61.揺れる心と揺るがぬ決意
「しっ! 失礼いたします!!」
二人のやり取りを微笑ましく眺めていた凍夜に、不意に声が掛けられた。
声の調子からもかなり堅くなっているということが分かる。
「わた……、自分は82-13所属橘三曹であります」
そこには背筋をピンと伸ばし、左手は体の横に当てたまま、右手は親指を握り込んだ拳を作って左胸の前にした姿勢の二十代前半であろう若い女性がいた。君礼と言われる今の日本軍の敬礼だ。
軍は部署の名称が往々にして長い。それは名は体を表すという諺がある様に、名称がそのまま分かりやすく部署の活動を表しているためだ。だが、名乗る度に都度口にしている様では調子が悪い。そのため、“身内”での名乗りはこうして所属に宛がわれた番号で行う。
つまり、この橘となのる女性は日本軍の軍人ということだ。
「そう堅くならないで下さい、そう畏まられる程僕は大したことはしてきてないですから。ここにいるのは図々しい一介の高校生とでも思っていて下さい」
余りに緊張に強張るこの女性軍人に凍夜は無理だろうとは思いつつも、それでも少しは解れてくれたならばと思って楽にする様にと声を掛けた。
然しもの凍夜もまだ二十歳にも満たない若輩ものである。目上のものからこうも傅かれることには慣れてはいないし、自身がそうされるだけの分に実が伴っていないと自覚しているので気分のいいものではない。
「はっはいっ!!」
しかし、橘はその意味すらも理解出来ずに返事のみを返した。
凍夜からの視点だと、橘の眼は若干ながら上を見ている気がする。きっと彼女は凍夜の姿すら正視できずに明後日のところを見ているのだろう…………
「橘三曹でしたよね。そのお年で三曹だなんて、とても優秀な方なんですね。
知っているでしょうが、改めて自己紹介させて頂きます。紫司凍夜です。宜しくお願いします」
凍夜が自己紹介と共に握手を求めて右手を差し出した。
「いえ!! 滅相も御座いません!!
それと、わたし……いえ、自分如き一兵卒が紫司司帥と握手など恐れ多くて……」
無理もないことだとは思うが、これ程緊張しているというのも流石に可哀想だ。
やはり自分には過ぎた階級だと凍夜はしみじみ感じる。
だが、凍夜を名乗る限りは切っても切り離すことなど到底出来ない役目の一つだ。
『司帥』というのが『凍夜』の軍に置ける階級。これは、軍という組織に置ける絶対の最高位の階級であり、『凍夜』専用の階級だ。
普段詠歌が凍夜に命令するのは紫司として、そして姉としてという立場からということになる。軍に所属する者としての立場からすると中将という階級であとうとも司帥の前には格下の階級でしかない。
勿論、本当の『凍夜』ではない『彼』に『紫司』をどうこう出来るだけの実権が有るはずがないが、それを表に知られるわけにはいかない。よって、軍という組織を介してのみ凍夜――彼は詠歌を使うことも、詠歌の命を断ることも出来る立場にある。
しかし、彼がその力を彼としての意志で施行することはないし、今までに軍人――否、戦神としての務めなど果たしたことなどはないというのが現状だった(無論、戦神としての務めなどないに越したことはないわけだが)。
「それは残念。僕としては、その若さで下士官職を務める様な優秀な方とお近づきになりたかったのですがね…………まあ、これ以上はハラスメントと言われてしまいそうなので、諦めるとしましょう」
などと軽口を挟んで手を戻す。
凍夜としては、無駄な力を抜いて欲しい故のことだったのだが、橘はその程度のことにも『あの……』『その……』っと、何か弁明を述べようとする。
完全に裏目に出てしまった。
流石の凍夜も苦笑をこぼす他無かった。
「それでは橘三曹、定刻までまだ暫く有りますから、それまでは部隊の方々とリラックスして待機していて下さい」
「りょ、了解致しました」
女性に恥をかかせて喜ぶ趣味はない。
彼女が声を掛けてきたのは、『お偉いさん』がいるから部隊を代表して挨拶をしに来たという程度のことで、別段凍夜とのコミュニケーションを図りに来た訳ではない。今回の彼女たちの部隊の任務と凍夜の任務はそれぞれ独立しているので、打ち合わせることなど何もないのだ。
となれば、無為に彼女をここに留めておくというのも酷なので凍夜の方から退路を示して、彼女を早々に帰した。
その束の間のやり取りが眼を引いたか、クラスの面々が凍夜たちの周囲に集まって来ていた。
勿論、男女問わずに皆体育着を着ている。
そんな中はやり小夜の格好はその容姿と相まってかなり人目を惹き付ける。今はクラスの女生徒たちに取り囲まれてハグの嵐を受けている最中だ。
男子生徒はと言えば、他のクラスの者のみ成らずクラス内の者も含め、幾人か……という表現では些か少なく感じる程に多くの男子が一様に同じポーズを取っていた。
親指と人差し指を直角にして丁度「」の様な形を作り小夜をフォーカスしていた。
今年の国立魔法師育成高等学校常盤校舎では主に男子生徒を中心として奇妙な眼鏡ブームが巻き起こっている。
但しそれは当然視力補正のためではなく、またファッションのためでもない…………
彼らが使用しているのは、携帯のオプション『グラススクリーン』。
普通の眼鏡のレンズに当たる部分がスクリーンとなっていてホロウィンドウをポップアップさせずに情報表示させることの出来るの代物で、物によっては更に様々な機能があるがそれらの大半は専門家向けに特化したものが多く一般にはあまり需要がない。
だが、何故そんなものが普及しているのか?
