#4話 サミダレハーツ(前)
戦いからおよそ三時間。
傷ついたサミダレンジャーとゴクドー陣営は、一時停戦の協定を結び、両者ともにいったんゴクドー本社の地下室に身を寄せていた。
お通夜のような空気、というのはまさにこのことを言うのだろう。ゴクドーは黒原の口から解体を宣言され、サミダレンジャーはリーダーが連れ去られて。この場で明るい顔を浮かべられる人間など、誰一人としていないはずだった。
しかしたった一人だけ、地べたに横たわる負傷者を回って歩き、場違いに明るい声をかける人間がいた。
「次はだれかしら? 順番ね、順番っ」
それはパワースーツに身を包み、魔法の杖を手にした母だった。
「うぅぅ……申し訳ない……」
「いいのよぉ。それっ、ひーりんぐ~」
サミダレロッドの先端が優しい輝きを放つ。すると、完治とまではいかなくとも、立って歩けるくらいにまでは相手を回復させることができる。何でもありのロッドだった。
「……母ちゃん」
「おかあさん……」
そんな、痛々しい光景。
あたしは傍らの黄介とみどりと共に、気丈すぎるほど気丈に振る舞う母の姿を見守ることしかできずにいた。
目を覚ましたふたりにも父が連れ去られたことは説明してある。そのことは相当ショックだったようで、みどりはおろか、元気が取り柄の黄介までずっとこの調子だった。
だが、誰よりいちばんショックを受けているのは母のはずだった。それなのに母は笑顔を絶やさず、つい先ほどまで敵だった相手すらも癒して回っている。
あたしには、そんな母の行動が理解できなかった。
「桃恵さん」
そんな母に、同じく体を癒してもらった獄道さんが声をかける。
「本当にありがとうございます。……ですがもう、結構ですよ。残りはみな軽傷の者ばかりですし。……私にはそれより、あなたの傷が心配です」
「わたし、傷なんてないですよぉ。ひとりだけ無傷で申し訳ないなぁって、だから」
「違います。心の傷です」
「……今は、わたしが赤雄さんの代わりですから」
短い会話の中に、母の気持ちのすべてがあった。獄道さんは片手で顔を覆って、それからひどく痛切な息を吐き出して、言った。
「これから、サクバスに行くのでしょう?」
「はい。赤雄さんを助けにいかなきゃいけないですから」
「……最初に言っておきますが、我々は、あなた方には協力できません」
ざわりとゴクドー地下室がどよめく。その中にはほんのわずかではあったが、獄道さんを非難する声さえあった。
不思議な光景だった。ついさっきまで敵対していた者同士として、獄道さんは言うまでもなく当たり前のことを言っているだけだ。サミダレンジャーの問題をゴクドーが請け負う理由なんてどこにもない。
「あなたがそんなつもりで我々の怪我を治してくれたわけではないのはわかっています。……私とて個人の意を通せるのならば、ぜひともこの恩を返したいと思っている」
だが、獄道さんが言っているのは、それとは違った問題だった。
「ですが、我々にはもう行く先がないのです。このままでは社員全員が路頭に迷います。一度悪の組織に足を踏み入れた者が、別の世界で生きていくことは極めて困難です。……私たちが生きていくためには、もはやサクバスに身を預ける他にないのです」
その言葉で、辺りのざわめきが一気に消える。
しんと静まり返った部屋の中、獄道さんは母に対して、そしてゴクドーの社員全員に対して、深く深く頭を下げた。
「どうか分かってください。ここにいる者は馬鹿でどうしようもない者たちばかりですが、すべて私の大切な家族なのです」
その場の誰もの胸を打つ、真摯な言葉だった。
辺りからはすすり泣きの声も聞こえてくる。見ると、なんと葉丘だった。あの葉丘が、顔をぐしゃぐしゃに歪めて涙を流している。
「ぐぅぅぅぅっ……オヤジぃ……!」
「……納得してくれとは言いません。無理強いもしません。ですが私は、あなたたちと一緒ならどこでも生きていけると思っています」
その一声で、ゴクドー社員のほぼ全員がおんおんと声をあげて泣き始める。獄道さんの身にすがり寄っていくたくさんの人たちを前にして、あたしは何も言えない気持ちになった。
