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#1話 正義の味方なんて大嫌い

 あたしは自分の家が嫌いだ。

 多かれ少なかれ、誰にだって自分の家に気に入らない部分はあるだろう。

 ただ、あたしの場合は他の人とは少しだけ事情が違ってて――。


  * * *


 久しぶりになんの予定もない日曜日。ぽかぽかと暖かいお昼過ぎ、いつものスーパーで買い物を済ませ、今まさに夕食の支度に取り掛かろうとしているときのこと。

 手を洗って食材の下ごしらえをしていると、廊下のほうからばたばたという騒々しい足音が聞こえてきた。こんな節操のない足音をたてる人間は我が家にひとりしか存在しない。

「ねーちゃん、今日の夕飯なにー?」

 あたしは包丁の手を止めて、声の主のほうを振り返る。

「カレーだよ」

「マジで? うおー、やったー!」

 スポーツ刈りのやんちゃ坊主。この春から中学生になったばかりの弟の黄介が、全身ごとダイナミックな万歳をしてみせる。

「ん、なにこれ」

 ひょいとキッチンを覗き込みながら、そこに並んでいる食材を見て大きな目を輝かせる黄介。その視線の先には色鮮やかな各種スパイスが器に盛られていた。パプリカ、ガラムマサラ、カイエン、ターメリック。最近はこんなものまでスーパーで簡単に手に入る。

「今日はキーマカレーにしてみようと思ってな」

「キーマカレー? なにそれ、うまいの?」

「インドの本場のカレー。初挑戦だけど、味は保証するぞ。なんてったってあたしが作るんだからな」

「へー。なんかすげえね。楽しみだなー」

 口元を緩めて、まだ見ぬ夕食に想いを馳せる黄介。やんちゃで手のかかる弟だが、こういうところは素直に可愛いと思う。

 しかしこいつ、ついさっき昼食にエビピラフをかるく三人前平らげて、それから三時のおやつにドーナツを四つだったか五つだったか、ばくばく食べていたばかりじゃなかったか。月日とともに高騰し続ける我が家のエンゲル係数は間違いなくこいつが原因だ。

「まだできないの?」

「できない。暇ならみどりとでも遊んでろ」

「へーい」

 生返事を返し、台所のすぐ隣にある子ども部屋の扉を勢いよく開け放つ黄介。

 部屋の中には末の妹のみどりがいた。リスみたいな仕草で一生懸命にビーズでアクセサリを作っているのがあたしの位置からも窺えた。

「みどりー! 遊ぶぞー!」

 目にかかるくらいの長い前髪が揺れて、澄んだ瞳がびくりと反応する。

「サッカーか? キャッチボールか? それともバスケがいいか?」

「お、おにいちゃん……? ……あ、わっ、ああぁぁ……」

 直後、みどりが泣きそうな顔を浮かべる。あんまりいきなりドアが開いたものだから、びっくりしてビーズを落っことしてしまったらしい。子ども部屋の床に小さい粒がばらばらと転がっていく。

「ほらほら、さっさと外行こうぜい。お天道様は待っちゃくれねえぜ」

「う、うぅぅ、ちょっと、ちょっと待ってよぉ……」

 それでもバカ黄介はぐいぐいと無理やりに妹の腕を引っ張って外へ連れていこうとする。みどりの涙目がいっそう潤む。

 あたしは無言で子ども部屋の中に入って、バカの頭に拳を落とした。

「いってーっ! 何すんだよ!」

「こっちの台詞だアホ! ああもう、こんなにばらばらになって……みどり、大丈夫か? 今拾ってやるから」

「……うん」

 こくりと小さく頷いて、浮かびかけていた涙を引っ込める。おう、泣かなかったな。えらいぞ。生糸みたいにさらさらのショートヘアを撫でてやって、それからふたり一緒に散らばったビーズを集めていく。

「暴力女ぁ」

 ごつん。「ぐはぁっ!」いい音。中身がない証拠だ。

「おまえも手伝え」

「うぅぅ……わかったよぉ、しゃーねえなあ」

 ぶつぶつ言いながらも、黄介もいちおう手伝ってはくれた。これでも悪気はなかったんだろう、たぶん。

 どうにかこうにかすべてのビーズを拾い終え、みどりに返す。

「ありがと、おねえちゃん……それに、おにいちゃん」

「いいってことよ。よし、それじゃあ遊びにいくぞ」

「なんで偉そうなんだあんたは」

 少しは反省しろ。

 というか、いくらなんでもみどり相手にサッカーやらキャッチボールやらはないだろう。そう思って口を挟もうとしたのだが――、

「うん。遊ぼ、おにいちゃん」

「よしきた!」

 みどりの手を握ると、黄介は満面の笑みを浮かべて外へと駆け出していった。

 腰に手を当てながらふたりの背中を見送って、あたしは再び夕飯の支度に戻る。

 台所の正面にはガラス窓がついていて、庭の様子を一望することができる。そこから黄介とみどりがサッカーボールを蹴り合っているのが見えた。といってもボールを持っているのはほとんどずっと黄介で、みどりは必死に足をぱたぱたさせながら黄介の背中を追いかけているという感じだったのだが。