それは、それが本来は特定の職業又は趣味を持つ者向けとしての狙いで販売されているものものなのだが、また日常的にも在って不自然ではない機能が備わった代物であることに起因する。
アイビューズカメラ、その意味そのまま、眼の視点そのままに写真を撮る機能のことだ。
彼らの使用しているグラススクリーンにはその機能が搭載されている。
つまり彼らは、あからさまに小夜を目的として写真を撮りますと、堂々と公言しているにも等しい。メーカーにより掛けられた操作ブロックの所為で撮影の際は動作・音声の承認コマンドが必要なため、更にそれは如実に現れる。
だが、それ自体に罪はないので罰しようもない。
小夜がそれを不快に感じるならば相応の対応を取ることもしただろうが、彼らにしてみれば幸いなことに、小夜は遠巻きに見られる程度のことには意を介さないので、悪質な行為にでも及ばなければ良しとしているが、自分としてはこれ程の視線に晒されても尚“他人を意識出来ない”彼女に単純成らざる意を持って思惟せざるを得ない。
だが、女生徒とのやり取りを見ている限りでは良い方に向いていると思う。
いつか彼女がそのことを吹っ切ってくれればと、凍夜はクラスの女生徒たちから揉みくちゃにされる小夜を微笑ましく眺めていた。
※※※※
「呑気なもんだな…………」
不快と呆れを半々に織り交ぜた様な声色が、突如真横から発せられた。
「そんな刺のあることを言わないで下さいよ。彼らは『僕』の協力者なんですから」
声を出すまで、凍夜とてその存在を認識出来てはいなかったが、その程度のことで一々驚くこともなく、発せられた声に間を置かずに苦笑を浮かべて言葉を返した。
「おはようございます、蒼縁さん」
横を向いた凍夜の顔には、苦笑を即座に打ち消して柔和が笑みが灯されていた。
「あいつらのことじゃない。紫司妹のことだよ」
「そう彼女を責めないで下さいよ。彼女も被害者の一人なんですから…………
まあ、それを言ってしまえば、貴女にどうこう言える権利なんて僕には無くなってしまうわけですけどね」
「あたしはそうは思ってない。あたしはもう十分に救われてる側の人間だよ。それはあの娘にも言えてる。
だからこそだよ。あたしとあの娘は似てるんだよ。何もかもがね。
だからこそ、あたしはそこを間違っているとは思わないっ!!」
凍夜の左側に立つ神埜の横顔は、凍夜の側からは眼帯が大半を占めていて表情を読むことが出来ない。
しかし、凍夜には彼女の想いはひしひしと感じられた。
神埜から伝わる複雑な感情に、凍夜は一つ吐息を零して言葉を紡ぐ。
「どうして、僕の周りにはこうも優しい方々ばかりなんでしょうね? 父や母……姉や妹に……学校の友達や研究所の皆さん……」
雨の降る曇天の空の下、大きく深呼吸すると共に手を伸ばして、背筋を少し反り返る程に伸び上がらせながら今度はポツリポツリと一人一人名を連ねていく。
「……藤原先生に…………」
(なんであんな奴まで…………)
そう思わずにはいられない。きっと凍夜にこのまま言わせ続けると時間さえあれば、知人全員の名前を挙げ連ねるに違いない。とすら思う。
だが、――
(彼はそれでいい)
――それをバカだとは思わない。
彼はそういう存在なのだ。
そうである彼に自身が救わた過去があり、現在も救われ続けている。
そんな彼だからこそ全ての者を惹き付けるだけの“魅力”を備えてもいる。
故に彼の存在が変わることがあってはならない。
しかし、だからこそ周囲が彼と見合うだけの存在でなければならいとも思っている。
その思いがある故に神埜は藤原が好ましく思えない。
彼を知ろうとせず、ただ頑なに否定する。その姿勢が何よりも不快にさせる。それは以前の自分そのままだったから…………
「――それに、君もね」
幾つかの名前が耳を通り過ぎて行ったが、それが一体幾つあったのか誰の名前があったのか全く聞き取れていなかった。
