#2話 新入社員・五月雨青子(後)
ゴクドー社員寮での初夜が明けた。ぴりりりとやかましく朝六時を告げる目覚まし時計の頭を叩いて、重いまぶたを開く。
けっきょく昨晩は布団に入れたのが一時で、眠りに就けたのはそれから三時間後の午前四時。睡眠に充てられた時間はたったの二時間。いくら早起きは慣れていると言っても、さすがに体のほうが悲鳴をあげていた。
それでも今日から社会人、これしきのことで弱音は吐いていられない。根性で体を起こして、畳に敷いたせんべい布団を片付ける。
ちなみに今日は日曜日だが、悪の組織に休日というものはない。だからこそ正義の味方もほとんど年中無休だったわけで。
「青子さーん! おはようございますでーす!」
部屋の外から明るい声が聞こえてきたのは、あたしがちょうど着替えを終えた頃だった。扉を開けると、ウェーブのかかったふわふわの髪を揺らした珊瑚が、にこにこと笑いながらそこに立っていた。
昨晩はストレートだったけれど、乾くとこうなるのか。くせっ毛なのだろうか。なんかぽわぽわしてて可愛いな。
「おはよ」
「ですです」
その屈託のない笑顔を見ていると眠気もどこかに飛んでいってくれる気がする。朝早くから元気すぎるほど元気な珊瑚は、もしかしたら彼女なりに昨日のことを気遣ってくれているのかもしれないと思った。
「そういや今、青子って呼んだか?」
「あ、は、はい。お気に触りましたでしょうか」
びくりと肩を縮こめる珊瑚に、あたしは微笑を返して言った。
「いや、あたしもそのほうが嬉しいな。これからも名前で呼んでくれ」
「はいですっ!」
ひまわりみたいな笑顔。すっかり懐かれた感じ。まるで新しく妹ができたみたいだ。
……妹、か。
ゴクドー本社は、ぱっと見た感じふつうの会社みたいだった。
秘密結社というくらいだからよほどわかりにくい場所にあるのかと思っていたら、駅前のビル通りの一画にふつうに建っていた。どこまでもふつうだった。
「木を隠すなら森の中、だそうですよ」
珊瑚がそう教えてくれた。確かに、誰もこんなところに悪の秘密結社があるなんて思わないだろう。はぁぁ、と感心しきりのあたしである。
外装が会社みたいなら、内装もふつうの会社そのもの。今は無人だけど受付があって、エントランスの端っこには各階へ通じるエレベーターが設置されている。
「こっちです、青子さん」
けれどエレベーターには目もくれずに、珊瑚は行き止まりの壁に向かって歩いていく。
ぽちっ、と何もない壁に人差し指を押しつける。
うぃーんと音をたてて、壁が真ん中から開いた。
……なるほど、秘密結社なわけね。眼前に現れた隠しエレベーターに乗って、珊瑚と一緒にビルの地下へと向かう。
カモフラージュはここまでで、その先はほの暗い不気味な通路が続いていた。道行きの途中を照らすのは、電気ではなく通路いっぱいにずらりと並んだ蝋燭。これって毎日の手入れとか大変なんじゃないだろうか。最初にそんなことを思ってしまったのも主婦の性だろうか。
通路を抜けると、奥には廃屋のような退廃的な雰囲気が漂う空間が広がっていた。元からのデザインなのかどうなのかは知らないが、とりあえずすごく悪の組織っぽい。
中にはすでに数十人ほどの人間が集まっていた。昨晩寮で見かけた顔もいくつかある。若い人や女性もぽつぽつと見受けられるが、その大半は三十代以上の男性だ。
「おはようございまーすっ」
煮こごりみたいに淀んだ空気の中でも珊瑚は元気よく挨拶する。これまで険しい顔を浮かべていらした社員のみなさんも、これには破顔して挨拶を返す。なるほど、ここで最年少らしい珊瑚は彼らにとってはちょうど娘みたいな存在なのだろう。
が、その隣にいるのがあたしだということに気付いた瞬間、その場にいる全員の顔色がさっと変わった。
「……はよっす」
珊瑚ちゃんに遅れて挨拶をするも、誰からも返事は返ってこなかった。
そりゃそうか。昨日の今日であの騒ぎだ。おまけにあたしには元正義の味方という不名誉なレッテルもあるし、このリアクションも仕方ないかと思っていたら――
「「「「「――おはようございます、姉さんッ!!」」」」」
その場のほとんど全員が背中で腕を組み、胸を張りながら、まるで応援団さながらに声を揃えて、そんな挨拶をする。
呆然とするあたしの袖を引きながら、珊瑚がくすくす笑って耳打ちしてくれた。
「昨日言ったじゃないですか、うちは能力主義だって。葉丘さん相手にあれだけ戦える人、うちには小暮さんくらいしかいませんからね」
「……いや、そう言われても」
どうにも居心地が悪くて落ち着かなかない。きょろきょろと視線をさまよわせていると、ふと、とある人物と目が合った。
「……いい気なもんじゃのう、五月雨ぇ?」
話に上っていた張本人。チンピラ座りであたしにガンを飛ばしてくださっている、葉丘某その人だった。
