#3話 宿命の親子喧嘩(前)
サミダレンジャーに総力戦を挑む。
獄道さんが社員全員にそう告げてから三日が経った。
その間、あたしたちが何をしていたかといえば、何もしていない。理由はふたつあった。
ひとつは、先日の一件で負傷した葉丘の回復を待たねばならなかったから。ゴクドーの切り込み隊長である彼なくしてサミダレンジャーと戦うことはできないという獄道さんの判断に、社員の全員が首を縦に振った。
怪人たる葉丘は常人に比べれば治癒の速度も凄まじいらしい(あたしと戦った時に怪我したはずの右腕も翌日にはすっかり治っていた)のだが、さすがにあれだけ派手な怪我となると完治までにはしばらく時間が必要なのだという。
理由のもうひとつは、獄道さんがサミダレンジャーへと送った果たし状の中身に由来する。それというのが『某日某所にてサミダレンジャーに決闘を挑む。応じてくれるならばその日まで自分たちはいっさいの悪行に手を出さない』というものだった。この果たし状に対してサミダレレッド、つまり父は応じることを選んだ。
指定された決闘の日は明日。
こうしてあたしたちゴクドー社員は、その日まで束の間の休暇を言い渡されたというわけだ。
* * *
で、やることがなかった。
この休みの間やっていたことといえば、珊瑚にご飯を食べさせて、珊瑚にご飯を食べさせて、あと珊瑚にご飯を食べさせて、それと珊瑚にご飯を食べさせたりしたくらいだ。あたしは珊瑚のエサやり係か。
しかしまあ餌付けの甲斐あってか、あれだけあった食材の山はそのほとんどが無駄になることなく珊瑚の胃袋に消えていった。最初のうちはずいぶん遠慮していたみたいだったが、珊瑚はあの細身でその実ものすごい大食漢だったことが判明した。黄介といい勝負できるんじゃないだろうか。
実りのない日々ではあったが、それでも料理をしている間はいつでも幸せなので、いい気分転換にはなった。……しかしやっぱり、根本的なところにある気持ちは変わらない。
ここ数日感、あたしの心境は揺れに揺れていた。
「青子さーん」
かつての家族と戦うということ。あたしが悪の組織に身を寄せると決めたときから、それは決して避けることのできなかった未来。
しかし、どんな気持ちで戦えばいいのか。前回町で偶然に出会ったときは逃げることだけを考えていたが、今回は正面からぶつからねばならない、正真正銘の果たし合いだ。
あたしには母を、黄介を、みどりを、敵として認める覚悟があるのだろうか。
「……青子さぁん?」
悩み続けるあたしだったが、しかし、そんな中で父に対してだけは他の三人とは違う思いがあった。
あいつは、敵だ。
それだけははっきりしている。戦えと言うのならすぐにでも戦う。あのわからず屋を正面からぶっ飛ばす機会を与えてくれるというのなら、喜んで飛びつきたい気分だった。
「青子さんってばぁー!」
「うおっ」
そんな感じで部屋でひとりぶつぶつと考え事をしていたら、いつの間にか目の前に珊瑚の顔があってたいそうびっくりした。いつから部屋にいたのだろう。
「もー、ずっと声かけてるのにひどいです」
「わ、悪い。もう学校は終わったのか?」
こくこく頷く珊瑚。ふわふわの髪の毛があたしの胸のあたりで揺れる。とりあえず撫でやすい場所に頭があったので撫でてみた。「にゃー」ごろごろと喉が鳴る。猫みたいだ。
平日の日中は学校に通っている珊瑚は、いつもは寮に帰ってきてからゴクドーの仕事を手伝っている。それで土日も一日中ゴクドーで働いているのだから、自分の時間というものがほとんどゼロに等しいわけで。中学一年生なんてそれこそ遊びたい盛りだというのに、本当に健気な子だと思う。まあ、ゴクドーでの仕事っぷりはさて置いて。
「休みの日くらい友達と遊んできたらいいじゃないか」
「んー……そうは言っても、仲良しの子たちはみんな部活やってますからね」
たまの休みになっても、友達は部活で遊べない。
それは小さな頃から正義の味方なんてものを強制させられてきたあたしにも、少なからず覚えのある状況だった。
「珊瑚は、他の子みたいに部活やりたいとか思わないのか?」
「思わないです」
即答。
「……なんでだ?」
「だってわたし、お仕事してるときがいちばん楽しいですから。あんまりお役には立ててませんけど」
