37.妃依里のお兄様のいない休日3
落ちた気分を落ち着かせるために、私は隠し部屋までやってきた。
結局私は兄たち――お兄様とお兄ちゃん――に頼らなければ生きていけないらしい……
お母さんが生きているときは、まだお兄ちゃんにそこまで頼り切りではなかった。けど、お母さんが亡くなって、正式に『紫司』に引き取られてからはずっとこうだ。私は弱い、どうしようもない程に……
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私たちは本来『紫司』の姓を名乗ることは許されぬ身分にある。
立場というだけの話ではなく、その血筋として明確に。
四大柱の家系には、柱塔という階級制度がある。そもそもは、階級ではなく、単純な区別だったという話だけど、今ではそれを意図的に強く意識させることで、結束力を高めているということだ。
大柱――四柱の各家、又は頭首そのものを指す――を筆頭として、その下に縁という家があり、次に縁衆、そして最後に衆家という構図になっている。
縁というのは、一族の血縁濃度が生粋である大柱ではないの家系。つまりは、現頭首の康嗣の実の兄弟たちや従兄弟たちなどを指している。
そして、大柱の直系たちは頭首となる者が決まった時点で、縁の姓へと改名する。紫司の家系で言えば、紫司から岸塚や紫靂といった姓となる。
また、次期頭首は基本は直系から選抜されるが、力の強弱によって縁から大柱になることも珍しいことではない。ただし、それは“魔術師としての才”を指して比べる場合が多く、“紫司の才”が発現した場合には、強制的に頭首となる。
縁衆は、混血の家系。私と兄は本来この縁衆に当たる。
私たちの母は、一般家系の出で、父の二人目の妻だ。
私たちは『紫司』の血をその半分しか受け継いでいないので、本来ならば私たちが『紫司』の姓を名乗ることはない筈だった。
しかし、まだ私が小学校に上がって間もない頃に母がなくなった。それだけならば、まだ幼い私たちはただ父の元へ引き取られただけで、紫司の姓を名乗ることはなかった。
私と違って“魔法の才”に恵まれていた兄は、六歳の頃から魔法師として家業を手伝っていた。その力は神童と言われる程で、あのときはまだ八歳でありながらCランクだった。
その兄が、任務中にとてつもないことをやってのけた。
その任務はテロリストの討伐。まだ幼くあってもそれ程の力があり、四柱の縁の者ともなれば、当然その任務に殺生――殺人すらも入ってくる。
この任務のその手のものだった。部隊編成もぬかりなく十二分に整えた部隊だった筈だったが、一つだけ誤算があった。
テロリストの戦力、たった数名だけのテロリストだが、彼らは尋常ではなかった。
彼らは普通の人間では無かったのだ。彼ら全員が外世界の住人だった。主要国家以外の魔性汚染地域の住人。
彼らのその風貌は最早、人のそれとは一線を画す。その全員が魔象を携えた魔人たち。
いくら万全を期したとは言え、それは普通の人間を相手にという意味でのことだ。
たった数名のテロリストに部隊は壊滅の危機に追い込まれた。
だが、結果だけを見ればこちらの部隊は重傷者は出たものの、辛うじて死はおらず、テロリストは“跡形もなく全滅”したという、大勝に終わった。
何が起きたのか? それを知るのは、あの戦闘の中ただ一人無傷だった兄だけの筈だが、兄はそれを語らなかった。
そして、暫く――数年、父に引き取られてから間もなく――して兄の部隊が似た様な状況に追い込まれたことがあった。今度は以前の相手よりも数段上の者たちで、その中の一人は推定でBはあるだろうと判断された。
上層部に連絡は入れたものの、応援が直ぐに――時間的には五分と掛からずに来るだろうが、それでも彼らには絶望的な時間でしかない――来るわけがない……
一縷の望みを掛けて、有りっ丈の力を込めて防壁を張ってはあるが、こんな物は気休めでしかない。と、それを作り出している本人たちが誰よりも理解していた。
だが、敵に向かって歩いていく小さな人影が一つだけあった。
それが兄だ。
そして、彼らの目の前で衝撃的な光景が広がった。
少年から尋常在らざる魔導波を感じた瞬間には、目の前に存在していた筈の魔人たちが次々と消滅していくのだ。
少年の視線を向けた先には、紫の閃光が煌めき、それを受けた者は消えて行った。
