消えない傷
「……っや、め……っ!」
アレンは夢を見ていた。
己に伸びる腕が、体のすべてを暴いていく。それは体の中に入っている異物感を、より強く印象づけてしまうものだった。
やめろと泣き叫んでも、冷たい手がアレンの肌を這う。そして異物が体の中に侵入する感覚が、彼を苦しめていった。
(もう、やめてくれ! どうして……どうしてこんな……)
もう嫌だ。涙しか溢れないまま、アレンの瞳からは光が消えていった。次の瞬間──
「駄目だよアレン、目を覚ますんだ!」
「……っ!」
不思議と落ち着く声にあてられ、アレンは目を覚ます。
「……っ! 夢、か」
おぞましくもある夢だ。消し去りたい、忘れてしまいたい。
心の奥から突き刺さる痛みに耐えることしかできず、彼はずっと苦しみ踠いていた。
(最近は、あのときの悪夢など忘れてしまったかのように幸せだった。だけど……)
まだ太陽が昇りきれていない早朝、アレンは目を覚ます。
「アレン、大丈夫?」
頭上から聴こえてくるのは大切な婚約者、ハワードの声だ。彼は心配そうにアレンを見つめている。
アレンは額から汗を流し、シャツはぐっしょりとなってしまっている。それを見たハワードはゴクッと唾を飲んだ。白くて細い首筋に滴る汗は、あまりにも男の欲を上昇させていく。
聡いアレンは彼の欲に満ちた眼差しに気づかないはずもなく……ふふっと妖艶な笑みを浮かべた。ベッドから上半身だけを起こし、ハワードの首に自分の腕を巻きつけた。そして耳元に息を吹きかける。
「……っ!? あ、アレン、何を!?」
ハワードは慌てて距離を取った。トマトのように真っ赤になった顔は、見た目の厳つさを消すほどに表情変化が激しい。
アレンはベッドに腰かけ、微笑した。銀髪を耳にかけ、艶めいた唇から甘い吐息を溢す。
「ふふ。昨日の夜は、あんなに情熱的に私を抱いたのに……朝になると、とたんに君はウブになるね?」
「か、からかわないでくれ!」
髪の毛のない頭皮に汗をかき、ハンカチで拭いていった。はあーとため息をつき、アレンの髪を指で掬う。けれど細すぎるのか、銀髪はハラリと指から離れてしまった。
「……それよりも、大丈夫? 魘されていたようだけど」
「……っ!?」
アレンは戸惑いながらシャツのボタンに手を伸ばす。その姿は儚く、あまりにも神秘的だった。そして細い腰と白い肌が、ハワードからの視線を独り占めしている。
ハワードは顔を両手で隠しているものの、指の隙間からのぞいているようで……ときどき「目の毒だ」だの、「こ、こんなにきれいすぎるのは罪だよ」と、呟いては悶えていた。
「いや……君、正直すぎないかい?」
「し、仕方ないだろう!? アレンが、あまりにも魅力的だから!」
「え? 私のせいなのかい? ふふ。本当に、おかしな婚約者様だね」
(ふふ。私で欲情してくれているようだ。わざと、ハワードの前で着替えた甲斐があったな)
ハワードの素直な反応を楽しみながら、アレンはボタンを一つずつ外していく。クローゼットの中から黒い燕尾服を取り出した。燕尾服には獅子の刺繍が。それは裾にもある。
着替えを手伝ってくれているハワードの視線が、獅子の刺繍に向けられていた。眉根を顰め、我がことのように唇を噛みしめている。
当然アレンは、彼の視線の意味を理解していた。自分のことのように悲しんで怒ってくれているハワードに、ありがとうと優しく伝える。
「……君も知ってのとおりこの獅子は、王家の闇を一心に引き受ける【モリアーディ家】の紋章だ。この服を着ることで、私は私でいられるのだよ」
着替えを終えて、窓際にある執務机へと向かった。そこには一つの写真が置かれている。真ん中に銀髪の子供、左には同じ髪色の女性。右には黒髪の男性が並んでいた。
