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#2話 新入社員・五月雨青子(前)

「……てめえ。今、なんて言った。もう一度言ってみろ」

 しんと静まり返る食卓。父が拳で激しくテーブルを打ち付けたせいで、中身の入った食器がいくつかひっくり返り、テーブルの上に無残な姿となって転がっていった。

 けれどあたしは身じろぎひとつせず、強い意志を込めた瞳で父を睨みつける。

「聞こえなかったなら何度でも言うよ。あたし、この家を出ていくから」

 不安そうなまなざし、驚きのまなざし、悲しげなまなざし、家族のそれぞれ違った視線があたしに集まる。あの黄介でさえまったく食事に手をつけずにあたしたちのやり取りを見守っていた。

 そんな中で父の瞳に浮かんでいる感情は、不安でもなく驚きでもなく悲しみでもなく、どこまでも色濃い怒りだった。まったくもって想像通りの反応。おかげであたしも用意しておいた言葉を並べていくだけで済む。

「あたしはこれから自分の力で生きていく。今までお世話になりました」

 皮肉混じりに、あえて感情を込めず淡々と告げる。

「青子ちゃん……」

 ショックを隠せないといった様子の母に、あたしは無言で頭を下げた。悪いとは思っているが、もう決めたことだ。

 許してほしいとは言わない。あたしが告げるべきはこれからの身の振り方。それだけでいい。

「……住むところ、どうするの?」

「社員寮があるから当面はそこに住むつもりだよ。家具も一式揃ってるみたいだし」

「そう……」

 力なく頷く母。その顔を見るところ、あたしがいつか家を出ると言うことをなんとなく察していたのかもしれない。ふだんはどれだけ頼りなくても、この人はやっぱりあたしの母なのだと思った。

「……なんの仕事だ」

 空気を根元から震わせるような低い声が、父の喉元から吐き出される。

「正義の味方をやめて、その代わりになんの仕事をやろうってんだよ。まさかまだ料理がどうのこうの言ってんのか? 本気でやっていけると思ってんのか、てめえみてえな世間知らずの小娘がよ」

 反射的に答えてしまいそうになって、あたしはぐっと言葉を飲み込んだ。相手が父だけならまだしも、この場には母がいて、黄介もいて、みどりもいる。

 これからは敵同士になるとわかっていても、そのことをはっきりと告げるのは躊躇われた。

「言えっつってんだろ」

「……赤の他人に言う義理はないね」

 父の表情がぴきりと強張る。こめかみに青筋が浮かんでいくのがはっきりと見て取れた。

「――っざけんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

 鼓膜が破れそうになるほどの怒声。そのあまりの剣幕に、傍で見守っているみどりまでもが今にも泣きそうに瞳を潤ませている。

「みどり」

「おにいちゃん……」

 みどりの隣に座っている黄介がその頭をそっと抱きかかえる。みどりは小さく鼻をすすって黄介の胸元に顔を埋めた。

 その瞬間、一瞬だけ黄介と目が合った。はっとさせられるくらい澄んだ瞳で黄介はあたしのことをじっと見据えていた。責めるのとも悲しむのとも違う、もっと真摯な気持ちがそこにあった。

 胸が痛い。もっと痛め。いくらでも。

 あたしはあたしのためだけに家を出ていく。叶えたい夢がある、それだけの理由で。

 それでもあたしは自分の行動に胸を張る。正しくないことをしているとは思うけれど、間違ったことをしているとは思わないから。

「……青子」

 父は先ほどの激昂が嘘だったかのように冷え切った表情を浮かべて、ゆっくりと席から立ち上がった。こんなにも静かに怒る父を見るのは初めてかもしれない。

 見下ろす父と、見上げるあたし。どちらも目を逸らさない。そうしてしまえば負けだと思ったから。

「出ていけ」

「言われなくても」

 短い言葉を交わして、あたしも静かに席を立った。まっすぐに自分の部屋へと戻って、すでに荷造りを終えてあるキャリーケースを引っ張り出して玄関へと向かう。

 これで本当にこの家ともお別れだ。十八年とおよそ半年を過ごした場所に決別して、あたしはとうとう自分の足だけで未来へと歩いていく。

 靴を履き替えて、ドアを閉める。そこから少し歩いたところで、出てきたばかりの家の中から近所一帯に響き渡るほどの父の怒声が聞こえてきた。

 黄介、みどり、母さん。ごめん。あたしはもう、あの人と一緒にはやっていけない。

 感情をその場に置き去りにするように、あたしはひたすら走って走って走って走った。キャリーケースがごろごろと激しい音をたてる。息が上がりそうになるくらい走り続けて、ふと胸ポケットに入れた携帯電話が振動していることに気付いた。

 足を止めて、着信相手の名を確認する。獄道さんだった。少しだけ息を整えてから通話ボタンを押す。

「はい、五月雨です」

『獄道です。夜遅くにすいません。五月雨さんは今晩から社員寮に越してくる、という話でよかったんですよね? 念のため確認の電話を入れておこうと思いまして。寮長のほうには話を通してありますので、鍵はそちらで受け取ってください。寮についての詳しいこともその際に説明されると思いますので』

 獄道さんは本当に悪の組織の長なのだろうかと思ってしまうくらい親切だ。仕事の時間はもうとっくに終わっているだろうに、こうしてわざわざ電話をかけてきてくれるし。人格からしてあの父とは雲泥の差。

『それと……これはどうしようもないことですが、社員の中には五月雨さんが正義の味方であったということを快く思わない者もいるでしょう。私の目の届くところであればよいのですが、寮でのトラブルとなるとすぐには対処しかねます。もしも困ったことがあればできる限り寮長に相談するように。きっと五月雨さんの力になってくれるはずですから』

