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縁切り

作者: 図科乃カズ



   1



 昔から姉が嫌いだった――咲弥花(さやか)風莉(かざり)をそう思っていた。

 生まれた時、ほんの数分の差で区別された姉と妹。たったそれだけの差にどれ程の優劣があるのか。それなのに風莉はおっとりした顔のまましゃべり方から呼吸の仕方までいちいち注意してくる。「そんなんじゃ相手に喧嘩を売ってるように見えるよ」

 どちらが売ってるのやら、その思いを咲弥花はいつも飲み込む。分かってる、姉は自分の欠点を注意して直そうとしてくれているだけだ。

 ふたりは顔形も声のトーンも同じ、しかし、性格は正反対だ。

 咲弥花は整った見た目に反して自分に自信が持てない、風莉は微笑んだまま刺すように正論を口にする。だから咲弥花は風莉が嫌いなのだ。




「2日前が『見えた』で、今日は『消えた』?」

 大学前の昭和レトロな小さな喫茶店でいら立ちを隠すことなく髙山が言葉をぶつけてくる。「不思議ちゃん系? だからそういうのやめなって言ったよね?」

「タカちゃん、落ち着いて」隣の広野がすぐさま口を挟む。そして気遣うように咲弥花に向けて愛想笑いを浮かべる。

 髙山は髪の先を指で弄りながら顔を合わせないように窓の外に目を遣り、広野は困ったように眉を八の字にして咲弥花と髙山の間で視線をさまよわせる。

 大学に入ってからできた2人の知人、髙山と広野は高校からの付き合いだという。だからかもしれない、咲弥花が疎外感を拭うことができないでいたのは。しかし、進学と共に上京した咲弥花には他に頼れる知り合いはいない。だから、藁にもすがる思いで2人の講義が終わるまでずっと待っていたのだが。

 咲弥花の相談事を聞いてから、髙山は明らかに不機嫌になっていた。

「こないだのこと悪いと思ったから聞いたけどもう無理。ヒロだって普通に引くでしょ? 会ったことのない人の話されたって」

「それはそうだけど――」

 口にした後に「しまった」という顔で広野が咲弥花を見る。

 嫌悪感を隠そうともしない髙山に、憐れんだ目をこちらに向けてくる広野。咲弥花の胸の中が更に痛くなる。それは軽蔑や同情を向けられるのが辛かったからではない、自分の話を信じて貰えないことがそれ以上に辛いことだと分かったからだ。 

「ごめん、また変なこと相談しちゃって」

 逃げるように席を立つ咲弥花に広野の声が追いかける。

「お、お姉さん? とケンカでもしたのかな。ほんと酷い顔してるけど大丈夫?」

「だから会ったことないじゃん、あたしら」「タカちゃん、言い方!」

 2人の声を背中で聞きながら咲弥花は逃げるように喫茶店を出た。



 ゴールデンウイークが終わったばかりで梅雨入りはまだだというのに、喫茶店の外はどんよりとした雲が今にも落ちてきそうだった。寂れた大学の門がぽつりぽつりと人を吐き出している。学生課はまだ開いているかもしれない、そう考えた咲弥花だったが、髙山と広野の顔が脳裏をよぎって首を横に振った。

 学生課で何を聞く気? 「私の姉を知りませんか? 私と一緒に今年入学しているはずなんですが」そんなことを口にすればあの2人と同じ反応をされるだろう。もしここでも信じて貰えなかったら心が真っ二つに折れてしまいそうだった。

 咲弥花は校門をくぐることなく駅へと向かった。

 都営地下鉄に乗って五駅目、そこから一駅分歩いた所に咲弥花の住むマンションがある。駅舎を出て空を見上げれば大学で見た鉛色の空がここにもあった。

 スマホに表示した地図を見ながらスーパーや居酒屋が並ぶ道を進むと、すぐに小型のマンションやアパート、個人宅が混在する住宅区へと変貌した。くすんだブロック塀にはバイクや自転車が立てかけられているのに人通りはない。通りすぎたごみ集積所には破れた袋から生ゴミが散乱していたが、それは今朝見かけた状態と変わらなかった。

 寒い、咲弥花はデニムジャケットの襟を掴んで密着させた。急に吹いた風が咲弥花の首元をかすめたせいだが、いつの間にか薄暗さを増した路地にぞわりとしたせいかもしれない。

 あと少し行けば自分が住んでいるマンションの近くに出る。電柱から垂れ下がった街灯がチカチカと瞬く。その光を求めて咲弥花の足が自然と速くなる。

 古びたモルタルのアパート、歪んだままのフェンス、ひび割れたビルの壁。道に並ぶどれもが寂しい。それが咲弥花の心を揺さぶる。喫茶店の時と同じだ。見放され、ひとり取り残されたような孤独感。