 それでもまあ、あのふたりはあんな感じで意外に仲がいいので、あまりあたしが口を挟みすぎるのもよくない。どちらも楽しそうにしているのだからそれでいいだろう。

 微笑ましい気分で切った玉ねぎを炒めていく。そろそろスパイスを投入する頃合だろうか、というところでまたしても背中から声がかかった。

「青子ちゃーん……」

 今度は母だった。なにやら元気のない顔で台所の入り口に立っている。ふらふらとした足取りでこちらへと歩み寄ってくると、何を思ったか、母はおもむろに腕を広げてあたしの背中に抱きついてきた。

「ちょ、おいっ、何すんだよっ」

 バランスを崩した拍子に、フライパンの中身がおもいっきり宙を舞う。あわやというところでどうにか空中キャッチ。

「誰もお母さんの相手してくれないのよぉ……黄介くんもみどりちゃんもお外に遊びに行っちゃうし、お母さんにはもう青子ちゃんしかいないのよぉ」

 それでも母はあたしの事情なんてまったく気にせず、抱きしめる腕にいっそう力を込める。再び崩れるバランスと共に、燃えさかるコンロの炎があたしの視界いっぱいに広がる。

「離れろ、ちょ、ほんと離れろってば! つっ、熱っ、火が、火が髪にーっ!」

「かまってぇー、青子ちゃーん」

「うおおー!」

 どたばたどたばた。

 無我の境地でコンロの火を止める。このまま騒ぎが続いていたら、本気でわが家が火事騒動になっていた可能性もあっただろう。あとあたしはアフロになっていただろう。

 どうにかフライパンを置いたところで、とうとう母に押し倒された。なんだこのシチュエーション。

「……あのな、母さん」

「なぁに?」

 あたしを台所の床に組み敷きながら、母はにこにこ笑っている。実の娘ながらこの人の思考回路はどうなっているんだろうと常々思う。

「どけ」

「……うぅぅ、青子ちゃんが冷たい」

「あたしは熱かった」

 体の上から重みが消えて、ようやくあたしは自由になった。

 当年とって三十七歳。十八のときにあたしを産んだ母は、実年齢も若いが外見はもっと若い。十人に年齢を聞けば半分の五人は二十代と答えるだろう。

 すらりと伸びた長い手足に整った容姿に張りのある肌。あたしと並んで歩けば百パーセント姉妹に見られる。身内の贔屓目を抜きにしても美人の母だと思う。

 けれど、年齢より外見よりなにより、中身がいちばん若い。若いというか、子どもそのまんまだ。十歳のみどりのほうがまだぜんぜん良識がある。

「……いつも言ってるけど、火と包丁を使ってるときに邪魔しないこと。危ないから。ほんとに」

「でもぉ」

「でもじゃない。返事」

「はぁい」

 どっちが親だよ。

 箱入り娘で育てられ、そのくせ駆け落ちも同然で実家を飛び出してきた母は、この通りとにかく世間知らず。おまけにいっさいの家事ができない。料理をさせれば台所が爆発し、掃除をさせれば家具を片っ端から破壊して回り、洗濯をさせれば衣服をことごとく引き裂いてしまう。もはや一種の才能だ。

 こんな風に反面教師を地でいく母は、しかしこう見えて勤め人だ。それも、婦人用ファッション誌の専属モデル。

 職場の同僚の中ではぶっちぎりで年長だそうだが、契約から何年経ってもルックスとスタイルの変わらない母は現場でとても重宝されている存在らしい。まあ、他に比べるものがないほど天職だと思う。

「いい匂いねぇ」

 すんすんと鼻を鳴らしながらキッチンを覗き込んでくる母。その仕草はつい先ほどの黄介を彷彿とさせる。

「この粉、なぁに?」

「スパイス」

 なめたりするなよと注意しようとしたら、すでに母はぺろりと人差し指をなめているところだった。それも、よりにもよって選んだのはガラムマサラ。あんた辛いの苦手だったでしょうが。

「~~っ!」

 案の定、見る見るうちに顔を真っ赤にして母はどこかへと走り去っていってしまった。あたしは溜め息とともにその背中を見送った。

 邪魔する相手もいなくなったことだし、今度こそ夕飯の支度を終わらせよう。そう思ってフライパンに手をかけた、その直後のことだった。

「~♪~♪」

 ポケットの中の携帯電話が無機質な着信メロディーを歌いだす。ディスプレイに表示される着信相手の名を見て、あたしはがくりと肩を落とした。

 正直出るのも嫌だったが、出なければ出ないであとあと面倒くさいことになるので、仕方なく通話ボタンを押す。

 直後、鼓膜を破らんばかりの大声があたしの耳を貫いた。

「緊急集合だ! 今から五分以内に全員連れてこい! わかったな!」

 こちらが何か言葉を発するよりも先に用件だけを並べ挙げ、返事も待たずに電話を切られる。あたしはしばらく細目で携帯の終話画面を眺めつつ、この日いちばん大きな溜め息を吐き出した。

 緊急集合って言われても、どこに行けばいいんだっつの。

 せめてそれくらい伝えろ、アホ親父。


  * * *


 あたしの住んでいる光洋町には、悪の秘密結社が存在する。

 彼らはその名をゴクドーと言い、町の至るところに出現しては悪さを働く、文字通りの悪の組織である。

 現代医学の粋を集めた『怪人』という改造人間を保有するゴクドーは、警察でさえまったく手がつけられないほどの圧倒的戦力を保持している。そんな奴らを野放しにしていては、光洋町はあっという間に荒れ野原と化してしまうことだろう。