「……まあ、おかげさまで」
「あぁぁぁぁぁん!?」
第一印象からセカンドコンタクトまでは互いに最悪のようだった。勘弁してくれよと思いながらしばらくその場の空気に堪えていると、それまで私語でざわめいていた周りがだんだんと静まり返っていくのに気付いた。
みんな部屋の奥のほうでずらりと整列して、無言でまっすぐ前を見つめている。先ほどまでその場にしゃがみこんでいた葉丘ですら、きちんと背筋を伸ばして立ち上がっている。
「……な、なんなんだ?」
同様に列に加わる珊瑚の後ろに立って、あたしは小声で尋ねてみた。
「もうすぐ八時半ですから。京一郎さんの出勤時間、いつも絶対狂わないんで」
「京一郎さん……?」
誰だっけそれと思ったのも束の間、その場の全員がざっと背後を振り返る。
こつこつと靴を鳴らして部屋の中に入ってきたのは――獄道さんだった。
「「「「「「「「「「おはようございます、(ボス)(社長)(オヤジ)(首領)(京一郎さん)!!」」」」」」」」」」
先ほどのあたしに対する挨拶もすごかったが、それとはさらに比べ物にならない一丸の挨拶が獄道さんへと向けられる。呼び名ぜんぜん統一されてないけど。
「ええ、おはようございます。今日は朝礼の前にひとつ。もうご存知の方も多いとは思いますが、皆さんに新入社員を紹介します」
今日も変わらず真っ白なスーツにサングラスという出で立ち。獄童さんは部屋のいちばん奥のほうに立つと、あたしのほうを見て軽く手招きをした。
「簡単に自己紹介だけ、お願いできますか」
「……はい、わかりました」
全員の視線があたしに集まる。珊瑚も小暮さんも葉丘も、みんながあたしの一挙一動に注目している。ぴんと張り詰めるような鋭い空気。
そこには珊瑚たちみたく歓迎してくれる人もいれば、あるいは葉丘のようにあたしなんて認めないっていう人もいるかもしれない。
でも、その視線はどれもみんな同じだった。誰もが真剣に、これから新しく一緒に働く『仲間』の挨拶を聞こうとしている。
あたしは心を落ち着けて、しっかりと通る声で自分の名前を口にした。
「五月雨青子と言います。これからよろしくお願いします」
しんと静まり返った部屋の中。
――ぱち、ぱちぱちぱち。
先陣を切った珊瑚を中心に、少しずつ拍手の渦が広がっていった。小暮さんも無表情ながら手を叩いてくれている。その様子を見て、緊張の糸がほんの少しだけ緩んだ。
「……ふん」
葉丘はやっぱり機嫌が悪そうだった。この人との確執はなかなか根が深そうだ。
けれどまあ、昨晩の騒動があったからこそ、こんなに早く他の人にも認めてもらえたわけだし。今のところは前向きに考えておくことにしよう、うん。
「五月雨さん、ありがとうございました。それでは、いつも通り朝礼を始めようと思います」
朝礼か。何するんだ?
――そう思っていた瞬間、空気がざわりと胎動した。
「ひとぉぉぉぉーーーーーつ! 一日一悪忘るべからずッ!」
「「「「「「「「「「ひとぉぉぉぉーーーーーつ!! 一日一悪忘るべからずッ!!」」」」」」」」」」
獄道さんの迫力溢れる呼び声に、社員全員がお腹の底から声を絞り出すように復唱を返す。
ちょ、朝礼? これが?
「ふたぁぁぁぁーーーーーつ! 誇りを持って悪と成せッ!」
「「「「「「「「「「ふたぁぁぁぁーーーーーつ!! 誇りを持って悪と成せッ!!」」」」」」」」」」
きょろきょろ周りを見回すあたし。意味がわからなくてもとりあえず合わせておかないといけない雰囲気。慌てて声を振り絞る。
「みぃぃぃぃーーーーーっつ! 必ず最後に悪は勝つッ!」
「「「「「「「「「「みぃぃぃぃーーーーーっつ!! 必ず最後に悪は勝つッ!!」」」」」」」」」」
昔流行ったラブソングの歌詞みたいな台詞を、あたしも必死になって叫んだ。
「よぉぉぉぉーーーーーっつ! 悪を語るは口より背中ッ!」
「「「「「「「「「「よぉぉぉぉーーーーーっつ!! 悪を語るは口より背中ッ!!」」」」」」」」」」
「よろしい! 今日も一日頑張っていきましょう!」
「「「「「「「「「「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーッ!!」」」」」」」」」」
その言葉を合図に、けっきょく何がなんだかわからないまま、社員のみなさんは猛然と部屋から飛び出していってしまわれた。
暗い部屋の中に残されたのはあたしと獄道さん、そして珊瑚の三人だけになった。
「驚かせてしまったようですね。まあ、うちは毎朝こんな感じです」
獄道さんは漆黒のサングラス(とスキンヘッド)をきらりと輝かせて、楽しそうにそう言った。
「京一郎さんっ、あのっ」
「おや。珊瑚はもう五月雨さんと仲良くなったのですね」