だが、その部分ははっきりと意識の中に入り込み神埜の視線を、いつの間にか正面に移動し笑みを浮かべる凍夜へと釘付けにさせた。
「――――バカを言うな……」
どうにかその言葉だけを絞り出して、顔を背けた。
(全くこの人は……、私がどれだけ醜いか知ってる癖にそういうことを平気で…………
その癖それでこっちがどう思っているのか。それも、分かっていてやっているんだから尚質が悪い。
どうして、この人はいつもいつも………………いつもいつも他人の事ばかり…………)
その思いはやがて矛先が誤っていると分かっていても怒りを駆り立て、神埜に怒りと想いの丈をぶつけずにはいられなくさせた。
「一番救われてないのは貴方だ。貴方はいつもいつも他人の事ばかりを気に掛けて、私やあの娘、あいつやあの人!!」
神埜の声には強い感情が込められ、口調も元の状態に戻っていた。
「もっと自分のことを考えてよ…………」
今度は消え入りそうな程一気に声は小さくなった。絞り出した様な苦しげな小さな叫び…………
ともすれば、全てを壊してしまいたい衝動を抑え、本当に伝えたい全ての想いを乗せた一言。
俯く彼女の顔には前髪がかかって直接表情は見ることが出来ない。
泣いてはいない…………だが、泣いてしまいそうな程に張り詰めているのは間違いないという確信はある。
(本当に……僕は最低の存在だな…………)
神埜の頭に左手をポンッと乗せて撫でてやる。
それが今の自分に許された精一杯……
こんな時であっても意識的に役目を優先する自分は、どうあっても真っ当な人間ではないとしみじみ実感させられた。
「ありがとう。ほらっ、やっぱり君は優しい娘だ」
※※※※
今が雨で良かった。
私の零した涙は、降り落ちた雨水で分からなくなるから……
私の聞き苦しい嗚咽を、激しい雨音で掻き消してくれるから……
※※※※
今回、常磐校舎で集まった生徒の人数は350人弱。
見込みとしては200人程度と踏んでいたのでそれを上回ったことに、集まってくれた生徒たちに万謝といったところだ。
そして、クラスメイトが全員参加してくれたことには正直驚いた。
他の生徒たちの意気込みは分からないが、きっとクラスメイトたちが自分という存在に多かれ少なかれ信頼を寄せているが故のことだと思うので、その彼らを裏切らぬだけの働きはしなければならないと、凍夜は決意を改めた。
しかし、全体的な状況としては芳しいものではなかった。
確かに常磐校舎では多くの生徒が集まってくれたが、協力を要請した魔法学校三十余りを全て合わせて、集まってくれた生徒の数は六千を満たなかった。
七千人は欲しいところだったが、それを遙かに下回ってしまったからだ。
「どうです凍夜くん? この人数で行けそうですか?」
四大柱が一柱、羽月誠吾が凍夜に問い掛ける。
ここは獄炎嵐対策本部、肉眼で獄炎嵐が見られる程に近い海岸沿いに設置されている。
凍夜たちは、橘の部隊によってここまで運ばれてきた。彼らのメインの仕事はここまでだ。後は、ここで他の部隊の補佐となる。
そして、ここでの凍夜の立場は最早一介の高校生ではない。
司帥という軍の最高権力者であり、紫司という一族の一員であり、凍夜という日本の最高戦力でもある。
「元は僕一人でどうにかするつもりだったんです。これだけ集まって頂けたなら十分ですよ」
彼はそう言ってのけるが、それがどれ程の無茶かを分からぬ者はこの場にはいない。
権力があったとて自然現象に与えられる影響力はない。
戦力があったとて自然現象を穏やかに鎮めることは出来ない。
結局彼に頼るのは、彼個人の抱える異端の中の更なる異端の能力に他ならないのだから。
「流石さ~、神の代行体。とても、オレたちには真似出来ないさ」
月友継貴の呼び方に苦笑を浮かべる。
継貴のいつもの悪ふざけだ。
「その呼び方はやめて下さいよ、継貴さん」