全ての敵を滅した少年が振り返ると、その右眼は紫の眼光を放っていた。
本来はあり得ないとされていた。
しかし、兄にはそれが現れていた。紫司の最大の才、紫眼が。
故に兄は凍夜となって、正式に紫司に引き取られることになった。そして、私も一緒に紫司の姓へと変わった。念のためにと検査を受けたところ、私にも僅かながらに“紫司の才”があることが分かったからだ。
紫司には名に決まり事がある。紫眼を持つ者に凍夜と言う名を付ける他に、紫眼以外の紫司の才を持つ者にも、凍夜には及ばずながら『夜』の名を付けるという決まりだ。
故に私は小夜となった。けど、それは宝の持ち腐れ……紫司の才があろうとも、私には肝心の“魔法の才”が無かったから……
何という皮肉だろう、姉上は魔法の才に溢れた才児ではあったが、紫司の才に恵まれなかったために夜の名を与えられなかったというのに、私はその逆なのだから……
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凹む様なことばかり思い出していたけれど、徐々に時間軸が現代に近づくに連れて、私の心の中は、お兄様との思い出ばかりがより強く支配する様になっていった。
たっぷりと時間を掛けたお陰で情緒も安定した様で、やっといつもの私に戻ることが出来た。
「そろそろ、戻るね。いつも心配ばかり掛けてごめんね、お兄ちゃん」
私は写真の兄に、先刻とは違うチャンとした笑顔を向けて、隠し部屋から出た。
さて、こっかは頑張らなくちゃっ!! お兄様が帰ってきたときに、何もしてないんじゃ、だらしない子だと思われてしまうもの!!
お兄様がそんなことを思う筈ないというのは分かっているけれど、これくらいのことはしておきたい。それに、ちょっとはしたない考えだけど、それをやって置くとお兄様に褒めて貰えるから……(恥)
いつもはそんな下心はないけど、今日は……ちょっとくらいいいよね?
そして、私は家の掃除を始めた。――――のだけれど、はっきりいってあまりやることはない。
何しろ、日頃からお兄様が管理しているだけに、目立った汚れがない。いったいいつ掃除しているのだろう? と本気で思う。
あとは、窓のサッシや網戸、普通なら大掃除のときにしかやらない様なところとかなのだけれど、それにしたって、定期的に手入れが行き届いていて直ぐに済んでしまった。
お洗濯はお兄様が出かける前に済ませてしまったから、あとは乾くのを待つだけだし……、本当にお兄様は隙がなくて困ってしまう。
そこで私は、本当はあまり気が進まないのだけれど、これほどあっさりしていると何もした気が起きないので、取り敢えず全部の部屋の掃除――単に掃除機を軽くかけるだけ――をすることにした。
先に自分の部屋を片付けた私は、お兄様の二室から掃除を始めた。
私があまり気が進まない理由が二つ――一つは、お兄様の部屋のこの有様が好きではないからだ……
ベッドは今朝使ったかどうかは私には分からないが、それでもホテルのベッドメイキングが済んだときの様に皺一つないく、掃除機を掛けても取れるのは絨毯の毛ばかりで、髪の毛の一本すらもない。
本棚は当然整頓されているし、机の上も中も乱れなど存在しない。
ただ整っているだけではない。
人の生活感が感じられないのだ。髪の毛の一本すらないお兄様の部屋が、私は正直言って怖い……いつでも、消えていいようにしてある様に思えてしまうから……
でも、ただ一点だけ、きっとわざと残してある痕跡ある。
お兄様が使っているシャンプーの香り、ただそれだけはほのかに香り、私にこの部屋の主人の存在を訴えかけてくれている。
二つ目はそれを、自分でかき消さなければならないというところにある。
掃除をするのだから、換気をするのは当たり前で……そうすると、僅かばかり残っていたお兄様の残り香が消えてしまう……かと言って、やらない訳にもいかないのが、辛い。
それに、綺麗に整ったベッドのお布団も干さなければならない。
干すのはいいのだけれど、それを元に戻すとなると大変だ。私はお兄様程に綺麗に出来ないから、私がやったものだと直ぐに分かってしまうので、そんなことも出来ない自分が恥ずかしい。
魔法を使えば出来るけど、いったいお兄様はどうやって、ああも綺麗に整えるのか? これも『七不思議』の一つに入れて良いかもしれない、と考えたら少しは楽しくなった。