にへらと口元を緩ませて続ける。
「わたし、ゴクドーのみんなが好きなんです。みんなわたしにすごく良くしてくれて、ほんとう、家族みたいな人たちだと思ってます。そんな人たちと毎日一緒にお仕事できるんだから、そりゃもう文句なしにしあわせですよ」
満面の笑顔から紡がれたその言葉は、少なからずあたしに感銘と衝撃を与えた。
すごい。この子は本心からそう思っている。本当にすごいと思った。同時に、少しでも境遇が似ていると思った自分が恥ずかしくなった。
「……珊瑚、今日の夕飯、何がいい?」
「え、いやあの、最近作ってもらいっぱなしで悪いですよ」
「いいんだよ。あたしが作りたいだけなんだから」
「……それじゃあ、えっと、その。肉じゃががいいです」
珊瑚はちょっとだけ申し訳なさそうに、けれど口元を緩めながらそう答えた。
「わかった。じゃあ、ちょっと材料買いに行ってくるから」
「あ、おつかいならわたしが行くですよ」
「近所のスーパーだし、そのくらい大丈夫だよ。珊瑚は宿題とかあるだろ。今のうちに片付けておいたらいい」
「う……忘れてましたです。数学と英語でものすごいのがあったんでした」
「わかんないとこあったら後で教えてあげるから」
「青子さんは女神さまですー!」
両手をすり合わせる珊瑚を部屋に残して、あたしは寮を出た。
少しだけひとりになりたかった。
……と、思っていたのだが。
スーパーで買い物を済ませている途中、出会ってはいけない相手と出会ってしまった。
「わ、ねーちゃん!?」
「こ、黄介っ?」
通路と通路の出会い頭。
ちょうど向こうも買い物の途中だったらしく、片手にぶらさげた買い物カゴの中には肉やら野菜やらが確実に多すぎるくらいたっぷりと詰め込まれていた。
「……」
「……」
しばし無言で互いの顔を見つめ合う。
そのうち黄介は、いひひと口元を綻ばせながら、
「久しぶりじゃん、ねーちゃん」
心底から嬉しそうに、そう口にした。
* * *
「ねーちゃんが出ていってから、メシの支度がすげー大変なんだよね」
スーパーからの帰り道、あたしたちはふたり肩を並べて歩く。
食事当番だったあたしがいなくなれば、当然ながら他の誰かが穴を埋めなければならない。それで黄介はおつかいに来ていたのだと言う。
「それにしたっておまえ、あれは買いすぎだろうが」
「量とかよくわかんねーんだもん。少ないよりは多いほうがいいっしょ」
自信満々に返す。いやまあ、あたしもあんまり人のことは言えないが。
そんなやり取りを交わしながら岐路を辿っていく。最初のうちはそんな感じで会話を続けられていたものの、程なくして話題は途切れた。
沈黙の中でちらちらとこちらを窺ってくる黄介は、あたしからの言葉を待っているのかもしれないと思った。
「……みんな、元気でやってるか?」
それは勝手に家を出ていったあたしが聞くべきことではないのかもしれない。でも、それ以外に話題が見つからなかった。
「元気か元気じゃないかって言ったら、あんまり元気じゃないかな。なんせ昨日の今日だしさ」
「……そうか」
なんて返したらいいかわからない。じゃあ聞くなっていう話だ。ごもっとも。
「みどりも母ちゃんも寂しがってるよ。あと、父ちゃんも」
「……え?」
聞き間違いかと思った。なんでそこにあの父の名前が挙がるんだ。
「みんな何も言わないんだけどね。でも父ちゃんも、ねーちゃんが出ていってからなんだか元気ないように見える」
「嘘だろ」
「いや、マジマジ。毎晩の食卓から父ちゃんの怒鳴り声が五十パーセントはカットされたもん」
「単に怒る相手がいないからだろ、それ」
「だからじゃん」
「……」
「父ちゃん、この頃はちょっと疲れてるのもあるかも。ねーちゃんのぶんまで倍働いて、メシ作ってるのもだいたい父ちゃんだし。だからたまにはおれが作ってあげよっかなーって思ってね」
なんだそれ。どう頑張って想像力を働かせても、あの父が家族のためにキッチンに立っているところを思い浮かべることができない。
しかし、先日見た父の様子は確かに変だった。言われてみれば疲れているようにも見えたし、元気がないようにも見えた。
その原因が、あたしが出ていったせい?
