72.珍客到来
「馬鹿なっ!」
これからどうなるのかということを話題にざわつく教室内に突如、驚愕を含んだ声が響き渡りその事に驚いた生徒たちが声の発信者へと視線を向けようとする。
そして、その声の後に、ドアが開かれる音が一子遅れて付いてきた。
皆が振り返ろうとしていた矢先の音であっただけに、聞き慣れた筈の音であったにも関わらず、意識外からの物音に何事かと更に驚かされた。
これは、声の発信者と他の生徒たちとに段違いの能力差があるということを意味する。
声の発信者は、戸口の付近の生徒が人が来たということを認識よりも早く気付き、まだ開ききらないドアから見える一部と気配から、その人物を特定出来たのだ。最も、驚きの声を上げたのは、その人物が“どういった存在”なのかを良くが知る故であるわけだが……
「随分な驚き様ですね。凍結妃とさえ言われるあなたのその表情を見られただけでも、引き受けた甲斐はあったというものです」
その声の主は、本物とも偽物とも判断の付き難い柔和な笑みを浮かべる、青年とも壮年とも呼べそうな男で、教室の中へと足を踏み入れ最初に声の発した方へと視線を向けていた。
男の視線だけでなく、教室中の視線を一身に集めたその者は、その事には丸で意を介さず……というよりも、驚愕の余りに周囲のことなど丸で気づいていない様に――正常な状態であっても、他者の視線など気にするタイプにも思えないが――ただ一点を睨む様に凝視している。
「私がここにいることがそれ程不思議ですか? お嬢様」
お嬢様とは呼びつつもそれには一切の好意的な意図など含まれてはいないことを呼ばれた当人は良く認識している。そして、それは寧ろ皮肉であるということも……
だが、そうであるからこそ彼女の意識は引き戻された。“敵”とは言わないが、決して味方でもないその存在を認識することによって。
「ああ、気になるな」
不機嫌を隠さぬ刺のある口調で答える。
「無論、請われたからですよ。『キョウ様』にね」
キョウ――――その言葉に様と付けるよりも早く、自分の喉元に何かが触れたことを感じたが、それと分かっていても男はそれでも残り僅かな文を言い切った。
「ひっ……!」
その状況を認識した者は悲鳴をあげようとした。
だが、その悲鳴すらも押し殺させる威圧を受けて声の一つも発せ無くなった。
「その名を口にするな」
「流石に速いですね。何の予備動作もなく、私の喉元にまで刃を届かせるとは……正しく刹那を体現し得るその身体能力、“私程度”では精々逡巡がいいところだというのに、いやはや何ともお見事」
言葉通り喉元に刀を突き付けられているというのに、その男に焦りの色はなく、余計な筋肉一つすら動かしはしない(尤も、口は常に余計であるようだが)。勿論、刀は真剣であり男もそれを承知している。
「ですが、感心はしませんね。皆さんが怖がっているではありませんか」
「返答になっていないな」
刀が皮膚を破る寸前にまで押し込む。これ自体は脅しであるが、返答次第で脅しだけで済ませるつもりは毛頭ないという意思表示である。
「無理ですね」
その言葉を一応最後まで聞いた後、神埜は突きの動作を躊躇うことなく実行する。
「“私たち”にとってキョウはキョウです。“あなた方”の思惑で私たちを縛ることは出来ないのは、良くご存知でしょう? それを決めたのは他でもないあなた方なのですから」
普通に考えれば逃れられないような状況、だが男は平然のその状況を脱して見せた。
何をしたかは分からない。ただ、瞬きの間もなく神埜の眼前に居たはずの男が、何故か今は後ろに居る。
その状況で、男は神埜に向き合いもせずに背中合わせに語りかける。
「故に、あなた個人の思惑であるならば尚のことね。
だからと言って、別に敵対しようとうわけではありませんよ。いや、寧ろ今のところあの件に関して、私たちとあなた方の利害は一致している。ならば、お互い協力し合った方が合理的というものではありませんか?」
男の言葉に神埜はグッと歯を食いしばる。
男の言っていることは正しい――――いや、間違ってはいない。そう、間違いではない。只それだけだ。それが、正しいとはきっと誰にも言えないことだろう。
少なくとも神埜の中では、正しいことではないということだけが、今のところの確かな事実だ。
※※※※
「さて皆さん、お騒がせしました。私の名は、宮本充。凍夜様の名代として魔導指南に参りました。彼が戻るまでの期間となりますが、宜しくお願いします」
神埜との諍いの後、丸で大したことがあった訳でもなし、という態度で平然と自己紹介をする男、宮本充。
確かに、当人にとっては取るに足らない些細な出来事だ。だが、一切の背景を知らぬ生徒たちに取って、今の空気は重苦しいことこの上ない。彼らからしてみれば、あわや流血沙汰だったのだ。一般人からしてみれば、事情云々に限らずそれだけでもトラウマものだ。
宮本はそれを察して、一応のフォローを入れておく。
だがそれは、それこそ正に"一応"という程度でしかなく、弁明という気すらなく単にそうでなるという事実を一つ明かしただけに過ぎなかった。
「先程のことはお気になさらず。なに、大したことではありません。
我々『九極天』は、我の強い者たちですからね。互いに顔を合わせれば、この様なことは茶飯事。何も彼女とて、本気で殺せると思ってやったわけじゃありませんよ」
最も、本気で殺すつもりでやっていたでじょうが、と要らぬ言葉を添えるのは忘れない。
しかし、そんなところまで生徒たちに声は届いていない。彼の口から発された余りにも衝撃的な言葉『九極天』。
彼らがその言葉の響きを意味として理解すると、教室内は驚愕と喧騒に包まれた。