「うす。いろいろありがとうございます」

『いえ、明日からよろしくお願いしますね。それでは失礼します』

 こちらも失礼しますと返して通話を終える。携帯電話を胸ポケットにしまって、あたしは前もって教えられていた社員寮の場所へと向かって歩いていった。


  * * *


 やがて、目の前にそれらしき建物が見えてきた。

 築二十年という割には小奇麗な印象を受ける外観。ゴクドー本社からは徒歩五分。通勤の便に関しては言うことなし。

 寮の入り口に立って、寮長室に繋がるインターホンを押す。

「夜遅くすいません。今日からこちらでお世話になる五月雨という者ですが」

『ボスから聞いています。一階の三号室へ来てください』

 インターホンから事務的な口調が返ってきて、すぐに途切れた。ややあってから扉のロックが解除される。ともかく、言われたとおり一階の三号室へ向かう。建物の内装はなんとも地味なものだったけれど、隅々まできちんと掃除が行き届いていて好感が持てた。

 少しだけ迷いながらもどうにか三号室の前に到着する。扉の横に寮長室と書いてあるので、ここで間違いないだろう。

「五月雨です」

「中へどうぞ」

 お邪魔しますと言って扉を開ける。

 ほとんど物のない畳張りの質素な部屋。その中央に丸いテーブルがあって、部屋の奥側に男性がひとり座っている。

 切れ長の瞳に銀縁眼鏡が印象的な、長身痩躯の若い男性。あたしより少し年上くらいだろうか。事務とかやってそうなイメージだ。

「寮長の小暮と申します」

 淡々とした口調で、小暮と名乗った男性は小さく会釈する。あたしも慌てて頭を下げた。

 それから小暮さんは事務的な口調でこの寮のルールを説明してくれた。基本的に身の回りのことは自己責任。朝晩の食事は希望制で、月々決まった食費を納めれば寮の中の食堂で取ることが可能。風呂トイレ洗濯機は共同。週に一度掃除当番があり、自分に割り当てられた区域を小暮さんから許可が出るまで徹底的に掃除するのだということ。

「何か質問はありますか?」

「いや、今のところは」

「そうですか。寮のことに関係なくても、他に何か気になることがあれば聞きますよ」

「……じゃあ、ひとつ聞いてもいいっすか」

 こくりと頷く小暮さんに、あたしは意を決して尋ねた。

「あたしが正義の味方だったことは、もうみんな知ってるんすよね」

「ええ。ボスから知らされています」

「そのことについて、小暮さんはどう思ってますか」

 無条件に歓待されることはまずないだろうとは思っても、聞いておきたかった。寮長というのならこれから世話になることも多いだろうし。

「どう、と言われても困りますが、僕個人としては組織に有益な人材が加わるのは喜ばしいことだと思っています。たとえ元正義の味方だろうが、使えるものは使うべきです」

「……ありがとうございます。安心しました」

 と同時に少し不安になった。常に淡々とした口調であるのも手伝って、小暮さんという人間の性格が今ひとつ見えてこない。なんというか、今まで会ったことのないタイプの人だ。

「他に質問がないようであれば、鍵をお渡ししておきます。寮の入り口もこの鍵で開くので、失くさないようにしてください。五月雨さんの部屋は三階の八号室になります」

「わかりました。これからお世話になります」

 小さく頭を下げて、あたしは小暮さんの部屋を出た。

 二階へと続く階段を上ろうとしたところで、後ろから足音が近付いてくるのに気付いた。振り返ると、今しがた別れたばかりの小暮さんがそこにいた。

「言い忘れていました。女子浴場は利用者が少ないので、いつも夜の八時半には湯を抜くようにしています。もし入浴するようでしたらお早めに」

「あ、はい。わざわざどうも」

「いえ」

 小暮さんはそれだけ言って再び部屋へと戻っていった。後ろ姿を見るところ、靴も履かずにここまで走ってきたらしい。……まあ、悪い人ではなさそうだ。

 三階の八号室の前に辿り着いて、受け取ったばかりの鍵を差し込む。かちゃりと回すと確かな手ごたえが返ってきた。今日から過ごすことになるあたしの城――と言うには大袈裟だけど、なんだか少し緊張する。

 扉を開けると、視界いっぱいに殺風景な部屋が広がる。畳張りの和室。色で例えるなら真っ白な部屋。まだ誰の手にも染められていない、まっさらな空間がそこにあった。

 とは言っても時計やテーブルは最初から置いてあるし、台所の隣には炊飯器も備え付けられている。電子レンジもあるし、何より冷蔵庫があるのがいちばん嬉しい。

 部屋の隅っこの押入れを開けてみると、そこには薄っぺらなせんべい布団が丸められて収納されていた。寝床を選り好みできる身分じゃないし、これもありがたく使わせていただこう。

 板張りの床にキャリーケースを転がし、荷物を広げて、さてと腕を組む。

 部屋の時計をみると時刻は七時四十五分。まず荷物の整理をするのもいいけれど、ついさっきの小暮さんの言葉からすると、風呂に入れるのはあと四十五分の間ということになる。入りそびれてしまうのも嫌だし、先にそちらを済ませてしまうことにしよう。

 女子浴場は階段を下りて一階の突き当たりにあった。扉を開けたところにまず脱衣所があって、銭湯みたいな感じで脱衣カゴが置いてある。脱いだ服を畳んでカゴに入れ、道具を持って風呂場へ向かう。

 すりガラスのドアを開けると、そこにはひとり先客がいた。どうやら少女のようだ。ゴクドーではこんな小さな子が働いているのかと驚いたけれど、よくよく考えればあたしも十歳からサミダレンジャーとして働いてきたわけで、お互い様か。