「ですですっ」
「そうですか。わかりました、それでは今日のところは二人でペアを組んで行動するといいでしょう。五月雨さんに組織員のノウハウを教えてあげてください」
「はいですっ!」
「頼みましたよ、珊瑚」
獄道さんの大きな手のひらが珊瑚の頭を撫でる。ぴんと背中を伸ばしながらも、目を細めて気持ちよさそうに手のひらを受け入れている様子が微笑ましい。横に並べば違和感しかないツーショットなのに。
「よーし。それじゃ行きましょう、青子さんっ」
「頑張ってきてくださいね」
口元を緩める獄道さんに頭を下げて、あたしと珊瑚は本日の仕事に繰り出していった。
* * *
「わたし、両親いないんですよ」
ゴクドーの外に出たところで珊瑚に獄道さんとの関係を聞いてみたら、開口一番そんなヘヴィな言葉が飛び出してきて即座に後悔するあたしだった。
「……悪い。謝っても仕方ないだろうけど」
「あはは、いいんですよべつに。事故とか離婚とかじゃないですし」
しかし珊瑚はにこにこ笑いながら、ちっとも重さなんて感じさせない口調で自分の身の上を語ってくれた。
「捨てられたんです、わたし」
「…………」
いや、それはさ。
事故とか離婚とかより、もっと重い話なんじゃないのか。
「物心ついてすぐくらいですかね。それから三年くらいは孤児院で育ったんです。だから両親の顔とか、あんまり覚えてなくて。でも、今から五年前になりますかね。京一郎さんがわたしのことを引き取ってくれたのは」
「……だから、八歳のときからゴクドーで?」
「はい。まさか悪の組織の社長さんだとは思ってなかったんですけどね。でもわたし、京一郎さんにはすごく感謝してるんです。住むところを与えてくれてご飯を食べさせてもらって、そのうえ学校にも行かせてもらって。でも、これだけもらってばっかりなのに、わたしには何も返せるものがなくて。だからせめてお仕事だけでも手伝わせてもらいたいと思って……って、うわぁどうしたんですか青子さんっ」
だきっ。
あたしは珊瑚をぎゅっと抱きしめた。
「あ、青子さん……くる、くるしいですです」
我慢できずに肩を震わせる。どうしてこんな子を捨てたんだよ山辺夫妻。ちょっと顔出せあたしが一発ぶん殴ってやるから。
「……青子さん」
そんなあたしの想いが伝わったのか、それまで当惑気味だった珊瑚の表情が少しずつ微笑に変わっていく。あたしたちはしばし駅前のビル街で、ひしと固く抱き合った。
「(……ひそひそ)」
「(……ざわざわ)」
行き交う人たちにめっちゃ見られた。そりゃそうだ。
「……えっと。仕事だな、仕事」
「はいです。勤労しましょう」
気持ちを切り替えて、珊瑚とふたり朝の光洋町を練り歩く。練り歩くのはいいんだけど、いったい悪の組織員って何をすればいいんだろうか。
「もちろん、悪いことをします」
珊瑚は薄い胸を張りながらそう言うと、道行きの途中にある公園に入っていった。折りしもそこは、あたしが獄道さんから組織への誘いを受けた公園だった。
さらに珊瑚が向かったのは公園内のトイレだった。我慢でもしてたんだろうか。
「着替えましょう」
「着替え?」
「ユニフォームです」
青子さんのぶんです、とオレンジ色の布切れを渡される。どこかで見覚えのあるどぎついカラー。畳まれた布を開いてみると、それはやっぱり――
「……ここで着替えるのか?」
「ゴクドーから着て出てきたら、せっかく場所を秘密にしてるのがバレちゃいますから。現地着替えが基本です。チアガールみたいですよね」
そう言って個室に入っていく珊瑚。すぐに聞こえてくる衣擦れの音。あたしも仕方なく着替えることにした。
アクドーと呼ばれる、オレンジ色の全身タイツにガスマスクのような仮面をかぶった、いかにもそれっぽい風体の下っ端戦闘員。葉丘さんのような怪人はゴクドーではむしろ稀で、戦闘員の大半はこのアクドーとなる。
こんな目立つ格好をした連中が町で暴れれば、そりゃあ正義の味方だって飛びたくなくても飛んでくる。悪いことをするならもっと目立たない格好でやればいいのに。
……いや、まあ。郷に入ったわけだし、郷に従うことにする。
「着替えましたー?」
「ごめん、もうすぐ」
隣から聞こえてくる声に答えて、急いで着替えを済ませる。
個室を出ると、そこにはやたらとちんまいアクドーが立っていた。背丈に合うものがないのか、袖やら裾やらが余りに余ってだぼだぼだ。もう今にも転びそうな感じである。
「準備万端ですねっ」
「けっこう息苦しいな、これ」
「すぐ慣れますよ」
少なくともチアガールからは果てしなく縁遠い格好である。しゅこーしゅこーとガスマスクから呼気を漏らしつつ、あたしたちは連れ立ってトイレから出た。
「さっそく標的発見です」
