異失〈前編〉
【memoryー追憶ー】閑話「異失」
口下手だがずばぬけて頭がよい“アオイ”
笑顔で過ごすがどこか寂しげな“リョウ”
日々を平和にくらす幸せだった子“ヒオリ”
短気で荒み、いつも1人の“ケンセイ”
僕の見る世界はずっと歪んでいた。光のもとで幸せに暮らす人達が羨ましいと思っていた。
だけどそれぞれがどう感じていようと皆地獄で生きてることに変わりは無い。すべての平和は仮初のものだ。
この世界じゃ僕らは幸せになれない。
神様はどこにもいないのだから。
〈1部残酷、流血表現等があります。本作に自.殺を推奨する意図は一切ございません。〉
少年が神に出会うものがたり。
語られることはなかったはずの、ものがたり。
【memoryー追憶ー】
運命なんてクソくらえだ。
◾︎はこの世のルールに背き抗い続ける。
君と共に笑い合うために。
record by ◾︎◾︎◾︎
閑話「異失」 前編
最後に家族から優しくされたのはいつだっただろう。
家に居れば怒鳴られ殴られる日々に、もうすっかり慣れてしまった。おかげで体の痣は増えはしてもまったく消える様子がない。
そして正についさっきまで、この前のテストで100点が取れなかったため暴力をふるわれていた。
全身が痛い。いや、違う特に右腹あたりが痛い。腹を蹴られたからだろう。ずっとそのあたりがじんじんと鈍い痛みに襲われている。
窓から夕日が差し込むも照らすのは部屋の隅ばかりで、僕は暗闇に残されたまま。
まるで誰も僕のことなんて見ていないと言うように。
誰も助けてくれない。
この牢獄から抜け出させてくれる存在なんて、神様なんていない。
ああ、なんて世界だ。
小学4年生…10歳にして僕はもうこの世界に失望していた。
♦
数年後―
癒えぬ生傷を背負い自身の環境を呪う日々が続くまま、僕は中学校に入学した。
両親は私立の進学校に通うことを望んでいたが、そんな頭脳は持ち合わせていないので家から近い公立のところだ。
そして丁度今、僕は登校途中である。
時は4月下旬。寒い日はほぼほぼ無くなり春の花々が咲き誇っていた。学校の案内やクラスでの自己紹介なども終わり皆ここから慣れていくところだ。そんな出会いの季節だというのに、僕は一人きりで歩いていた。家の周りに同年代の子はあまり住んでいないので、仕方ない事だろう。それに、家の近くを友達と歩いたりなんかしたら家族に見られてまた何か言われてしまいそうだ。友達に嫌な気持ちになって欲しくないし、家庭のことは知られたくないので一人なのは少し寂しいがまあいいか。
このとおり僕は中学生になったが、両親に拒まれ暴力をふるわれる日々は何も変わっていない。
傷の手当がやりきれなかったり、疲労や睡眠不足で体調を崩したりする事があるので学校は時折休んでいる…と言いたいところだが、体裁を保つため余程でない限り途中からでも行かされる。
だが今日は珍しく朝から行けていた。
靴箱に外靴をいれ、上靴を取り出す。
僕のクラスは1階でわりとすぐそこにあった。
中を覗くと教室の後ろ、隅の方に『2人』がいた。
僕の家での環境は何も変わっていない。だがこの数年で僕の学校生活にはひとつ変化があった。
黒髪と茶髪の2人は何か話している。
「会話するまでわかんないじゃん!なのにみんな怖がっちゃってさあ〜。」
「うーんでも向こうも反応してくれるか...。」
「いやもうとにかく行動だよ行動!バシーンって!」
話が白熱しているようでこちらには気づいていない。いい事を思いついた、と僕は身をかがめ、息を潜めてこっそりと背後から近づく。
途中で長い黒髪の1人が僕に気づいたが、意図を察し知らないフリをする。僕はもう1人の茶髪の彼女の背中に向かって…
「わっ!!」
「うぎゃーっ!え!?なに!?」
ビクーッと肩を跳ねさせて彼女…ヒオリは振り返る。ナイスリアクションすぎる。
「な、なんだリョウかぁーー!ビックリしたよ!」
「へへっごめんね。」
「相変わらず良い反応するねえ。」
もう1人の黒髪の子、アオイが頬杖をつきニヤニヤとする。
「ちょ、あ!もしかしてアオイ気づいてたな!?」
「うん。」
悪びれもなくさらっとそう言うアオイにヒオリはまたムキーッ!と怒り始めた。
そう。この数年で変わったこと。
僕に2人の友達が出来たんだ。
別に、これまでにも友達がいなかった訳では無い。ただ今はもう…いないし、こんなに仲良くなれた気の合う異性の友達は初めてだった。
小学五年生の時、同じ班になったことがきっかけで2人とは話し始めた。
正直もう友達を作る気はあまり無かったけど、向こうからやけに沢山話しかけられるから応えていたら、いつの間にかすっかり絆され僕たちは友達となっていた。
ヒオリはとても元気で明るくて、彼女の周りにはいつも楽しいことで溢れていた。
アオイは第一印象は真面目そうな人!だったけど今はすっごく真面目で、すっっごく面白い人だって思ってる。
「で、リョウはどう思う!?」
「えっなにが?」
準備をしながら出会った頃のことを考えていたら、突然話をふられて驚く。
「ヒオリちゃんと説明しないと…。あのさ、同じクラスのケンセイって分かる?」
「ケンセイ…ああ、僕の後ろの席の子だよね。1回も来てないけど。」
「そうそう。クラスの誰も会ったことないってぐらいなんだけど、学校自体には来ているらしいよ。ってヒオリが。」
「私見たんだ!職員室あたりでせんせーとケンセイが若干揉めてるの!」
も、揉めてたんだ…。
「ピアスめっちゃついてて髪も染めててヤンキーって感じ凄かったよ。で、私…」
「ケンセイと友達になりたいの!!」
グッと右手を握り真っ直ぐとした目でヒオリはそう言った。
「え〜いいじゃん!確かに、僕もずっと後ろの席の子がどんな人なのか気になってたんだよね!」
「でしょでしょ!リョウならきっとそう言ってくれるって信じてた!!」
わーいと僕達2人は盛り上がる。
「でもアオイが『どうやって話に行くのさ』とか『そもそもいつも何処にいるか分からないし…家も知らないし』って言ってうじうじしてんだよー。人見知りさんめ。」
「あーアオイって話しかけられたら喋れるけど自分からは行けないタイプだよね。」
うんうんとヒオリと頷き合いながら言う。
「うるさい!私は2人みたいにコミュ強じゃないの!!」
別に僕も『強』な方じゃないけど、彼…ケンセイのことは気になっていた。
「保育園の遠足の時もさートイレいきたいのに中々言えなくて…」
「ばかばか!!!人の黒歴史を勝手に暴露するな!!」
ヒオリが悪い笑いを浮かべ話すがアオイに頭頂部をはたかれ止められる。
「えー続き気になるなあ〜。」
「こんなとこで変な好奇心の高さ出さなくて良いから!!」
こんなに焦るアオイも珍しい。
いつもはアオイがヒオリを弄って、ヒオリがムキーッとなる流れが多いからだ。
(ほんと、仲良いなぁ…)
そこからしばらくアオイを説得したり、どうやってケンセイに会いに行くかと話し合ったりしたが、解決の糸口は見つからないままやがて先生がやってきて、朝の会が始まった。
♦
『保育園の時』という単語が出たように、アオイとヒオリは家が近く昔からの仲らしい。所謂幼なじみというやつだ。
それ故に、お互いに様々な事情があることを互いに知っていた。
知り合って1ヶ月くらいの時だったか、僕はアオイから聞いた。
「ヒオリは全色盲っていって、色が全く見えないんだ。ずっとモノクロなの。だから何色って言われても分からないんだけど、ヒオリは皆と楽しく接する為に沢山色と物の関係をすっっごい頑張って勉強して覚えてるんだ。だから会話で違和感があることは少ないと思う。」
「えっそうなんだ…。全然気が付かなかった。」
「でしょ?リョウがそう感じられてるのなら、それはヒオリの努力の賜物だね。ヒオリは皆と違うのを嫌がってたから…。」
「まあでも、もし困ってたら助けてあげて。ヒオリ、最近人に頼るの下手になってるからさ。」
「うん。…アオイは優しいね。ヒオリのことすっごく考えてるのが分かる。」
「…優しくなんてないよ。」
アオイはふと暗い顔になり静かにそう言った。
そして同時期、昼休みに鉄棒まわりでだべっていた時にヒオリからも聞いた。
「アオイのお父さんは事故で亡くなってるの。アオイが…7歳の時だったかな?だからアオイ家はお母さんとお兄ちゃんとアオイの3人家族。すっごくいい人たちなんだー。お父さんだって、The いいひと!みたいな所あったもん。」
「アオイの人の良さは家族の素敵さから来てるのかな。」
「あーそうだね。だって龍治家みーんな真面目マンだから。私の家と違ってね。」
「…家族仲悪いの?」
「…いや全然!ちょーっと小言多いおかーさんとちょーっとそっけない弟、あと気まぐれなお父さんいるだけ!悪い人たちじゃないよ。」
「そっか。素敵なお父さんが事故にあって、かぁ…悲しいね、それは。」
「うん。…でもアオイ結構立ち直ってるから、そんなすっごく気にしなくてもいいよ。気を使って距離置いちゃったり変な空気になったりする方が嫌じゃない?」
「それもそうだね。…?ヒオリ?どしたの急に止まって。」
いつもコロコロと表情を変え元気に動く体はふと誤作動を起こしたかのように、止まった。
「……えっ?あ、なんでもないよ!…何か、一瞬頭痛かったけど…もう治った!そろそろ行こ!昼休み終わっちゃう!」
う、うんと僕が言いヒオリに手を引かれる。
この時何故彼女がおかしかったのかは、今でも分かっていない。
♦
「見つけた!!!」
昼休みも終わりかけで次の授業の準備をしていたとき、そう言ってヒオリが教室に駆け込んできた。
「え?なにを?」
「ケンセイだよ、ケンセイ!昼休みに学校中を探し回ってたんだけど、ついに会えたの!」
「えぇ!?凄い!ってかそんなに探したの!?」
昼休み中ヒオリなんか教室に居ないなあと思っていたら、ケンセイを探して校内をかけ回っていたとは。
恐るべき…いや、素晴らしい行動力だ…。
「で、どんな反応だったの?どうせヒオリの事だしもう話しかけたんでしょ?」
と頬杖をついたアオイが聞く。
「さっすがアオイ、私のことよく分かってるね!気になる結果は〜…」
「無視!」
ヒオリはグッと親指をたて、アオイは予想通りだったのか薄い反応を浮かべる。
「無視か〜どんな失礼なこと言ったのヒオリ。」
「そんなの言ってないよ!!!『どうもー同じクラスの八色ヒオリです〜』って言ったら無視決め込まれてどっか行っちゃったの!!!追いかけようと思ったのに気づいたらもういないし!」