アレンはそれを見て、すっと目を細める。
「……父上も、母上も、生きていたらきっと、今の私に怒るだろうな。復讐しかない私の心に」
モリアーディ家は裏の仕事をこなす一族だった。ただそれは殺人などの、人の道を踏み外した行為ではない。権力を利用して民を苦しめる者たちに制裁を加える。いわば、裁判官のような立場にあった。
けれどそれはアレンが産まれてから、少しずつ変わっていってしまう。
「あの屑は、私が酒を飲めないのを知りながら、無理やり酒を飲ませたんだ。酔ってしまった私は倒れて……」
ギュッと拳を握る。
「目が覚めたときには、あの男が私の上に乗っていた」
裸にされた挙げ句、力の出ない状態で、そのまま犯されてしまった。ぞわり。全身の毛が逆立つほどの気持ち悪いものに中を暴かれ、華が散っていく。その瞬間が、人生で最悪の悪夢となった。
「父上も、母上も、私を愛してくれていた。だから私があの男に辱しめられたと知ったとき、王家へ抗議した。けれど……」
それがいけなかったのだろう。アレンの心に傷を負わせた男……この国の皇子の差し金で、両親は殺されてしまった。
「あの屑は、権力を使って私の両親を追い詰めた。だけど、それだけじゃない! 盗賊を雇い、夜中に屋敷に侵入させて……」
両親を殺させた。
唇を噛みしめながら、悔しさを声に乗せる。
「国王にバレないように、用意周到に……ね。とんだ悪党だよ、あの男は」
「…………」
「……って、どうして君が、泣きそうな顔をしているんだい?」
胸の内にある消えない傷を吐き出すと、なぜかハワードが沈黙してしまった。アレンはどうしたのと、彼の顔をのぞきのむ。
ハワードは見た目の厳つさを捨てるような、情けないぐらいに眉をよせていた。そしてその瞳には涙が溜まっている。
「えっと……本当に、どうしたんだ?」
(どうしよう……ハワードの真意がわからない。彼はいったい、なぜ急に泣き出してしまったのだろうか?)
冷静沈着なアレンであっても、婚約者の突然の泣き顔には戸惑うばかりだった。泣くハワードの頬に手を伸ばし、ハンカチでそっと拭く。
苦く笑み、肩をすくませた。
するとハワードは涙を拭く。小声で「泣いてしまって。すまない」と、謝罪した。
「……あのとき、俺がもっと早くに気づいていたら。あの男の悪行に気づけていたら、君はあんな思いをしなくても済んだのに!」
震える声でアレンを抱きしめる。あの夜の出来事を初めて聞いたとき、ハワードは自分の無力さを覚えてしまっていた。助けに行けなかった己を呪い続け、今も自分のことのように胸を痛め続けているよう。
「あのときの後悔が、今も俺を締めつけてくるんだ。どうして、君を助けられなかったんだと! だから俺は……」
体を離し、頭を触る。髪の毛のが何もない、見事なまでにツルツルだ。
「君が復讐を果たし、そして幸せを手に入れられるまでは、髪の毛をすべてなくすと決めたんだ」
「……君は本当に、もう」
肌だけの頭皮を撫でる。
ハワードの髪の毛は宵闇色だったけれど、とてもきれいで有名だった。サラサラで絹のように柔らかく、女性が羨むような……そんな自慢の髪の毛だ。
けれど彼はアレンを助けられなかったことを悔やみ、剃髪をする。復讐が果たされ、アレンの心に光が差すまでは絶対に髪を生えさせない。
そう、心に誓ったのだと告げた。
彼の、あまりにも勢いのある行動に、アレンの口元は緩む。
(私に起きたことを、自分のことのように考えてくれる。一緒に苦しんでくれる。そんな人、滅多にいないだろう。ああ、私は……)
幸せ者だな。
ハワードの優しさと守られているという事実。そして皇子への復讐心が同時に胸を締めつけていく。それでもアレンは立ち止まることを選ばなかった。