 と、そこに――、


 ……ペタ……ペタリ……。


 何かがアスファルトの上を歩む音。

 路地の先、折れ曲がった丁字路の塀の向こう、街灯の明かりが届かない闇の中。

 跫音(あしおと)の方へと視線を動かす。左右に分かれた道の端に(かす)る黒い影――それはひょろりとした体の上に異様に大きな頭が乗っていた。

 えっ、(たたず)む人影に驚いてもう一度目を向けると暗い小路だけが続いていた。そんな筈はない、確かに一瞬、大きな頭をした何かがいたのだ。

 咲弥花は思わず自分の肩を抱いた。やはり見間違いではない、あの子供のような黒い影は確実に近づいてきている。


 そして、この子供が現れてから姉――風莉は存在ごと消えてしまった。



   2 



 咲弥花(さやか)風莉(かざり)が上京したのは3月下旬のこと。同じ大学の同じ学部に合格したことで、両親は姉と一緒ならばと東京での暮らしを許してくれた。

 姉の風莉とは双子だけあってよく似ていた。咲弥花はそれが面白くなく、髪を結い上げて頭の上で丸めていた。肩まで伸びた髪が綺麗だった姉は、おっとりとした雰囲気もあいまって上品な美しさを隠しきれなかったからだ。

「人は見た目で印象が変わるから。咲弥花だって髪を下ろせば可愛くなれるわよ」姉が目尻を笑みで滲ませる。

 そう言って笑っていた風莉が消えたのは、黒い影を見るようになった直後のこと。

 最初に黒い影を見たのは大学の講義が本格的に始まったゴールデンウイークが明けた一週間前。

 灰色の雲が低く垂れ込めた夕方、先を行く学生が大学の校門を通りすぎようとした瞬間、門と人の間に異様に大きな頭をした影がちらついた。それはほんの一瞬のこと、咲弥花は気のせいだと思った。

 しかし、翌日の夕方にも同じ場所で黒い影を見た。

 2日続いたことに咲弥花は漠然とした胸騒ぎを覚えたが、3日目は何も見ることなく校門を出ることができた――が、それは単に、校門では(・・・・)、に過ぎなかった。

 その日の最寄り駅、薄明かりが照らす地下の改札を抜けた先で、重く湿った空気を感じた。それは通路に連なる柱の間に潜んでいるのだと気づいた瞬間、……ペタ……ペタリ……、跫音(あしおと)と共に柱の陰から黒い大きな頭が覗いた。

 あ、と声を上げて見直すとそこに黒い影はなかった。

 頭だけが目立つ、ひょろりとした子供のような影。そんな子供にこれまで会ったことはない。体の震えが止まらなかった咲弥花は翌日から使う駅を1つ変えた。



 大学の校門で2回、駅の改札で1回、そして今日はマンション近くの丁字路。子供の影は確実に近づいてきていた。

 帰宅した咲弥花はドアを用心深く施錠すると部屋の照明を付けた。LEDに照らされたワンルームの部屋、真新しいシンクとユニットバスの扉、奥には新品のベッドとチェストとローテーブル。窓は分厚いカーテンに遮られていて外は見えない。

 咲弥花は冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し一気に飲み干す。ふう、と大きく溜息をつくとようやく落ち着いてきたのが自分でも分かった。

 結い上げた髪をほどきながら部屋に入ると、壁に立てかけてあった姿見に自分が映った。くっきりとした二重まぶた、細くて長い首、肩まで届いた髪、そこに映る顔は姉の風莉にそっくりだった。