「~~♪」

 鼻歌を口ずさみながら、少女は気持ちよさそうにシャワーを浴びていた。歳は黄介と同じくらいだろうか。

 少女はまだあたしが来たことに気付いていないようだった。せっかくだし挨拶しておこうと思って、あたしは少女のもとへと近付いていく。

「どうも」

「ん……?」

 声をかけられたことに気付いて、少女がシャワーを止めた。頭をぷるぷると振って、目にかかった髪の毛を払う。

 それから、どんぐりみたいな瞳があたしの顔を見上げてくる。かわいらしい子だった。

「…………」

「…………」

 しばらく見つめあったまま、あたしたちの間にはなぜか謎の沈黙が流れる。

 やがて、その小さい口がめいっぱいに開いたかと思うと――


「きゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 寮中に響き渡るような悲鳴。

 それからしばらくして、遠くから足音が聞こえてきた。

「どうしたんですか」

 がらりと開かれた扉の向こうに、相変わらず事務的な口調の小暮さんが立っていた。

 状況を把握するより先に、あたしの口から第二の悲鳴があがった。


  * * *


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「いや……そこまで謝ってもらわなくてもいいんだけど」

「いえそれじゃあまりにも申し訳がたちません首がちぎれこの部屋を鮮血に染めあげるまで何度でも何度でも謝らせてくださいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃ」

「……」

 ところ変わって、あたしの部屋。

 お気に入りのブルーのパジャマに着替えたあたしは、つい先ほど悲鳴をあげられた女の子とテーブル越しに向かい合って座っていた。

 ライトグリーンのパジャマ姿の女の子はこれでもかと言わんばかりに頭をテーブルにこすりつけて何度も何度も謝ってくれているのだが、ここまでされると逆に怖い。

 先ほどの事態は小暮さんにお願いして収拾をつけてもらったので、初日から問題を起こすようなことはしなくて済んだけれど……。

 …………見られたよ、絶対。

 寮での問題に対処するのが寮長の仕事なのだから、小暮さんは悪くない。そりゃまあ、中の様子を見るなら寮の他の女の人に頼むとかしてほしかったけれど、もし事態が緊急を要するものだったらと考えると不可抗力であると言わざるを得ないのはわかる。

 いや、でも。それでもだ。小暮さんのほうはまったく気にした様子はなかったが、あたしだってこう見えて十八の女子なのだ。これから先いったいどんな顔をして小暮さんと向き合えというのだろう。

「はぁ…………」

 深く溜め息をついていると、目の前の女の子はさらに身を縮こめて、ついには頭をテーブルにがんがんと叩きつけはじめた。

「申し訳っ! 申し訳っ! 申し訳ぇっ! ありませ、うぅぅっ、うぅぅぅぅっ! 痛い、痛いよぉぉっ……ふえぇ……」

 鬼気迫る勢いで頭を叩きつけながら涙を流す少女にあたしは慌てて手を伸ばし、それ以上の自傷行為をやめさせる。二重の意味で頭が心配だった。

「わ、わかったから。だからもう謝るのはやめてくれ」

「こ、こんな無礼なわたしを許していただけますですか……?」

「許すから。っていうか、べつに最初からそんなに怒ってないから」

「な……なんとお優しいひと…………!」

 顔を上げた少女の目がきらきらと輝いている。ついでに額が真っ赤になっている。あたしにどんな言葉を返せというのだろう。

 しかし、こうして改めて間近で見てみると、くりくりとした瞳に肩口まで伸びた長い髪の毛が印象的な、なんとも愛らしい感じの女の子だった。背丈もちっちゃくて、でくの坊と名高いあたしには羨ましい点ばかりだ。

「とりあえず自己紹介くらいしとこうか。あたしは五月雨青子。今日からここで世話になることになった、あー、その、元正義の味方だ」

「は、はいっ。ご丁寧にすいません、わたしは山辺珊瑚といいます。こちらこそよろしくお願いします」

 互いに名乗り合って、とりあえず握手する。そしたら腕をちぎられんばかりの勢いでぶんぶんと振り回された。元気というか、落ち着きのない子だ。

 元正義の味方だった、という言葉をほとんど気にしていないあたりはちょっと安心した。小暮さんのこともあったし、意外とみんな新入社員の前職なんて関心がないのかもしれない。

「あー、山辺さんは」

「いえ、珊瑚とお呼びください」

「そうか。なら珊瑚は、歳はいくつなんだ?」

「はいっ。今年で十三歳になります。中一です」

 珊瑚はとても嬉しそうに顔を綻ばせて答える。やっぱり黄介と同い年だったらしい。

「いつからゴクドーに?」

「五年前からなんで、八歳からですね。要領悪くてずっと昇進できてないんですけど。えへへ」

「八歳……」

 いったいどういった理由で彼女がここで働いているのかはわからないけれど、まず間違いなく込み入った事情があるのだろう。興味本位で聞いていいことではないと思ったので、この場でそれ以上のことを聞くのはやめておいた。