まあ聞いたところ一般的な挨拶だね。
「体力おばけのヒオリから逃げきるなんて…やるなケンセイ。」
「瞬発力すごいねえ。」
「ちーがーう!!2人とも見るポイントがおかしいよ!」
もー!とぷんすこ怒り始めてしまったので、そろそろ大人しく話を聞くことにした。
「それで…ケンセイはどこに居たの?」
ヒオリは元気よく言おうとしたが教卓に立っている先生をチラリと見て、声を潜める。
「…立ち入り禁止の、屋上への階段のとこ。」
「えっ禁止のところに」
「あーもうお説教はいいの!屋上までは行ってないし、さっと入って喋って無視されて戻ってきただけだから。短時間だし見つかってない。」
急にヒソヒソと隠れて会話しだす僕らは結構周りから見て怪しい…というか、変だろう。
「そーいう問題じゃなくてねー。」
「でも僕はヒオリのそういう熱心なところ凄く尊敬してるよ。今は無視でも、何度も接していったらいつか信用してもらえるんじゃないかなあ。」
キーンコーンカーンコーン…
リョウ…!とうるうるし出すヒオリに、チャイムの音が重なる。先生の「授業を始めるぞー」という言葉を合図に、僕達はあわてて自分たちの椅子に座り直し前を向いた。
ケンセイについての話はまた放課後だな。人の目もあるだろうし。ヒオリの熱意にあてられてか、僕も彼のことが更に気になってきた。時間がかかってもいい。仲良くなれるといいな。
アオイは真面目な性格だから、立ち入り禁止のところに行くっていうのは嫌なんだろうけど僕はあんまり気にしていない。世の中には、自分でルールを作っておきながら破るような大人で溢れてるんだ。
僕らが少しぐらいルールを無視したところで、何も問題はない。
我ながら歪んでるよなあと思う。あぁ、歪まされたの方が正しいのかな。
5時間目、6時間目の授業は長く感じた。早く放課後にならないかな、と思っていたせいだろうか。世界がやけに遅く動いているような気がした。
(…こうやって集中していないから僕はいつもテストで100点を取れないのかなぁ。)
なんてぼんやりと考えながら時をすごした。
放課後、僕達は3人で帰路を歩いていた。ヒオリは本当は今日部活があるはずなのだが、「サボった!!」らしい。僕とアオイは部活に入っていない帰宅部というヤツなので大丈夫だ。
「ケンセイと友達になるための会議は部活よりも大事だからねー。」
「拘るなあ…そんなにケンセイの事気になってるの?」
アオイがそう問いかける。
「うん!私さ、クラスの全員と友達になりたいんだ。何人かはまだ仲良し!とは言えないけど学校に来てる皆とは友達になれたし、あとはケンセイだけなの。」
眩しい、その一言に尽きて僕は唖然とした。
も、もうクラス全員と友達になったの?僕なんてまだ顔と名前一致してない人多いのに…。
コミュ強とか、陽キャとかそんな括りを飛び越えてただただ凄いな…と思った。
「はー凄い中学生も居たもんだ。」
アオイはヒオリのこんなスタンスに慣れているのか、あまり驚いたりせずそう言った。
「ってことで、作戦会議するぞ!」
ヒオリのかけ声で僕もやる気が湧いてきて前のめりになる。
「明日もとりあえず屋上階段のとこ行ってみたらいいと思うけど居なかったらどうする?」
「また昼休み使って学校中探すよその時は。」
さらっと大変なことを言う。次は僕も手伝おうかな。
その時、ひとつの疑問が頭に浮かぶ。
「そういえば…なんで屋上階段入れたの?あそこ入口に柵みたいな扉があって、何なら鍵しまってたよね?」
「あー扉が空いてたの。パッと見は閉まってるようにみえたけど、隙間があったからもしかして居るかもって思って…。多分ケンセイが開けたんじゃないかなあ。」
「鍵は?」
「盗んだかピッキング?」
「どっちも駄目じゃん!!てかピッキングできる中学生って何!?」
これまで黙っていたアオイが遂につっこむ。
「風紀委員落ち着いて〜!もしかしたらたまたま開いてただけかもしんないじゃん!」
「誰が風紀委員だ!!うちの学校に風紀委員会なんてないから!」
「まあリョウが言ってくれたみたいに何度も会いに行って話しかけていくしかないかなー。」
「怖がられて学校来なくなったりしないよね…?それだけ心配。」
「んー多分大丈夫だよ!無視された挙句なんか睨まれた気がするから、気は強そう。」
「もっと詳しくケンセイについて先生に聞いてもいいかもね。何で教室に来ないのかとか。」
「そうだね。いつも学校来てるかどうかも分かんないし。」
また黙り始めたアオイを僕らはチラッと見た。
「…はぁ…分かった。ケンセイと仲良くなるまでは屋上階段行くの、見過ごすよ。」
「「わーい!」」
2人でハイタッチして喜んでいると、丁度別れ道になっていた。この道を左に行けば僕の家で、右に行けば2人の家だ。
「じゃあ2人とも、また明日ね!」
「ばいばーい!」
「気をつけて。」
僕は手を振り、2人に背を向けて家へと歩き始めた。
明日はケンセイについて先生に聞いて、総合の時間があって…あ、そうだ。もうすぐアオイの誕生日だし何かプレゼントの用意とかしようかな。
アオイ…ルールを破るの、まさに『断腸の思い』って感じがあったな…。本当に彼女は誰もが思い浮かべるような“優等生”そのものだ。別に僕は彼女の善良さに嫉妬も嫌気もさしていない。ただ大人になって、アオイのそんな善さが段々失われていったら…と考えると虫唾が走る。ヒオリだってそう。あの純粋さが汚されていったらどうしようって思う。僕は嫌な大人や世界ばかりを見てきたから、特に考えてしまうんだ。
そして、今日も帰ってきてしまった。
見栄えだけは良くなっている大きな家。その中身が腐りきって燻っていることなんて周りの人は誰も知らない。
『有名大企業のヨリモト』
長い歴史と高い知名度を持つ会社で、僕の父はそこの社長だ。母も重役を担っており多くの実績を残している。
僕は幼い頃からヨリモトの跡継ぎとして期待され厳しく育てられてきた。
なのに僕はてんで勉強ができない出来損ない。問題を間違える度、テストで100点以下をとる度に両親は激怒し僕に暴力や暴言を浴びせた。今に至るまでずっとだ。
今日は何も無いといいけど、と淡い期待を胸に
重いドアを鈍い手つきで開ける。
「ただいまー…。」
「遅かったな」
低く凄むような声が僕を迎える。いやに煌びやかな玄関のため、その姿はよく見えてしまった。
「と、父さん?どうしてこんな時間に…仕事は。」
「今日は早退きだ。この子を迎えに行っていたのでな。」
この子…?
十数年ぶりに聞いた父の優しさを滲ませた声に僕は嫌な予感がした。
「はじめまして。にいさん。依本晃哉といいます。」
「よりもと…?それに、“兄さん”って…。」
「養子をとったんだよ。お前の1つ下で、今日からお前の義弟になる。」
ぎ、てい…!?養子?なんでそんな突然に?
「この子は先日両親を喪ってしまってな。親戚も居ないもので、1度養護施設に行くことになっていたんだが…。彼の父と私は大学時代の友人だったこともあり、縁を感じて私が引き取ることにした。」
などともっともらしい理由を言うが、絶対違う。一に地位二に金というような人だ。縁を感じてとかそんな成り行きで子を引き取る事はしない。
目的はなんなんだ。一体何を企んでいるんだ。
そんな僕の疑問に答えるかのように、父は言った。
「晃哉は優秀な子だ。養子とはいえ私の後任を務めてもらう可能性だってある。」
その言葉が耳に届いた瞬間、心が静かになった。
ああ、そうか。そりゃそうだよな。
父は僕を見限り優秀な養子に後を継がせることにしたのだ。父の隣で背筋をピンとはりにこやかに微笑む少年からは秀才の風格を感じた。実際、あの父がわざわざ連れてきたのだから確かな実力があるのだろう。
務めてもらう可能性?違うだろ。
もうそうする事が父の中では決まっている。
だってこの数分間、父の目に僕の姿が映ることはなく、ずっと“義弟”に期待の眼差しを向けていた。
つまり、僕はもうこの家で完全に要らない存在となったのだ。
♦
1ヶ月後―
「えっリョウどうしたのその顔ー!?」
「あはは…ちょっとね…。」
僕の額に貼られたガーゼを見てヒオリがそう言った。朝イチ…ではなく、もう5時間目も始まるところなのだが僕はついさっき学校に着いたところで、こんなリアクションを貰ってしまった。
「リョウただでさえなんか頬に湿布はってんのにー…顔面傷だらけじゃん。」
「確かに…なんか恥ずかしくなってきた…。あれ、アオイは?」
「トイレ」
「戻ったよーって…リョウどうしたのそのデコ。」
狙ったかのようなタイミングと聞いたことあるセリフでアオイもやってきた。
「あ、分かった夜な夜な街に巣食う悪魔を退治して回ってんだ!だからいつも来るの遅いんだ!」
「違うよー……盛大に転んだんだ。それで頭ゴンって…。」
ここまでつつかれると思っていなかったので咄嗟に出てきた言い訳を口にする。本当は転んだわけでも悪魔を退治したわけでもない。
「うわ痛そー。お大事にな。」
とアオイが若干眉をひそめ気遣う。
「ありがと。でももうあんまり痛くないし気にしないで。」
丁度会話が一段落したところで、チャイムが鳴り5時間目がはじまろうとしていた。
凄い適当な言い訳しちゃったけど…バレてない、はず。
この傷は昨日親からつけられたものだ。母にリモコンで強く叩かれた。いつもは見えないところに殴られることが多いんだけど、虫の居所が悪かったんだろうな。
義弟がやって来てからは親からの“跡継ぎ”としての圧力が減った気がする。一応大人として社会に出れるように、とは気にかけ家庭教師はまだ雇っている。でもこれは僕の未来への配慮ではなく、己のイメージを損なわないためだ。息子が社会不適合者だなんてこと父は許さない。
義弟には僕への行為をバレないようにしているみたいだし、『要らない存在』になったとはいえそこまで生活は変わっていない。まあ、少し僕を見る目が冷たくなっただけだ。
こんな事ばかり考えていても気が落ちるだけだ。あれから少しずつ進んでいる『ケンセイと仲良くなろうぜ大作戦』について考えよう。
(作戦名は僕が勝手に考えたものだ)
彼に初めて話しかけに行った日から1ヶ月がたったが、未だ無視続きだ。ケンセイとの距離は1mmも縮まっていないだろう。だけど進展が0ってわけじゃない。先生に彼のことについて聞いたり、考察したりした結果いくつか分かったことがある。