「……獄道さん。ひとつだけ、お願いしてもいいですか」
そんな中、母が静かに口を開いた。
「私に聞けることであれば、何でも」
「ほんのちょっとだけ、青子ちゃんを借りたいんです」
マスク越しの母の目があたしへと向けられている。獄道さんは少しだけ考える素振りを見せてから、小さく頷いた。
「わかりました。五月雨さん、行ってあげてください」
「……はい」
獄道さんに促されて、あたしは母と地下室を出る。その後ろからは黄介がみどりの手を引きながらついてきた。
そして変身を解いた母は、ほころぶような笑みを浮かべて、あたしにこう言った。
「青子ちゃんの住んでるところ、連れてってほしいな」
* * *
道中、ほとんど会話はなかった。何を話していいのかわからなかった。そもそも、あたしに何か言う権利があるとも思えなかった。
事の発端を辿れば、あたしにも大部分の責任がある。あたしが家を出ることなんてせず、最初からサミダレンジャーとして戦っていれば、あの場で黒原を退けることもできたかもしれないのに。
瞳を閉じれば、瞼の裏側には父の背中ばかりが焼きついていた。身を挺してあたしたちを守ったあの背中が、どれだけ頭を振っても消えない。
あたしにはもう、父を憎めばいいのか、心配すればいいのか、それすらもわからずにいた。
「ここだよ」
やがて、無言のままに寮に到着した。部屋に案内してほしいと言われて少し戸惑ったが、事ここに至って寮則も何もないだろう。あたしは三人を自分の部屋に上げることにした。
「そっか。ここが、青子ちゃんの住んでる部屋なんだ」
なぜだか感慨深そうに、母はそう呟いた。
丸テーブルを囲んで四人で座る。黄介とみどりは俯いたまま、ずっと顔を上げようとしない。できることならあたしだってそうしたい気分だった。だが……。
「……なんで、何も言わないんだよ」
「……なんでって?」
「あたしは母さんたちを裏切って、悪の組織に入ってたんだぞ。それなのに、なんで何も言わないんだよ。なんで怒らないんだよ」
いっそ、父のように頭ごなしに怒鳴られたほうがまだ気が楽だった。半端に気を遣っているつもりならやめてほしい。
「青子ちゃんは、怒ってほしいの?」
「……母さんの正直な気持ちが聞きたい。それだけだ」
それでも母は、依然として穏やかな表情を崩さずに答えた。
「青子ちゃんが選んだ道なら、それでいいと思ってる。それとも青子ちゃんは後悔してるの?」
「……」
後悔してるんだろうか、あたしは。
……いや、でも、こんなことになってから思うことじゃないかもしれないけれど。
悪の組織に入って、ああして父と正面からぶつかり合う機会がなければ、あたしたちはいつまで経っても本当の意味での親子喧嘩なんてできなかったと思う。
あのときあたしは、ずっと言いたかったことを全部言えた。
あのとき父は、初めてあたしと真正面から向かい合ってくれた。
「後悔は……してないよ」
あんな風に喧嘩することができて良かったと思っている。
だから、後悔はしてない。
「なら、わたしが言うことは何もないかな」
母の笑顔が胸に刺さって、鼻の奥がツンとする。込み上げてくる感情を気合いで喉の奥に引っ込めた。
「あのね。青子ちゃんに、お話しておこうと思うことがあるの」
「……あたしに?」
「うん。黄介くんとみどりちゃんも聞いててほしいな。赤雄さん――ううん、お父さんのことだから」
母の表情が少しだけ変わる。真剣な表情に。
「青子ちゃんは、お父さんのことが嫌い?」
「……大嫌いだった。今は……わからない」
正直な気持ちを返す。母は小さく頷くと、優しく微笑んで言った。
「お父さんはね、青子ちゃんのことが大好きよ」
「……」
どう返事をしていいかわからなかった。そう簡単には信じられない言葉だったし、それが本当だったとして、なおさらどう答えてよいのかわからなかったから。
「お父さんはちょっと不器用なだけなのよ。ほんとうはね、誰より世界でいちばん、あなたたちのことを愛してるの。もちろんお母さんも負けないけどね」
「……あれが、不器用?」