 だが、いつの世も悪は滅びる運命にある。

 現代科学の粋を極めた力をそのパワースーツに秘める、光洋町を守る正義の味方。

 ……というのが、あたしたちの職業だ。

「燃える紅蓮の赤、サミダレレッド!」

「咲き誇る春風の桃色、サミダレピンク♪」

 光洋町の平和を守る正義の味方。

 冗談でもなんでもなく、うちは代々、そんなことを家業として営んでいる。

 代々といっても歴史はそう古くなく、父の代で三代目。要するに、こんな馬鹿みたいなことを始めたのはあたしのひいじいちゃんというわけだ。

「駆け抜ける稲妻の黄色ー、腹へったー。もう無理一歩も動けない。ねーちゃん晩飯まだー?」

「え……えっと……癒す森林の緑……あ、あの、サミダレグリーン、です……」

 とはいえ、人々の暮らしを脅かす悪の組織が世に溢れ返っている現代、あたしたちのような正義の味方はそう珍しい存在でもなくなった。

 隣町でもそのまた隣の町でも、今日もどこかで正義の味方と悪の組織が戦いを繰り広げている。あたしたちとゴクドーもまたそのうちの一組であるわけで。

「やい青子! あとはてめえだけだぞ、さっさと名乗りをあげやがれ! いつまで経っても五人揃わねえだろうが!」

「あーはいはい……どうも、サミダレブルーです」

 正義の味方を象徴するパワースーツに身を包み、あたしは溜め息混じりに自分の異名を口にする。母なる大海の青、サミダレブルー。それが本当の口上なのだが、長ったらしい上にこっ恥ずかしくていちいち言っていられない。奴さんもあたしたちのことなんて紹介されるまでもなくご存知だろう。

 先にも述べたように、正義の味方というのはれっきとした職業である。

 正式な正義の味方になるためには、生き地獄を見るような養成学校での訓練を経て、倍率数百倍とも言われる超難関の国家試験を合格しなければならない。そうして集められた超エリート集団が日本各地に輩出され、そこで戦隊を結成するというシステムになっている。

「俺たち一家が来たからにはてめえらの悪行もおしまいだぜ! 光洋町の平和を乱す輩は何人たりとも許さねえ!」

 そういうもののはずなのに、うちはなぜか世襲制、それも一家ぐるみで正義の味方なんてものをやっている。

 なぜかといえば、ひいじいちゃんの代の頃のお偉いさんが書面ではっきりと認めてしまったからだ。『五月雨家を世襲制の正義の味方として認定する』。マジである。

 そもそもパワースーツというものを発明したのがうちのひいじいちゃんで、当時の悪の組織を相手にまさに七面六腑の大活躍を見せていたらしい戦隊メンバーがたまたま五月雨家の人間だけによって構成されていたことから、こんな書状が出てしまったらしいとのこと。この認定証は、父の手によって今でもうちの神棚に厳重に保管されている。

「我ら五人揃って、光洋戦隊! サミダレンジャー!」

「サミダレンジャ~っ♪」

「腹へったー」

「……サミダ……レンジャー」

「…………」

 そりゃもう見事なまでに五人揃ってなかった。

 三代目のサミダレンジャー、こんなですけどいいんですかね。ひいじいちゃんも草葉の陰で泣いてるよきっと。

「おらおらおらおらぁっ! 雑魚はどいてやがれっ! あと桃恵、いちいち俺の後ろにくっついてんじゃねえ邪魔だっつの!」

「きゃー、きゃー、きゃ~っ!」

 ちなみにこのありがたくない書面には、五月雨家を継ぐ条件は『長子』であると明記されている。こういうのってふつう長男が継ぐものなのじゃないかと思うのだが、それでいくとこの家の跡継ぎはあたしということになるらしい。

「おい黄介てめえなに寝転んでんだよ、ここは家の中じゃねえぞ待ってても飯は出ねえんだよ! あとみどりはどこ行ったんだよ! おいみどり! みどりー! なんで正義の味方が敵前逃亡してんだよさっさと戻ってこいやぁぁ! んでもってそこ、なに溜め息なんか吐いてんだよ青子てめえ! 敵はすぐそこだぞ、よそ見してねえで戦えこの野郎!」

 冗談じゃない。こんな家業を継ぐのなんてまっぴらだ。

 あたしには夢があった。

「うぃー……だめだー、腹ペコでまっすぐ歩けねえやい」

「お、おにいちゃん、だいじょうぶ……?」

 物心ついた時にはもう、あたしは家事のできない母の代わりに台所を預かっていた。最初のうちはただただ大変なだけだったが、いつからか食卓で聞く「おいしい」の声が増えてきたことに気付いて、だんだん料理そのものが好きになっていた。