冗談抜かすな。
「……黄介、料理なんかできんのかよ」
考えるのも嫌で、話題を変える。
「小学校のときに家庭科で習ったくらいなら。ちなみに通知表はずっとアヒルでした」
「ダメだろそれ」
「そうは言ってもさー、最近の父ちゃん、なんか見てられないもん」
溜め息を吐きながらそう語る黄介の表情は、心底から父を心配しているものだった。
あたしにはわからない。父がそんなに頑張っていることも、黄介がそんな父をここまで心配していることも。
だって、そんなの自業自得じゃないか。あたしに無理やり正義の味方を押し付けて、こっちが好きでやっていたこととはいえ、食事の支度だってぜんぶあたしに任せっきりで。そのツケが自分に回ってきているだけじゃないか。
「黄介は、親父のことが嫌いじゃないのか?」
気が付けば、そんな言葉を口にしていた。
「嫌いじゃないよ、べつに」
黄介は少し困ったような顔を浮かべて答えた。
「いやま、さすがに頑固すぎると思うけどさ。ねーちゃんが父ちゃんを嫌うのだって仕方ないと思うし。あれはまあ、自業自得だよね」
「……じゃあ、なんで」
「なんでもなにも、父ちゃんだもん。人の話聞かないし怒鳴ってばっかだけどさ、そんでも世界でたったひとりの父ちゃんだし。悪いところは諦めるしかないよね。好きかどうかって言われたら微妙だけど、嫌いかどうかって言われたら嫌いじゃないよん」
父に対する黄介の気持ちを聞くのは、これが初めてのことだと思う。
――世界でたったひとりの父ちゃん。
あたしは、あの男のことをそんな風に思ったことなんて、これまで一度もなかった。
「それにほら、あんなんでも正義の味方やってるときだけはカッコいいじゃん。おれ、将来は父ちゃんくらい強くなりたいんだ。いまはまだぜんぜんダメだけどさ、そのうちねーちゃんよりも強くなる。そしたら父ちゃんだっておれのほうを跡継ぎにするって言うかもしれないっしょ? そうなったらねーちゃんが料理人になるのだって認めてもらえるかもしれないし。どうよこれ」
「……おまえ、そんなこと考えてたのかよ」
「まね。ねーちゃんと父ちゃんの仲が悪くなったくらいの頃からちょっと思ってた。うちの問題はさ、おれが家を継いだらそれでだいたい解決なんじゃないかなって」
「それでいいのか、黄介は」
「うん。そうしたいと思ってる。前も言ったと思うけど、おれ、正義の味方やってるのは嫌いじゃないから」
にひひと白い歯を見せて笑う黄介。迷いのない笑顔。本当にこいつは、いつの間にこんなにいろいろ考えるようになったんだろう。
「だからねーちゃん、覚悟してろよ。おれが父ちゃんに認めてもらうには、まずねーちゃんを越えなきゃいけないんだからさ」
まっすぐにあたしを見つめる瞳。いい顔だな、と思った。
こいつならきっと、いい正義の味方になれる。あたしなんかと違って。
「……おまえなら、きっとすぐだよ」
「いやー、ねーちゃんの壁は厚いよ。なんてったって男顔負けのバカ力あだぁっ!」
いちおう気にしてるので殴っておいた。頭をさすり、涙目になりながら、それでもなぜか黄介は嬉しそうだった。
それからはまた他愛もない話をしながら歩いた。しばらくしてゴクドー社員寮が見えてくる。そうか、あのスーパーからだとここが通過地点になるのか。傍目には悪の組織に関係あるような建物には見えないから、あそこがあたしの住んでる場所だって知られたところで問題はないのだが。
伝えるべきだろうか。あたしが悪の組織で働くようになったということを。
「あのさ、ねーちゃん」
その場にぴたりと足を止める黄介。そんなことはないはずなのに、心を読まれた気がした。
「明日、でっかい戦いがあるんだ。こないだゴクドーからうちに果たし状が届いてさ」
「……そんな戦い、行かなきゃいい。どうせまた親父が無理やり戦えって言ってきたんだろ」
できることなら、そうしてくれるのが一番だと思った。
それでも黄介は小さく首を横に振って。
