44.女の体
小夜は言葉通りに凍夜の背中だけを洗い、潔く浴室を後にした。
その後、数分という時間しか経っていないが、凍夜がシャワーを浴び終わったので今度は小夜がお風呂にする。
小夜は湯船につかる際に、いつも入浴剤を使用する。そして、その入浴剤というのもやはりというべきか、凍夜の調合によるものである。
小夜に何らかの異変がある場合には、凍夜が使用する入浴剤を指定することもあるが、それは稀なことで、基本的には小夜のその時の気分次第で決めている。
今日は、この後に凍夜による調律が控えているということを踏まえて、血行促進効果の高いものを選択しておいた。
はっきり言って凍夜にはそんなことは関係ない、というもの分かってはいるのだが、逆にそうであるが故に、何を使っていても問題ないということでもあるので、そこは気分を盛り上げるためと、敢えてそれを使うことにした。
凍夜は、自身はその体故に湯船につかるということをせずに、いつもシャワーだけで済ませているのに対して、小夜には基本的に湯船に入ってしっかり体を温める様にと指示している。
小夜はその命に従い、という意思ではないが今日もいつも通り湯船に肩まで深々とつかっている。
使っているものは人工的な入浴剤ではあるが、その効果は天然温泉の比ではない。温泉の場合、そこまで来たという、達成感などの精神作用も相まって爽快感を生み出すものだが、それすらも軽く凌駕がしてしまう。
気分が高揚することで得られるプラシーボ効果による作用ではなく、入浴剤の成分――科学的なものは勿論のこと、魔法的或いは、魔導的な作用もこの成分という意味に含む――が精神面にも作用するため、はっきりとした効果があり、更に肉体面に置いても温泉より高い効果が得られるとなれば、最早病みつきになるのも必然だ。
主立った趣味や好尚などを持ち合わせない小夜ではあるが、凍夜の調合する魔効薬は、ある意味嗜好品と言ってもいい。
だがそれは、別に特別なことなどではなく、これを知れば誰しもがそうなると小夜は確信していた。
薄い水色に染まった半透明のお湯につかりながら、今日の凍夜とのデートを反芻、またこの後のことを思い浮かべては、お風呂の熱以外の理由で頬を赤らめていた。
そして、先刻のことを思い浮かべては更にその色を濃くするもののそれは長くは続かなかった。
一度そのことに思い至ると即座に切り替えるのはかなり難しい。入浴剤の効果とて、いくら何でも入ったばかりで最大限の効果が現れるわけではない。
先ほどの嬉々とした表情とは裏腹に、今の小夜の表情に陰りが見える。
湯船の中を目的もなく彷徨わせていた手の内の一方が、自身の乳房に宛がわれた。
「お兄様……」
暫く何を考えるでも無しに呆けてから、又しても自分では意識しない内に、熱の入っていない声でそう呟いていた。
小夜はここ最近で急激に熟れていく体に、今までにない戸惑いを感じていた。
嬉しくない訳がない、などと言う言い回しでは卑怯だ。正直に嬉しい。そう言えるくらいの、はっきりとした思い自体は確かにある。
しかし、それと同じくらいにまたそうであるが故に、辛い思いも抱えていた。
取り分け視覚的に顕著な、今は控えめな表現で言って小振りと称するくらいだが、着実に成長していて、もうすぐサイズを一つ上げる必要が出てきる、その胸を見ながら戸惑いの色を濃くした。
嬉しいと思うのは『女』としての自分。
女として好きな相手に、少しでも好んで貰いたいという思いが無ければ嘘だ。
凍夜が女性の外観を気にするよな、そういったところで人を判断する様なことはない、というのは分かっているがそれでも自身でそれ望んでしまう。
別にそれ自体を疚しいと思ったことはない。
例え誰と比べるでもなくとも、男性を魅せるわけではなくても、自身の乳房にある程度の大きさを求めるのは女性として自然なことだと、理解しているつもりであるし、以前凍夜もそう言っていたので、それが強い後押しとして肯定しているというのもある。