 はっきりと心に決めたのはいつだったか覚えていないけれど、いつしかあたしは、料理の道で生きていきたいと思うようになっていた。

 いつか母にそのことを話したら、「青子ちゃんならできるわよ」と笑って応援してくれた。とても嬉しかったのを覚えている。

 高校を卒業して、専門学校に入って、調理師免許を取って。そんな未来を思い描いていた。

「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! くっそ、敵が多すぎるっつうの……っ!」

「赤雄さん、ファイトっ♪」

「ファイトっ、じゃねえよ! てめえも戦え! つーかガキどもはどこ行ったんだよ!」

 そう思っていたのに、けっきょく高校卒業後、あたしはますます本格的に家の仕事を手伝わされるようになっていた。

 理由はただひとつ。父が許してくれなかったからだ。

 頑なに、あたしを跡継ぎにすると言って聞かなかったからだ。

「てめぇらぁぁぁぁぁぁぁぁ! 戦えつってんだろうがぁぁぁぁぁぁぁ!」

 だからあたしは、こんな自分の家が嫌いなのだ。


  * * *


 その日の晩。

「今日の反省会を始めんぞ」

 食卓に並んだキーマカレーを黙々と食しながら、あたしはそんな父の言葉を極力頭の外に追い出すよう試みていた。うん、初めて作ったにしては上出来じゃないか。

 そのはずなのに、スプーンを持つ手はなかなか進まなかった。

 味覚の上ではおいしいとわかるのに、脳がそれをなかなか認識してくれない。原因はどう考えてもこの場に流れる重苦しい空気のせいだ。

「まずはてめえら全員。遅えんだよ、来るのが。奴さんはこっちが揃うのを待っちゃくれねえんだぞ? あぁ? わかってんのかよ、おい」

 長方形のテーブルのいちばん先頭に座る父が、明らかに不機嫌とわかる口調であたしたち全員を睨みつける。それだけでご飯が一気にまずくなった。

 傍から見れば二枚目なんだか三枚目なんだかよくわからない、無精ひげの生えた単なる中年のおっさん。まさかこんな冴えないおやじが光洋町の平和を守るサミダレンジャーのリーダーだとは誰も思うまい。

「場所がどこかを言わなかったのは親父だろうが。それですぐ駆けつけろっていうほうが無理な話だろ」

「なんだ青子。俺の言うことに文句あんのか」

「……はぁ。ないよ、何にも。勝手に反省会でもなんでも続きをどうぞ」

 この偏屈おやじに何を言ったってまともに取り合いやしない。絵に描いたような亭主関白。反省会と称されたこの席であたしごときの発言が認められるわけがないのだ。

 ひとつ咳払いをして、父は視線を黄介に向ける。

「おい、黄介。てめえもだ」

「んむ?」

 その場の空気なんてまったく気にせず、ひとり猛然とカレーをかきこんでいた黄介の図太さには見習うべきところがあるかもしれない。

「てめえ、なんなんだよ今日のあれはよ」

「がつがつがつ……ふぃー。ねーちゃん、おかわり」

「はいよ。ご飯は?」

「大盛りで」

「聞けっつってんだよ!」

「なんだよー。しょうがないじゃん。腹が減っては戦はできぬってね」

「あんだけ昼飯食っといてかよ。てめえの腹はどうなってんだよ」

「育ち盛りだからねい。あ、ねーちゃんおかわり」

 さっきのおかわりを持ってきてからものの十数秒と経っていない。あんたの腹はブラックホールか。

「……てめえもだよ、桃恵」

「わたし?」

 これにはさすがの父も呆れたように溜め息を漏らすことしかできず、今度は話題の矛先を母へと向ける。

「なんで戦闘中、ずっと俺の背中に隠れてんだよ。戦えよ。つーか邪魔なんだよ」

「そんなこと言われてもぉ……怖いものは怖いんだもん」

 平気でだもんとか言う三十七歳のほうがあたしは怖い。

「んなこと言ってて正義の味方が務まるか。てめえは誰の嫁だ? あぁ?」

「だってぇ……赤雄さんの背中、大きくて安心できるから」

「なっ……いきなり何言ってやがんだ。ガキどもの前だぞ」

「ほんとのことだもん。ねえ、赤雄さん……」

「おい、よせっつの、桃恵」

 唐突に盛り上がり始める熟年バカップルからあたしは真顔で目を逸らした。いったいこの偏屈ヒゲおやじのどこがいいのかわからないけど、見てのとおり、母はそんな父にベタ惚れなのだった。

「がつがつがつがつがつ」

 そんな中でも一向にスプーンを休めないこの弟はもはや悟りの境地に達しているといって過言ではないだろう。すげえなあんた。

 そのとき、不意にみどりと視線が合った。この場であたしと気持ちを共有できる唯一の人物だ。無言のまま目だけで気持ちを伝え合う。

「……えへへ」

 あたしが肩をすくめて見せると、みどりははにかむようにくすくす笑った。この子は我が家に舞い降りた天使に違いない。ささくれ立った心が癒されていくのを実感していると、

「おい、みどり」

 そんな穏やかな空気を引き裂く父の声に、みどりの小さな体がびくりと震える。

「桃恵も桃恵だが、まだ戦いの場に立ってただけマシだ。てめえはなんなんだ? 最初から最後までずっと隅っこで縮こまってただけじゃねえか」

「……」

「怖えのは仕方ねえよ。誰だって最初はそんなもんだ。でもな、いつまでもそれじゃいけねえんだよ。今日はおまえ抜きでもなんとかなったけどな、そのうち俺たちだけじゃ勝てねえ敵だって出てくるんだよ。そうなった時、てめえはどうするんだ? それでもまだ隅っこでびくびく震えてるだけなのか?」

「……」

 みどりは何も答えず、ぐっと唇を引き結んで感情が溢れ出してしまわぬよう堪えている。

 そんな痛ましい横顔を目の当たりにして、あたしは思わず席を立ち上がっていた。

「言い過ぎだろ、親父」

 その場にいる全員の視線があたしに集まる。あの黄介でさえもスプーンを止めてあたしを見上げていた。

 決然たる意思を込めて父を睨む。父もまた、身じろぎひとつすることなくあたしを睨み返してくる。

「五月雨家の家訓じゃ、生まれた子どもは十歳から正義の味方に加わると決まってる。中身が半人前でも身分はもう一人前なんだよ。言うこたぁ言わなきゃいけねえだろうが。そうじゃなきゃ周りにも示しがつかねえ」