まず1つ目。ケンセイはほとんど毎日学校に来ているが、教室には行かず屋上前の階段にいるってこと。実際に見つけて話しかけに行ったのもあるし、(無視だったけど)居なくても入った痕跡などがあったからね。
2つ目。ケンセイはそこそこ複雑な過去があるって事。この前ヒオリと言っていた通り、僕らは先生のもとへ聞きこみ調査をしにいった。
そこでは…
「え?久慈君について知りたい?」
「そう!!私ケンセイと友達になりたいの。だから先生教えて!」
先生は少し困ったような顔をした。
「その心がけは褒めるべき素晴らしいところだけど…ヒオリはその熱意もう少し勉強にも注いで欲しいわ。」
「げっ今それ関係ないじゃん!!」
「せっかく100点満点常連者の龍治さんと高得点続きの依本くんが周りにいるんだから、勉強教えてもらえばいいのに。」
「だーーっもう勉強の話はいいから!はやく
ケンセイの事についておしえて!!!」
バンバンと壁を叩きヒオリは急かす。まあアオイはたしかに教えるのも上手いし賢いし適任者だけど、僕はまだまだ出来損ないだから何も教えれないよ。
「生徒の事情はあまりペラペラと話すようなものじゃないけれど…。でも実際、久慈君が中々心を開いてくれなくて私たち教師陣も頭を悩ませていたの。同い年のあなた達だから出来ることもあるかもしれないしね。気軽に他の人に広めちゃ駄目よ?」
アオイをちらっと見て先生は『まあ龍治さんもいるしその辺は大丈夫ね』と言った。
ようやく口を開いた先生が語るケンセイの話をまとめると…。
久慈賢誠…それは彼の本当の名前ではなく、元々は新庄賢誠という名だった。何故変わったかというと新庄家は醜悪な強盗に襲われ両親が殺されてしまったからだ。そして縁あってケンセイは久慈家に引き取られた……。
それは数ヶ月前…中学校入学直前の出来事で、現在の彼は学校に来はするが、教室で授業を受けない保健室登校の様な状態になっているそうだ。まあ、保健室じゃなくて屋上階段登校か。
話が一区切りし、ヒオリが言う。
「じゃあ…ケンセイが学校にあんまり来ないのは、……な、何故なんだ…?」
「心の傷がまだ癒えていないからでしょうね。強盗なんて理不尽にあって両親を亡くしてしまったんだもの。簡単に癒えはしないわ。」
「確かにそれは辛いだろうけど…。ケンセイ、学校自体に来るだけ来て授業受けずにおくじょ…じゃなくて、どこかに居るんでしょ?なんか別の理由もありそうだけどなあ…。」
情報を聞き出すようにヒオリが先生をじっと見つめるが、先生は視線から逃れるように手をはらう。
「私だって知らないわよ。さっきも言った通り、久慈君とはまだ全然話せていなくて分からないことだらけなの。だからあなた達。頼んだわよ。」
無責任にヒオリの肩に手を置く先生に、僕は胸の内で嫌悪感を燻らせた。
そうしてその場は解散となった...。
というが、2週間前の出来事だ。
それからはヒオリと僕で屋上階段に行って彼に話しかけても、無視されどこかに行かれてしまう毎日が続いた。
今日の授業も全て終わり、掃除時間。いつもは帰り道に作戦会議をするのだが、ヒオリが部活がある日は僕らは掃除をしながら行うのが常だった。特に今日は学校玄関の掃き掃除、人目につかず話せる。
ヒオリが力なく箒を横に振り言う。
「先生の言ってることも分かるけどさーやっぱなーんか変だと思うのよね。」
「んー?何が?」
と対照的にちゃっちゃと砂をはき集めるアオイが聞いた。
「この前の先生のケンセイに関する話についてだよ。過去の心の傷が原因で教室に来ていないってのはどっか納得いかない。」
「だってケンセイがいつも私たちを見る目は“人を信じられない目”ってのも確かにあるんだろうけど、弱ってるってより見下してるの方が強いんだもん。めぇーっちゃ眼力強いもんね。」
と言って目尻をぐいーっとつりあげるヒオリ。
確かに…僕から見てもケンセイは弱っているように感じないし虚勢を張ってる…ってのも何か違う。何度も訪れている僕らを無視し続けられるのも、かなり肝が座ってなければできない芸当だろう。
「私はまだ実際に会ってないからそこは分からないけど…。まあその真偽をつける為にもさ、とにかくケンセイに心を開いて貰わないことには何も始まらないよね。」
「そーだよー!私、人と仲良くなるのでこんなに難しかったこと初めてだからびっくりしてんの!」
そんな発言ができる人も珍しいけどね。
「なんか美味しいものとか出したらのってくれないかな?」
「そんな子供じゃあるまいし、ないよ。」
「うぎゃアオイ箒で叩かないでよー」
そんないつものじゃれ合いを笑いながら僕も真面目に掃除を続ける。
「はーまた先生に聞きに行こっかなー。別にものでつるって訳じゃないけど、好きな物とか分かったら話題に発展しそうじゃん?」
「多分収穫ないよ。」
僕は反射的に否定する。これまで相槌や笑うだけだったが、反射的に。
「安原先生、あんまり本気じゃないから。」
風がひとつ吹くぐらいの間が訪れる。
僕があ…失言だったかもと思った頃にヒオリは口を開く。
「あーそうかもねえ。私たちに任せて一安心!て感じはちょっとあったかも。やーちゃんは時々雑だからなあ。」
「その安心は普通に解決出来るかもって安心じゃないの?私安原先生全然嫌いじゃないけど。」
「アオイ誰にだってそうじゃーん。この私を退いて正真正銘の人間好きなんだから。」
一瞬僕のせいで変な空気になるかと思ったが、ヒオリのおかげですぐにいつも通りになった。
そして僕もまた、さっきまでのスタンスを取り直した。
アオイは先生の事を庇ってくれたけど、僕はやっぱり安原先生は苦手だ。先生の取り繕った笑顔や薄い言葉からは、僕らのことなんて本当は興味がないんだなって感じがする。
重いすのこを力いっぱい持ち上げどけると、奥から溜まりに溜まった砂やホコリがでてきた。
それを掃きながらぼんやりと考える。
アオイやヒオリみたいにもっと人を信じられるような人間になりたかったな。
まあでも、生きてる世界が違うからしょうがないのかな。
♦
放課後―
ヒオリは部活に行ったため、僕とアオイの2人で帰路についていた。今日の話やケンセイの事など他愛もない話をしていた時、徐にアオイが僕の顔を覗き込み問いかける。
「リョウ、今日調子悪い?」
「え?」
「あ、もしかしてデコ痛む?なんか、今日ぼんやりしてる気がしたから。」
…本当、かなわないなあ…と思った。
彼女の黒々とした真っ直ぐな瞳に見つめられると、何もかもが見通されてしまうような気分になる。この目に敗北した結果、アオイだけが僕の頬に火傷痕がある事を知っている。
「あはは…まあ実はまだ…ちょっとだけ、痛いかな。でも本当にそんなに心配しなくてもいいよ、明日にはマシになってるだろうからさ。」
「リョウはすぐ我慢するところがあるからなあ…。ヤバそうだったら病院とかに行くんだよ。我慢してたら私が引きずってでも連れていくから。」
「うわあ強い……。」
「今日のことも……ねえ、安原先生と何かあったの?」
やっぱり気にしてたか。
ヒオリも言うようにアオイは真性の平和主義者でお人好しだ。僕が先生に対してマイナスな感情を抱いていることに気づき、和解して欲しいと思っているのだ。
「ううん何も無いよ。僕が一方的に、先生のことがちょっと苦手なだけ。先生…というか、大人があんまり得意じゃないんだ。ほら、今反抗期真っ只中だからさ。気にしないで。」
こうなったアオイを誤魔化すには一筋縄ではいかない。このように本心を混じえて話を逸らしつつ諭すしかないのだ。そうすると
「…まあ、喧嘩とかがあった訳じゃないならいいけど。」
何とか切り抜けたと安堵するが
「でも」
と彼女は真っ直ぐ僕を見て言う。
「何かあったらいつでも頼って。…なんか、リョウ怪我とか体調不良とか多いし、心配になる。」
アオイのいつもよりも真剣な口調に、僕は心臓の動きが少し早くなる。
もしかしたら僕の家の事に気づいていて、詳しく話すように促しているのかもしれないと思えてくる。
なら、もう全部話してしまおうか。
「…っ。」
「リョウ?」
僕がなにか言おうとしたことに気づいたのか不思議そうな顔をする。
違う 駄目だ
「…なんでもないよ。ごめん、心配させて。ありがとうアオイ。」
へらっと笑い僕はそう返した。
彼女はまだ気づいていない。
もし気づいていたら、こんな回りくどいやり方なんてせずに僕に真正面から聞いて、絶対問題を解決させようと全力を尽くす。
それをしないってことは、まだ何も知らないということだ。
「…そう。」
まだ何か言いたげだったが、彼女は一旦引き下がった。そして丁度別れ道だ。もうすぐ別れるから話が終わったって可能性もあるな。
「じゃあアオイ、また明日ね!」
「うん。また、明日。」
とお互いに手を振り、アオイは背を向ける。
彼女ゆくさきは西の方向で、夕日が綺麗に見えた。キラキラとしたオレンジ色の光が彼女の艶のある黒髪を照らす。
僕はそんな背中を少しぼうっと眺めた後、振り返って自宅の方へと歩き出した。
♦
家に帰ると室内は静けさに満ちていた。
とは言ってもこの時間帯は大体いつもこんな感じだ。両親は仕事で帰るのが遅く、義弟も私立のレベルが高い小学校に行っているから、7限目まであるのが通常だ。
うちは人を雇い家事全般をして貰っているが、彼らは機械の様に黙々とただ命じられたことをやっているため常に気配が感じられない。
しかし中には完全な親側の人間もいるみたいで、時折家事の傍ら僕のことを監視している。
彼らの前で家出を企むなどの不穏な動きをしようものならば、即座に親に伝わり地獄の始まりだ。身をもって経験している。
親側じゃない人間は僕が余程のことをしない限りは何もしてこない。助けもしてくれないけどね。
そんな訳で僕は身を守るために大人しくする他ない。比較的監視の目が届きにくい自室に入り、寝てしまいたい衝動に駆られるが家庭教師から出された宿題をやらなくては、と机に向かう。その時コンコンと扉をノックする音が聞こえた。誰もいないと思ってたけど、誰かいたのか。いやそれよりも、僕の部屋に態々“ノックして”入るのは…。
「義兄さんおかえり。今入ってもいいかな?」
やはり、義弟だ。
「…いいよ。」
僕の返事を聞くとガチャリとドアが開き、彼が立っていた。
「今日は随分と早かったんだね。」
「うん。先生たちが大事な会議があるからって短縮授業だったんだ。」
と、一旦話が終わり沈黙が訪れる。用がある方は昇哉だろうに、当の本人が何故かもごもごと言い辛そうにしている。
緊張している?