「ううん。父ちゃん、受けるかどうかはおまえらに任せるって言ってた。おれたちが来なくても自分はひとりで戦うからって」
信じられなかった。あの父の口からそんな言葉が出るなんて。さっきから黄介の話に出てくる父は、あたしの知っている父とずいぶん違うじゃないか。
「ちゃんと家族会議して、ひとりひとりが自分の意思で決めたよ。みどりだってちゃんと戦うって言った。今回はちょっとマジっぽいし、ねーちゃんもいないし。だからそのぶんおれが頑張らなきゃね」
にっと浮かべた笑顔の裏側には、強く確かな覚悟が感じられた。
返すべき言葉が頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
あたしにいったい何が言えるだろう。言えたとしてせいぜい、がんばれなんていう重みのない言葉くらい。
「……ん。そろそろ戻らないとメシの支度に間に合わないや。んじゃおれ、もう行くね」
黄介は背中を向けて、その場からたっと駆け出していく。
「……黄介!」
思わずその背中を呼び止めていた。
あたしがゴクドーに行く覚悟を決めた晩にも、こんな光景があった気がする。
「……もしだ。もしの話だが」
「ん?」
「もしもあたしが黄介の敵になったら、……黄介は、どうする?」
すぐには返事は返ってこなかった。
いつになく真剣な黄介の表情が、あたしの瞳をじっと覗き込んでくる。
「なんでそんなこと聞くの?」
「……」
当然の質問だった。自分でさえそう思う。どうしてあたしはこんなことを聞いたのだろう。
でも聞かずにはいられなかった。
それは、あたしがあたし自身にずっと問い続けていること。
「もしもの話だよね」
「ああ、もしもだ」
そんな前置きに、果たして意味はあるのだろうか。
だが、黄介は念を押した後で――
「本気で戦うよ」
はっきりと、そう言った。
あたしには出せなかった答えを、こんなにもはっきりと言った。
「さっきも言ったよね。おれはねーちゃんを越えなきゃいけないんだよ。だからもしねーちゃんがおれの敵になるようなことがあれば、本気で戦う。恨みっこなしでね」
黄介は屈託なく微笑むと、
「だって、戦うのと恨むのは違うから」
なんの臆面もなく、そんなことを口にしてのけた。
ずん、と胸を撃たれるような衝撃。
その一言で、心の中の迷いが一気に溶けていった気がした。
……なんだよ。教えられてばっかりじゃないか、この弟には。
「そんじゃおれ、そろそろ行くね」
そして黄介は、この日いちばんの笑顔を浮かべて。
「ねーちゃんも自分の仕事、がんばってよな。うちのことはおれに任せてさ!」
そう言って、今度こそ呼び止める間もなく走り去っていった。
* * *
寮に帰り、夕食を終えて入浴も済ませ、裏庭に夕涼みにでも行こうかと廊下を歩いていたときのこと。
角を曲がったところで、個人的にあまり会いたくない人とばったり出会った。
「……ちっ。五月雨か」
「……どうも」
病み上がりの葉丘だった。出会い頭に舌打ちってどうなんだよ。それでもいちおう、社交辞令で挨拶くらいはしておくことに。
「もう体のほうは大丈夫なんすか」
「当然じゃボケぇ。あの程度でワシがくたばるわけないじゃろが」
見ると、折れていたはずの前歯もすっかり元通りに治っている。どうやら怪人の治癒力というものは本物らしい。
「……ふん。まあ、ちょうどええわ」
「は?」
いきなりわけのわからないことを言われたと思ったら、襟をぐっと掴まれた。
「黙って付き合えや」
そのまま怪人の万力でずりずりと引きずられていく。じたばたともがいてみるが拘束はまったく解けない。まさかまた決闘だろうか。冗談じゃないぞ。
しかし首根っこを引きずられて連れていかれた先は、意外にも小暮さんの部屋だった。
「呼ばれたきに、来てやったぞ」
「ええ、こんばんは。五月雨さんも一緒ですか?」
「こんなやつでも、キサンとサシよりはマシじゃろう。それよりさっさと出すもん出しや」
