39.もう一つのサイコロ
車の中では一組の男女が、向かい合わせに座り無言の時を過ごしていた。
女性の方は、まだ少女という年頃の、それでいて大人びた雰囲気も見て取れる、とても美しい顔立ちをしていた。しかしその少女は、とても少女には似つかわしくない筈の、黒い重苦しい印象のある眼帯をしていた。
少女は、何を見るでもなくただ流れる外の景色を眺めながら、時折目の前に座る『少年』へと視線だけを向けていた。一応、もうすぐ二十歳になる筈で、本来ならば青年と称するべきなのではあるが、実際のところ少年という表現も間違ってはいない、ということをこの少女は知っている。
少年は、少女の格好や仕草に愛らしさを覚え、相手からは視線の先が読み取ることの出来ない、不透過の眼鏡越しにじっと少女を見つめていた。
少女の方は、一瞬視線を少年に向けるも即座にまた何事も無かったかの様に視線を戻す、っということを少年が車に乗ってからの時間、かれこれ十分程繰り返していた。
「そういう格好もする様になったんだね。僕のイメージだと、君は和服姿が一番印象的だから、そういう格好は新鮮だよ。でも似合ってる。可愛よ、神埜」
少年は一頻り少女の愛らしさを愛でると、漸く口を開いた。車に乗ってから、おはようの挨拶以来の開口だった。
自分の格好を褒められた――否、この少年に褒められたことが嬉しく、また気恥ずかしい少女。神埜は不機嫌を装うポーズのまま顔を真っ赤に染めていた。彼女を知るものが見たら嘸かし驚くべき光景だろう。
神埜は今可愛らしいパンクファッションに身を包まれていた。
「折角の時間なんだ。話をしようじゃないか? 今の『僕の立場』では君の望みを叶えてあげることはできない。だけど、今このときは蒼縁の時間だ。だから、出来る限りのことはしてあげたいよ」
そう言って、少年は神埜へと会話を促す。
「ありがとうございます……私はその言葉だけで十分です。今この時、貴方と共にいられる。そのことだけで私は救われていますから」
『ありがとう』ただそれだけを言って少年はまた口を閉ざした。
『ごめん』という言葉をいいそうになったが、それは言わなかった。
これは『贖罪』。ある者との誓いを、否その大前提すらも破り去った、そのための贖罪。
それに神埜を付き合わせている。神埜はそれを知るが故に今の距離を取る。本当はもっと近づきたいという自身の本当の気持ちを抑えて。
そして、少年もまたそれを理解するが故に感謝の言葉を述べた。謝罪の言葉では、彼女の想いには答えられないと、そう分かっているから。
入学式の沙樹から言われた言葉を思い出す。『紫司さんって何者?』という問いを。
存在自体が虚像ならば、それは偽りの本物。改めて誰かを騙す必要はない。そもそもが嘘なのだから、しかしそれでも尚その存在は本物であるという矛盾を少年は抱えていた。
故に皆は思うのだ。その疑問を。
『凍夜』というサイコロは複雑なカッティングの施された形状だと、作り上げた自身で思う。一度で見える面は数あれど、角度を変えればまた違う面がいくつも出てくる。
ただそれだけの存在ならば、『つかみ所のない人間』という認識で終わる筈だった。しかし、凍夜にあるもう一つの『秘密のサイコロ』、その存在が皆に疑問を抱かせる。
例えそれがあることを知らなくても、存在するならば知れるものだ。
世間でいう秘密とは、一般的には隠してあることであるが、込み入った社会での常識としては、二人以上が知ることは秘密とは言えない。故に、秘密とは自己の胸の内にのみ留めて置くのも、ということになっているが、少年にとってはそれすらも適切だとは思えない。
『秘密とは自己がそれと認識した時点で、秘密ではなくなる』というのが、少年の持論である。それを誰かに言ったことはない。言う機会もなければ、言う必要はないからだ。
それ故に沙樹の問いはいつか誰かからは言われるものだろうと思っていたから、覚悟をしていた。