義兄弟になったとはいえ僕らはそんなに関わっていない。偶に彼から「おはよう」とか「ただいま」とかをドア越しに話しかけられるぐらいだ。早く宿題終わらせてしまいたいし、僕から話し始めるしかないかな。
「…で、何の用?」
「その……。け、怪我、大丈夫?頭のやつ。」
想定外の要件に驚き、思わず変な声が出そうになった。
「えっ怪我?大丈夫には大丈夫だけど、…それだけのために来たの?」
彼の視線が僕から一瞬外れたと思えば、奥の机に積まれたテキストの山に気づいたのか慌てて
「あっ…勉強しようとしてる所、邪魔してごめん!痛そうだったから、少し心配で…。用は…それだけ。」
そんなに痛そうに見えるのかな?アオイにも心配されたし…。
本人曰く用は終わったらしいが、まだ何か言いたげな雰囲気で扉のとこに立っている。
「…いや、えーと…。うん。正直にいうと本当は、ちょっと話したくて…。」
「話?」
と僕は少し身構える。
「俺こんな立派な家に入るの慣れてなくて、ましてや住むだなんてほんとに初めてなんだ。この家のひとたちは優しいけど、父さんと母さんも…居ないから…1ヶ月経ってもまだ緊張してて。だから、唯一歳の近い義兄さんともっと仲良くなれたらもう少しここに馴染めるかなって。」
絞り出すようにしてひとつひとつ言葉を編む少年からは、純粋な不安や緊張を感じた。
「ごめん急にこんな話して。自分が楽になる為に仲良くなろうだなんて勝手だよね。」
「別に…。」
僕の反応が鈍いからか、申し訳なさそうにする彼を見て確信した。
僕はこれまで義弟の事を『父が連れてきた僕の代わりの存在』という認識でしか見ていなかったから、話してこなかった。関わりたくなかったんだ。だから疑心に陥っていた最初は嫌味でも言いにきたのかと思った。だけど彼はただ僕と親しくなりたかっただけだったんだ。嘘をついているのかもしれないけど、僕にはとてもそうは見えない。
実親と死別し、一生消えない悲しみと不安に苛まれているただの少年のように感じた。
それもそうか。突然両親を喪ってからそう時間が経っていないのにも関わらず、環境が急激に変わりこんな家で住むことになったのだから緊張したって何らおかしくない。
「…謝らなくていいよ。僕も、ずっと素っ気ない態度取っててごめん。そうだよね、緊張するよね。」
と出来る限りの笑顔をしてみせる。
義弟は僕の返事に安堵して、ずっと強ばっていた顔が緩む。
「う、うん。俺ずっと義兄さんと話す機会伺ってたんだけど、学校違うから中々時間合わなくてタイミング逃してたんだ。」
「そっか、忙しいもんね。大変だね。」
「ううん。勉強は楽しいから平気。それに中学受験が待ってるしもっと頑張んないと。」
僕はこれまで勉強が楽しいだなんて思ったことは殆ど無かったから、少し驚く。好きこそ物の上手なれって言うし、やっぱり勉強ができる人は学ぶことが好きなのかなあ。
「じゃあ俺も勉強してくるし義兄さんも頑張って!」
そう言ってそそくさと部屋から出ようとするが
「ねえ」
と僕が声をかけると彼はハテナを浮かべて振り返るが、ふと口噤んでしまった。
「…やっぱなんでもない。改めてよろしくね。晃哉。」
「!よろしく!」
パッと笑顔になり今度こそ部屋を出て、少しすると近くで扉が開き閉まる音がした。僕と晃哉は部屋が隣だ。
「この家の人は優しい、かぁ…。」
と誰もいなくなった静かな部屋でボソッと呟いた。
最後『優しくなんてないよ』なんて言葉が喉元まで出かかったが、彼の混じり気のない瞳を見て思い留まった。彼は既に十分なストレスや不安を抱えてる。これ以上心配事を増やす必要はないだろう。両親は晃哉の事を大層気に入っているから、今のところ手をあげていない。だったらこの家の酷い現状を知らないままの方が、きっと幸せなはずだ。
♦
1年後―
晃哉とこんな話をしてから1年の時が経ち、僕は中学2年生、晃哉は中学一年生になった。
両親からの暴力は変わらずだ。最近は僕の分のご飯が作られない時もあるし寧ろ少し当たりが強くなっているような気がする。
ようやく優秀な跡継ぎが出来たんだから機嫌よくなってくれたらいいのに、と悪態をつく。
ご飯が作られなかった時は人目を盗んで冷蔵庫を漁ることでなんとか凌いだ。食欲はないが、活動するために食べる必要がある。人間は不便だ。
一方晃哉は僕と話せた事で緊張が解けたのか、より勉学に打ち込めるようになり無事私立の難関中学に合格した。両親は勿論それを祝福し、僕も素直に凄いと思った。まだ一緒に暮らし始めて1年しか経っていないが、晃哉はまるで本当の家族のようにこの家に溶け込んでいた。
僕らはあの日から定期的に話すような仲になった。普段はおはよう、とかおやすみとかの挨拶だけが多いけど時折学校の事とか自分たちの事とか雑談もする。以前の気まずさが嘘みたいに気楽に接しられている。
はじめこそ僕は晃哉を警戒していたが、今はそんな感情は抱いていない。それは彼の人柄故のものだろう。心が広く気配り上手で、人に接する時はいつも笑顔でいた。
思えば僕は、『家』にいる時警戒を緩めることがなかった。それは自分を囲む全てのものが敵のような気がしたからで、実際全員が敵とまではいかずとも味方なんて1人もいなかった。
でも外からやってきた晃哉という存在によって僕の警戒状態は緩和された。
両親からのあたりが強くても、家に1人安心できる人が居るだけで随分気が楽だった。
僕らは義弟と義兄。
そして出来損ないとその代わりの秀才。
そんな特殊な関係性でも簡単に打ち解けられるくらい、彼からはやさしさとあたたかさを感じた。
だけどその優しい人となりは、いずれ会社のトップになる者として向いているとは言えない。別に全ての会社で無理と言うわけではないけど、父の経営方針に沿うのならこのままでは、絶対に無理だ。
うちは表向きは有名な大企業だが、裏の深いところを探れば、わんさか闇が出てくる。父が法を犯した回数なんて数えだしたらキリがないだろう。警察にも手が回っており、悪事を隠蔽することなんて容易に出来る。
僕もそのせいで随分苦労した。
ここはそういう会社で、そういう父だ。
だから未来の社長として父から期待されている晃哉のこれからは、彼が嫌になってこの家から逃げ出すか、父と同類になるかの2択ぐらいしかない。
ヒオリやアオイに抱いている感情と同じように、僕は彼の純朴な心がくすんでいくのは嫌だなと思った。逃げ出して欲しかった。
だけど、彼が父の望み通りの社長なれば僕はこの家から解放される。腐った会社の社長になんてならずに済む。
邪な考えだって分かってる。
分かってるけど。僕はずっと苦しんできたのだからそろそろ報われたって、解放されたっていいじゃないかなんて思う自分がいるのは事実だ。
そんな事を考えながら歩いているといつの間にか学校についていた。他の生徒もちらほらと登校していて、校舎からは僅かに声が聞こえた。
晃哉のおかげもありここ数ヶ月は調子がよく、ほぼ毎日学校に朝から来れている。寧ろ少し早いぐらいだ。元々早起きはできる方だし、家に居る時間は1秒でも減らしたいため最近はヒオリアオイより早く教室にいることが多い。
安心出来る人が居るとはいえ、家にいると両親に何をされるか分からない。それもまた変わらない事実だ。
まだ数人しかいない教室に着いて、席に座る。
粗方準備がおわり暇になると、ぼんやりと外を眺めた。
もう6月か。毎日じわりとした蒸し暑さがあって夏の訪れを感じる。昨日は雨だったけど今日は憎たらしいくらいの晴天で、澄み渡った青い空に雲はひとつもない。
僕は寒さより暑さの方が苦手だ。頬の火傷をつけられた時が夏だったからだろうか。治療してもらったあとも頬の熱さとか痛みとかが消えてくれなくて、それを嗤うように蝉が鳴き日光が僕を照りつけた。
冬は、雪はいい。静かに僕を見てくれるから。
いつか穢れのない透き通った氷になれたら…なんて、突拍子もないことを考える。
「わっ!!!」
「うわーーーっ!!」
突然ドンッと背中を押されびっくりして思わず大きな声が出る。
「いぇーい大成功!この前の仕返しだよ。」
そこにはしてやったぜという顔をした犯人ヒオリと、アオイがいた。
「あーもうびっくりした!心臓飛び出ちゃったよ。」
「あははごめんごめん。なんか真剣に考え事してそうだけど、反応見たくて止めれなかった。」
「そそ、何か考えこんでた?」
「んー…まあね。もうすぐテストだから、やだなーって。」
咄嗟に口からでまかせを言う。テストは嫌いだから全くの嘘じゃないし、いいだろう。
「げっ嫌なこと思い出しちゃったよ。ってかリョウもアオイもいつも高得点組なんだから、心配しなくていいじゃん。」
「私だってちゃんと勉強しなかったら点数とれないから。」
「でもさあ〜」
とぶーぶー言いながらのんびり教科書を机にしまうヒオリ。
「まあテスト終われば夏休みだし、ヒオリも頑張りな。」
「そーだ!夏休みじゃん夏休み〜♪」
夏休み…そうか、もうすぐだ。家が嫌いな僕にとっては長期休みはあんまり好きになれない。どうせ自分の部屋に閉じこもってゴロゴロするか勉強するかの日々が続くのだろ…
「あ!ねぇ夏休み皆で海行かない!?」
「え、海?」
思いがけないヒオリの言葉に僕は反射で返事をした。
「そう海!!ホラちょっと歩けば海水浴場あるじゃん」
海水浴場……。行ったこと無いしある事も知らなかったけど、ここは海に近いからあったって何もおかしいことはない。
「あーいいね。そういえば何気に皆で外で遊んだことないしな。」