女になる。そのこと自体が悩ましいというのはなんとも皮肉な話だ。
否定するのは、『妹』としての自分の中心とした、それ以外の感情。
自身が女であること自覚してくると、段々に求める思いも強くなり始めた。否、逆なのかも知れないと、小夜に思わせることもある。
まるでその思いが胸の内を満たし、それでもまだ沸き上がる想いが乳房を膨らませて行くような、そんな気さえしているのだった。
思春期になって恋の一つでもしたならば、男子でなくとも大なり小なりに、性行為への興味・関心くらいはあって当然のことだ。
俗物的な表現として、肉欲などと言う言葉があるだけに、そう称されると忌避するところだが、行為そのものに違いはなくとも、そこに想いを見出すことが出来るかどうかで、その意味は丸っきり違うものとなる。
純情の果てとして行き着くのであるならば、乙女とて心踊らぬ訳はない。そしてそれは当然のこと、と小夜自身もその思いを抱え内に秘めている。
しかし、例え自身が女としての成長を遂げたとしても、求められることのない確固たる現実が切なさを積もらせる。
それ故に馬鹿げた考えだと思うものの、子どものままであったならばと思うこともある。
熟れた自身の体を見なければ、きっと無自覚で無邪気でいられたのだからと……そんなことなどあるわけもないと、自分が一番分かってはいても……
凍夜と離れることに比べるならば、その程度と表現することも出来る。だが、だからと言って辛くないと言うこはない。
平気などと言えばはそれこそ嘘だ。
自身と彼との間にある、『兄妹』としての絆は、どうしようもない程に、あらゆる意味で重たかった。
本当の兄妹であったならば、余計な誓いなどなく、惹かれるままに想いを寄せ合えたのに……そう思うことすらある。
しかしそれは、最初から彼が兄だったならばと望めば、死んでいたのがお兄様だったかも知れないというものであり、死んだ兄上へのこの上ない侮辱でもあることに思い至り、以後その考えは絶対にしてはならないと自身を戒めた。
自身の願望を押し通すなら、本来は赤の他人であることが好ましいと言うのは明白なことなのに、それすらも望むことは出来ない。
何しろ小夜が愛しているのは、紛れもなく今の凍夜なのだ。
今小夜が、凍夜に特別な扱いを受けているのは、枷とも言える絆のために他ならない。ならば、それが無くなるということは、自分は凍夜の中で特別ではない一個人になってしまう。
幾千幾万といる女性の中の一人――否、ただの人間。その程度の存在になってしまう。
沙樹には申し訳ないとも、決して廉い感情からではなく憐憫の情を抱きもしている。そして、それは小夜が知っているのは沙樹だけであるが、その他にもいるであろう、凍夜に恋心を抱く者全てに言えることだ。
何故なら凍夜は他者を特別な観点で見ることがない。そうそれは、例えどれ程親しくても、視界に入るだけで、魅られることのない存在ということだ。
それは、この想いを抱えたままでは余りに辛すぎて、とても耐えうるものではない。
故に、小夜にとって、今の関係は揺るがすことが出来ないのだった。
しかし、『いっそこの想いを無くせたのなら……』そんな考えだけは未だかつて思考の片隅にも上がったことが無い。
お兄様を愛するということ、それが小夜の大前提であり、全てがその上になりたっているので、その考えは有り得る筈もないことだった。
自分という存在を肯定した上での、悩みはこんなところだが、小夜の悩みはこの程度では尽きるものではない。
そして、今は恋愛観からなるものもよりも寧ろ、こちらの方が本題だと言える。
何しろ、それと比較すれば、これまでの自身の悩みなど、どれ程も贅沢で傲慢なことか……
パシャーンッ!!
