20.錯覚?
人を待たせているため、昇降口まで軽く走る一同。
その最後の沙樹は、前を行く凍夜の背を見ながら走り、あることに思考を巡らせる。
今のことも勿論そうだが、それだけではない。
教室での神埜の件、アレも相当信じ難い光景だった。
神埜と普通に話をしているだけでもかなりの驚きだったのに、何を言ったのか、心まで凍てついているとさえ囁かれていたあの神埜が、表情を表すようになったのだ。然も、今までとはまるで別人のような態度(人格?)にさえなっている。
これまでもずっと思っていた。凍夜は何者なのだろうと。
凍夜の飾らぬ態度、親しみやすい性格の所為もあって、つい普段は忘れがちになってしまうが、確かに凍夜は四柱なのだ。本来なら、自分たちの様な庶民(とは言え、沙樹は周囲からすれば十分な良家だが)とは住む世界が違う筈の存在だ。
それこそ自分たちには計り知ることの出来ない世界で生きて来ているのだから、自分たちのような小さな人間が凍夜という存在を看破しようなどというのは、それこそ烏滸がましいというのもだ。
そんなことは分かっている。
だが、それを押して尚、この疑問を抱かずにはいられない。
世間的な肩書きなんてものは関係ない、この紫司凍夜という一個人はいったいどういう存在なのか? と…………
別に正体というものを求めているわけではない。
ドラマではないのだ、謎の多い同級生が実は四大柱だったという様なあからさまな答えがある等とは思っていない。
何しろ始めから何を隠すこともなく四大柱として在り、凡そ秘密と言える様な過去でさえ彼は自ら公言してしまう様な人物だ。
そんな凍夜だ、本来何を疑問に感じることがあろうというのか? それは自分でも分からなかった、ただ気になってしまう。
普通、人間同士付き合い始めれば相手がいくばかりかは見えてくるもので、良くも悪くも自己の中にその者の人物像を形成していくものだ。
だが凍夜の場合は不思議と知れば知る程に、まだその奥がある様ないつまでたっても謎を秘めた様な、そんな感覚が拭え切れない。普通なら、『つかみ所のない人間』という人物像を築きあげるだろうが、何故だかそれも違う気がしてしまう。
単純な恋心からの興味ではない、それは紫司凍夜という人物と交流を持つ者の誰しもが思う、人間として根源的な疑問だ、とそう思う。
それを思っているのが、自分だけならそれで良かった。ただそれは自分が凍夜へ好意をもっているが故のものだと錯覚していただろうから。
しかし、そうではなかった。別に陰口というわけではないが、凍夜がいないときに、こういう話になったことがあった。
そうしたら、この疑問はグループ内の誰一人として余すことなく抱いていたものだということが知れた。
女子だけならまた違う錯覚に陥っていたかも知れない。だが、女子だけではない男子までもが思っていたのだ。
凍夜はいったい何者なのか? と……
別に誰も凍夜が嫌いなわけではない、当たり前だ。別に誰も凍夜が謀っているとは思わない、当然だ。別に誰も凍夜を畏れているわけではい、無論だ。
それでも尚思わずにはいられない、正にこのことこそが疑問でもあった。
昇降口に付き、急ぎ靴に履き替える。
基から皆より少し遅れていたのと、考えながら走っていた所為もあって沙樹は一人遅れてしまっていた。
皆先に行ったものと思っていたが、靴を履き替える間も凍夜だけは待ってくれていた。
別にこの疑問は凍夜に対する負の意思によるものではないので、別段後ろめたさを感じるようなことはないので、沙樹はいつもと変わらぬ調子で話し掛けようと思えばそれも出来た筈だった。
しかし、それは出来なかった。
「ねぇ? 紫司さん」
「はい? なんですか?」
「紫司さんって何者?」
意図せずして先ほどまで思考していたその疑問を口にしてしまっていた。
教室から降りたときにこそパニックになり、兎に角皆を追ってきた形でここまで来たが、その間で十分に頭も冷え今はパニックは納まっている。だが、高揚感は抜け切れてはいなかった。
興奮状態にある精神と凍夜と二人きり(関係ない者たちは周囲にいる)という状況に、意図せず沙樹の疑問を口に出させてしまっていた。
それ程に気になっていることではある。だが、今はそのことを問うている場合ではない状況だ。
つい言ってしまったが、余りにも配慮が欠けていた。自分の物言いにも、先輩方に対しても。
口に出てしまった言葉に自分でハッとなり、忘れてくれと謝罪の言葉と共に述べようと思ったが、それよりもはやく凍夜が答えた。
「さあ、何者なんでしょうね?」
凍夜の顔はいつもの眼鏡でその表情の全てを窺い知ることは出来ない。
だが、笑って見せる凍夜の顔に力はないのは明らかだ。
そして、全てが見えぬが故にその表情は見る者に、今にも泣いてしまうのではないか? という思いに至らせるほどに、憂いを帯びている様にも見えた。
錯覚かも知れないだが、傷づけたかも知れない。
だがもし、そうだったなら――――自分の放った何気ない一言で凍夜を傷つけてしまったなら、そんな嫌なことはない。
自分が加害者の筈なのに、自分が泣きそうになりながら、凍夜への謝罪を述べようとしたが、またもや凍夜に先んじられてしまった。
「でも、強いていうなら、ヒ・ミ・ツです」
っと、右人差し指を一本たてて、自身の唇に当てた。
「実は僕はこう見えて、他人に話せばおよそ万人の涙をさそうだけの過去をもつ、影のある少年なんですよ。いくつもの秘密を隠し持つ、謎に包まれ少年!! どうです? こういうのって結構格好いいでしょう?」
そういって戯けてみせる凍夜。
その表情はいつもの悪戯なものだった。
先ほど垣間見た表情は本当にただの錯覚なのだと言わんばかりの笑みだった。
いつもなら、呆れれながら適当にあしらうか馬鹿にされたと怒って返すところだろう。だが、どちらも出来なかった。
質問の後に見せたあの表情が沙樹の頭の中から離れなかった。
凍夜の言ったことの真意は分からない。それが本当なのか嘘なのか沙樹には分かる筈もない。
しかし、今の沙樹にその言葉の真意などどうでも良かった。
アレが、あの表情が本当にそうだったのかすらどうか分からない。
だが、このとき沙樹の頭中には、先ほどの凍夜の憂いを帯びた表情以外の何も頭には入ってこなかった。