するとすぐに珊瑚の瞳がきらりと輝く。ガスマスクの奥の視線の先には、砂場で遊ぶ数人の男の子たちの姿があった。
「……あの子たちが標的か?」
「はいです。さっそくあの子たちの顔を恐怖に染め上げてくるとしますです。最初はわたしが手本を見せるので、青子さんはここにいてください」
ぱしぱしと拳で手のひらを叩きながら、珊瑚は意気揚々と男の子たちのもとへと向かっていく。見ていろと言われたので、言われるがままひとまず待機しておくことに。
「わーっ! アクドーだ! アクドーがきたぞーっ!」
「ほ、ほんとだ! どうしようっ!」
その姿に気付いた男の子たちが、慌ててその場から立ち上がる。怖がって逃げ出すんだろうかと思って見ていたら――
「いや、よくみろ! あいつチビドーだぞ!」
「ほ、ほんとだ! あのあまりにあまったそでとすそ! まちがいない! チビドーだ!」
「しょうこりもなくまたおれたちのおしろをこわしにきたんだな! そうはさせないぞ!」
「みんな、おしろをまもれー! たたかうぞー!」
わぁわぁと結託する少年のひとりが、ぴぃーっと甲高い指笛を吹いた。
小さな力も集まれば大きな力に変わる。指笛の音に呼応して、公園中の子どもたちが集まってくる。最初はほんの数名だったはずの男の子たちは、今や二十人近い大軍勢へと姿を変えていた。
「あ、あわわわわ……」
すっかりその場で足を止めてしまった珊瑚の背中が、ここからでもわかるくらいぷるぷると震えていた。
「みんな、やれーっ!」
「「「「「うおぉぉぉぉぉぉっ!!」」」」」
リーダー格の少年の呼び声に喚起され、慈悲なき軍勢は足並みを揃えて一気に珊瑚の矮躯へと突撃していく。
「ひーっ!?」
恐怖に顔を染め上げられているだろう珊瑚の、それは断末魔の悲鳴だった。
そして数分後。
轢死体のごとくうつ伏せで横たわるアクドーのもとへ、あたしはゆっくりと近付いていく。
「……大丈夫か?」
「きゅう……」
目を回しているみたいだが、ひどい怪我をしたというわけではなさそうだった。しばらく経って目を覚ました珊瑚は、体をふらつかせながらよろよろと立ち上がる。
「くぅ……数にものを言わせるなんて、卑劣なやつらです……」
「……」
なんだろう。なんて言ってやればいいんだろう。
「仕方ないです、今日のところは見逃してあげます。ですが次は容赦しません。このわたしがいつまでも手加減してあげていると思ったら大間違いですよ」
小声でぶつぶつとそんなことを呟く。誰にも聞こえてないと思う。
「みんなー! チビドーがいきかえったぞー!」
「ほ、ほんとだ! こりないやつだなぁ!」
「こんどこそにどとたちあがれないようにしてやろう!」
「たたきつぶせ!」
「ひねりあげろ!」
「せいぎのてっついを!」
「きゃーっ! 青子さん、撤退します! 撤退、撤退ですっ!」
取り乱しまくる珊瑚に半ば無理やり手を引かれながら、あたしたちは公園を後にした。走って走って、だいたい五百メートルくらい全力疾走した。
そうして辿り着いた先は一軒屋の立ち並ぶ住宅街。ぜえぜえと息を切らす珊瑚は今にも倒れてしまいそうだった。大丈夫か?
「はあ……はあ……ふう、ここまで撒けばじゅうぶんでしょう。危なかったですね、青子さん」
それでもどうにか呼吸を整えると、あたしの背中をぽんと叩きながらそんなことを言ってくれた。どうやらいまの、あたしを助けるために逃げたっていう設定だったらしい。
「……そうだな。とっさの判断だったよ」
とりあえず、気遣いには気遣いを返しておくことにした。円滑な人間関係には多少の嘘も必要だ。
珊瑚は「です」と満足そうに頷いてから、何か思いついたようにぽんと手を叩く。
「次の悪行が決まりました。聞いて驚いてください。なんとピンポンダッシュです」
「………………」
「青子さんはいつでも逃げられるように待機していてくださいです」
返す言葉もないあたしを背中に控え、珊瑚はまたしても意気揚々と一軒の民家の前へと歩み寄っていく。あたしはとりあえず電柱の影に隠れつつ、事の成り行きを見守ることに。
「ふふふ……わたしの人差し指が真っ赤に燃えています。勝利をつかめと轟き叫んでいます」
ぶつぶつと何か呟きながら、珊瑚は民家のインターホンの前に立った。
爆熱。
「ごっどふぃんがぁぁぁぁぁぁぁ!」
疾風迅雷のごとき指突が、ぴんぽーんと間延びしたチャイムの音を鳴らす。
「よーし、あとはこの場から退散するだけです! ドアを開けても誰もいない、その徒労感とやり場のない怒りを存分にその身に受けるがよいですふふふふふあいたーっ!」
振り向きざまに小石にでもつまづいたのか、珊瑚はびったーんと顔面からその場におもいっきり転んだ。
「はいはい、どなたでしょう……あら?」
遅れて民家のドアが開く。現れたのは気立てのよさそうな美人系のマダム。目の前にオレンジ色の全身タイツが倒れているのを見て、驚愕の表情を浮かべながらも駆け寄っていく。