「……っていうか、そうか。そっちのほうがずっと先輩なのに、入ったばかりのあたしがこんな軽々しい口きいてるのもまずいよな」

「いえいえいえっ。そんな、わたしなんかが先輩だなんて。そもそもうちは能力主義なんで、勤務年数なんて関係ないですよ。ですので、ぜひ気安くお話していただければと」

 ぶんぶんと首を振りながら言う。まあ、目上以外に敬語使うのってあんまり好きじゃないし、そうしてくれというならとても助かるけれど。

「……じゃあ、お言葉に甘えて。とりあえず一個だけ聞きたいことがあるんだが」

「なんでもどうぞっ」

 にっこーっ、と太陽もかくやというほど眩しい笑顔を浮かべてみせる珊瑚。そんな彼女にこんなことを聞くのは心苦しいが、これだけははっきりさせておかなくてはならない。

「さっきの風呂場でのこと。どうして悲鳴なんかあげたんだ?」

「…………え、ええと」

 なんでもどうぞと言っていた口が一瞬ですぼまる。

「……たぶんわたし、これからとても失礼なことを言うと思います。それでも怒らないでくれます?」

「まあ、ちゃんと話してくれるんだったら」

「わ、わかりました。えっと……その、あの、ですね? 勘違い、しちゃったんですよ」

「勘違い?」

「五月雨さんのこと……男の人だと」

「………………………………………………………………」

 自分の額に青筋が浮かぶのがはっきりとわかった。

 おかしいなあ。あたし、こう見えても父以外には気が長い女のつもりでいたんだけどなあ。

「お、怒ってます? 怒ってますよね? ちが、違うんですよっ。煙で顔とかよく見えなくて。それで五月雨さん、腹筋とか割れてたからてっきり」

 うん、まあね、あたしもこの身長のせいで昔からいろいろ言われてきましたよ。男女ともよく言われました。でもね、男ってはっきり言い切られたのは初めてですよ。

 そうか、この腹が悪いのか。ここ八年半で鍛えたくもないのに鍛え抜かれてしまったこの体が悪いのか。

「ほ、ほんとにごめんなさいっ。なんか言い訳っぽいですけど、五月雨さん、すごい美人さんだと思いますよ。背も高いし、羨ましいです。憧れちゃいますよ」

 取り繕うようにあれこれ言葉を並べられる。あんまり説得力はないが、まあ好意的に受け取っておこう。

「あたしは珊瑚みたいなかわいい子に憧れるけどな」

「ほえっ? い、いや、わたしなんてそんなぜんぜん大したことないですよ、へちゃむくれのジャガイモですよ。腐って芽が出てぐちゃっとしたいやーな感じのジャガイモですよ」

 なんだかよくわからないことを言って、ぶんぶんと手を振る。

「と、とにかく、これからよろしくです。わたしの部屋、五月雨さんの隣なんで。仲良くしてくれるとうれしいです」

「こちらこそ。隣だったのか」

「そうみたいです。なんか運命感じちゃいますね、えへへ」

 にこにこ笑う珊瑚につられて、あたしも思わず笑みをこぼす。新天地でできた初めての友達、ということでいいんだろうか。

 しかし獄道さんといい、小暮さんといい、珊瑚といい、ここは悪の組織という割には気立てのいい人ばかりで安心した。最初はどうなることかと思ったけれど、案外なんとかやっていけそうな気がする。

 そうして三十分ばかり世間話なんぞに興じてから、珊瑚は細い腰を上げた。

「すいません、すっかり居座っちゃって。五月雨さん、荷物の整理もまだでしたよね。わたしもそろそろ自分の部屋に戻ることにします」

「あたしはべつに構わないけど」

「いえ、もう遅いですし。今日のところはおいとまさせてもらいますです」

 そう言って珊瑚はくるりと踵を返す。ちょっとだけ残念に思いながら、その小さな背中を見送る。

 直後、くぅーっ、と甲高い音が鳴った。はて、音源はどこだろう。あたしの勘違いでなければ、今のは珊瑚のお腹から聞こえたような気がしたけれど。

「……き、聞こえました?」

 顔を真っ赤にしながらあたしのほうを振り向く珊瑚。そんな顔してたら、たとえ聞こえてなかったとしてもわかると思うんだが。

「お腹空いてるのか?」

「い、いやその。うちの食堂、週に一度休業日があるんですけど、すっかりそのこと忘れてて。でも大丈夫です、あとは寝て起きるだけですから」

 やたら早口で言葉を並べる珊瑚を前に、あたしはちょっとだけ考えて言った。

「部屋に戻るの、ちょっとだけ待ってろ」

「え? あ、はい、いいですけど」

 珊瑚をもう一度テーブルの隣に座らせて、今度はあたしが立ち上がる。そして部屋の脇に広げっぱなしにしておいたキャリーケースの中身をごそごそと探る。

 どさどさどさどさどさどさどさ。

 雪崩のような勢いで取り出されたるは肉に野菜に魚に味噌に醤油に酢に調理酒にケチャップにマヨネーズに各種スパイスにetc――占めてキャリーケースの中身の実に七割。積み上げられた食材の山をいそいそとキッチンへ運ぶ。

「何が食べたい?」

 冷蔵庫の呆気に取られた風にぽかんと口を開ける珊瑚に、あたしはいつも黄介に言っていたように尋ねた。

「え、え、えっと、あの……」

「まあ、何が食べたいかって聞いてすぐに答えてくれる人ってあんまりいないんだけどな。特にリクエストがなければ適当に何か作るけど」

「い、いや、あの、そうじゃなくて……」

 くぅぅーーっ。

「…………お、お願い、します」

「まかせろ」

 軽く親指を立てて、あたしは必要な材料を選んでキッチンの上に並べた。

 そして実家から持ってきた十年来の愛包丁を手に、ひとつ深呼吸をする。料理はいつでも真剣勝負。事前の精神統一は食材に対する礼儀だ。

 さて。

 五月雨青子、いざ参る。

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

「え、え、えっ?」

 裂帛の気合いと共に、あたしの腕の一部と化した包丁が目にも留まらぬ速度でまな板の上を疾走する。トタタタタタタタタッ! 小気味良い連続音が走り抜けていった後、キャベツはザク切りに白ねぎは斜め切りにピーマンは乱切りにそれぞれ綺麗に姿を変える。さらに一口大に切った豚バラ肉を湯の中にさっと放り込み、その間に甜面醤に醤油と酒と砂糖を合わせて調味料を作っておく。

 フライパンにサラダ油を流し込んでにんにくと赤唐辛子を強火で炒める。風味が香ってきたところで先ほどの豚肉を水揚げ、しっかりと水分を切ったのちフライパンの中に投入。じゅわぁぁぁぁぁと豚肉が歓喜の叫び声をあげる!