「でしょでしょ!」
アオイも乗り気のようだ。
「リョウはどー?」
「僕は…。」
友達と海だなんて親が許すのだろうか。
そもそも僕なんかが一緒に行ってもいいのか。
アオイとヒオリだけで行った方が楽しいんじゃないか。
そんな考えがいくつも浮かび上がるが、全部をかき分けて、言葉を紡ぐ。
「僕も、行きたい。海」
その言葉を待ってましたかと言うようにヒオリはグッと口角を上げ
「じゃー決定!夏休みは皆で海遊びだ!!」
わーい!と教室の隅、3人だけで盛り上がる。
アオイは「その前にまずテストだからな!」と言うがワクワクが抑えられないのか、声がこころなしか弾んでいる。そしてヒオリ本人には届いていない。
「面子はー私とーアオイとーリョウとー…あ、そうだ!ケンセイも誘おうよ!」
ケンセイ。
彼を遊びに誘うことが出来るような関係になっているなんて、一年前の全く口をきいてもらえなかった頃の僕らが聞いたら驚くだろう。実は、半年程前から僕らはケンセイと友達になっていた。
とはいっても…
「ケンセイ…来てくれるのかな。断られる予感しかしないけど……。」
とアオイがうーん…と不安げな顔をして言う。
僕も同じ気持ちだ。「俺は行かない」と淡々と言うケンセイの姿は容易に想像できる。
僕らは友達になった。
だけど凄く仲がいいか聞かれれば自信を持ってYESと言えない。彼を見かけたら話しかけるし、向こうも何かしらの反応はしてくれる。だけどケンセイの方から話しかけてきてくれたり、積極的に関わったりしてくれることは殆ど無い。もしかしたら友達だと思ってるのは僕らだけかもしれない。だけど“友達”でなくたって、彼にとって僕らは他の人とは少し違う存在であることに間違いはないだろう。
それに、個人的にも彼には気になることがある。この前話してみた時つっぱねられちゃったから、いつかもう少し話を聞ければいいんだけど…。
「取り敢えず誘ってみなきゃそんなの分かんないじゃん!さっそく今日聞きにいこーっと。」
ヒオリはワクワクルンルンしながらカバンを後ろのロッカーになおしに行った。
その様子を見る限り、彼女はもうテストの事なんて忘れ夏休みへの期待で頭いっぱいになっているのだろう。
なんて考察してる僕も、同じ気持ちだ。
期待を胸に膨らませもう一度窓の外を見る。
先程は憎たらしく思えた晴天が、今は素晴らしい夏を示す兆しに見えた。
今年の夏休みは、楽しくなりそうだな。
♦
ごめん。今日海行けなくなった。
急用が入っちゃって、ほんとにごめん。
またいつか行こう。うん。
皆で楽しんできて。
ごめんね
それじゃあ
通話が終わり、トーク画面になったスマホをベットに放り投げた。軽いスマホを投げるだけの動作ですら腕が重く怠かった。
窓がカーテンに覆われたこの部屋は暗いが、デジタル時計はAM 7:34を表示している。
ズキ、と体につけられた痣が痛み、先程までの出来事を思い出した。
海に遊びに行くなんてこと、親に知られたら絶対に良い顔をされないからずっと黙ってきた。でも昨日の夜、父にバレた。僕の部屋にあった海遊びの準備物が掃除をしに来た使用人に見つかったのだ。よりにもよって“親側の”人間に。そしてそのまま父に伝わったというわけだ。もっと棚の奥とかに厳重に隠しておくんだったと後悔する。
そこからの展開は想像に易いだろう。
遊んでいないで勉強をしろ
そんな事だからお前はいつまでも頭が悪いんだ
依本の恥さらし
少しぐらい晃哉を見習え
愚図が
殴られた。蹴られた。何度も。何度も。
明日は部屋から出るなと施錠され、荷物も奪われた。僕は途方に暮れ怪我の手当などせず眠れもせず気づけば朝になっていた。
今日は絶対に行けやしない。
泣きそうになるのを堪えながらヒオリに連絡をした。
本当に楽しみだった。
なのに
今、僕は傷だらけで床に座り込んでいる。
なんて惨めで情けなく、腹立たしい。
普通の子みたいに、夏休みに友達と遊びに行くことすら叶わない。
どうしてこんな家に生まれてしまったのか。
どうして世界はこんなにも理不尽なんだ。
腹の底から憎しみがふつふつと湧き上がる。
そんな時、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。
「兄さん。…おはよう。」
その声を聞く前から分かっていたが、晃哉だ。
「部屋、入ってもいい?」
「…鍵、外から閉められてるから無理。」
この部屋は外からでしか開けたり閉めたりが出来ない扉だ。僕が部屋に籠城しないようにする為らしい。だがアイツらは僕を監禁させることが出来る。今みたいに。
そしてこの部屋の鍵は他の誰でもない、父が持っている。
「早く学校行きなよ。」
どこかへ行って、ほっとけよ、という意味をこめて語気を強くして言う。
それでも扉の向こうの晃哉の気配は消えず、もう一度言おうと思った時に彼が声を潜めて言った。
「兄さん……怪我、大丈夫?」
「…気づいてたの?」
そう聞き返したが、彼が虐待に気づいていることに特に驚きはなかった。なにせ同じ家に住んでいるのだ。どれだけ父が周りに気を配っても隠しきるのは難しいだろう。
…まあ、どうせ気づいたって僕ら子供には何も出来やしないんだし、そもそもそこまで気にしていなかったのかもな。
「…うん。実は、1ヶ月ぐらい前からなんとなく。確信は持てなかったし、持ちたくなかったけど…。」
彼が弱々しい声で含みのある言葉を続けた後、少しの沈黙が訪れた。
「…義兄さん、虐待を受けてるんだよね。…僕で良かったら話を…」
「1ヶ月。ずっと勘づいていたのに、助けてくれなかったんだ。」
彼の言葉を遮る。
「義兄…さん…?」
「『大丈夫?』なんてただ優しいだけの言葉は要らない。」
「晃哉は優しいよ。君に救われたことだってある。だけどね、君は絶対に僕を助けない。助けられない。」
困惑し言葉を失う彼とは対照的に、僕は言葉を続ける。もう留めるなんてことは出来なかった。
「だって君はただの“善い人”だから。」
「君は決して道を踏み外さないし、ラインを越えない。生温い現状緩和しか出来ない。人を助けるって、そう簡単じゃないんだよ。」
気に食わなかった。
僕の現状も父の本当の顔も大して知らないくせに、安全圏から優しい言葉だけかける存在が。
“彼”と同じように、どうせ最後は僕の手を振り払うんだろう。
確かな期待と束の間の優しさだけ僕に与えておいて。
「本気じゃないのに無闇に踏み込んでこないで。迷惑だ。」
僕はピシャリとそう言い切り、扉の向こうが暫く静かになる。そしてぽつりと声がした。
「ごめん、なさい…。」
やがて気配は消えた。
言い過ぎたと思った。自分が今冷静になれていないことも、ただ彼に八つ当たりしてるってことも分かっていた。だけど言葉を止められなかった。
彼は本当に優しいひとだった。救われたことだって嘘じゃない。でも僕はもう、『寄り添う』だけの救いなんて求めてないんだ。
この牢獄をぶち壊して欲しい。
僕の手を引いて外に連れ出して欲しい。
誰か、
誰か助けてくれ。
お願いだから
見返りに誰かを殺せと言われてもお金を全部渡せと言われても言う通りにする。なんだってするよ。
だから、どうか
どうか
どれだけ僕が祈っても、
暗く重いこの部屋に光は差さない。
僕に希望は与えられない。
神様は、やってこない。
♦
半年後。2月。
冬の寒さも本番という最中僕はいつも通り朝早くから登校していた。
生気のないしんとした住宅街は冷えきっていて、厚手のコート、マフラー、手袋をしているにも関わらず寒い。僕は寒さも暑さも耐性が無いのだ。更に今日は、僕に追い討ちをかけるように雨まで降っている。
空気は肌を刺すほどに冷たく、腹の痣に障り痛みが走る。
親からの虐待は、夏休みに海遊びがバレてから激化した。そしてなにかと晃哉を引き合いに出されることが多くなった。
『晃哉と比べてお前という奴は』
『少しは晃哉を見習え』
『晃哉への悪影響があればどうする』
晃哉晃哉と、一体どっちが本当の息子なのやら。
当の本人とはあれから全然話していない。
仲良くなれたと思ったのも束の間、彼が来たばかりの頃の関係に逆戻りした。僕が彼を意図的に避け、偶に向こうから挨拶をするだけの関係にだ。
彼も以前ほど積極的に話してこようとはせず、僕と目が合うと申し訳なさそうに目を逸らすだけ。
所詮、その程度の良心だったという事だ。
そんなこんなで、家での僕の居場所は再び無くなってしまった。
そういう訳もあって、最近は家に居ると気分が悪くなる。だからどれだけ傷が酷くても、具合が悪くても朝になれば学校に行くか外に出るようにしていた。
だから早朝登校もまだ続けている。
早くこの家から出たい。
この前は晃哉の事が気がかりだなんだと考え込んでいたが、もうどうでもよかった。
早く、一刻も早く自分が楽になりたいから。
ー夕方
いつも通りの一日だった。
いの一番に教室につき、やがてやって来るアオイヒオリとだべってから授業をうける。今日は体育があったけど傷が痛むから見学した。体操服を忘れたってことにしておいた。
そしてあっという間に六時間目になりもうすぐ学校が終わる。今日ヒオリは部活が無い日なので、久しぶりに三人で帰る。僕にも部活に入ろうかなと思った時期があった。だけどどの部活動も熱中出来ないだろうし、そんなことより勉強をしろと父が言う気がしてやめた。
ーそれでケンセイがさあ。
ーそれはヒオリが悪いよ。十割ぐらい
ー全部じゃん!?ひどいよアオイ!!