「ちょっとあなた、大丈夫?」
「う、ううぅ……痛いです……」
「どこも怪我してない?」
「は、はい。大丈夫です、ありがとうございます……はっ!? ち、違うです! わたしはアクドーですよ! なぜ蹂躙すべき民間人から情けを受けているですか!?」
「その余りに余った袖と裾、あなた、チビドーちゃんね。うちの子がよくお話してくれるのよ、チビドーちゃんのおかげで公園のみんなと仲良くなれたって。引っ込み思案のあの子に友達ができたのはあなたのおかげよ。いつも遊んでくれてありがとうねえ」
「え、い、いえ……あ、あのその」
「ところで今、うちの呼び鈴を鳴らしたのはチビドーちゃんかしら。どうしたの? 何かご用?」
「い、いえ、特に用というわけでは……ない、のですが……」
「あら、そうなの。でも、せっかくだしお茶でも飲んでいったらどうかしら。ちょうどお隣さんからおいしいお茶菓子を頂いたところなの」
「い、いえ、わたし、その、仕事中ですので……」
「まあそう固いこと言わずに。主人も息子も出かけちゃって、ひとりじゃ寂しかったのよ」
「う、うやあぁぁぁぁぁぁ……」
ずるずると家の中へと引きずられていく。そのままぱたんと扉が閉まる。マダムパワーおそるべし。
電柱の影からその一部始終を見届けたのち、ふと思う。
……おい。これからどうすりゃいいんだ、あたしは。
* * *
珊瑚が帰ってきたのはそれから二時間ほど後のことだった。
「お茶もカステラもおいしかったです」
「ほう」
「……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
地面に何度も何度も頭をこすりつけながら謝罪の言葉を繰り返す。これまで隙だらけだった彼女がここに来て初めて見せる、まったく隙のない土下座だった。
「なあ珊瑚、ひとつだけ言いたいことがあるんだが」
「は、はい。なんでしょう」
顔を上げた珊瑚に向かって、あたしは無感情に告げる。
「おまえな、悪の組織に向いてないと思うぞ」
「がーーーーーーーーーーーーーーーーん!」
珊瑚はOTL(こんな感じ)で激しくその場に項垂れた。
「……そうですよね……いえ、知ってたんです、わたしには悪いことをする才能がないんだってことくらい……ダメですよね……組織員失格ですよね……こんなんじゃかえって京一郎さんも迷惑してますよね……わたしなんかよりバナナの皮のほうがよっぽど世を乱すのに貢献してますよね……わたしなんて……わたしなんて……」
失意の底に沈みまくる珊瑚のこれでもかという自虐っぷりだった。悪いことをする才能がない、ということでここまで落ち込める人間をあたしは他に知らない。
「いじいじいじいじ……うじうじうじうじ……バナナ未満……」
放っておいたらそのままいつまでも指先で「の」を書いていそうな雰囲気だった。事実とはいえ、ちょっとストレートに言い過ぎてしまっただろうか。
どうしようかと思っていたそのとき、くるるーと珊瑚のお腹が鳴った。昨日も聞いた気がするぞこれ。
「……そうか。もう昼なのか」
「い、いまのは、ちが、ちがうんです」
顔を真っ赤にしながら抗議してくる珊瑚。まあ、カステラくらいじゃお腹は膨れないよな。
「みんな昼飯はどうしてるんだ?」
「あうう……えっと、その、各自の自由です。特に時間も決まってないですし。寮に戻って食堂で食べてもよし、町で適当に済ませるのもよし。わたしはだいたいいつも食堂です」
「そうなのか。寮に戻ってもいいならまた何か作るぞ」
「えっ、ほんとですかっ?」
泣いたカラスがなんとやら、たちまち珊瑚の声が高く弾む。
「何が食べたい?」
「ハンバーグがいいです!」
即答だった。
「ハンバーグか。好きなのか?」
「大好きです! 青子さんに何か作ってもらうなら今度は絶対ハンバーグにしてもらおうって決めてました」
「なるほどな。それじゃ、とりあえず寮に戻るか」
「はいですっ」
元気良く頷く珊瑚と共に、ゴクドー社員寮へと戻る。
が、その道中。
「……っ!」
反射的に足を止め、即座に電柱の裏に身を隠す。
「ふぇ――うやぁっ!」
だが珊瑚は呆然とその場に立ち尽くす……ばかりか、あたしの足に自分の足をひっかけて転んでしまっていた。
よく転ぶ奴だなぁ、なんて気楽な気持ちでその光景を眺めることはできなかった。
「うぅ……痛いです……もう、急にどうしたんですか青子さ……」
顔を上げた珊瑚の動きが、ぴたりと止まる。
視界の先には、うちの家族がいた。
パトロール中だったのだろうか。しかしこんな正午も只中の時間に? 母の視線が、黄介の視線が、みどりの視線が、そして父の視線が、転んだ珊瑚へと向けられる。
――やばいっ!