「家訓ってなんだよ。昔は昔、今は今だろ。周りがなんだよ。あんたは世間体ばっかり気にしてるだけじゃないか」

「……親を馬鹿にすんじゃねえぞ? だいたい、てめえだって十歳から正義の味方として悪の組織と戦ってきたじゃねえか。だったらみどりにできねえことはねえだろ」

「……あたしはあたし、みどりはみどりだろ」

 あたしは小さい頃から女子としては体の大きいほうで、成長期を終えた今では百七十センチを越える背丈になっていた。日常生活の損得で言えばマイナスのほうが多いが、正義の味方として戦う分にはあたしはそれでまだ良かった。だが、みどりは違う。

「みどりは運動だって苦手で、あたしと違って気も優しくて、まだこんなに小さいんだよ。なんでそんな子にそこまで酷いことを言えるんだよ。親父は間違ってる」

「違わねえよ」

 そんなあたしの言葉は、たったの一言で否定された。

「特例はねえ。俺の親父も爺ちゃんも、そうして五月雨の家を守ってきた。それを俺が変えるわけにゃいかねえんだよ」

「…………」

 どれだけ言っても届かない。

 あたしはついに言い返すことも諦めて、無言のまま腰を下ろした。言い返しても仕方ない。この人は絶対にわかっちゃくれない。

 テーブルに視線を落としながら奥歯を噛み締めるあたしに、父は追い討ちとばかりにさらに言葉をぶつけてくる。

「青子、てめえにも言うぞ。なんだてめえ、今日のアレは。戦ってる最中に溜め息なんか吐きやがってよ。やる気あんのか? やる気がねえなら戦場になんか立つんじゃねえ。それでも五月雨家の跡継ぎかよ」

 ぷつりと、自分の頭の中で何かが切れる音がした。

「……あたしは跡継ぎになった覚えなんかねえよ!」

 叩きつけたテーブルが軋みをあげる。自分のぶんのカレーの皿がひっくり返った。

 最悪だった。これ以上この場にいたら何を言ってしまうかわからない。あたしは勢いよく踵を返すと、そのままリビングを飛び出して自分の部屋へと駆けていった。背中から父が声を荒げてあたしの名前を呼ぶのが聞こえていたけれど、それでも足を止めることはできなかった。

 どうしてこんな思いをしなければならないのだろう。あたしが悪いのだろうか。そんなわけがない。何もかもあのバカ親父が悪い。

 しばらく必死に気持ちを噛み殺していると、不意にこんこんと鳴るノックの音に気付いた。誰だろう。もしも父だったとしたら、扉ごと顔面をぶち抜いてやろう。

「ねーちゃん、おれだけど」

 しかし相手は黄介だった。いつも無遠慮なこの弟がノックをするなんて、それこそ意外ではあったが。

「洗い物はおれとみどりで片付けとくよ。父ちゃんのことも、まあ、おれがなんとかしとくからさ。だからねーちゃん、ちょっと散歩でもしてきたら。外の空気吸ったらさ、少しは気分もよくなるっしょ」

 いつもの調子で紡がれた黄介の言葉は、不覚にもあたしの心に染みた。胸に詰まっていた不快の栓が少しだけ溶ける。

「ねーちゃんの靴、ここに置いとくから。玄関からじゃ父ちゃんに見つかっちゃうかもしれないし、部屋の窓から出たらいいよ。そんじゃ気ぃつけて~」

 黄介はそれだけ言って部屋の前から離れていった。

 そんな弟の行動に、あたしは正直なところ、感動を通り越して驚きすら感じていた。あの無神経な黄介にこんな気遣いができるようになったなんて。

 あいつももう中学生だ。なんだかんだで、ちゃんと成長しているのだろう。

 それを言うなら、みどりだってそうだ。さっき父にあんなことを言われたのに、それでもあの子は泣かなかった。唇を引き結んでじっと我慢していた。気の弱い昔のみどりだったらすぐにわんわん泣き出していただろうに。

 みんな成長していく。どんどん先へ歩いていく。

 それなのにあたしは何をしているんだろう。このままじゃ、いつか黄介たちにも置いていかれる日が来るんじゃないだろうか――そんな思いが脳裏をよぎった。

「……散歩、ね」

 部屋の戸を開くと、そこにはあたしのスニーカーがなぜか左右逆向きで置かれていた。なんだかシュールな絵面で、思わずぷっと吹き出してしまう。なんの意味があるんだよそれ。

 ほんの少し気持ちが軽くなったのを自覚して、部屋の窓を開ける。繋がり合った境界線から流れ込んでくる外気はほんの少し肌寒かった。クローゼットから黒のジャケットコートを取り出して部屋着の上に羽織り、窓から外へと飛び降りた。