事実だけを述べるなら、沙樹の見た凍夜の憂い顔は単なる錯覚だ。沙樹が彼を想っているが故に見た、沙樹だからこそそう見えただけのことだった。しかし、顔に出さなかったからと言って、実際に彼がどう感じていたかは当人しか知る由はないことだ。
存在そのものが嘘、それを前提に生きる者の心を理解出来る者など存在しよう筈もないのだから。
ただ――――
「ただ……一つだけお願いしてもいいですか?」
「なんだい?」
「そちらに行ってもいいですか?」
目の前の少年にしっかりと視線を向けて問いかけた。少年はそれを快く了承して、その傍らに神埜を招いた。
――――ただ、理解出来ずとも想いを寄せることは出来る。
少年は今の自分は幸せな人生を歩んでいると実感している。それは少年の周りには幾人も自分を、その真意は理解出来なくても『そういう存在』として、『受け入れてくれる』人たちがいるからだ。
そんな虚ろな存在の少年を受け入れる一人である神埜が少年に懇願する。
「いくつも伝えないことがあります。たくさん訊きたいこともあります。でも、今それが叶わぬことも知っています。だからせめて、今少しの間だけ……あの娘よりも、きつく私を抱き留めて下さい、お兄様」
そこには少年のよく知る少女の姿があった。
当時はこんな風に自分に触れることなどはなかったが、しかしそれでもその中身は当時のまま、誰よりも愛を欲していた幼き少女のままだった。
傍らに寄り添い、少年に体を預ける少女をその希望通りに強く抱きしめた。
そして当時を思い出す。自身にある僅かな『記録』の断片を、早回しにビデオを見るように……
やだて辿り着く先に見えて来た光景、そこに映る四人の姿。
「神埜は『あの女性』に良く似てきたね」
「はい……」
一人目は自分、二人目は神埜、三人目は神埜が兄と呼び慕うもう一人の少年、そして最後にその少年少女らを暖かい眼差しで見守る、今の神埜によく似ていてそれでいてもっと淑やかな印象の、少し年の離れた女性の姿があった。
その女性の名は神楽、蒼縁の真の長女として生まれならが、その存在を秘匿され、四柱以外の者には知られることの無かった神埜の実の姉。蒼縁の宿命を生まれながらに背負わされ、しかしそれでも尚誰を恨むでもなく、ただ今の世の平和を願い続けた心優しき女性だった。
「『あいつ』が今の君を見たらなんと言うかな……」
神埜は少年の服を強く握り締め、その顔を悲痛に歪ませる。
「日向兄様の話はしないで……」
か弱く絞り出すのがやっとという程度の声量で訴えた。
かつて兄と慕っていた人物、そして何より、幼いながらに淡い恋心を抱いていた相手だった。しかし、今ではそれは神埜を苦しめる楔でしかなくなっていた。
「ごめんね。君が苦しいのは分かってる。でも、これは避けては通れないことだよ」
神埜を引き離し、真剣な眼差しを向ける。
「君がまだあいつを想っているとしも、それは罪じゃないよ。確かにあいつは過ちを犯しているけど。それでも、僕らが過ごしたときは偽りじゃないんだ。それに、あいつだって時代の被害者だよ。こんな時代でなければ、あいつはきっと僕らと一緒だった筈なんだ」
当時は神埜にとって自分はただ邪魔な存在でしかなった。大切な人と過ごす時間をいつも自分が奪っていたのだから。特に、日向だ。彼との時間を神埜は何より楽しみにしていた。
それを、毎度自分が邪魔してはどこかへ連れ去っていたのだ。自分は、当時の彼女にしてみれば日向の友人でなければ、一緒にいることすらなかった筈の存在だったに違いない。
当時はそれで良かった、自分の存在を良く見て貰う必要など感じてはいなかったから。しかし、きっとそのことも今の神埜を苦しめる原因になっているのだろうと思う。
あの頃は自分も何も分かってはいなかった。想うということの意味を。
今は、少しは違うと思う。
他人に傷つけられても平気なのが強さではないことを知った。他人を傷つけないことが優しさではないと知った。
相手が誰かを傷つけているということを示すこと、時には痛みをもって知らしめることも、それは必要なことだったのだと。