二人のいつもの楽しげな会話を聞きながら、歩く。辺りはちょうど日が沈む時間で、足元の影はぐんと伸びてでていた。
「リョウ?どしたの?」
少し遠くからヒオリの声が聞こえる。ハッと前を向けば、すぐ前で歩いていたはず二2人は三メートル程先に居た。僕の歩むスピードが自然と遅くなって、いつの間にか離れてしまっていたのだろう。
「あ、ごめん。大丈夫。」
小走りで距離を詰める。
「体調悪い?」
アオイが心配げに聞く。
「ううん。ほんとに大丈夫。なんにもないから。」
「それ絶対なんでもあるやつだから。リョウ最近ボーッとしてること多いよ?」
真剣な眼差しで僕を見るアオイ。完全に聞く体勢に入っている。
二人にはこんな暗くて重い話をしたくなくて、巻き込みたくなくて家の事を話してこなかった。だけど、相談してみてもいいのだろうか。
僕は口を開こうとする。
「アオイそんな前のめりで聞いても逆に言いにくいよー。なんか尋問してるみたいじゃん」
しかしヒオリの声が先に飛んできた。
「えっ嘘 尋問みたいになってた?ごめん。私の悪い癖で。」
アオイは慌てて退いた。
「あ、いや。…別に悪くないと思うよ。」
「いやきっとあんまり良くないよ。人には言いたくないことだってあるんだ。距離感を間違えて不躾に聞いちゃいけないよね。」
「もー!そーいうわけじゃないって!私が言いたいのは、アオイは真面目すぎるってこと!リョウが今言いにくいんならまた今度聞きゃーいいじゃん!」
ヒオリがバシバシと彼女の背を叩く。
そして自然に、いつも通りの雰囲気に戻った。
僕は口を開こうとした。だけどそれは稚拙な言い訳をするつもりだったから、言えばきっと怪しまれただろう。だから、さっきの話が何事もなく終わって僕はほっとしているんだ。
またヒオリにも助けられちゃったな。
アオイは真剣に人の問題に向き合ってくれる
ヒオリは人の気持ちに寄り添ってくれる
2人とも本当に優しくて、あたたかい最高の友人だ。
日が沈む。
少し前までこの時間帯はまだ青い空が見えていた。だけど今、僕の頭上に広がる空は美しい緋色で満ちている。目を覆いたくなるほど眩しい光が西に落ちてゆく。
随分と日が短くなったなあと感慨にふけた。
でもそんな時間も長くは続かない。もう別れ道だ。
「じゃあ、リョウまた明日!」
「ゆっくり休みなよ。」
アオイはまだ心配してくれている。やっぱり、優しいな。
「…うん。またね!」
そして2人は背を向け、西日の方へ歩く。
それを僕は、暫くの間ぼうっと見つめていた。
僕も光の方へ歩きたかった。
叶わぬことを、何度でも考えてしまう。
光のもとに生まれたかった。
「…帰ろう。」
そうぽつりと呟いて、帰路の方へ振り返る。
すると、横から久しぶりに聞く声がした。
「…義兄さん?」
そこには、晃哉がいた。僕は驚いて反射的に返す。
「晃哉?なんでこんな時間に。」
時刻はまだ16時過ぎだ。いつもはまだ授業をしているはずだけど…。
「ちょっと体調悪くて、早退したんだ。」
と少しきまりが悪そうに首筋をかく。体調不良…珍しいな。まあ、寒いしな…。
「あの人たちは…義兄さんの友達?」
と、2人が歩いていった方向を見て言う。見られていたのか。
「あ、うん…。友達。」
「そっか。」
そこで会話は終わり、自然と僕らは家の方向へ歩き始めた。
喧嘩みたいな事をしてからは、2人で一緒にいるのは初めてだ。半年間ずっと避けてきたのに、こんな所で会ってしまうとは。
しばらく沈黙が続く。
チラッと晃哉の様子を伺ってみるが最近と同じ気まずそうな顔をしていた。『つい声をかけてしまったけど、どうしよう』って感じの顔だ。
まあこのままの空気で家に帰ることになっても良いだろう。もう晃哉のことは、どうだっていいんだから。
しかし僕のその思考とは相反して彼の重い口は開かれた。
「義兄さん。…この前は、ごめんなさい。」
彼は真剣な眼差しで、ハッキリと謝った。
『この前』とは何のことかだなんて、聞かずとも半年前の事だと分かった。
「…いや、僕もごめん。ついカッとなっちゃって。」
何を言われても無視してやろうかと思っていたが、こんなに真面目な顔して言われたらそうも出来ず応えてしまった。
すると晃哉は少しだけ安堵した様子を見せ、少し喋ってもいい?と言った。
日はもうすっかり山に隠れ、辺りはかなり暗くなってきた。寒さも厳しさを増す。
「あれから、ずっと考えてた。どうすれば義兄さんを助けられるんだろうって。」
晃哉の足どりは少し遅い。思考を纏めること、言葉を紡ぐことに注力しているのだろうか。
「この半年間、何も出来なくてごめんなさい。こんなの言い訳にしかならないけど、受け入れ難くて、どうしたらいいか分かんなくて沢山悩んでしまった。でも、やっぱり思ったんだ。僕は義兄さんを」
「晃哉。」
言葉を遮る。この後どんな薄い言葉を言うかなんて分かりきっていたから。
「ごめん。悪いけど、もういいよ。ありがとう沢山考えてくれて。でも、もういいんだ。」
君には出来ることなんてひとつもない。
そんな気持ちを込めて告げる。確かにあの日はカッとなって言ってしまった言葉だけど、半年を経た今、至極冷静に『晃哉は僕を助けられない。』と感じている。
この意味が伝わっているか伝わっていないのかは知らないけど、彼は先程の真面目な顔を曇らせ立ち止まった。僕はそんな彼を置いて進む。
1m、2mと距離が空いていくが彼が動く気配はない。やっぱり、君の心はそんなもんだ。
そこで僕はふと思った。彼は僕を助けてくれない。だけど他の人は?他の誰かなら助けてくれるのだろうか。
自分でも驚くほど自然に、答えが浮かんだ。
いるわけない。
本当の意味で僕を救ってくれる人なんていやしない。期待した事もあったけど全部裏切られてきたのだから。
そもそも、人に頼ること自体が間違っていたんだ、とまで思った。『本当の意味の救い』なんて、誰も人の心を覗けるわけないんだし出来やしない。自分でも…自分でも分からないんだ。どうなったら僕は救われるのか。
誰にも正解が分からないのなら、ほんとうに、救いようがないじゃないか。
何もかもが無駄で、最初から間違いだった。
これが全てだ。これが答えだ。
はは、とただ息を漏らすだけのような乾いた笑いか零れる。
じゃあもう、全部諦めてしま
「諦めないで!!!」
そんな大きな声が背後から聞こえて、立ち止まる。
初めて聞く、彼の大声だった。
「義兄さんの言う通りだ!俺は、情けない!!最低だ!!」
振り返ると、そこには必死な顔をした晃哉がいた。距離は、まだとおい。
「でも俺は、本当に義兄さんを助けたい。いや絶対に助ける!お願い、諦めないで。一緒に戦おう!」
突如として牢獄の天井にひびがはいり、突き破られた
僕は震えた声で、問う。
「助けるって、どうやって…。」
光の手がさしのべられ
「一度腹を割って家族みんなで話し合おう。
互いに冷静に和解出来ればきっと現状を変えれる。だって僕らは家族なんだから。」
僕は目を見開いた。
光が崩れる。
「ほんと、そういうとこだよ…ッ。」
キキーーーーッッ
耳を劈く激しいブレーキ音とは相反して、車は僕の目の前を突撃する。
鈍い音が聞こえた。
目の前にあった人影が消えた
消えた?
違う。
吹き飛ばされた
人影が飛んだ先を見る。
先程まで僕の前で話していた、晃哉がいた。
彼が、血に塗れて倒れていた
映画やドラマでしか見た事のないような光景に戸惑い立ち竦む。しかし深い紅に呑み込まれる晃哉を脳が改めて認識すると、救急車を呼ばなければ、と思った。でも下校中だったからスマホを持っておらず困っていると、異変に気づいた近隣の人が通報をしてくれた。
すると今度は何をすれば良いか分からなくなり、僕は立ち尽くす。傍から見れば事故に巻き込まれてショックを受けている様に見えるだろう。だが僕の頭の中は事故直後からずっと妙な静けさで満ちていて、ひどく冷静だった。
もう一度顔を上げて目の前に広がる光景を見る。血飛沫が地面を濁らせ、車が少し先の電柱にめり込んでいた。運転手が出てこない辺り、中で気を失っているか痛みに悶えているかしているのだろう。
僕はフラっと車の方へゆき、前の方がひしゃげた扉を開ける。
やはり運転手は気を失っていた。頭から血をドクドクと流して。
僕はこの人を義弟を轢いた人物と恨むべきか、怪我をしているのだから助けるべきか、それとも…。
思索に耽る僕の耳にサイレンの音が届く。段々と近づいてくるその音は、救急車以外にも何台か来ているのか複雑な旋律を作っていた。
もうすぐ到着するのなら余計なことはしない方がいいか、と1度車から離れてサイレンがここまでやってくるのを待った。
晃哉は意識こそ無くなっていたがまだ息があったため、緊急車両内に運ばれ僕も一緒に乗って病院へ向かった。
手術中の看板が光る部屋の前で、警察官の問いにできる限り応えた。やがて彼らの調査結果が届き、車がスリップし歩道につっこんでしまったと分かった。雨上がりだったことに加え気温も低く、道路の1部が凍結していたのかもしれない…と。
手術はあまり状況が芳しくないのか、その後数時間たってもランプが消えることは無かった。
途中で1度帰ってはどうかと言われたが、僕は手術室の前で居続けた。それは「辛い思いをしている義弟に寄り添いたいから」なんて綺麗な理由ではない。ただ家に帰りたくなかった。
僕と一緒にいた晃哉が事故にあった。この事実がアイツらに知れ渡ったらどうなるか分かったもんじゃない。まあ知られる事自体はどうせ回避出来ないんだけど、周りに人が居れば殴られることは一旦逃れられるだろう。
お医者さん達が今必死に晃哉を治療してくれている中、保身に走っている自分が滑稽で、愚かだと思った。
そして時計の針が22時に近づいた頃、ようやく看板の赤い光が消えた。
しかししばらく部屋から人は出てこない。ひとり、看護師さんが出てきた。
僕は彼女の表情で全てを察する。
ああ。彼はもう
晃哉が息を引き取ってから数十分後、両親がやってきた。
彼の為だけにわざわざ2人揃って来たのか。もし死んだのが僕だったら、親は1人も来ず使用人をこさせて終わりだっただろう。
しかし足運びこそ忙しないが、その雰囲気からは「悲しさ」が感じられない。
親が到着した事に気づいた医者たちが説明をしようと駆けつける。しかし父は至って冷淡に答えた。
「話は概ね聞いている。今後について話をしよう。」
と葬儀や遺体の管理の話をし始める。
息子を喪った悲しみに声を震わせることも、涙を流すこともせずただ淡々と、事務作業のようにこなす。
この人達は、一体子供のことをなんだと思っているんだろう。あれ程優秀だと言っていた晃哉が事故に遭っても、どうしてこんな表情をみせられるんだ。
話を聞き終わった2人は、徐に僕の方へやってきた。
僕にしか聞こえないように、父は言う。
「…お前が死ねばよかったのに。」
静寂に満ちた頭の中でその言葉だけが嫌に響いて残った。
なあ晃哉。コイツのこんな姿をみても、こんな声を聞いてもお前はまだ家族なんて言えるのか?
