36.妃依里のお兄様のいない休日2
酔いとは醒めるものだ。良い意味でも、悪い意味でも……
私の浮ついた思いも、シャワーを終えた頃にはすっかり冷めてしまっていた。
そして、冷静になり先刻までの自分の状態を振り返り、自分の半端差加減に改めて落胆してしまう。落差が激しい分、悪酔い(?)する前よりも酷いかもしれない。
お兄様がその気になれば、きっと私はこの現実世界を、永遠に醒めることのない夢の世界を生きるかの様に、何の憂いもなく生きることが出来る筈だ。けど、お兄様はそんなことはしない。
別に私が鬱になることを罰としているわけじゃない。お兄様はそんなことを望んではいない。
お兄様がそうしないのは、私のため。私がちゃんと人間らしくあれる様にするため。
もし仮にそういう状態にして貰ったとしても、それはただの人形でしかい。
ただ、お兄様に使えるだけの人形……私はそれで満足だろう、何せ他でもないお兄様に、一生を捧げられるのだから。でも、人という存在を愛するお兄様が、そんな状態の私を快く思う筈もない。そして、そのお兄様を真っ当な神経をしている(今の状態の)私が望めるわけも当然ない……逆に言えば、もしお兄様がそんな私を欲してくれるなら、いくらでも……
そんなことをつい考えてしまう……やはり、あの夢の後というのは、いつもながら鬱の度合いが強い。
“あのお兄様”が、私を特別に意識して優しくしてくれるのは、コレが原因でもあるだけに心中はなんとも複雑だ。あの出来事がある故に、私が感じている罪悪感。実のところ、お兄様が私に向けてくれる好意は、それを払拭しようとしているに過ぎないのだと、私はそう感じている。
勿論、お兄様の好意は本物――私がそう感じている――だけれど、お兄様の真意は分からない。
そう……分からない。お兄様に私の全ては見透かせても、私にお兄様のことは分からない。
表面的なことなら誰よりも知っている。それは、姉上や父上よりもだ。それは断言出来る。でも、お兄様には、それ以外の部分がある。
私には見せてはくれない……もう一人のお兄様。
あることは隠さないのに、その全貌は――いや、その一端すらも私は知らない。
それが私には狂おしいほどに悔しい……でも、これはきっと…………そうこれはきっと――
「――『お兄様』が最初に言っていた“約束”……なのかな? ねぇ、『お兄ちゃん』」
私は目の前の仏壇の写真へと、涙を堪えて作った精一杯の笑顔を向けた。
ここは、私の部屋の『裏側』、空間概念操作魔法によって作られた、擬似的な概念的な空間。従って、魔法以外では進入は不可能な部屋。
そして、この空間は(私を介して)お兄様が作ったもので、世界最高の不可知の――知るすべすらも存在しない――砦でもある。紫司の最高機密にして日本の最高機密でもある、ある事実を内包した空間。
だが、それは単なる名目でしかない。
この空間は本来、お兄様が私のために作ってくれた部屋でしかないのだから。
その空間とは仏間だ。“ある人”を祀るためだけに用意して貰った単なる仏間。そう、その者の“死”を祀った仏壇のある部屋……
決して他に知られてはならない、絶対の秘密。
仏壇に置いてあるのは一人の少年の写真。その写真に写る少年には、他者の視線を一点に集中させる特徴がある。
写真の少年の右眼、その色は紫色をしている。
ただ色がついている訳ではない。魔なるものの象徴故に、美象に対して魔象とも言われる魔性の証。
特異魔法霊障、霊障にして魔法であるそれは、多くは突然変異の霊障であるが、一部の血統に置いては、それを一族の証として保有している。
そして、少年のその魔象の眼の名を紫眼と言う。これは“ある一族”の固有のもの。
紫眼或いは“死眼”や“死銃”と書いて同じ読みをさせることもあるそれは、その一族の名の一部に含まれる程であり、その瞳から放たれる視線は、死線や紫線ともあだ名させる“日本最強の魔法”――――その魔法の名を“凍夜”という。
そう、この写真の人物こそ私の血の繋がった実の兄、七年前の任務で返らぬ人となった本物の『紫司凍夜』。
凍夜という名は、紫眼を宿したもののみに付けられる名で、兄上は紫司の歴史の中で、四代目の凍夜にあたる。
『凍夜』――その名は、日本で最強の名であるが故に非常に大きな意味を持つ。
故に隠さねばならない、その死を……この国を守るために。
※※※※
バタンッと玄関のドアが閉まり、その後にはカチッという施錠の音も聞こえた。
私は立ち尽くしてお兄様を見送ることして出来なかった。
暫くして、膝から崩れる様に玄関マットの上でへたり込んでしまった。
きっとお兄様の最後の言葉は本心だ。
でも、今の私にはそれを受け止めることが出来ない。
あんなことをしておいて、そんなことが出来よう筈もない……
今日お兄様は“病院”へと出かける。
今まで同行したことはなかった、今回はどうしても気になって同行のお願いをしたのだけれど、やはり断られてしまった。
きっと断られるとは思っていたけど、まさかあんなことを言われるとは、思いにも寄らなかったから、流石にショックが隠しきれずに私は呆けてしまい、お兄様はその間に出て行ってしまった。
『連れて行ってあげてもいいけど、それには条件が必要だね』
困り顔で考えたあげく、渋々ながらにこの条件が飲めるならとお兄様が提案してくれたこと、それは――
『自分を好きになって、妃依里ちゃん』
お兄様のあのときの表情は、とても悲しそうだった。
私が自分を許せないでいるのを憂いている、そういう表情だった。
妃依里――――それは、私の幼少の頃の名前……
私がまだ、比糸司の姓だった頃の、お母さんとお兄ちゃんと三人で一緒に暮らしていて、たまにお父さんがやってきては可愛がってくれていた頃の、一番幸せな――いや、その表現は適切じゃない、一番憂いのない、そう……一番なんの悩みもないときの名前。
あの頃は幸せだったけれど、今とどちらが幸せかどうか比較するのは難しい……確かに今は、色々悩み事や心配事は尽きない日々だけれど、それでもお兄様がいる……お兄様に出会えたことは、私の人生の中で最大の幸運であると確信しているし、もしという話でも、出会えなかった場合などは考えられない、考えたくない。だから、どちらが幸福だとは一概には言い難い。
(そんな私の過去と今の価値観の比較はさておき)今の小夜という名前だって本名ではあるし、小夜という名前になってから――――紫司の家、父上に引き取られてからの方が、今では少し長いくらいだけれど、やっぱり幼少の頃にそう呼ばれていたから、妃依里の方が本名だと思う気持ちは抜けきれない。
私が自分が小夜という名前であると思い始めたのも、結局ここに来てからの、逃げの意識からにしか過ぎないのだと改めて痛感してしまった。
あんなことをしたのは妃依里ではって小夜ではないのだと……きっと、そう思い込もうとしていたんだ。お兄様との約束に託けて……