イリナ、嵐の前触れ②
チタンが倒れ伏した床に、血はなかった。
それでも、その光景はあまりにも重く、胸の奥を締め付けた。
箱が転がり、作物が散らばっている。
ついさっきまで、街の人々を喜ばせていた“恵み”だ。
その中心で、アーサーがゆっくりと剣を引き抜いた。
「……ふん」
剣先についた粘性のある光が、床に落ちて消える。
スライムだと理解していても、その行為が“殺し”であることに変わりはない。
「アーサー……!」
声が震えた。
私は一歩前に出る。
「もう十分です! これ以上は――」
「黙れ」
短く、鋭い声。
「こいつらは王国にとって不確定要素だ。正体不明、出所不明、目的不明。排除する理由としては十分すぎる」
ゴールドが、チタンの前に立ったまま一歩も退かない。
その背中から、はっきりとした敵意が伝わってくる。
「……貴殿は、交渉相手を殺しました」
「交渉?」
アーサーが嘲るように笑った。
「剣を向けられてなお口を閉ざす者を、交渉相手とは呼ばない」
再び、剣が持ち上がる。
今度は、明確に――ゴールドへ向けて。
その瞬間、体が勝手に動いていた。
「やめてください!!」
私は剣を抜き、アーサーの前に立つ。
金属音が、商会の中に高く響いた。
アーサーの剣と、私の剣がぶつかり合う。
一瞬、時間が止まったように感じた。
「……ほう」
彼の目が細められる。
「俺に刃を向けるか、田舎の女」
「これは、王国のためではありません!」
叫ぶように言った。
「あなたのやっていることは調査ではない! ただの暴力です!」
剣越しに伝わる圧が、凄まじい。
腕が痺れ、歯を食いしばらなければ立っていられない。
それでも、退かなかった。
「この者たちは――少なくとも、この街に害をなしていない!」
「だからどうした」
アーサーの声は冷たい。
「害をなす“可能性”がある。それだけで斬る理由になる」
「それは……」
言葉に詰まる。
理屈としては、彼の言うことは王国の論理だ。
だからこそ、恐ろしい。
「イリナ」
低く、圧を込めた声。
「感情で判断するな。俺は王国を守っている」
「……違います」
私は震える声で、しかしはっきりと言った。
「あなたは、“王国を守る自分”を守っているだけです」
一瞬、空気が凍りついた。
アーサーの目に、明確な怒気が灯る。
「……言ったな」
剣に力が込められ、押し返される。
足が床を擦り、後退する。
(このままじゃ……)
その時だった。
「……イリナ様」
ゴールドの声。
いつの間にか、彼は剣を下ろしていた。
敵意は消えていないが、静かに、理性的に立っている。
「これ以上の衝突は望みません」
アーサーが鼻で笑う。
「望む望まぬの問題ではない」
「ですが」
ゴールドは、倒れたチタンに一瞬視線を落とした。
「貴殿が斬った彼は、我々にとって“代表”に過ぎません」
「……何?」
「ここで我々を排除しても、意味はない。むしろ、確実に敵対関係が生まれるでしょう」
その言葉に、私ははっとした。
これは脅しではない。
事実の提示だ。
アーサーはしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと剣を下ろした。
「……面倒だ」
苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てる。
「今日は引く。だが覚えておけ」
鋭い視線が、ゴールド、倒れたチタン、そして私に向けられる。
「次は“調査”では済まさない」
そう言い残し、アーサーは踵を返した。
重い足音が遠ざかっていく。
静寂が戻る。
私は剣を納め、その場に立ち尽くした。
(……私は)
王国の騎士として、正しい行動だったのか。
それとも、一人の人間として、間違っていたのか。
ゴールドがこちらを見る。
「……感謝します、イリナ様」
その言葉に、胸が締め付けられた。
「私は……」
何を守ったのか。
誰の味方なのか。
その答えが、まだ自分の中で定まらないまま、
ただ一つだけ確かなことがあった。
――もう、元の場所には戻れない。
その予感だけが、静かに、しかし確実に胸に残っていた。