お前なら言いかねないなあ。
愛されたことしかないんだから。
♦
両親が来たため家に帰ることになったが、あの父が送ってくれるはずもなく、お金もなかったので徒歩で帰ることにした。
暗闇の中で、歩く。深夜とはいえ時折車が通るし、街灯だって点いたり消えたりしながら光っている。だけど僕はひどく暗い道を歩いている気がした。先程までの空っぽな頭脳はどこへ行ったのやら、僕は事故前の事を思い出していた。
『諦めないで。絶対に助ける』
そんな確かな意志をもった彼に僕は期待した。希望をもった。
だけど幻想だった。
牢獄の天井を突き破った手は、僕をすくってはくれなかったんだ。
家族みんなで話し合う?
何を言っているんだ。
そんな事が通用するわけが無い。
お前はアイツらから優しさしか受けていないからそんな甘い夢を抱けるんだ。きっと前の家族も大層愛されて育ったのだろう。僕と違って。
話し合って解決する程度の事なら、僕は何年も苦しんだりせずとっくに幸せになれてんだよ。
対話も、説得も、別の大人に頼るのも、警察に相談するのも全部やった。全部やって無駄だったんだ!晃哉は知らないだろ!両親の裏の顔は、本当に腐ってるってこと。
反省してる感じ出してたけど、結局お前は何も変わってない。外野から正しそうなことを言うだけ。
何が僕らは家族なんだから、だよ。
ふざけんな。つい最近やってきたばかりのくせに。何が家族だ。
優しい家族の元で生まれたからお前は勉強ができるし、お人好しだし、ひとに優しく出来る。
でも僕はお前を理由に僕は殴られてたんだ。
元凶が、優等生がそんな目で僕を憐れむな。ひどく自分が惨めに思えてくるんだよ。
どれだけ心の中で悪態をついても、彼を罵っても、気分はスッキリしなかった。寧ろ行き場のない辛さが募っていくばかりだった。
電灯の灯りが滲む。涙が出た。
彼はもう死んだのだ。
吹き飛ばされた瞬間、ざまあみろと思った。運転手を見た時も感謝の言葉が浮かんだ。
しかしそんな気持ちは、脳が血塗れの晃哉を認識すると消えた。
一瞬でもそんな考えがよぎったことに罪悪感が募る。確かに彼の存在には苦しめられた。親からの暴力が増えた理由の一つだった。
でも、彼は何もしていない。寧ろ心配を重ねて気にかけてくれていた。悪い奴ではなかった。
憎みたくても憎みきれない。彼が僕に呪いでも残したのかと思った。そうでなければ、どうしてこんなにも心が苦しい?何故、どうしてと考えてしまうんだ。僕がこんな状況じゃなければ、あんな親が居なければ、君の優しさも笑顔も受け入れられたのに。僕らは友達になれたかもしれなかったのに。
親が居なければ
アイツらさえ居なければ
アイツらの元に、生まれなければ!
悔しさは憎しみに変わり、悲しみは怒りへと昇華した。自然と歩く足が早くなる。
気づけば、家の前に着いていた。着いてしまった。
重苦しい扉を開ける。
玄関先にある時計を見ると24時をまわっていた。お風呂にも入らず、歯も磨かずそのまま自室に戻ってベットに倒れ込む。
もう言葉にできない疲労でいっぱいだった。泥のように眠って、そのまま目覚めなければいいと思った。
明日からの僕の生活はどうなるんだろう。
また新しい子を連れてくるのかな。
僕に暴力をふるうことは確定してるだろう。
嫌だな まだ前の傷治ってないんだよ
明日も学校があるから早く寝なきゃって思うけど、ずっと思考がぐるぐると渦巻いていて眠れない。
そのうち眠気が限界になって、気絶するように寝た。その時一体何時だったのかは分からない。だけど昼の12時30分まで寝てしまうぐらいには遅かったのだろう。
久しぶりの大寝坊、大遅刻だ。
両親は葬儀の準備やら何やらで帰っていないらしい。だからこそこんな時間まで誰にも邪魔されず寝られたのだろう。
部屋の扉を叩いて「おはよう」という人はもういない。昨日あんなドス黒い感情を持ったにもかかわらず、少し寂しく感じた。
「…学校いこ。」
何人かの使用人だけが居る屋敷で、もう誰も訪れることの無い自室で僕はポツリとそう呟いた。
さっさと準備を終わらせ、重い扉をあけて外に出る。今日は一段と寒い日みたいだ。コートを羽織りマフラーを巻いて手袋まで付けているのに、冷たい風が容赦なく僕を叩きつけて凍える。よくアオイに指摘されてしまう僕の薄く弱っちい肉体は冬も夏も堪える。
学校につき門を開けてもらい、教室に行くと窓の外を眺めるアオイの姿が見えた。
ヒオリがいない。あ、ケンセイのとこへ行ったのか。
…アオイ、なにか考え込んでる?
まあいいか。いつも通り笑顔で挨拶にいこう。
ゆっくり彼女に近づき、
「アオイっおはよ。」
と前に飛び出して声をかけると「うわぁびっくりしたぁ!」という良い反応を貰った。
「びっくりしすぎじゃない?」
僕がそう言うと彼女は苦笑する。
「…遅かったな。あと2時間で学校終わりよ。」
アオイは何かあったの?という雰囲気を醸し出すが、正直答えにくくて困った。義弟の事アオイ達には話してないし、話したって空気が微妙になるだけだしなあ。
あまりここで返事に渋ってると勘づかれそうだ。軽くあしらうように返事をした。
アオイは少し気になるようだったがそれ以上は聞いてこなかった。すぐ後に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったこともあり、授業の準備に取りかかる。
辺りはにぎやかな教室。数分後には次の授業の先生がやって来て、また少しあとにヒオリがどたばたと屋上から戻ってくるのだろう。彼女はいつもギリギリだ。
いつも通りの今日。
僕もいつも通りでいよう。昨日の出来事なんて、これからの不安なんて誰にも悟られないようにしよう。これまでずっとやってきたことだし、簡単だ。
学校が終わったらどうしよう。家に帰りたくないな。何されるか分かったもんじゃないし。
賑やかで穏やかな時が進む教室内。そんな空間とは対照的な僕の暗い未来。僕は自分だけが浮いているような気がした。
皆きっと次のテストのこととか、今日の晩御飯とか、土日の予定だとかを考えているんだろうな。僕が昨日義弟を喪ったなんてこと誰も知らないんだろうな。
帰りたくない。逃げ出してしまいたい。でも、そんなこと叶いっこない。
最期に晃哉と話した時に感じた諦念が再び現れ、脳を蝕む。
“誰も助けてくれないし、そもそも人に救いを求めることが間違いだった”
この事に気づいてしまったから、最早縋れるものなんて居もしない神様だけだった。神様…僕の思う神様はある日突然目の前に現れて、不思議な力で全部を解決してくれるんだ。親だって腐った世界だって神様にとっては些事だから、すべて綺麗に変わる。そして僕は自由になる。
子供じみた妄想だと分かっていた。だけどそんなことを考えないとやっていけなかった。
黒板の上を飾る時計が針を回すと共に、どんどん家が近づいてくる気がして冷や汗が滲む。
(せめて今この時だけでも、時間がゆっくりと進めばいいのになあ)
それでも時は淡々と進みいつの間にか授業も掃除も終わって、放課後になっていた。神様なんていないと証明された気分だ。知っていたけれど。
アオイは何か用事があるのか僕を置いて急いで帰っていき、ヒオリは部活のため今日の帰路は1人だ。僕はもの寂しさを感じながら静かに机の物をしまい、学校を出る。
まだ16時前だと言うのに少し緋色を帯びている空は、雲ひとつ見当たらない快晴だった。
♦
「う゛っ、」
腹に鈍痛が走り、呻く。
また蹴られた。何度目かは虚しくなるから数えていないが、しばらく咳やくしゃみをする度に痛みが走るぐらいにはやられただろう。
「この愚図がッ、約立たずで恩知らずの疫病神め。低脳として生まれて私に恥をかかせるだけでなく、優秀な跡継ぎまで奪うか!」
そして足で何度も胴を踏まれる。全身が痛くて苦しい。
涙が出ているのか、滲む視界でぼんやりと見えたアイツの顔は怒り狂う反面笑みも含ませていた。
気色悪い。人を傷つける事がそんなに楽しいか。自分が優位に立つことがそれほど大切か。
お前みたいな醜い人間がいるせいで世界はどんどん狂っていくんだ。
神様だって、人間があまりにも愚かだからこの世界を…僕らを見放したんだ。
諦めなり、悲しみなり、またある相応の憎しみが胸の内に燻る。
コイツも疲れたのか、息をついて散々僕を蹴り上げた足を退けた。
ようやく今回の地獄にも終わりが近づいてきたのか、と僕は静かに安堵する。
しかし
「もう殺すか。」
「…は……?」
想定外のアイツの言葉に、僕は口から息が漏れるような声がでた。
「お前なんて生きていてもなんの利用価値もない。誰も悲しまない。なに、私が少し情報操作すれば何も問題は起きない。」
淡々と、なんでもないように話す。
殺す…?
殺される?死ぬのか?僕は
コイツに手を下されて
「そうだな…。強盗にでもやられた事にすれば良い。息子を同時期に2人も喪った哀れな社長。いかにも好まれそうな話題だ。」
そう企み笑む男に背筋が凍った。
どうしてそんな顔が出来る?なぜ人の命を、仮にも自分の息子の命を躊躇なく奪える?
僕を見下ろす存在と目が合って確信した。
コイツは、コイツは父親じゃない。そもそも人間ですらない。
化け物だ。
僕は今からこの化け物に殺されるのだ。
そう理解した途端全身が恐怖に呑み込まれる。
「う、うぁあぁぁああぁああ!!!!!」
と口から飛び出た情けない悲鳴と共に僕はダッと逃げ出す。奴は勿論それを許さず捕まえようとするが僕があまりにも落ち着きのない動きをするせいか、上手く捕えられずそのまま家を出ることに成功した。
でも僕はそんな結果に喜びも、安心もしなかった。ただひたすらに、怪物の魔の手から逃れるべく走る。一心不乱に足を動かしていると、体力も運動能力もさしてない僕の呼吸は荒くなった。このままじゃ追いつかれると思い、堤防を降りて小さな橋の下へ逃げ込む。
暫くは心臓の音も呼吸の音もあまりに煩くて何も考えられなかった。しかし段々と落ち着いてくると今度は状況の最悪さに嫌気がさした。
殺されかけた。
目と目がしっかりあった状態で殺すと言われた。
運良く逃げる事が出来てしまったが、こんなの気休めにもならない。僕がどこに逃げ隠れしようが、すぐに見つかる。たかが子供1人だ。化け物には抗えない。
僕はもうすぐ死ぬ。
最悪だ。
最悪だ
最悪だ!