横柄な態度で部屋に上がりこみ、当然のようにその場にどっかり座り込む葉丘。そんな行動に対しても、小暮さんは顔色ひとつ変えずに応対する。できた人だ。
彼がキッチンのほうから持ってきたのは人数分のグラスと――それから、日本酒の一升瓶だった。
「五月雨さんも座ってください。それと、もし良ければ一緒にどうですか」
「おう、そうじゃ。キサンも飲めや。ワシの快気祝いじゃ」
……酒盛りかよ。
「いや、あたし、まだ未成年ですんで」
「あぁぁぁぁぁん!? ワシの酒が飲めん言うんかぁぁぁ!?」
「僕の酒ですけどね」
冷静に突っ込みを入れる小暮さん。気が付けばあたしはその場に座らされていた。
「おう、それでいいんじゃ。わかったら五月雨、さっさと注げや」
「……アルハラっすよそれ」
「んなもん知るかボケ。酒も飲めずに悪の組織が語れるか」
「はぁ」
溜め息を吐きながら葉丘のグラスに日本酒を注ぐ。まあでも、こうして上司にお酌をするのもふつうのOLっぽいかもしれない。理不尽に耐えるのも立派な社会人の仕事だ、たぶん。
「つーか小暮さんと葉丘さんって、仲悪いんじゃなかったんすか?」
「あぁん? なんでそうなるんじゃ」
「いや、だって……」
このあいだの決闘であたしを助けてくれた小暮さん。その時のふたりの様子はとても穏やかなものとは言えなかったはずなんだけれど……。
「いつも無茶ばかりする葉丘の世話は僕の仕事ですからね。そう見えるのも仕方ないかもしれません」
「誰がいつキサンの世話になったんじゃ」
「あなたが自覚しきれないくらいには」
「……ほぉ? いい度胸じゃのう、表出よるか?」
がたりと席を立つ葉丘。野獣のような瞳と氷のような視線が狭い部屋の中で交錯する。
ひとしきり睨み合ったのち、葉丘は鼻を鳴らして再び腰を下ろした。
「ふん。今日くらいは見逃したるわ。おら五月雨、さっさと小暮にも注いだれや」
「はぁ……小暮さん、どぞ」
「ありがとうございます」
丁寧な仕草でグラスを差し出してくる小暮さん。
「では、お返しに」
「いや、だからあたしは……」
「先輩に酌されて飲めん言うアホはゴクドーにはおらんぞ」
無表情に酒を注いでくる小暮さんと、こわい顔であたしを睨んでくる葉丘。とんでもない圧力だった。化学反応的な。
けっきょくあたしのグラスには、なみなみと中身が注がれることになった。
「それでは、ゴクドーの未来に乾杯」
「ワシの快気祝いと違うんか。ふん、まあええわ」
かちりと打ち鳴らされる二つのグラス。それから無言でこちらに向けられる四つの瞳。
「……乾杯」
仕方なく手を差し出して、待ち受けるふたりのグラスと打ち合わせる。
なんでこんなことになったんだろう。
小一時間後。
「サミダレンジャーがなんぼのもんじゃぁ! ワシらは天下無敵のゴクドー様じゃぞ!」
「そうですよ! その通りです! もっと言ってください葉丘!」
「……」
できあがっていた。
さっきまであれだけピリピリしていたふたりは、今やすっかり顔を赤らめて飲めや歌えやのお祭り騒ぎだ。葉丘はともかく、酔った小暮さんが新鮮すぎである。
あたしは少しずつグラスのふちをなめながら、そんなふたりを遠い目でぼんやり見つめていた。
「なぁに辛気臭い飲み方しとんじゃ五月雨ぇ! 一気にいけや一気に!」
すると、唐突に葉丘があたしのグラスを持ち上げてくる。
「んーっ、んーっ!」
「僕も手伝いましょう」
「んんんーーーっ!?」
今度はおもむろに小暮さんに鼻を押さえられる。息ができなくなったあたしの選択肢は、もはやグラスの中身を飲み干す以外に残っていなかった。
「んっ……んぐっ……おごっ……!」
「おう、いい飲みっぷりじゃのう。最初からそれくらい飲めや」
酸欠で気絶する寸前、どうにかこうにか中身を干すことに成功した。日本酒の一気飲みはさすがに洒落にならず、呼吸するたび喉の奥が焼け付きそうになる。
「殺す気かよあんたらは!」
「おや、つまみが無くなったみたいですね」
「なんじゃ、もう切らしたんか」
聞いてないしよ! これだから酔っ払いは!