 街灯の明かりがほんのりと照らす夜道を歩きながら、あたしは先ほどの父とのやり取りを思い返していた。

 ああして父と衝突するのは一度や二度の話ではなかった。それどころかもう、いったい何度同じことを話したかわからない。

 あたしたちがこんな風になってしまったのはいつからだっただろうか。昔はもう少し、仲の良い――とまではいかなくても、普通の親子だったと思うのに。

 今のこの関係を決定付けてしまったのは、高校三年生の春、担任に提出する進路調査書に父のサインを貰いにいった時のこと。


『料理だぁ? そんなもん、うちでもいつだって作れるじゃねえか。馬鹿言ってんじゃねえよ。てめえはうちの跡継ぎだろが』


 あたしの夢は、父にとっては『そんなもん』と呼べてしまう程度のものだったらしい。そして父はどうあってもあたしを跡継ぎにする気らしかった。あたしの意思など関係なしに。

 あたしがはっきりと父を憎むようになったのはその日から。

 正義の味方を嫌いになったのもその日からだ。

「はぁ――」

 吐き出した溜め息はなかなか喉元を通り抜けてくれず、胸につかえた気持ちのすべてを吐き出してしまうまでにはずいぶんと時間を要した。

 この家はもはや、あたしにとっては自分を縛る鎖以外の何物でもない。五月雨の名を背負い続ける限り、あたしに未来が訪れることは永遠にない。

 ――この家を、出よう。

 父との衝突のたびに蓄積されてきた気持ちが、今日の一件でとうとう結論を成した。

 家を出て仕事をしてお金を稼いで、そのお金で料理を勉強するための専門学校に行く。あるいはどこか住み込みで雇ってもらえる店を探すのもいいかもしれない。

 なんにせよ、学生時代のバイトすら父に許してもらえず、先立つものがまったくないあたしにとって、当面の問題は住む場所だ。あたしみたいな高卒無資格の小娘を雇ってもらえる場所があるかさえそもそも微妙なのに、果たしてそんなところが都合よく見つかるだろうか。

「これはこれは。こんなお嬢さんが夜道の一人歩きとは、あまり感心しませんね」

 ――背後から不意に何者かの声が聞こえたのは、ちょうどそんなことを考えていたときだった。

 すかさず振り向いて相手の姿を視認する。歳はおそらく三十台後半、筋骨隆々とした巨躯に真っ白なスーツをまとい、黒光りするサングラスをかけ、おまけにスキンヘッドといった風体の男性。

 正義の味方として培った経験があたしの体に警鐘を鳴らすまでもなく、どこからどう見てもやばい人だった。

 瞳がサングラスで隠されているためにその表情のすべては窺えない。だが、口の両端ははっきりと上向きになっている。ぞくりと背筋が粟立った。

「少しばかりお話があるのですが、お付き合いいただけないでしょうか」

「――ッ!」

 直後、反射的にその場から逃走を試みる。

 が、すぐに何か大きなものにぶつかって行く手を阻まれた。額をさすりながらぶつかった先に目線をやると、ついさっきまであたしの背後にいた男性が厚い胸板を張って仁王立ちしていた。全身を駆け抜ける危険信号。

「……あんた、どこのどいつだ」

 それは明らかに物理法則を無視した動きだった。ただの人間にこんな動きができるわけがない。現代世界でこんな人間離れした動きができるとしたら、パワースーツで全身の機能を強化された正義の味方か、あるいは――ゴクドー有する、怪人。

 すぐさま身を強張らせる。油断した。まさかこんなところで敵と対峙することになるなんて。

 だが、あたしの目の前に立ちふさがるスキンヘッドは、軽く頭を掻きながら「すいません、怪しい者ではないのですよ」と穏やかな口調で語った。

 どこからどう見ても怪しい風体でそんなことを言われてもまったく説得力がないのだが、少なくとも言葉の調子から敵意は感じられない。

「私、こういう者です」

 続いて手渡されたのは一枚の名刺だった。暗がりの中では小さな文字を読むのに苦労したけれど、なんとか読み取れた文字列にはこう書いてあった。


 悪の秘密結社ゴクドー 代表取締役 獄道京一郎


「なっ……!?」

 ちょっと待て。代表取締役だって……?

「いえいえ、今日は争いにきたわけではありませんので。そう身構えないでください、五月雨青子さん」

「……あたしの名前までちゃんと知ってるのかよ。戦いにきたわけじゃないっていうなら、ゴクドーのトップがあたしにいったい何の用だよ」

 敵意をたっぷり含ませたあたしの言葉に、獄道と名乗った男性はおもむろにサングラスを外すと、まっすぐにあたしを見据えながら言った。

「単刀直入にお伺いいたします。五月雨さんは、正義の味方を続けていることに不満をお持ちではないでしょうか?」

 意外なほどに透き通った瞳に見つめられて、あたしは一瞬、返す言葉を失った。

 どうしてこの人は、あたしがたった今思っていたばかりのことを口にしているのだろう。

「……どうして、そんなことを聞く?」

 言葉から半分ほど敵意を拭って、相手の真意を探る。

「ほんの少し長い話になりそうです。もし五月雨さんに聞いてくれる気があるのなら、そちらの公園でお話しいたしましょう」

 ふっと微笑を漏らしながら、男はあたしの返事を待つことなく公園へ向かっていった。一見すると戦う気はないように見えるが、この先に罠が待ち構えていないとも限らない。果たして信じるに値する言葉か、否か。


 ――五月雨さんは、正義の味方を続けていることに不満をお持ちではないでしょうか?


