38.妃依里のお兄様のいない休日4
入学式当日、私は沙樹ちゃんに中学時代のお兄様の話を訊いてみた。そこで聞かせて貰ったのが、『紫司凍夜の七不思議』という話だった。
どうやら、彼女たちはお兄様に纏わる、不可解なことをそう呼んでいたらしい。だが、七不思議とは言っても、それは良く言う学校の怪談に合わせただけで、数は七つではないとのことだった。
大きいところでは、(見た目からして)『(相手から)目が見えない眼鏡』に始まり、『右手の手袋』『真夏の学ラン』などがあり、後はどれも人それぞれに違う疑問を抱いたことが、七不思議として挙がっていたという話だ。
入学当初は、普通科に入った理由など裏事情に関することが多く囁かれてはいたが、お兄様の事情や人となりを知ったクラスメイト(主に女子)たちによって、そちらは淘汰されたらしい。
彼女から聞いた話を頭で再生させながら、掃除を進めていき、残すところ母屋は、この部屋で最後となった。
この部屋はお兄様の『研究室』。魔術が使えないお兄様が、それでも尚『紫司凍夜』在らんとするために、それを補う術を得るための、魔法に関するありとあらゆることを研究するための部屋。――――ということになっているが、お兄様にとってはそれは建前でしかなく、彼としては“『魔法』の研究をするために得た”部屋だ。
“紫司凍夜となるために与えられたのではなく、この研究室を手に入れるために、紫司凍夜となった”というのが、お兄様の言い分。
これが、お兄様と紫司とを結びつけた原因と考えると、私にとっても感慨深い部屋でもある…………でも、それを抜きにしても、この部屋は“私にとって”特別だ。
多分、この部屋の重要度は、お兄様より私の方が重く感じていると思う。
他者からみればただの魔法研究室――個人レベルでは十二分に整ったのもでも、大手の研究機関に比べるべくも無い――というものでしかない部屋なので、紫司やお兄様は特段機密にするつもりはない。
しかし、私にとっては隠し部屋よりもこの部屋の方が、正確にはこの部屋の中身の方が余程重要な代物だったりする。
お兄様はガラクタばかりだと言うけど、実際にはそんなことがあるわけがない。
もし、この部屋の中身が世に知れたのなら、お兄様はそれだけで身の証を立てられる。
紫司凍夜という偽りを捨て去り、一個人として世間から認められる存在となれる。
けど、お兄様はそれをしない。
それは、紫司の命に関わりなく、単純にお兄様に必要ないことだからというのは分かる。
私は出来ればお兄様には、自分の人生を歩んで欲しいと思う…………でも、本来それを望むなら、私は中の物を公の場に晒すべきなのに、それが出来ないでいた。
それは、私のエゴ……お兄様から離れたくないという、私の我が儘。
お兄様のことを第一に考えるなら、自分の事など考えるべきじゃないのに、お兄様と離れると思うと、考えるだけで耐えられなくなる。
それも、これは心がという意味では無くて、物理的な距離がという意味でだ。故に尚のこと、自分の矮小さが浮き彫りになって嫌になる。
お兄様なら、例え紫司との関係を絶とうとも、私と交わした約束は守ってくれる。その確信はある。
でも、今の様にいつでも一緒にいられるとは思えない。
お兄様が私を想っていてくれていても、私はそれだけじゃ耐えられないから……
※※※※
手を付けた箇所だけを言えば、ほぼ丸々大掃除に近い筈なのに、お昼時には母屋の掃除は終わってしまった。
軽くお昼をとった後、今はコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。
外は良く晴れて、ぽかぽかしていて気持ちが良い、気を抜いたら転た寝してしまいそうだったから、コーヒーにして、それにお兄様特製の香料を入れて転た寝防止をしていた。
今回の香料は、活性効果のあるものを選んだから、これでお兄様が帰って来たときに転た寝していたなんて、恥ずかしい事態は避けられる。
『続いてはH.D情報です。先月から多数発生していた沿岸沿いでの水棲魔獣とはことなり、先日内陸部での魔獣が発生しました。魔獣は発生から数時間の内に、軍により討伐され、被害は警察との連携により最小限に止めることが出来ました』
内陸部で発生の魔獣騒動……本来この日本では起こりえない現象の一つ。
しかし、現にこうして起こってしまった。いや、起こさせられてしまった。
『未だにその“犯人”は見つかっておらず、警察・軍関係者は全力でその犯人捜査に当たっている状況です』
何者かの手によって…………
蒼縁の庇護、血晶結界の内世界に置いて、それは“自然現象”ではあり得ない。故に日本という国には価値がある。魔性の驚異が自国で発生しないという、唯一にして絶大、絶大にして絶対の価値が。
その日本でこういったことが起こるのは、外世界からのテロリストの仕業である可能性が高い。
今回の犯人に関して今はまだ何の情報もないらしく、警察も軍も躍起になっているということだった。
その所為で、姉上は結局まともに授業をやったことがなく、今のところお兄様が元来姉上がやる予定だった教科の担当をしている。
『――現在、太平洋側の沖合200キロ地点に大規模な嵐が発生していると、気象庁から発表がありました。嵐は、今のところ発生位置から移動していないということで、直接の被害は出ていませんが、海沿いの一部地域には高波の警報が出ていますので、くれぐれも注意してください。これで、H.D情報を終わりにします』
沖合200キロだとその後の進路で直撃の可能性もあり得る。
今(テレビで)見た限りではかなりの大物だった。アレだと、直撃以前に近づいて来た時点で相応の対処が必要となる筈だ。そうなってくると、益々姉上が学校にいる時間が無くなってくる。
姉上自身が悪いわけではないけど、それでもお兄様に全てを押しつけるカタチになるので、正直ちょっと腹が立つ。
何でも命令を聞く『駒』として接している、姉上や父上のそう言ったところが私は嫌いだ。お兄様が、自身の扱いに無頓着なのを利用している様で尚気分が悪い。
兄上が生きていた頃は、姉上ともそれなりに仲が良かったし、父上のことも大好きだっただけに余計かも知れない。あの人たちの変わりようが、私は一番ショックだった。
好きだったから、今の嫌悪感がより一層強く感じてしまうのだと思う。
「お兄様……」
クッションを抱きかかえて、ソファーに横になって何の気無しに呟いていた。
「なんだい?」
「はひゅっ!!」
急に上の方から聞こえた声に、私は驚いて変な声を出してしまった。
急いで立ち上がりはしたものの、変な声を出してしまったことと、ソファーに横になっていたというだらけた姿を見られた恥ずかしさや焦りから、きちんと視線を合わせることも出来ない。
私は抱えたままのクッションで目元までを覆って顔を隠し、俯いた視線を徐々に上へと移して行き、漸くお兄様の顔を見ることが出来た。
でも、言うべき言葉が出てこない。
どうしよう~! お兄様にだらしのない姿を見られちゃったよ~(泣)お兄様がいないときはいつもこんなだと思われたら、どうしよ~?
予想外のお兄様の帰宅に私は最早パニックになってしまった。
そんな私を見ていたお兄様がクスクスと楽しそうに笑う。
「なんか、久々。小夜のそう言う困り顔」
ソファーを回って正面に立ち、私の手を取ってクッションをおろす。
「可愛い顔(困り顔)をされると、余計に悪戯したくなっちゃうじゃないか?」
お兄様はそう言って、満面の笑みを私に向けた。
パニックということは、つまり興奮している、しかも感情剥き出しで……そこにそんな笑みを向けられたものだから、私の意識は限界を迎えてしまった。