「そうなの。お母さんもね、お父さんに好きって言わせるのは、ほんとに、ほんっとに苦労したんだから。あの頑張りがなければ青子ちゃんたちは産まれてないんだし、ちょっとは感謝してもらってもいいくらいよ?」
なぜだか自慢げに母は言う。
……でも実際、それは本当にすごいことなのかもしれない。今までちゃんと考えたことはなかったが、あの父が誰かに向けて「好きだ」なんて言っているところ、どうやったって想像すらできなかったから。
「……ありがとう。すごいな、母さんは」
「えへへ、どういたしまして~」
変な会話だ。少なくとも親子の会話ではない。
「それでね、お父さんは不器用な上に恥ずかしがりやだから。今まで青子ちゃんたちに秘密にしてたことがあるの。青子ちゃんは、サミダレンジャーの原動力がなんなのか考えたことがある?」
「原動力?」
原動力というと、車でいうところのガソリンのようなものだろうか。
「サミダレンジャーはね、愛の戦士なの」
「……はぁ?」
「愛よ。ラブ。愛がなければサミダレンジャーには変身もできない。知らなかったでしょ?」
知らなかったも何も、冗談にしか聞こえなかった。
にこにこと笑う母を胡乱なまなざしで見つめる。本気で言っているのだろうか、この人は。
「……いや、あたしはそんなもんなくても変身できてたぞ。っていうかなんだよ、愛って」
「青子ちゃん、自分の腕を見てごらんなさい」
「なんなんだよさっきから……」
言われて、仕方なく自分の腕に視線を落とす。すぐ視界に入るのは鉛色の腕輪。
サミダレチェンジャー。
十歳の誕生日に父からもらった腕輪。最初は大きすぎるくらいだったのに、腕を通した途端にきゅるきゅる縮んで、あたしの腕にぴったりのサイズになった。
不思議な腕輪だと、そのくらいの認識しかなかった。
「源次郎さん――お父さんのおじいちゃん、つまり青子ちゃんたちのひいおじいちゃんね。彼が開発した変身システムは、今あるものとはまったく違っているものだったの。ひいおじいちゃんは科学の計算式だけに頼らず、生きた感情を力に換えるシステムを作り出した。サミダレチェンジャーはね、生きた腕輪なの。もっとはっきり言っちゃうと――その腕輪にはね、わたしたち家族全員の血が混ざってるのよ」
「……血?」
「そう。サミダレチェンジャーはわたしたち家族を文字通りに繋いでるの」
もう一度、じっと腕輪を眺めてみる。なんの変哲もない鉛の腕輪にしか見えない。
けれどあたしは実際にこの腕輪が不思議な力を放つところを何度も見てきたし、自分で体験もしてきた。そのくらいの秘密があったとしても、驚くべきことではないのかもしれない。
「歴代のサミダレレッドはみんな、ただ強いだけじゃなくて、このサミダレチェンジャーを介して『心』を分け与える力があった。その『心』を原動力にして、わたしたちは初めて変身する力や武器を生み出す力を得ることができるの」
「……なんなんだよ、その『心』ってのは」
「それが、愛なの」
はっきりと聞こえた母の言葉。
話の起承転結として、だから父はあたしたちを愛していると、そういうことになるのだろう。
「信じられない?」
「……」
母の言葉に、すぐには首を振ることはできなかった。いきなりそんな話をされても、証拠がなければとても信じられない。
「ふふ、そうよねぇ。でも青子ちゃん、今までこんなことはなかった? たとえば変身しようと思ってもできなかったり、変身する気がなくてもサミダレチェンジャーが反応したりしたこと」
言われて、はっとさせられた。
この寮で暮らすことになった初めての晩、葉丘に決闘を挑まれたとき。
そしてその翌日、珊瑚と共に町で父たちに出会ったとき。
そのどちらの状況も、母の言葉に該当する。
「……嘘、だろ?」
「すぐには無理にでも、信じてあげてほしいな。お父さんは間違いなくあなたたちを愛してる。それだけはお母さんが約束するから」
これまででいちばん真剣な顔で、まっすぐにあたしたちを見つめて言う母。
何も言葉を返せなかった。未だに信じられない気持ちもあった。
だが、少なくとも――あたしの心の中でずっと揺れ動いていた天秤は、ようやく片方の側に沈んでくれたようだった。