「……わかった。話を聞くよ」

 あたしは小さくひとつ頷いて、先を行く大きな背中の後を追った。


  * * *


「あなたがた正義の味方が国に雇われているように、我々もまた雇われの身なのです」

 きこきことブランコを漕ぎながら(とてもシュールな光景だ)、獄道は開口一番そんなことを言った。

「悪の組織と一口に言ってもさまざまな形態がありましてね。それらをひとつに纏め上げている『日本征服機関』という組織がありまして。縮めて機関と通称しておりますが、我々ゴクドーはその傘下、言うところの子会社にあたるわけです」

「……どうして、そんなことを教える?」

「雇われているということは、会社全体でそれなりの業績を上げねばならないわけです。悪の組織とはいえ、要するにサラリーマンと変わらないわけですから。……ですがここ数年、悲しくも我々の業績はさっぱり振るいません。理由がなぜだかおわかりですか?」

 わかるかわからないかといえば、わかる。

 悪の組織が業績を上げられない理由なんてひとつしかないだろう。

「そうです。あなたがたがいるからです。もっとはっきり言うならば、あなたがたが強すぎて我々では相手にならないからです」

 本当にはっきり言う。その哀愁漂う表情に、少しだけ罪悪感を覚えた。

 そうなのだ。あたしたちはあれだけ適当に戦っておきながら、ゴクドーとの戦いに負けたことはこれまで一度もない。それはまあ、危ない思いをしたことは何度かあるけれど――結局のところ、いつも父が一人でなんとかしてしまうからだ。

 あまり認めたくないが、父はあれで本当に強い。あたしたちが戦闘に加わっている意味はほとんどないといっても過言ではないだろう。というかあれだけ強いんだから一人でやってくれといつも思う。

「このままの状況が続けば我々が機関に見放されてしまうのも時間の問題でしょう。地方に拠点を持たない悪の組織予備軍というのは山ほどありますからね。役に立たないとなれば即座に切り捨てられて代わりを補充されることになります。世知辛い」

「はぁ……」

「ですが私も生活ある部下を預かる身。この現状はなんとかせねばならないと思うわけです」

 きこきこ、きこきこ……きぃ。

 獄道はブランコを漕ぐ足を止めて、あたしの顔をじっと見つめて言った。

「お話は戻りますが、五月雨さん。あなたはご自身が正義の味方を続けていることに不満をお持ちのはずだ。違いますか?」

「……」

 なんでこの男がそれを知っているのか――なんて、わざわざ聞くまでもないか。普段の戦いからあれだけやる気のない素振りを見せていれば、それくらい誰だって気付くだろう。

「答えにくい質問であることは重々承知しております。ですから、私もこうして腹を割ってお話させていただいている。仮にも悪の組織の長たる人間が、個人的な理由で正義の味方相手に接触を試みたなどと知れれば、私は即座に社内での椅子を失ってしまうことになるでしょう。いえ、それならまだしも、最悪、消されてしまうかもしれません」

「……消されるってのは?」

「言葉通りの意味です」

「……そっすか」

 悪の組織の縦社会なんてあたしにはよくわからない。けれど、獄道のやくざみたいな風体も相まって、どうしてもそういった類の想像しか浮かんでこなかった。なんだか脅迫めいたものを感じずにはいられない。

「……信用してくれ、というのは不躾な言葉ですが、どうか私を信用してはいただけないでしょうか。すぐに首を縦に振ってくれというわけではありません。五月雨さんの本心を教えていただきたいのです」

 いや、それでも結局のところ。

 あたしは、誰かに自分の気持ちを聞いてほしかったのかもしれない。

「――あたしは、正義の味方なんて大嫌いです」

 その言葉は、驚くほどするりとあたしの喉元を通り抜けていった。

 自分の立場を考えれば、それは絶対に言ってはいけない一言。ましてや相手は悪の組織の代表取締役。

「ありがとうございます。これで私たちは共犯ですね」

 にっと少年のような笑みを浮かべる獄道を前に、なぜだかあたしも笑いたくなってきてしまう。ぜんぜん笑い事じゃないんだけど。

「もしよろしければ、その理由を聞かせてはいただけないでしょうか」

 ひとつ本音を漏らしてしまえば、ふたつもみっつも変わらない。あたしは自分の抱えてきた不満のすべてを獄道に語り聞かせた。あたしには夢があること。父のせいで夢を叶えられなかったこと。好きで正義の味方なんてものをやっているわけじゃないこと。いっそ家を出ようと思っていること。

 単なる小娘の愚痴でしかない話のひとつひとつを、獄道は静かに首を縦に振りながら、真剣な表情で聞いてくれた。

「そうですか……。いえ、心中お察しいたします。他人に敷かれたレールの上を歩むほどつまらない人生もありません。五月雨さんはまだお若いのですから、それくらいの冒険はしてみてもいいと思いますよ」

 正直、その言葉はとても嬉しかった。最後まで愚痴を聞いてくれて、なおかつあたしのやろうとしていることを認めてくれる人がそこにいる。その相手が、これまで戦い続けてきた悪の組織の長だというのだから皮肉なものだ。

 そんなことを考えていた矢先の、獄道の一言だった。


「五月雨さん。私たちと一緒に働く気はありませんか」


「……――え?」

「夢を叶えるにも先立つものは必要でしょう。うちには社員寮もありますし、しばらくゴクドーで地固めをしてみてはいかがでしょうか」

 呆気に取られているあたしに、獄道は相変わらず穏やかな口調で語った。

「すいません、元からそのつもりで今日のお話を持ちかけたのです。しかし双方に利益あることだと思いますよ。我々は五月雨さんを得ることでサミダレンジャーへの対抗力を増すことができる。五月雨さんも家を出て自分の夢を叶えるための第一歩が踏み出せる」

 これって、いわゆるヘッドハンティングというやつなのだろうか。

 突然のことでぜんぜん頭が回らない。あたしが――悪の組織に?

