出来ず、ただ深淵の奥のような暗い瞳を見つめ返した。
女装注意、ネタばれになるから書きませんでしたけど、大丈夫ですよ……ね? でも、実は最初から、それっぽいことを書いてはいます。