お湯を顔にまるで叩き付けるかの勢いで浴びる。
「情けない……女になることが不安? お兄様に受け止めて貰えないから?」
浴室の壁の一つの面に大きく張られた鏡に映る自分を、まるで憎い敵を気殺す様な形相で睨み付ける。
「本当に馬鹿馬鹿しくて浅ましい考えだこと……」
胸の前で腕を交差させて両肩を掴み、強く締め付ける。
今朝と同様に自分を八つ裂きにしてしまいたいと、本気でそう思う。しかし、今朝と違っていまは、悲しみからではなく、憎しみからくるものだった。
先ほどと同じように凍夜の姿を、その一つ一つの部位を思い浮かべる。
『計算し尽くされた造形美のそうな顔』
『その中に収まる正に造形の品たる眼』
『決して肉付きは良くはないが、それでも自分を受け入れるくれるには申し分ない程の胸板』
『人工的であっても、優しく包み込んでくれる右腕』
『全てを超越する魔法の左手』
『ピッタリと張り付く様にして、初めて見られる繋ぎ目』
『外からではそれと分からぬ程精巧に出来た腹筋』
『体のバランスの理想を忠実に再現した両足』
一見すると、不自然さがなさ過ぎて、それが正しいのだと受け入れてしまそうになる凍夜の体……
しかし、それ故に人間として完全に欠落していた。
凍夜は男だ。
なればこそ、あらねばならぬものがなかった。今の凍夜の体には飾りとしてすらもない。
義体であるという事実のみを知るものならば、当たり前だと思うこともあるだろう……
だがそれは、実に当たり前ではなかった。
本来凍夜が欠損したのは、外観的には右腕と両足という部位のみだ。若干腹部にもあるが、腸を少し削られただけで、処置すれば機能は十分に果たすことも出来た。
にも関わらず、現在の凍夜の体は胸部より下が全て義体化してしまっている。
人間たるもの例えその部位に異常があろうとも、出来うることなら生身の部分を少しでも多く残そうと思うもだ。
魔式生物科学医療が発達した今の時代、本来なら義体などと言うものすらも使うことは滅多になく、生体複写技術の応用と再生魔法の複合治療により、肉体の損傷だけなら、即死しない限りはほぼ完治が可能になっている。ほぼと言うのは、脳への後遺症は、場合によって残ることもあるからだ。
なれば望む筈だ――生身でいたいと。
しかし、凍夜にはその治療は出来なかった。
ならばせめて、願う筈だ――出来限り生身を残したいと。
だが、それすらも構うことなく、凍夜の体は、手術により更に半分をもぎ取られた……
凍夜が四肢の無くして行く様を見ていたものたちは、嘸かし奇怪な現象を目にしたと感じていたに違いない。
それは、普通のことではあり得ない筈の消失の仕方だった。
その原因は、肉体ではなく霊体の方にある(日本でエーテルとは、その特徴が旧時代の霊という概念に相応することから、その字をあてる)。
生命体とは、肉体と霊体、その二つが一対で初めて成立する。
霊体とは、生体の器であり、それがあるからこそ肉体は、形を保つことが出来る。
凍夜の場合は、霊体を失ったことにより、肉体が保てなくなったのだ。
そうなってくると、最早再生治療は意味をなさない。そのときは元に戻すことが出来るが、霊体が欠損したままなら、また崩れてしまうからだ。
クローン医術の場合も同じで、クローニング技術で作られ生体部品は一定期間しかその姿を保てない、それは生体を作ることは出来ても、そこに霊体を宿すことが出来ないからだ。本来なら、肉体部位が欠損しても霊体は無事なので、移植することで元通りにすることが出来る。
肉体を治療する為には、霊体が万全でなければ成らないのだ。
しかし、凍夜の場合は肉体が無事なのに対して、如何かの“法”を持ってして霊体を先に消失させられたために、物質である機械義体を余儀なくされたのだ。
ここまでは、仕方のないことだとして割り切ることも出来る。
だが、無傷であった筈の部位まで凍夜は義体へと作り替えた。
本来、生命活動を――私生活を十二分に不自由なく行うだけなら、そんなことをする必要な一切なかった。
にも関わらず、凍夜はその殆ど無傷であった肉体を、なんの惜しげもなく差し出した。
何故か? ――必要だったから
どうして? ――守るために
誰を? ――妹を
気付いたときには、両肩の肉に爪が食い込み血が流れている。
痛みを与えるためにやったことなのに、残念なことに激情の余り痛みすら感じない様だ。
魔力を込めた――魔法などにより効果を付与された状態を指す――手の力は、実のところ骨すらも砕いていた。
なのにやはり痛みは感じられない、実に残念だ……小夜は心の底からそう思った。
このまま暫くすれば、入浴剤の効果も相まって、精神が落ち着いた頃には痛みも感じる筈だと思うが、それを待っていては、流石に時間が掛かり過ぎる。
仕方ないので、傷の治療魔法を施して、あとはゆっくりお風呂につかることにする。
(あまりお兄様をお待たせしては申し訳ないわ…………)
今のことで少しは気が治まったのか、なんとかピークは過ぎ去ったが、別の嫌な気分がまた沸いて来ていた。
(ごめんなない、お兄様……自傷して、自分を好きになれなくて、でも結局そんな自分を捨てきれなくて…………そのくせ、お兄様に愛を求めてる……)
バスタブの縁に頭の預け仰向けになった小夜の、瞼を閉じられたその両目の端から、涙が伝ってた。