頭よりも先に体が動いていた。珊瑚の前に立ち、腕を広げてその身を庇う。
「逃げろ、珊瑚っ!」
「え、え、え……っ?」
何が起こったのか未だ理解できずにいる珊瑚に向かって、あたしは必死で叫ぶ。まずい。この状況は非常にまずい。
自分たちの格好を見れば一目瞭然だ。あたしたちはアクドー。向こうにいるのはサミダレンジャー。たとえ昨日までは家族でも、今は言い逃れのできない敵同士。
おまけに、向こうは当然あたしの正体には気付いていない。つまり、今のあたしは父たちにとって駆除すべき敵以外の何者でもない。
母や黄介、みどりが相手ならまだ何とかなるかもしれない。だが向こうには父がいる。残りの全員で束になっても敵わない、サミダレンジャー最強の男がいる。
向こうがまだ変身前だったのは救いだ。これなら隙をついて逃げ切れるかもしれない。けれどあたし一人ならともかく、珊瑚を庇いながら逃げ切れるか?
ぐるぐると思考が頭を巡る。じろりと不機嫌そうな父の瞳があたしへと向けられる。
「……んだよ。これから昼飯なんだよ。邪魔すんならぶっ殺すぞ」
しかし父は、それだけ吐き捨てるように言うと、あたしのことなど眼中にないとでもいう風に道脇を通り過ぎていってしまった。
その後ろから、黄介たちが駆け足で続く。
「父ちゃん、ちょい待てってばー。あのアクドーたち、ほっといていいの?」
「たかだか二人だろ。おまけにひとりはまだチビだ。あんな奴ら、放っといても大した悪さなんかできやしねえよ」
「赤雄さーん、置いてかないでぇーっ」
「……ちっ。遅ぇんだよ、さっさと歩け。おら、みどりもよ」
「あ……」
早足に必死についていこうとするみどりの小さな手を、おもむろに父が大きな手で掴む。
それは驚愕と呼んでいい光景だった。あの父が自分の子どもにあんな気遣いを見せたこと、少なくともあたしの前では一度もなかった。
様子が変だった。いつもの父なら、街中でアクドーの姿を見かけた時点で容赦なく退治に踏み切っているはずだ。それなのになんだ、あの物憂げな態度は。
わけがわからないうちに、父の背中はそのままあたしの視界から消えていった。
「青子さん……腕、どうしたんですか?」
「腕……?」
起き上がってきた珊瑚に言われて、初めて気付く。
オレンジ色の服の袖のあたりが、ぼんやりと青色に発光していた。
それはサミダレチェンジャーが放つ変身の合図。まったく意味がわからなかった。どうして今このタイミングで腕輪が反応するんだ?
……わけのわからないことだらけだった。
* * *
時は過ぎ行き、その日の業務終了時間になった。
夕暮れがかった空の中、アクドー制服を脱いだあたしと珊瑚は並んでゴクドーに帰社する。そうして獄道さんにその日の悪行を報告して仕事が終わりになるらしいのだが、いったい今日の出来事をどう報告したものかとあたしは頭を悩ませていた。
けっきょく午後も珊瑚はずっとあの調子だったし、あたしはあたしで何もしてないし。この日あった大きなことといえば――昼前の、あの一件だけだ。
あまり考えないようにして、ゴクドーの地下へと戻る。
するとその先には、今朝方の喧騒とは趣の異なるざわめきが流れていた。
「戻りましたか、五月雨さん」
あたしたちを出迎えたのは小暮さんだった。相変わらずの無表情だったが、それでもどこか、いつもと違う感じがするのがわかる。
「なんかあったんすか?」
「いえ、いつものことなのですが――」
「まぁぁぁぁぁぁぁったくもぉぉう、なぁんど言ったらわかるのぉぉぉぉぉぉう!?」
小暮さんの言葉を遮って、部屋の奥から女性の甲高い金切り声が聞こえてきた。
すかさず声のしたほうへと駆け寄っていく。するとそこには、間に獄道さんを挟んで激しく睨み合う男女の姿があった。片方は葉丘だ。しかし女のほうは知らない顔。
「黙りゃぁ、このアバズレがぁ! キンキンキンキンやかましいんじゃクソボケが!」
「やかましいのはあんたのほうでしょうぉぉぉぉう!? アタシはあんたんとこのボスにお話してるのぉう! 下っ端に用はないのぉ、邪魔なワンちゃんはおうちに帰ってドッグフードでも食べてなさいなぁ!」
あの葉丘にも負けず劣らず女の言動は過激だった。それ以上かもしれない。
歳は二十台中ごろくらいだろうか。あたしとあまり変わらない長身。何より目を引くのはほとんど下着と変わらない漆黒のボンテージだ。その合間から引き締まった肌が惜しげもなく晒されている。よくよく見ればとんでもない美人なのだが、そんな風体がそれ以上に強烈な印象を与えている。
誰だろう、この女は。今日の朝礼のときにもいなかったような気がする。これだけ印象的な相手なら忘れるわけがないだろうし。
「二人とも落ち着いてください。葉丘、社員たちの前ですよ」
放っておけば本気で殺し合いを始めてしまいそうな二人の間に、その場でただひとり冷静な獄道さんがすっと手を挟む。