「すぐにはお返事をいただけなくても結構です。正義の味方を敵に回す覚悟ができたなら連絡をください。先ほどお渡しした名刺に私の連絡先が控えてありますので」

「いや、ちょっと、あの――」

「長話につき合わせてしまって申し訳ありませんでした。それでは、今日のところはこれで失礼しますね。色よい返事を期待しています」

 そう言い残して、獄道はブランコから立ち上がり、あたしに大きな背中を向けて公園を去っていった。

 獄道がいなくなってからも、あたしはしばらくその場でぼんやりと呆けていることしかできなかった。


  * * *


 部屋の明かりもほとんど消え、玄関の鍵も閉じられてしまった我が家。

「お。ねーちゃん、おかえり」

 仕方なく再び窓の外から自分の部屋に戻ると、そこにはなぜか黄介が待っていた。あたしのベッドに寝転がり、勝手にあたしの部屋のマンガを読み漁っている。

「だめだな、おれには少女マンガの面白さはわかんねーや。いつまで経っても惚れた腫れたで話がちっとも進まねえの。もっとこう、斬った張ったのズバーって感じのマンガのほうがいいよ」

 無邪気な笑顔を浮かべる弟。いつもなら勝手に人のマンガを読むなと怒っているところだが、今はとてもそんな気分にはなれなかった。

「……なんかあったの、ねーちゃん?」

 黄介は読みかけのマンガを置くと、ベッドから起き上がってあたしの表情を窺ってきた。慌てて表情を取り繕う。

「なんでもない」

「……そっか」

 ふっと寂しげな表情を浮かべて、黄介はぶらぶらと足を揺らしながら続けた。

「ねーちゃんのこと心配でさ。ねーちゃん、もしかしたらこのまま帰ってこないんじゃないかってちょっと思ってたから」

 どきりとする。胸中を言い当てられてしまったようで。

 しばらく何も言えないでいると、黄介の表情がすぐにいつも通りの笑顔に変わる。

「ま、帰ってきてくれたからいいや。そうそう、父ちゃんのことだったら心配いらないぜ。おれがしっかり言ってやったからな。ねーちゃんと喧嘩ばっかりしてんじゃねえってさ」

「……」

「ねーちゃんもできるだけ父ちゃんと仲良くしろよな。おれはいいけど、みどりが怖がるからさ。そんじゃ、おれはもう寝るよ。おやすみぃ」

「……黄介」

 足早に部屋を去っていこうとする黄介の背中を、あたしはなぜか呼び止めていた。

「……どしたの、ねーちゃん?」

「黄介は、正義の味方なんて嫌だって思ったことはないか?」

 返答までのわずかな間、黄介の瞳は、ただただまっすぐにあたしの目だけを見つめていた。

 それからぽりぽりと頭を掻きながら、困ったような仕草を作って答える。

「んー、あるといえばあるし、ないといえばないかな」

「どっちだよ」

「いや、ね。そりゃしょっちゅう父ちゃんに呼び出されるせいで友達と遊べないのはヤだけどさ。でも、正義の味方やってるのは嫌いじゃないよ」

「それで怪我することもあるのに? 怖いとか思わないのか?」

「昔はそりゃまあ怖かったよ。あんなおっかねー連中といきなり戦えってんだからね。でも、最近はそうでもない。だってピンチになってもみんながいるから」

 当たり前のように笑って黄介はそう言った。

「母ちゃんが守ってくれるし、ねーちゃんが守ってくれるし。それに父ちゃんもだ。んで、今までみんなに守ってもらった分、今度はおれがみどりを守らなきゃいけないわけだ。怖がってる場合じゃないよね」

「……」

「ま、そゆこと。話はそんだけ?」

「……ああ。呼び止めて悪かった。おやすみ、黄介」

「うん。おやすみ、ねーちゃん」

 ぱたんと閉じられる扉。賑やかだった部屋が一瞬で静けさに包まれる。

 あたしは深い溜め息を吐き出して、ベッドの上に身を投げ出した。つい先ほどまで黄介が寝転んでいたからだろう、ベッドにはまだほのかな温もりが残っていた。


 ――みんなが守ってくれるから怖くない。

 ――守らなきゃいけないものがあるから怖くない。


 あんなにはっきりと自分の気持ちを口にしてみせた黄介に対し、あたしは情けなくも、何ひとつ言葉を返すことができなかった。

「……正義の、味方」

 虚空に向けて呟いた言葉は、やはり虚空の中に霧散していった。黄介の言葉はあれほどあたしの胸に響いたのに、あたしの言葉はこんなにも空っぽだ。

 気が付けば、あたしはポケットの中にしまいこんでいた一枚の名刺を取り出していた。そこに記載されている番号を、携帯電話のディスプレイにひとつひとつ打ち込んでいく。

 通話ボタンを押す。コール音。

 ツーコールと半分ほどで、相手が出た。

『はい、獄道です』

「五月雨です」

『おや、五月雨さんですか。まさかこんなに早く連絡をいただけるとは』

「はい。さっきの話なんですが」

 心を殺して、言葉を捻り出す。


「――受けさせてくれませんか」


 あたしはこの日、正義の味方を辞めた。

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