 豚肉にじゅうぶん油が回ったところで野菜を一気に投入する。ただの灰色が緑と白色にそれぞれ彩られ、フライパンの中はじうじうじゅわじゅわ、いっそう喜びの色と音で満ちていく。その様はまさに天上の楽園。あたしも嬉しくなってきていっそう勢いよく腕を振りフライパンをあおる! ひたすらあおる! ただただあおる!

「あははははははははははは!」

「五月雨さーーーん!? お気をたしかにーーーーー!?」

 しっかり具材に油が馴染んだところで先ほど合えておいた調味料を回しかけ、全体にまんべんなく行きわたるように手早く炒めていく。料理は手際が命だ。時間をかけすぎては風味がたちまち飛んでいってしまう。

 火を止めて器にざっと豪快に盛りつける。ダイナミックな料理はダイナミックに盛るべきだ。器いっぱい、溢れんばかりの完成品を珊瑚ちゃんの元へと運んでいく。

 きらきらと輝きを放つ野菜と肉のコラボレーション。甘辛く炒めた味付けはいくらでも箸に白米を呼び込む魔性の味覚!


 その名も――回、鍋、肉ッ!!


「…………」

 そこで肝心の珊瑚といえば、出来上がった料理を前に、目を真っ白にさせながらあたしの顔をおっかなびっくり見つめていた。なぜだろう。

 あ、そうか。ご飯がなかった。あたしとしたことが、これはすっかり失念していた。

「悪いな。今から炊くと時間かかっちゃうから、スズキのごはんで我慢してくれ」

「あ、いや、その……そういう、わけじゃ……」

「いらないのか?」

 くぅぅぅー。

「……すいません。いただきますです」

 キッチンに積み上げた食材の山の中からパックのごはんを取り出して、レンジでチン。邪道だが食べてみれば意外と悪くない。二十年の歴史は伊達じゃない。

 せっかくのできたてが冷めてしまうのは悲しいことだ。よってあたしはこの時間を一秒たりとも無駄にはせず、加熱の終わったごはんと箸を差し出して、さあ召し上がれと片手で促す。

「あ……は、はい。そ、それじゃ、いただきます」

 行儀良く手を合わせてぺこりと頭を下げる。うむ、食前食後の礼儀がちゃんとできている人は好きだ。いただきますの一言は作った相手だけではなく、料理そのものに対しても必要な言葉なのだから。感謝なき者に食事する資格なしというのがあたしの持論。

「では……」

 丁寧な箸使いで肉をひときれつまんで、小さな口の中へと運んでいく。もぐもぐと顎が動く。健康的でなめらかな喉がごくりと鳴った。

 それまで落ち着かない様子でちらちらとあたしのことを見ていた彼女の様子が変わったのは、その直後のことだった。

「おっ……お、お、おっおおお……うおおおお……」

 目をぱっちりと見開いて、ぱくぱくと声にならない言葉を繰り返したのち。


「――おいしーーーですーーーーーーーーーーー!」


「だろ」

 あたしの口元に心からの笑みがこぼれた。自分の作った料理をおいしいと言ってもらえる喜び。どれだけ経験してもまったく飽きない。

 よほどお腹が減っていたのか、珊瑚はそれまでの行儀の良さなんてどこかに忘れてきてしまったかのごとく一心不乱に器の中身ををかきこんでいく。

「なんですかなんですかこれ! めちゃくちゃおいしいです!」

「なんですかって、まあ、特筆することもないふつうの回鍋肉だが」

「わたしの辞書にこんなホイコーローはありませんよっ! うおおおお……右手が、右手が勝手に動きます……!」

 はふはふと呼気を漏らしながら叫ぶ。眼鏡めっちゃ曇って真っ白になってる。マンガみたいだ。

「よっぽどお腹が空いてたんだな」

「がつがつ、がつがつ、がつがつがつ」

「食べ終わってから喋るか」

「こくこくこく」

 真顔で必死に頷く珊瑚。あたしはにやにや微笑みながら、その食べっぷりを向かい側でじっくりと眺めさせてもらった。

 やっぱり、料理っていいなと思う。

 食べた相手に幸せになってもらって、作った自分も幸せになれる。もちろん絶対に成功するとは限らないけれど、だからこそ、おいしいと言ってもらえた時には格別の喜びがある。

「ごちそうさまでしたです」

 ぱんと手を合わせてふかぶかと頭を下げる珊瑚。器の中身はきれいに空っぽ。食べてもらっているときも嬉しいけど、この瞬間もまた嬉しいものだ。

「いやもー……こんなにおいしいご飯、ほんと久しぶりに食べました。いや、はじめてかもしれないです。めちゃくちゃ感動してますわたし」

「あんまり手間かけてないけどな。レベル十段階で言ったら二くらいだ」

「まだ上に八ランクもあるですか!? な、なにものですか五月雨さんはっ」

「まあ、こう見えて料理人志望だから。いろいろあって悪の組織に拾われたんだけどさ」

「はー……ミステリアスです」

「あたしで良ければいつでもご飯くらい作ってあげるぞ。お隣さんのよしみだし」

「うおぉぉぉ……この頬を伝うのは歓喜の涙なのでしょうか……」

 きらきらと憧憬のまなざしが輝く。そこまで喜ばれればこちらも本望というものだ。

 それから食器を洗って、あたしはキッチンに積みっぱなしにしてある食材の山を片付けることにした。せめて片付けの手伝いをさせてほしいという珊瑚の申し出をありがたく受け取り、ふたり一緒に冷蔵庫をこれでもかというほどパンパンにした。

 明らかに一人では消費しきれない量であることはわかっていても、冷蔵庫が空っぽだとどうにも落ち着かないのだ。あれが作りたい、と思ったときに材料がないとすごくやるせない気持ちになる。これでもずいぶん厳選したほうだ。