「おい五月雨、ちょっとコンビニ行って適当につまみ買ってこいや」
「……はぁ。いいっすよ、それだったら何か作るんで」
席を立ってキッチンに向かう。少しでもあの場から離れられるならもうなんでもいい。
「小暮さん、冷蔵庫の中身使いますけどいいですか」
「ご自由にどうぞ。それでは葉丘、恒例のアレやりますか」
「ええじゃろ。通算成績二百六十五勝二百六十五敗、今日こそ決着つけたるきに」
「負けませんよ。では、いざ尋常に――」
「叩いて――」
「かぶって――」
「「――ジャンケンポン!」」
バキッ! ドガァッ!
「ぐおおおおっ……くっ、やりおるのう、小暮。もう一本じゃ!」
「いくらでも受けて立ちます。叩いてかぶって――」
「「――ジャンケンポン!」」
ドキャッ! ゴシャァァァ!
「ぐああぁぁぁぁぁぁ!」
「はっ、これで貯金はチャラじゃ。おらぁ、さっさと立てや小暮ぇ!」
「……ふん、言われなくても! さあもう一本!」
「………………」
見なかったことにして、冷蔵庫を確認する。男の一人部屋の割に中身は意外と充実していた。きっとふだんから自炊してるんだろう。
ありもので適当につまみを作り、激闘中の仲良しふたりのもとへお皿を持っていく。
「できましたけど」
「お、おう、そうか。よし小暮、一時休戦じゃ」
「はぁ、はぁ……わかりました、いいでしょう。命拾いしましたね」
「それはこっちの台詞じゃ……くっ、体の節々が痛みよる……」
全身打ち傷だらけになりながらテーブルに戻ってくるバカふたり。あんたら明日果たし合いじゃないんすか。
「……なんぞ、いい匂いじゃな」
「本当ですね」
並んだ三つの小皿をしげしげと眺める両名。
「食べるならさっさとどうぞ、冷めますんで」
「ぬ、お、おう」
普通に言ったつもりなのに、なぜだか葉丘は若干腰が引けていた。この人があたしにこんな態度を見せるのなんて初めてだ。あたし、そんなに怖い顔してただろうか。
「……まずはこっちからじゃな」
最初に葉丘が箸をつけた。
もくもくと咀嚼する。飲み込む。箸を置く。なぜか正座して、あたしのほうを向き直る。
そしてくわっと目を見開いて――
「ぬおぉぉぉぉぉぉぉぉ! なんじゃこりゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「なんじゃと言われても。イワシの青じそ巻きっす」
「こ、これがイワシじゃと……? バカな……バカなぁ……っ!」
声を枯らして叫ぶ葉丘に、さすがの小暮さんも驚きの表情を見せる。
「そ、そんなにおいしいんですか?」
「おうおうおう! ええからキサンも食ってみい!」
「ほう……ではこちらを」
今度は小暮さんが空いている器に箸を伸ばす。
そして咀嚼から正座まで葉丘とまったく同じ一連の流れを行ったのち、小暮さんは無表情でぽつりと呟いた。
「五月雨さん」
「はい」
「土下座させてください」
しゅざぁっ! と凄まじい勢いで小暮さんの頭が床に吸い込まれていった。
「参りました……ただの卵焼きかと思えば、中からあふれ出すぷちぷちとした感触とほんのりとした香ばしさ……いったいこれは……?」
「海苔と明太子を包んだだけっすよ。意外と合うし栄養のバランスもいいんですよね」
「……葉丘、僕たちは今……まさに奇跡の体現者となっている……」
「……残りの一皿、これは……鶏のささみか?」
ふたりの箸が同時に伸びる。その先にあるのはささみを軽く湯通しして柚子胡椒を添えただけのもの。ぶっちゃけ、調理時間なんてものの一分くらいで済む手抜き料理。
それでもふたりはぶるぶると体を震わせると、ほとんど同時にばたりと倒れ込んで天井を仰ぎ見た。
「のう……小暮……」
「……なんですか、葉丘?」
「争いとか……勝ち負けとか……馬鹿馬鹿しくなってこんか……?」
「奇遇ですね……僕もたった今、そう思っていたところですよ……」
両名の頬には熱い涙が伝っていた。ものすごい光景だった。