「じゃけど、オヤジ……!」
「葉丘」
冷え切った獄道さんの瞳が葉丘を射竦める。それだけで葉丘は言葉を飲み込んで一歩そこから引き下がってしまう。傍で見ているだけのあたしまで鳥肌が立つほどだった。悪の組織を束ねる男はやはり伊達じゃない。
「ふん。身分をわきまえなさいな、犬っころ。ワンちゃんはワンちゃんらしく大人しく尻尾丸めてることねぇ」
「ぐ……ッ!」
ぎりぎりと折れんばかりに歯を軋ませる葉丘。その間に獄道さんがすっと身を割り入れる。
「黒原さん、あなたもです。今日のところはお引取りいただけませんか」
「あーらぁ、つれないわねぇ京一郎ちゃん。そんなこと言わずにもっとお話しましょうよぉ」
「お引取りください」
顔色ひとつ変えずに告げる獄道さんを前に、黒原と呼ばれた女はあからさまに表情を歪める。たとえ元がどれだけ美人でも、そこに憎悪が混じればいくらでも醜悪になれるという生きた例を見るようだった。
「……チッ。ほんとにつまんない男になっちゃったわねぇ、京一郎ちゃん。トップのあなたがそんなことだからぁ、ゴクドーはいつまで経ってもゴミクズのままなんじゃないかしらぁ」
「――誰にモノ言うとんじゃアバズレぇぇぇぇぇ!」
その叫びは葉丘のものだった。直後、周りの制止も振り切って、猪のごとく黒原へと突撃していく。
昨晩あたしと戦ったときとは比べ物にならない殺意。片手に握りこんだ銀色のナックルダスター。そこから繰り出されるのは、遠慮容赦など一切存在しない、本気で相手を殺すための一撃。
けれど、黒原はその程度の殺意などまるで意に介さずとでも言うように。
「尻尾丸めとけって言ったの、聞こえなかったかしらぁ?」
ヒュン――と風を切る音が聞こえただけだった。
その直後には、葉丘の巨躯がゆらりと揺れて、背中からその場に倒れ伏していた。
騒然とする室内。葉丘の顔面からはおびただしい量の血が流れ出している。見ると、前歯の何本かが折れているようだった。
「ワンちゃんのしつけがなってないみたいねぇ。ダメよぉ、京一郎ちゃん。飼い犬の責任はいつでも飼い主に回ってくるんだから」
「キっ……サ、ぁッ……!」
「あらぁ、今のでまだおねんねしてないのぉ? タフさだけは褒めてあげてもいいかもねぇ、くすくす」
これだけの事態を引き起こしておきながら、まったく悪びれた様子もなくけらけら笑う女。
いったい何が起こったというのか。いくら怪人に変身する前とはいえ、あの葉丘がこんなにもあっさりとやられてしまうなんて。
黒原の片手には血でべっとりと染まった鋼鉄の鎖が握られていた。その先にはひときわ鈍く光る鉛色の分銅がくくりつけられている。今のは、あれか。
「……医療班。葉丘を至急救護室へ」
「「「はっ!」」」
命を受け、数名の男性が葉丘の巨体を担ぎ上げる。葉丘は黒原に対する罵詈雑言を吐きながら暴れていたが、あれだけの怪我ではやはり思うように体を動かすことができないようで、そのまま救護室へと運ばれていった。
目の前で部下を虐げられて、それでも獄道さんの顔色は依然として変わらない――わけが、なかった。
「……黒原さん。他所のシマを荒らしてどうなるか、あなたにそれがわからないわけではないでしょう。どういうつもりですか」
サングラス越しにもはっきりとわかるほど、獄道さんは怒っていた。溢れんばかりの殺意を腹の底に溜め込んで、ひたすら溜め込んで溜め込んで。その怒りはとうに沸騰せんほどの温度に達している。ひとたび吐き出せばすべてを焼き尽くせんばかりの激情が、静かな言葉の裏側から感じ取れた。
殺意が室内を満たしている。獄道さんだけじゃない、それは他の社員全員の殺意。
「どうもこうも、あのダサ犬が勝手に噛み付いてきたんでしょぉう? こっちは正当防衛を働いただけ。こっちが文句言いたいくらいよぉ。それともなぁに、それでもアタシに文句あるっていうのぉ?」
それだけの圧倒的敵地に立たされてさえなお、黒原はまったく悪びれた風もなく平然とそんなことを言ってのけた。
「……最後に、もう一度だけ言いますよ」
獄道さんが静かな動作でサングラスに手をかける。
その下から覗く両の眼球は、おぞましいほどに色を失っていた。
「今すぐ消えろ。三数える間に消えろ。逆らうなら殺す」
いつもの穏やかな口調とはまったく違う、聞くものの心を凍てつかせる氷点下の言葉。凍りついた激情が氷の刃となって相手の喉下に突きつけられる。およそ憤怒という感情の最頂点がそこにあった。
「あらぁ。すっかり腑抜けたと思ったら、まだそんな顔できるんじゃないのぉ。いいわぁ、惚れ直しちゃいそう」
「三」
「ねえ、ちょっとは本気で考えてみてよぉ。どうせ機関から通達が出るのも時間の問題だと思うしぃ。先のないゴクドーにいつまでもチャンスがもらえると思ってるのぉ?」
「二」