 それからキッチンの配置を自分好みにカスタマイズし、満足いく出来になってうんうん頷いている頃には、時計の針は夜の十時を回ろうとしつつあった。

「もうこんな時間なのか」

「ほんとです」

 あたしだって明日は早いんだし、そろそろ寝る準備をしなければいけない。

 そんなとき、部屋のドアをこんこんと叩く音が聞こえてきた。誰だろう。小暮さんだろうか。

「はい、いま開けます」

 ちょっとごめんと珊瑚を部屋に残し、ドアを開く。

「キサンが五月雨か」

 大柄でひどく目つきの悪い、まるで狼のような印象を与える男性がそこに立っていた。歳は二十半ばから後半くらいだろうか。ぎらぎらと輝く眼光はそれだけで体を切り裂かれてしまいそうなほど鋭い。

「人違いです」

 ぱたん。本能的に扉を閉じて、鍵をかけ直す。

 ……今の、誰だ?

 ややあってから、どんどんと激しく扉を叩く音が聞こえてきた。

「シラぁ切ってもネタは上がっとるんじゃ! 大人しく開けんかボケぇ!」

 やくざの取り立てもかくやという剣幕でまくしたてる謎の男性。こんな夜中にこの人はいったい何を考えているんだろう。

「ど、どうしたんですか五月雨さん?」

 ただごとでない事態を察し、珊瑚があたしの元へと駆け寄ってくる。

「いや、あたしにも何がなんだか……」

「……この声、もしかして葉丘さん?」

「葉丘?」

「開けやぁぁぁぁぁ! 五月雨ぇぇぇぇぇぇ!」

 向こうはあたしの名を知っているらしいけれど、あたしに葉丘なんていう知り合いはいなかったはず。

 ともかくあたしがドアを開けない限りいつまでも叫んでいそうだったので、仕方なくもう一度ドアを開く。男性の目は先ほどより血走っていて、全身にはいっそう殺意が漲っていた。

「キサンが五月雨か」

 先ほどと同じことを問いかけてくる。どうしてもそうだと言わせたいらしい。

「……そうっすけど。っていうか、誰っすかあんた」

「ワシのことを知らんとでも?」

「いや、あいにく、やくざの方に知り合いはいなかったと思うんすけど」

「あぁぁぁん!? 誰がやくざじゃぁぁぁ!?」

 なんなのこの人。

 まさに目と鼻の距離からガンを付けられて、思わず一歩後ずさる。

「……表出ぇや、五月雨」

 は?

「決闘じゃ」

 ……はぁ?


  * * *


 それからあれよという間にあたしは寮の裏庭へと引きずり出されて、どういうわけか殺意むき出しのやくざと対峙させられていた。春先の外気がパジャマ一枚越しの素肌に染みる。

「あれが噂の新人か」「元サミダレブルーだぁ?」「社長が引き抜いてきたらしいぞ」「女じゃねえか。あれで戦えんのか?」「アニキ、やっちまってください!」「そっす! なめられたら終わりっす!」

 寮の各部屋の窓からは裏庭を見下ろせるようになっていて、気が付けばそこから顔を覗かせるギャラリーがかなりの数に上っていた。どうしてこんなことになっているのか、当事者らしいあたしにもまったく意味がわからなかった。

 抜き身の刃みたいな視線であたしを睨みつけながら、葉丘というらしい男性がぐっと拳を握り込む。

「いくらオヤジの決めたことでも、認められることと認められんことがある。……元サミダレンジャーじゃあ? ボケたこと抜かすなアホが。キサン、まさか本気でゴクドーでやっていくつもりか?」

 敵意に満ちたその言葉に、あたしは獄道さんからの言葉を思い出していた。

「ワシは認めんぞ。絶対に認めん。キサンのふざけた鼻っ面、ここで叩き折ったるわ」

 小暮さんや珊瑚のことで油断していたが、やっぱりいるよな、こういう人。……これは要するに、ぬけぬけとかつての敵地へと身を寄せたあたしへの、しかるべき洗礼というわけだ。

「さ、五月雨さぁん……」

 かわいそうに、あたしの巻き添えを食ってここまで連れてこられた珊瑚が不安げな声を漏らしている。

「山辺ぇ!」

「は、はひっ!」

「この決闘、キサンに立会人を申し付ける。異存あるか」

「け、決闘って、葉丘さんっ。ダメですよ、寮則違反ですよぉっ」

「異、存、あ、ん、の、かって聞いとるんじゃクソボケが!」

「……な、なななないですですです」

 チワワみたいにぶるぶる震えながら、珊瑚はこくこくこくと何度も何度も頷いた。もはや脅迫のレベルである。

 葉丘はそれでもう珊瑚には興味を失くしたとでも言わんばかりに、再びあたしを激しく睨み付けてくる。視線を逸らさぬまま彼がポケットから取り出したのは、鈍く輝く銀色のナックルダスター。

「出たぞ、数多の戦場で血を吸ってきた葉丘さんのメリケンがぁぁ!」「「その小娘に上下関係っちゅーもんを叩き込んでやってください!」「うおぉぉぉ! アニキ、やっちまえぇぇぇ!」

 まるでこれから格闘技の試合が始まるかのような盛り上がりを見せる観衆たち。ちらりと様子を窺うと、みんな血の気の多そうな顔をしていた。なるほど、悪の組織ね。

「キサンも異存ないな。構えや、五月雨」

 軽く二、三度拳を突き出し、胸の前で腕を構える葉丘。

 異存あるに決まってるだろうが。なんでこんな夜遅くにパジャマ姿のまま外に連れ出され、挙句にこんな意味のわからない決闘につき合わされなければならないのか。

 ……しかし。

 あたしもここまで好き勝手言われて引き下がれるほど、できた人間じゃない。

「……いいっすよ。けど、そっちも異存はないんすよね?」

「何がじゃ」

「これだけの観衆の前でボコボコにされてもいいのかって聞いてるんすよ」

 寮の窓から波濤のごとき叫びが湧き起こった。葉丘への歓声とあたしへのブーイングが合わさって、つい先ほどまで肌寒さを感じていたはずの裏庭は異常なまでの熱気に包まれる。