「それが美味かったとしたら素材のおかげだと思いますけど……実際、すごくいい肉でしたし」
「関係あるかい……美味いもんを食って感動した、そこにそれ以上の言葉は必要ないじゃろ……」
「同感です……五月雨さん、ありがとうございました。無駄な争いを続ける僕たちの目を覚ましてくれて、本当にありがとうございました」
なんか猛烈に感謝されていた。とりあえず、どういたしましてとだけ返しておく。
それからは非常にまったりとした空気の中での宴席となった。葉丘はやけに大人しいし小暮さんもやたらにこにこしてるし、逆に不気味だ。
空っぽになったつまみのお代わりを作って持っていったときに、あたしはふと気になったことを聞いてみた。
「葉丘さんと小暮さんはどうしてゴクドーに入ったんすか?」
ぴたりとふたりの箸が止まる。
「……なんでそんなことを聞くんじゃ」
「いや、ただ気になっただけなんすけど……獄道さんも珊瑚も、ここの人たちってみんないい人じゃないすか。なんか、想像してた悪の組織っていうのとぜんぜんイメージが違ってたんで」
「悪の組織はみんな悪人じゃなきゃいかんのか?」
「そうじゃないっすけど。本当にただ気になっただけで」
「答えてあげればいいでしょう、葉丘。そのくらいはお礼ということでいいじゃないですか」
小暮さんからの助け舟で、不機嫌になりかけていた葉丘の表情がわずかに緩む。
数秒、じっとあたしを睨んでから。
「……ワシらはみんな、行き場のない人間だった」
ひとつ小さく溜め息を吐いて、訥々と語りだした。
「仕事を無くしたり、夢を諦めたり、住む場所を失ったり、ゴクドーにいるのはそんなやつらばかりじゃ。山辺のように親に捨てられたやつもいる。誰しもみんな、社会から取り残された連中ばっかりじゃ」
「……葉丘さんたちもっすか?」
「……」
葉丘は答えない。
だが、その沈黙がそのまま答えだった。
「そんな僕たちを拾ってくれたのが、ボスなんです」
小暮さんに引き継がれた言葉は、前に珊瑚に言われたこととほぼ同じものだった。
「……ただのゴロツキだったワシに再び居場所を与えてくれたオヤジには、一生かけてでも恩返ししたいと思っとる。ワシはオヤジの育て上げてきたゴクドーを一流の悪の組織にしてやりたいんじゃ。だが気持ちだけでは足りん。結果がいる。だからこそ、今度の戦いは絶対に負けられないんじゃ」
「気持ちは誰しも同じです。……五月雨さんも、何か理由があったからこそ、サミダレンジャーからゴクドーへ移ってきたのではないですか?」
その通りだった。サミダレンジャーにいられない理由があって、そこに獄道さんが声をかけてくれた。その通り。あたしもこの人たちと一緒だ。
「言うとくが、ワシらは本気でキサンの家族を叩き潰すぞ。もし足を引っ張るようならキサンも敵じゃ。中途半端な気持ちの人間はゴクドーにはいらん」
「……わかってます。今のあたしはもうサミダレンジャーじゃない。悪の秘密結社ゴクドーの一員だ」
「……本気じゃな?」
しっかり目を見て頷く。
今日の昼間、黄介の言葉を聞いたときに、あたしの心は決まった。
あいつが本気で戦うと言ったんだ。なら、あたしも本気で戦わなければいかんだろう。姉として。あいつが越えてやると誓った、かつてサミダレブルーだった者として。
「五月雨、もう一杯注げや」
飲みすぎじゃないかと思ったが、言われるがままに葉丘のグラスに日本酒を注ぐ。
それから葉丘はおもむろにあたしから一升瓶を奪うと、今度はその中身を小暮さんのグラスに注いだ。
「小暮」
男ふたりが目と目で合図する。それだけで小暮さんは葉丘の言いたいことを察したのか、今度は自分が一升瓶を受け取って、あたしのグラスに注いだ。
円環のように、互いが互いに酌をする形になる。
「誓いの杯じゃ」
グラスを握った葉丘が、低い声で告げた。
「オヤジに受けた恩に報いるために。ゴクドーのために。明日、ワシらは――絶対に、勝つ」
一瞬、厳かな沈黙があって。
三つのグラスが、高らかな音とともに打ち鳴らされた。