「……うん」
短い呟き。小さい頷き。
それでもあたしは、母の言葉を信じることにした。
理由はふたつ。母のことが好きだから。信じたいと思ったから。
そのふたつが合わさって――ほんの少しだけ、父に対して歩み寄ってみてもいいんじゃないか、そう思えたから。
「よかった」
頷くあたしに、母は花が咲くような満開の笑みを浮かべた。それだけで重苦しかった空気が緩む。理由もなく安心できる笑顔。
「これがね、言っておきたかったこと。あとひとつ、青子ちゃんにお願いしたいことがあるの」
「お願い?」
「うん。今日一晩だけ、黄介くんとみどりちゃんの面倒を見ててほしいのよ」
――けれど、そんな心の安寧は、すぐに断ち切られることになった。
「……母ちゃん?」「……おかあ、さん?」
膝に埋められた黄介とみどりの顔が、ゆっくりと持ち上がる。
いつものように、いつもの口調で、それこそ「ちょっとおつかいに行ってきてほしいの」という頼みごととまったく変わらない調子で紡がれた言葉。
だが、その言葉の真意を探るなら、そういうことだとしか思えなかった。
「……待てよ。どういうつもりだよ、母さん」
「この子たち、ずっと青子ちゃんの作るご飯が食べたいって言ってたから。だから今日一日だけでもね、頼めないかなって」
「そうじゃないだろ!」
気がつけば、あたしはその場に立ち上がっていた。
なんでだ。なんであんな話をしたあとに、そんなことを言うんだ。
「……だって、絶対に危ない目に合うってわかってるのに、青子ちゃんたちを行かせられるわけないじゃない」
花の笑顔が、うっすらと翳る。
そんなのを認めるわけにはいかなかった。なんだそれ。あたしをなめるな。
「……こっちは危ない目に合うのも、無理やり戦わされるのも、もう昔から慣れっこなんだよ。……なんで、そんなこと言うんだよ!」
「……赤雄さんにはね、お姉さんがいたのよ」
「は……?」
いきなり関係のない話を始める母。言葉の真意がわからず、あたしの口からは頓狂な返事だけが漏れる。
「そのお姉さんは、青子ちゃんみたいに夢を持ってる人だった。今の青子ちゃんみたいに家を継ぐのが嫌で、家を飛び出したところも一緒」
「ちょっと、いきなり何言って……」
「それからずっと、お姉さんは行方不明なの。もう戸籍上では故人扱いよ。町を一人で歩いているところを、当時の悪の組織に襲われたんじゃないかって言われてる」
「……母、さん?」
「青子ちゃんが悪の組織に入ったって聞いて、逆に安心してるところもあるのよ。周りに強い人がいるなら、たとえ何かあったとしてもその人たちに守ってもらえるだろうから。……でも青子ちゃん、これだけはわかってあげて。どうしてお父さんが、あんなにも青子ちゃんに家を継がせることにこだわったのか」
それは母の口から出たものとは思えないくらい、怖い言葉だった。
話の中身も怖かった。
「守れる戦いなら連れていく。だって、それがいちばん安全だから。いつでもいちばん近くであなたたちを守ってあげられるから」
でもそれ以上に、母の目が怖かった。
だって。
母の目には、いっぱいの涙が浮かんでいたのだから。
「でも、守れないかもしれない戦いにあなたたちを巻き込めないわ」
すっと立ち上がり、背を向ける母。
部屋を出る直前、一度だけ振り返って言った。
「……それに青子ちゃんはもう、ゴクドーの人だもの。青子ちゃんが来たら、獄道さんたちにも迷惑がかかるわ。だから、ね」
まるで子どものような弱々しい泣き顔で。
けれど、母の強い笑顔を浮かべて。
「黄介くんとみどりちゃんを、お願いね」
ずるい。
……そんなのずるいだろ、母さん。
* * *
母が部屋を出ていってから、三時間ほどの時間が経った。窓の外から見える空は、うっすらと夕暮れの様相を見せ始めている。
その間、あたしたち姉弟の中にほとんど会話はなかった。あたしには何か言わなきゃいけないことがあるんじゃないだろうか。
今まで騙していて悪かった。ごめん、許してほしい。
……今さらそんなことを言ってどうするつもりなのだろう。謝って、許してもらって、その先に何がある?