「……いい度胸じゃ」

 額にぶちぶちと青筋が浮かぶのがわかった。少し挑発しすぎただろうか。

 そう思った次の瞬間――、

「うおらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 ぐん、と相手の体が沈む――ぞくりと脊髄を伝う悪寒。感覚だけで咄嗟に身をよじる。直後、頬のすぐ真横に切り裂くような冷気を感じた。

 鎌鼬のごとく突き抜けていった拳。反応が一瞬でも遅れていたら、あたしの顔面は今ごろ潰れたかぼちゃみたいになっていただろう。

 ――速い。

 ほんの一足でこの距離を詰め、それでいて的確に頭部を狙う一撃。

 この拳、本物だ。

 膠着は一瞬だった。再びあたしの顔面めがけて猛然と飛来してくる銀色の拳――考えるよりも先に体が動く。

「ッ!」

 力の限り真横へ跳ぶ。拳撃が空を切る音がここまで聞こえてきた。

「おらおらおらおらぁぁぁッ! どうした五月雨ぇぇぇぇぇぇッ!」

 休まることない怒涛の連撃。ぎらぎらと光る狼のような視線が拳の隙間に垣間見えた。獲物を確実に射殺さんとする狩猟者の瞳。

 そうしているうちにも拳が頬を掠めていく。わずかに触れただけなのにも関わらず、裂かれるような痛みを覚えた。

 ふと視界に赤い血が舞っているのに気付いた。軽く頬に触れるとぬるりとした感触。裂かれるような、どころじゃない。実際に裂けているのだ。

 冗談では済まない一撃一撃を必死にかわしながら、しかしあたしの脳だけは冷静に状況を分析していた。どう動くべきか。どう戦うべきか。

 あまりに速すぎて視認するのもやっとだが、よくよく観察すると葉丘の動きはボクサーのそれによく似ていた。洗練された足裁きに、体重のすべてを乗せきった重い一撃。

 しかし間合いの外から的確な一撃を叩き込んでくるタイプではなく、とにかく相手に近付いてラッシュをかけてくる完全なインファイタータイプだ。付け入るならそこだと思った。

 速くて重い。だけどそれだけ。

 感情に任せて拳を振り回してくる分――読みやすい。

「大口叩いときに、ちょろちょろ逃げ回るだけかぁッ!」

 一瞬たりとも目を逸らすことなく、自分の呼吸を相手の呼吸に合わせていく。反発させるのではなく、同調させる。視覚に頼ってから回避するという工程を、徐々に、徐々に、感覚での回避に変えていく。

 見えるだけの動きが、少しずつ読めるようになってくる。その瞬間の動きだけではなく、二手三手先まで予測できるようになる。

 右、右、左。ジャブ、フック、ストレート。

 ――ここッ!

「だぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 体を引きながら攻撃をかわし、伸びきった相手の腕に蹴脚を叩き込む。

「――ッ! ぐ、あぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 入った。腕関節のど真ん中。無理な体勢からの一撃だったから体重は乗りきらなかったけれど、手ごたえは十分。

 攻撃の手を止めてのけぞる葉丘の懐に潜り込み、あたしはすかさずもう一発、今度こそ渾身の重さを込めた右脚を繰り出した。

「くぅっ……!」

 残った左腕でガードされる――が、関係ない。そのまま蹴り抜く!

「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 右足に伝わる重みを、力任せに跳ね飛ばした。あたしより一回り大きな葉丘の体が宙に舞い、背中から寮の外壁にぶつかって激しい音を打ち鳴らす。

 しばし、裏庭に不気味な静寂が流れた。

 誰かがごくりと息を飲み込む音が聞こえて、やがて――弾けた。


「――うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」「あの新入り、やりやがったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」「そんな馬鹿なぁぁぁぁぁぁっ!?」「アニキぃぃ! 立ってください、アニキーーーーー!」


 悲鳴と歓声の入り混じった大音声。そこに紛れて、珊瑚のまんまるな瞳が呆けたようにあたしを見つめていた。

「さ、さ、五月雨さん……ままま、まじですか? や、やっちゃったですか?」

「……いや、まだだ」

 鳴り止まぬギャラリーたちの絶叫の中、そんなあたしの予感は的中する。

 壁に背をつき、がくりと頭を垂れる葉丘は――しかし未だに膝を付いていなかった。

「……五、月、雨ぇぇぇぇ……!」

 鬼人の形相で顔を起こす葉丘。そうだろうと思っていた。右脚を蹴り抜く間際、ふっと爪先から重みが消えていたから。あれは、葉丘が即座の判断で自ら体を後方に跳ばしたからだ。

 攻めの技術はいくらでも理論で学べるが、そういった守りの技術は実戦を積んで体で覚えるしかない。これは紛れもなくこの男が歴戦の強者である証拠だ。

「なめくさり、よって……ッ!」

 だが、少なくとも最初にカウンターを入れた右腕はもう使い物にならないはずだ。あれは完全に入っていた。骨が折れたか、それでなくとも筋の何本かは確実に切れているはず。

 よろよろと体を起こし、葉丘は再びあたしと対峙する。

「……まだやるつもりっすか?」

 葉丘が強いことは認める。それでも武器を片方失った相手に負ける気は微塵もしなかった。これ以上は無駄な戦いになる。確かな実力者だからこそ、葉丘もそれはわかっているはずだ。