「こうと決めたら譲らないのは京一郎ちゃんのいいところだけどぉ、あんまり頑固なのも考え物よぉ? 京一郎ちゃんだってわかってるんでしょぉ? このままじゃゴクドーに先がないってことくらい」
「一」
「……もう、ほんとに頑固なんだからぁ。わかったわよぉ、わかりましたぁ」
参ったとでも言う風に、黒原はしどけない仕草で両手を上げた。同時に獄道さんのカウントダウンも止まる。
くるりと踵を返す黒原。しんと静まり返った空気を切り裂くように、かつかつとヒールが床を叩く音だけが響く。
その音が、あたしのすぐ側で止まった。
「あなた、見ない顔ねぇ。どちら様かしらぁ」
黒色に満ちた好奇心があたしの瞳に向けられる。背筋を撫でるような甲高い声に、言い知れない嫌悪感を覚えた。
「……そういうあんたがどちら様だよ。人に名前を聞くときは自分から名乗れ、露出女」
何か言葉を口にしてみて初めて気付いた。どうやらあたしも、この女に対してはっきりと怒りを感じていたらしい。なぜだろう。あたし自身、葉丘に対しては少なくとも良い印象は持っていなかったはずなのに。
「……ふん。ここはほんとに社員の教育がなってないのねぇ。アタシはねぇ、強気な男は大好きだけど、強気な女は反吐が出るくらい嫌いなの」
「知るか。あたしは自分勝手な男と女が誰よりも嫌いなんだよ」
ぴきぴきと黒原のこめかみが歪んでいくのがはっきりと見て取れる。化けの皮が剥がれれば、やはりこの女は醜い。
「……黒原璃々夢。これで満足かしらぁ? ――わかったらとっとと名乗れって言ってるんだよ、このメスガキが」
「五月雨青子」
あたしが名前を口にした直後、黒原の表情がさっと変わった。怒りから驚きに。――そして、驚きから喜びに。
「……そぉう。そうなのぉ。あの噂、本当だったのねぇ」
にたりと口元を歪める黒原。いったいどんな理由で笑っているのか知らないが、心底から気持ち悪いと思った。
「うふふぅ。また会いましょう、青子ちゃん。今度は地獄でねぇ」
そう言い残して、黒原は今度こそ部屋を出ていった。
嵐が消えた部屋の中、後には不気味な静けさだけが残される。ざわめきひとつ起こらない。張り詰めたままの空気がいつまで経っても弛緩してくれない。
社員全員の視線が獄道さんへと向けられる。サングラスをかけなおした獄道さんは、ひとつ小さく息を吐いてから、その場の全員に通達する。
「今日の定期報告は無しにします。各自解散し、ゆっくり体を休めてください」
その一声で、冷え切った空気が徐々に熱を取り戻していく。まず真っ先に、数名の男性が葉丘の名前を叫びながら部屋を出ていった。その背に続く者も後を絶えない。珊瑚までもが葉丘を心配して走り出していく。いつしか轟音のごとき足音が出口に向かって大挙していた。
そうして大半の社員が去っていき、気付けば部屋の中に残されているのはあたしと小暮さん、それに獄道さんの三人だけとなっていた。
このタイミング、このメンバーなら、聞いてもいい気がした。
「……あの黒原って人、何なんすか?」
「白崎町の悪の組織、サクバスの首領です」
その問いにはまず小暮さんが答えてくれた。
光洋町に正義の味方と悪の組織が存在するように、どの町にも両者は存在する。白崎町というのは光洋町から少し離れた場所にある大きな町だ。
小暮さんの言葉を引き継ぐように、今度は獄道さんが口を開いた。
「黒原とは昔、同門で育った仲でしてね。互いに悪の組織の首領となってからもなかなか腐れ縁が切れない。……五月雨さん。あなたと出会ったあの晩に、少しお話しましたよね」
「……ゴクドーの先が危ない、って話っすか?」
「ええ、お恥ずかしながら。そこで黒原はここ数ヶ月、そんな我々に目をつけては幾度となく勧誘をかけてきているのですよ」
「勧誘?」
「ゴクドーを捨て、サクバスの傘下に下らないかと。弱肉強食の世界ですから、そういった組織併合の事例は腐るほど存在します。実際、暮らしのことだけを考えれば悪い話ではないのですがね」
「ボス、そんなことは!」
すかさず小暮さんが口を挟む。熱のこもった言葉だった。この人が表情を変えるところを初めて見たかもしれない。
「わかっています。男が一度揚げた旗、そう簡単に下ろしてはなりません。加えて私はゴクドーの長として、あなたたちの気持ちにでき得る限り答えねばならぬ責務がある」
こつ、こつ、という力強い足音が、あたしに向かって一歩ずつ近付いてくる。
「このままの状況が続けば、機関から直々にサクバスへの異動を通告されてもおかしくはありません。そうなればもう我々に抗う術はないでしょう。……もう、気持ちだけをくすぶらせている場合ではありませんね」
言葉は、力強くあたしの胸に響いてきた。
「結果を出しましょう。矜持を示しましょう。そうして機関にはっきりと主張します。光洋町に我らゴクドーありと」
獄道さんはその場でぴたりと足を止めて、静かに、けれどしっかりと通る声で告げた。
「――サミダレンジャーと、決着をつけます」