「……ふたりとも、お腹空かないか?」
ずっと部屋の隅っこで膝を抱えたままのふたりに問いかける。けれど、返事は――
「……ううん。大丈夫」
腹減った、ねーちゃんメシ、それが口癖の黄介の言葉とは思えない返事だった。
「……」
みどりに至っては返事すらしてくれない。でも、それも仕方ないことだと思う。
黄介や父とは戦いの中で語り合った。母ともついさっき語り合った。しかし、みどりとだけはずっと何も話していないのだ。家族を裏切ったも同然のあたしのことを、この子はいったいどう思っているのだろう。
「…………す……」
その時、みどりが何か言ったように聞こえた。
……もう、どれだけ嫌われたって仕方ないのだ。
それでもあたしには、母からこの子たちを任せられた責任がある。意を決して、あたしはみどりの正面に膝立ちになった。
「どうした、みどり」
「……ぐ…………」
「みどり?」
「…………ぐすっ……」
みどりが顔を上げるのと、あたしがその声の意味を理解するのとはほとんど同時だった。
「おねえちゃぁん……ぐすっ、ひぐっ……」
涙の線がくっきりと頬に残っているのを見て、あたしは自分をぶん殴りたくなった。
この子はいつから泣いてたんだ。どのくらいの間、ひとりでずっと嗚咽を堪えていたんだ。どれだけの間、あたしはこの子の涙に気付いてやれなかったんだ。
「おねえちゃん、おねえちゃぁん……うわぁぁぁぁぁぁ……」
あたしの胸に飛び込んでくるみどり。ずっとこうして誰かの胸で泣きたかったのだろう。だけどこの子は優しすぎるから、それを口に出して言うことができないのだ。
そのとき、くい、と袖を引かれた。
「ねーちゃぁん……」
目を向けると、そこには顔をくしゃくしゃに歪めた黄介がいた。
涙は伝染する。ふたりはしばらくの間、あたしの胸に顔を埋めて泣いた。あたしだって泣きたかった。悲しくて、不安で、やるせなくて、悔しくて。
あたしはこれから、どうしたらいいんだろう。
母は、ちゃんと父を連れて帰ってきてくるんだろうか。
今晩だけ面倒を見るっていう約束は……ちゃんと、守られるんだろうか。
「ちくしょう……」
あたしの心は真っ暗闇の中にあった。それでいて、あたしにできることは何もなかった。狭い部屋の中で弟たちと抱き合って身を震わせることしかできない。この光景は、そのままあたしの心を現したようなものだと思った。
閉じられた狭い空間の中、限りなくゼロに近い可能性をバカみたいに信じて、扉が開くのを待っている。
あたしはこんなに弱い人間だったのか。情けない自分に吐き気がする。
違うだろ。こんなのあたしじゃないだろう。立てよ。しゃんと立って、この子たちに背中を見せてやれよ。父があたしに見せてくれたような、そんな背中を。
「……何してるんですか、青子さん」
がちゃりと部屋の扉が開いたのは、ちょうどそんなことを考えていたときだった。
全員の視線が訪問者の顔へと向けられる。その相手は母でもなければ父でもない。
珊瑚だった。
「寮の人から話は聞きました。ちょっと前に、青子さんのお母さんがひとりで寮を出ていくのを見たって。……どうして、青子さんはこんなところにいるんですか?」