 けれど。

 葉丘の口元に浮いたのは苦悶でもなければ憤怒でもなく――笑いだった。

「ハっ――ハァッハッハッハッハッハッハっはっはっはっはっはっはっはっはっは!」

 瞬間、空気がざわりと鳴動した。

「後悔せぇや――」

 夜の帳を引き裂くように、

「――五月雨ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

 怒号が、天を貫いた。

 直後、葉丘の肉体が内側からめりめりと音をたてて盛り上がっていく。両拳が上腕が肩口が首が胸部が腹部が両脚が、人ならぬ異形の姿へと形を変えていく。その姿を目の当たりにして、あたしはようやく葉丘の正体を知った――いや、思い出した。

 これまで正義の味方として幾度となく越えてきた戦いの中で、何度かは本気で死線をくぐらされるような戦いもあった。そして、そんな戦いの場にはいつも、異形なるもの――怪人の姿があった。

 こいつだ。

 その体は銃弾すら通さず、その拳は巨大な岩石をまるで豆腐のように砕き割る。

 人間とは根本的に存在を異にするもの。

「ふぅぅぅぅ…………」

 全身を覆う鎧のようなウロコ、頭から生えた二本の巨大な角。ぎらぎらと輝く瞳はさらに真っ赤に充血し、変化前より体は二回りも巨大化している。

 猛禽のごとき瞳が、ぎょろりとあたしに向けられた。

「キサンも変身せえや。第二ラウンド開始じゃ」

 怪人相手に太刀打ちできる人間なんてそうそういない。生身の葉丘相手にもしのぎを削らされていたあたしに、この状態での勝機は万に一つも存在しなかった。

 この状況を打開するには、言われたようにあたしも変身するしかない。家を飛び出してきたその当日からサミダレンジャーに変身するというのはかなり気が咎めたが、生死を賭けたこの状況でそんな悠長なことは言っていられないだろう。

 覚悟を決めて、パジャマの右袖をめくった。そこには鉛色の腕輪が装着されている。名をサミダレチェンジャーと言い、装着者の意思に呼応してパワースーツを分子間構築する腕輪だ。

 左手を当てて、念を込める。そうすると鉛色の腕輪が徐々に色を帯びて発光してくるのだ。あたしの場合は青色に。

「え……?」

 だが、なぜかサミダレチェンジャーはいつまで経っても発光の兆しを見せなかった。

 おかしい。なぜか変身できない。そうしている間にも葉丘は一歩、また一歩とあたしとの距離を詰めてくる。

「……なるほど。本気で痛い目を見んとわからんようじゃのう」

 ゆらりと異形の巨躯が揺れる。

 ……やばい。ちょっとこれは、シャレにならない気がする。

 あたしたちを隔てるわずかな距離の間に存在するのは、どれだけ思考を巡らせても意味のない圧倒的な実力差。

「あの世で悔やめや、五月雨」

 視界から音もなく葉丘の姿が消える。まったく見えない。

 目の前が真っ白になって、あたしはなす術もなくその場に立ち尽くすことしかできずにいた。


「――何をしているんですか」


 眼前に長身痩躯の男性の背中が現れたのは、ちょうどその時のことだった。

 いったい何が起こったのかすぐには理解できなかった。葉丘と小暮さんがその場で互いに睨み合っているのを見て、ようやくあたしは、小暮さんに助けてもらったのだと理解した。

「……見てわからんか?」

 その気になればすべてを貫けるはずの拳を、小暮さんの額の寸前でぴたりと止める葉丘。

 その小暮さんの両手には二本の日本刀が収まっていて、交差するその切っ先もまた同様に、葉丘の喉元寸前で止まっていた。

「何をしているんですかと聞いています」

「……ちっ。相変わらず頭の固い奴じゃのう」

 あからさまに不機嫌な様子で舌打ちをしながら、葉丘は振り上げた拳を下ろす。それから全身の力を抜いて、怪人の姿から再び人間の姿へと戻っていった。

「小暮のせいで興が削げたわ。命拾いしたのう、五月雨」

 そのまま踵を返して寮へと戻っていく。窓からあたしたちを見下ろしていたギャラリーたちも、それで幕引きとばかりに一斉に部屋の中へと顔を引っ込めていった。

 あれだけの喧騒に包まれていた裏庭が、一瞬で静寂に包まれる。

 ……あたし、助かったのか?

「五月雨さんっ」

 その場にへたり込む寸前のあたしの体を、珊瑚がすかさず支えてくれた。小暮さんも刀を鞘に納めると、無表情ながらもあたしの様子を窺ってくる。

「五月雨さん、大丈夫ですか?」

「……はい。大丈夫っす」

 呆けたように自分の手を握る。手を開く。ぐーぱーぐーぱーと繰り返し、一度は離れた意識と体を繋ぎ直していく。ようやく全身に広がっていく生の実感。

「すいません。もっと早く駆けつけられたら良かったのですが」

「……いや、ありがとうございました。小暮さんが来てくれなかったら、今ごろは……」

「いえ。寮でのトラブルに対処するのが僕の仕事ですから」

 まだ心臓が高鳴っている。久しぶりに本気で感じた死の恐怖。あたしは必死に心を落ち着かせて、もう一度小暮さんにお礼を言った。

「珊瑚も、もう大丈夫だから。ありがとう」

 いまだ不安げなまなざしを浮かべたまま、珊瑚は名残惜しそうにあたしから離れる。もう平気だと何度伝えても彼女の強張った表情は変わらなかった。

「ひとつ聞いてもいいですか、五月雨さん」

 そんなやり取りを見守りながら、ふいに小暮さんが口を開く。

「どうして変身しなかったんですか」

 ……しなかったのではない。できなかったのだ。

 こんなの初めてのことだった。今まではどれだけ変身したくなくても変身できていたというのに、どうしてあの状況でサミダレチェンジャーはぴくりとも反応してくれなかったのか。

 小暮さんの質問に、あたしはけっきょく答えることができなかった。

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