「君は堅いさ~。これから契りを交わす仲なのにさ~」
「気色悪いことを言うなバカ者」
誠吾が継貴を冷たくあしらう。
「今回の件に我々は無力だ。済まないが、宜しく頼むよ凍夜くん」
「お構いなく。これは本来の僕の役目の一つですよ。
それでは、継貴さん。血を頂きます」
「おうさ。それじゃあ、ガブッといってくれ」
継貴が首もとを広げて首筋を差し出す。
しかし、凍夜がそれを辞めさせた。
「そんなことする必要はありませんよ。僕の右手には注射針が内蔵されてありますから、手を出して頂ければ十分です。それに、僕は生来のヴァンパイアじゃないので、牙も有りませんしね」
「そいつは良かったさ~。流石にオレも、男に首を食いつかれるのはごめんさ」
凍夜も全くだと同意して、差し出された継貴の腕に親指の針を刺して、その血を“取り込んでいく”。
「これが、悪名名高い『血系吸収』……いったいどれくらい抜くのさ?」
「ものによりますけど、だいたい100cc程頂ければ“借りる”くらいは平気だと思いますよ」
凍夜が宿す異端の能力の一つ『血系吸収』。別名を『魔族殺し』。
血液を取り込むことにより、その者の魔法能力も取り込むという異質な能力だ。
過去この能力を手にした者は公には一人だけしか存在していない。そして、その能力者は世界中から指名手配を受けた大罪人だった。
これ程の能力だ。上手く活用すればどうとでも立ち回ることが出来る。強力な能力を身に付けられれば身に付ける程強くなれる。ならば、手っ取り早く強力な力を得るためにはどうすればいいか?
簡単だ。強力な魔法師から奪えばいい。
強力な魔法師、つまりは魔族。彼らを狙えば間違いない。
そしてその能力者は世界を股に掛けて各国の魔族の力を取り込んでいった。その際、数多くの魔族が血を抜かれて死に至った。…………より強力な魔法は、完全に固着するまでに大量の血を必要とする。一人二人だけでは足りず、二桁単位で餌食にあったのだ。
故に魔族殺し。
世に知られる能力の中で最も忌み嫌われる能力の一つだった。
今回は『過去視』の能力を完全に自分のものにすることが目的ではないので、暫く使える程度の量があれば問題ない。
だが、100ccとたったそれだけで済むのは凍夜の体質故だ。オリジナルの吸血鬼でも、仮で能力を使えるまでに人一人分は裕に必要となる。
「こちらの配置は完了した。首尾はどうだ?」
そこへ詠歌が儀式陣の配備の完了を告げに来た。
「丁度終えたところです、それでは行きましょう」
凍夜は詠歌の横を抜けて陣へと歩き始めた。
応えた凍夜には一切の表情が無くなっていた。
他者の能力を自己のものにするという特異な能力だけに、その制御は容易ではない。暫くの間凍夜は取り込んだ能力を押さえ込むのに手一杯の状態になる。
「ちょっと待ってくれ」
陣の中心点へ向かう途中、暫し歩いてから詠歌が凍夜を呼び止めた。
「どうしたんです?」
「今回の件、まだちゃんと礼を言っていなかったからな。
本当にいつも君には世話になりっぱなしだ。本当にありがとう」
詠歌が腰を深く折って頭を下げた。
「『最後の最後まで、思うままに好きにさせてやりたい』以前貴女が、僕に言った言葉です。覚えていますか?」
「ああ」
入学式の日、小夜と少し揉めた後に詠歌が凍夜に言った言葉だ。
「その想いが貴方方だけの想いだとは思わないで下さい」
それだけ言って凍夜は再び歩き始めた。
未だにその声にいつもの柔和さは戻っていない。
しかし、そこに込められた想いは自分たちと同じであると詠歌は強く感じた。
※※※※
この先僕の言葉は彼女を傷つける。否応なく、間違いなく……
それは、身を引き裂くことよりも更に酷い真実を彼女の心に刻みつけることになる。
だからこそ今は許す限りを全てを彼女のために捧げようと決めた。
喩えそれが泡沫の幻であろうとも、どんな偽善であろうとも。