僕だって皆みたいに自由に生きたい。
幸せになりたい。
なのに化け物のせいで
僕は不幸な人間のまま死ぬ!
思考がぐちゃぐちゃになっていく。ボロボロの心が砕けてゆく音がする。
僕が何をしたって言うんだ。何で僕だけこんな仕打ちを受けないといけない。
“彼”に頼り傷つけた罰なのか?
晃哉を拒み傷つけた罰なのか?
じゃあどうすればよかったんだ!
勉強だって頑張った。小説にあるような家族になりたくて愛想だって振りまいた。
だけど100点がとれても父さんは褒めてくれないし、どれだけ会話を投げかけても帰ってくるのは母さんの暴言だった。
家族だから辛抱強く説得すればいつか和解できるなんてこと、フィクションでしか有り得ない。これでも僕は諦めきれなかった方だ。
ここまで苦しめられるほど、悪いことはしていない。寧ろずっと努力してきたのに。
僕を殺す化け物達は称えられて生き、世界は僕を救わない。
最低だ。なにもかもが最悪だ。
化け物も、それを放置してる人間も、この狂った世界も全部大嫌いだ。
幼い時から自己を否定され続け、救いを求めてもがいても絶たれ、挙句の果てに死を決められた。そんな僕がいきつく思考なんてもう全てに対しての嫌悪だけだった。
何も考えていなさそうな呑気なクラスメイトの声。本当は興味なんてないくせに知ったかぶって僕のことを語る教師の面。自分には関係ないと見て見ぬふりばかりが得意な有象無象の大人たち。すべて消えてしまえばいいんだ。
黒い感情が心にこびりつく。
僕はもう、まともな人間になれやしないのだ。
涙も鼻水も垂れ流したまま悲観する。
たとえ全てのしがらみから解放されたとしても、1度歪まされた僕の思考は戻りはしない。
あんな親を持ってしまったが故に僕はもう普通に生きられない。幸せにはなれない。
いや、もう親だけの問題じゃないか。
これまでぼんやりと感じては振り払ってきた感情が、心の中で徐々に形を持ち始める。
僕なんていなければよかったんだ。
生まれて来なければ、こんな苦しみも感じなかった。
僕はこんな世界に生まれたくなかった。
ずっと言葉にしないようにしていた。
1度言ってしまえば取り返しがつかなくなる気がしていたから。
だけど、そんなのもうどうだっていい。
取り返しなんてずっと昔からつかなくなってたんだから。
止まることを知らない涙はまた滲む。
僕、もう
「―リョウ?」
聞き馴染みのある声が耳を訪れ、心臓が跳ね上がる。
どうして彼女がここに居るのか、そんな疑問が浮かぶ思考すらままならず、口を開いた。
「アオイ…僕、死にたい。」
一段と冷たい風がひゅうと音を立ててふく。
言ってしまった。
顔を見るのが怖くて、俯いていたが暫くするとアオイは静かに僕を抱き寄せた。
彼女の少し低い体温でも、今はひどく温かく感じた。
そして何も言わず背をさする。
彼女の事だから、止められたりとかどうしてと聞かれたりすると思っていたので少し驚いた。しかし僕の背に触れる手つきはバラバラなリズムでぎこちない。落ち着いているように見えるが、心の中で一生懸命言葉を編んでいるのかもしれない。
しかし今の僕にとっては何も言わずにいてくれる事がありがたかった。人の温もりというものを久しく感じていなかったが、こんなに心地よいものだっただろうか。彼女が手を動かす度に氷が溶けていくかのように体の強ばりが解ける。やがて僕の心も落ち着いてきて、息を吸って、吐いてという動作がゆっくりできるようになってきた。涙もいつのまにか収まっていた。
アオイの服を血やら鼻水やらで汚してしまったかもしれないと今更気づき、そろそろ離れなければと思った。
それにしても…思わずアオイに感情をぶちまけてしまったけど、どうやって誤魔化そうか。
もしかしたら、アオイなら僕を…と思うがすぐにそんな考えは捨てる。これまで散々失望してきたんだ。アオイに対してそんな感情を抱きたくない。彼女の事を信じていないわけじゃないけど、これは誰にも解決できない事だから。
どうせもうすぐ死ぬ身なんだし、最期までアオイとは『良い関係』のままで居たい。
僕が死んだら、優しいアオイやヒオリには重い傷を与えてしまかもしれない。だけどこの死はもう変えられない事なんだ。あの化け物からは逃げられない。
何とか言いくるめて今日は別れよう。
そして、化け物に殺される前に僕はどこかで自ら死んでしまおう。
それが僕の人生最後のアイツらへの反抗だ。
よし、と自分の中で結論付け彼女から離れる。
「ありがとう…アオイ。ごめんね取り乱しちゃって。」
「ううん、それは大丈夫だけど…。
リョウ、一体何が」
「心配かけちゃったと思うけど、もう大丈夫だから!僕は帰るし、アオイも早くしなね!じゃあ、また明日。」
早口にそう言って立ち去ろうとする。が、手首を掴まれ阻止された。ここまでは想定内だから、言い訳を頭の中で構築し
「…何誤魔化してんのよ。」
「え?」
「そんな傷だらけでいながら、なにが平気だよ!!!!!笑って流せると思うな。手は、体は、傷は震えてんだろうが!!」
アオイが声を荒らげている所を見るのは初めてで、言葉を失う。
「なのに、『ボクは大丈夫ですーてめぇは関係ない帰れ』だぁ!?」
「いや、そこまでは言ってな…」
彼女に抱きしめられる。
先程の優しい抱擁とは少し違う。僕をここに留めさせるような、重い抱擁。
「…お願いだから1人で抱え込まないで。」
ああ、そうだった。
彼女はこういうひとだった。
いつだって真っ直ぐで、透明で
自分なんて二の次で、誰かのためだけに生きて
でも、僕はもう誰にも頼らない。誰にも頼れない。
その時、彼女は徐に抱き留めていた腕を緩め、僕の目を見た。近かった。君の瞳の中に映っている、情けない僕の姿が見えるほどに。
この目に負けるのは2回目だ。
僕は口を開いた。
「…父さんが、皆が僕を拒むんだ。」
家族のこと。
義弟のこと。
父に殺されそうになったこと。
もうどうにもならないこと。
死んでしまうこと。
殺されるくらいなら、自ら死んでしまいたいこと。
「―だからね、僕はもう、死にたい。こんな世界では生きられない。」
彼女は暫く何も言わなかった。アオイの事だ。きっとまだ何か解決策を考えているのだろう。
どうにもならない悔しさはまだちょっとあるけど、それより今はアオイたちと出会えたことは幸せだったという感情の方が大きかった。
ああ、最期に君に会えてよかった。皆と友達になれて良かった。本当に。
パチィンッ
とその瞬間、肌と肌がぶつかる乾いた音がした。一瞬自分が叩かれたのかと思ったが、痛みも衝撃もない。
アオイが自分の頬を手で叩いた。そして僕を見る。
「リョウ、少し走るよ?」
「えっ?」
想像もしてなかった言葉を言われ変な声が出るが、彼女は構わず手を引き、走る。
冷たい風が正面からあたって寒い。
それでもアオイに掴まれた左腕の部分だけ温かく感じた。少しすると海が見えてきた。夕日はもう殆ど沈んでいて、空は緋色に染まりきっている。
街の端近くまで来てもアオイは止まらない。
ついに砂浜まで辿り着き、そのまま海へ靴も服も身に着けたままざぶざぶと入っていった。
何が起きるのか、何をするのか全く分からなかったが、不思議と不安は無かった。
胴の半分まで海水が届いたあたりでアオイは止まり、ぐいっと手を引かれ潜る。
突如、何か大きな力に引っ張られるような感覚に襲われた。
アオイの手ではない。海。海が僕を押し出す。
飛んだ。
本当に羽が生えて飛んだわけじゃない。
直感的にそんな言葉が脳に浮かび上がった。
その瞬間、体にかけられていた圧力は消え去る。
「プハッ」
酸素を求め勢いよく海上に顔を出す。思っているよりも長い間海の中にいたようだ。暫く咳き込んでいたが、段々落ち着いてきた。
隣にいるアオイは既に治まったのか、咳ひとつもしていなかった。
「ア、アオイ…?どうしたの急に海に飛び込んだりして…。」
そこで、僕はある異変に気づく。
真冬の海に入ったっていうのに全く寒さがなく、寧ろ暖かいと感じた。
「服も全然濡れてない…それに、なんだか周りが明る………えぇっ!!??」
思わず大きな声が出てしまう。
視界に映った景色は、先程までの夕焼けではなくなっていた。どこまでも青く眩しい空と海が広がっていた。
何が起きたのか訳も分からず隣の彼女に体を向ける。
「アオイ…?何こ…!?」
「間違いなんかじゃない。」
僕の言葉は彼女の手が僕の頬に伸び、遮られる。心を貫くのではと思うほど真っ直ぐな瞳だった。
「私はあなたが生まれてきて、出会えて嬉しい。」
「あなたは生きられるよ。この世界は本当に美しくて優しいから。見つけよう。探そうよ。私達の世界の綺麗なところ。」
「この世界は、リョウが思っているより悪いもんじゃない!」
そう断言した彼女の姿は眩しくて、目には薄らと涙が滲んでいた。
そして彼女の涙に呼応するように、快晴のはずの空からポツポツと雨が降る。決して強くはない優しい光を帯びた雨が、しっとりと僕の背中を濡らしていった。
僕は生きられる
この世界は美しい
何度も彼女の言葉を脳内で反芻させる。
幾多の失望を味わってきた身としては、そんなの綺麗事だと一蹴出来た。だけど他の誰でもないアオイの言葉は響くものがあった。信じてもいいと思った。何故だかそう確信できた。
きっと君は世界の本当の姿を知っている。
この世界の美しさを知っている。
僕を本当の世界に連れていってくれる。
天井の穴から亀裂が入り、牢獄が完全に壊れる。
開けた視界の先にはアオイがいた。
彼女が僕の手を取る。
かつてない程澄み渡った僕の頭の中にひとつの考えが浮かび上がった。
ああそうか。
君こそが、僕がずっと探し求めていた
神様。