これまで見たこともない剣幕で――珊瑚は、激しく怒っていた。
「お父さん、捕まっちゃったんですよね? お母さん、お父さんを助けに行ったんですよね?」
「……あたしが行けば、ゴクドーに迷惑がかかる。獄道さんにも、珊瑚にも」
「バカにしないでくださいッ!!」
寮中に響き渡るような大声が、珊瑚の小さい体から搾り出される。
真っ暗闇の心の部屋に、銃弾で穴を空けられたような気がした。
「そんなことを言い訳にしたら、京一郎さん絶対に怒りますよ! わたしだって怒ります! ……わたしなんて役立たずで……今日の戦いでも何にもできなくて、それなのにこんなこと言うの、すっごくすっごく無責任だと思いますけど……!」
珊瑚がここまで怒る理由を、あたしは一度、聞いている。
次々と撃ち込まれる銃弾。耳を裂くような激しい銃声に、思わず膝を抱えてしまいそうになる。
けれど、銃撃の最中にも目を向ければ気付くことがある。
壁中に空いた穴から、一条の光が差し込んでいることに。
「……でも言いますッ! 青子さん、お父さんとお母さん、まだいるじゃないですか! いなくなったら絶対後悔しますよ! それってすっごく悲しいですよ! わたし、青子さんにそんな気持ちになってほしくない!」
がらがらと崩れていく壁。
真っ暗闇の部屋の外には――ただただ明るく、どこまでも広い世界が広がっていた。
「間に合わないかもしれないです! でも間に合うかもしれないじゃないですか! それなのに諦めるなんて、青子さんは……青子さんは、バカですッ!」
どいつもこいつも優しすぎて、だぁれもあたしのことを怒ってくれなかったのに。
予想もしてなかったやつが、あたしをこんなにはっきりと叱ってくれた。
「……珊瑚……」
そうだな。その通りだな。
本当に、あたしはバカだよな。
すっくとその場から立ち上がる。途端、珊瑚がびくりと身を震わせる。
ずいぶん勇気を振り絞ったのだろう。できることならそんなこと言いたくなかっただろうに、あたしが不甲斐なすぎるから。
「……う、うぅぅぅぅ! なんですか青子さんっ! わ、わたし、絶対に謝りませんよっ! ひ、引っ叩くならいくらでもどうぞっ! それでも訂正なんて、ぜ、絶対、しませんからっ!」
ぶるぶると震える珊瑚の頭に、あたしはゆっくりと手を伸ばす。
「ひ、ひぃっ! ご、ごごご、ごめ……うぅぅっ、違います、今のは違いますっ、謝ってなんかいないんです本当です、本当ですったら、ひーっ!」
「ありがとな、珊瑚」
ぽん、と珊瑚の頭に手を乗せる。
「……ふ、ふぇぇ?」
「おまえのおかげで目が覚めた。そうだよな、バカだったよな。やりもしないうちから何もできないって決め付けて、ほんとうにバカだったよな」
なんでだろう。こんな時だというのに、あたしの口元には笑みがこぼれていた。
きっとあたしは嬉しかったのだ。こんなにも親身になってあたしを叱ってくれる、妹分の存在が。
「黄介、みどり」
弟たちのほうを振り向いて、あたしは笑みを隠すことなく言った。
「行くぞ」
「「――うん!」」
ぱぁっと顔を輝かせて、ふたりの返事が重なる。
あたしはもう一度だけ珊瑚に礼を言って、それ以上もう脇目を振ることなく、力の限り部屋を飛び出していった。