   ◇


 ――駅の改札で黒い影を見た次の日、咲弥花は髙山と広野を呼びとめた。それが2日前のこと。いつもなら真っ先に姉に相談していただろうが喧嘩の最中で気まずかったのだ。

 髙山と広野とは同じ講義でたまたま知り合った。話してみるとお互い地方出身だったことから頻繁に言葉を交わすようになったのだが、

「はぁ?」

 いつもなら姉とふたりで来ている学生食堂で、髙山は露骨に嫌な顔をした。広野は微妙な顔をしながら愛想笑いを浮かべる。

「三日も続けて黒い影が『見えた』なんて、なんかあるのかも、かな?」

「ヒロ、いい加減、はっきり言ってあげた方がこの子のためなんだって」

 広野を制止した髙山は咲弥花に向き直る。

「そういうの、やめた方がいいと思うんだけど?」

 咲弥花を睨む髙山の顔はとても冷たい。しかし、彼女が何に対して怒っているのか咲弥花には分からない。いきなりオカルトめいたことを相談して気に障ったのだろうか。

 とにかく謝ろうとする咲弥花に髙山は首を横に振った。

「分かってない――『見えた』とか、いつも1人で誰かと話してるような素振りとか――そうやって人の気を引こうとするの、やめた方がいいって言いたいの」

 気を引きたい? そんなこと考えたこともなかった。ただ、本当に怖くなって話だけでも聞いて欲しかっただけなのに。

 3人の間に沈黙が流れる――と、

「もういい!」髙山が席を立った。

「タカちゃん!」広野は咲弥花に小さく頭を下げるとすぐに髙山の後を追った。

 髙山がなぜ機嫌が悪くなったのか咲弥花には理解できなかった。



 2日前のことを思い出し、今日と重ねる。

 思わせぶりな態度で気を引こうとするなと激怒した髙山は、今日、姉に会ったことはないと呆れた。

 そんなはずはない、4人で講義を受けた時もあったのだ。それなのに髙山と広野からは姉の存在が消えてしまっていた。これも黒い子供の影が関係しているのか。

 肩に掛けていたリュックをベッドに放り投げた咲弥花は、チェストの上の写真立てが倒れていることに気づいた。元に戻しながら、姉が消える前にきちんと話し合っていればよかったと後悔した。


   ◇


 ――姉と最後の喧嘩をしたのは一週間前、咲弥花が夕食当番に間に合わなかったからだ。

「ひとりで出掛けたことを責めてるんじゃないの、ふたりで決めた約束事は守らないといけない、そう言いたいの」

 おっとりとした表情とは裏腹の、鋭い言葉。言うことは正しい、しかし、約束を破った訳ではない。戻ったら夕食を作るつもりだった。それなのに姉がしびれを切らして作ってしまったのだ。これは自分が悪いのか。

 本当は言い返したいが「だったら遅くなるって連絡をくれればいいじゃない。夕食の時間は決まってるのだから」と正論で返されるのは分かっていた。だから咲弥花はこれ見よがしにふて腐れて夕飯も食べずに寝るしかなかった。

 意地を張ってしまうとますます話しかけづらくなる。姉も別に話しかけてこない。

 そのような状態が数日続いていただけに、咲弥花は黒い影について相談できないでいた。しかし、「そんな話で気を引こうとするな」と髙山に吐き捨てられた夜、何も言わずに夕食が用意されていたのを見て、咲弥花の中の緊張の糸が切れた。

 突然、子供のように大声で泣き出した咲弥花を、風莉は両腕で優しく包み込むと、無言で背中を叩いた。「大丈夫、分かってるよ」そう言ってくれたように思え、咲弥花はますます泣いた。

 姉はいつもそうだ、何も聞かなくてもいつも分かっていて、何も言わなくてもいつも許してくれる。常に厳しく、常に優しい姉だから、いつでも嫌いで、いつでも好きだった。

「それは怖かったよね。分かって貰えないのも辛いよね」

 咲弥花が落ち着くまで風莉はずっと抱きしめてくれていた。心地よさと恥ずかしさを感じた咲弥花が顔を離すと、姉のブラウスの胸元には涙と鼻水がべっとりと付着していた。

 ごめん、と手を伸ばすと、風莉はその手を掴んでうっすらと微笑んだ。

「話してくれてありがとう。咲弥花は頑張ったよ。わたしは咲弥花の話、信じるよ」

 その手はとても温かかった。



 咲弥花が見た黒い子供の影について、風莉は「咲弥花がひとりの時に現れるんだと思う」と言った。姉が言うのだからそうなのだろう、咲弥花はなんの疑いもなく信じた。しかし、次に続いた「だからね、わたし、これから少し間、隠れていようと思うの」という言葉は予想外すぎて頭に入ってこなかった。

「そして現れたところを捕まえる。ね? ほんのちょっとの間だから、わたしを信じて。咲弥花はわたしが守るからね」

 固まってしまった咲弥花に、風莉はおっとりとした顔で笑いかけた。それが2日前の夜。

 そして翌日となる昨日の朝、いつの間にか寝てしまっていた咲弥花が目を覚ますと姉の姿が消えていた。不安になった咲弥花はマンションの周辺を捜し回った。大学に行くために使っていた最寄り駅、ふたりでよく買物に行ったスーパー、「私たちの町と変わんないね」と立ち寄っていた小さな公園、思いつくところは全て行ってみたが姉の姿はなかった。

 もしかすると大学に行けば見つけられるかもしれないとすぐに家を出たのが今朝のこと。

 姉が履修している講義を覗いてみたが姿はなく、早めに学生食堂に行ってよく利用する南側のテーブルで人の往来を観察したがここにも現れなかった。

 時間だけが過ぎていき、ますます不安になった咲弥花が最後にすがったのが髙山と広野だったのだが、黒い子供の影のことも、姉が消えたことも信じてもらえなかった。

 全ては一週間前に黒い影が現れたことから始まった。最初は校門で、次に駅で、そして今日はマンションの近くで。黒い子供の影は着実に咲弥花の生活を侵食していった。髙山や広野には奇異な目で見られ、姉は存在を消されようとしている。

 自分の方がおかしいのだろうか? ――咲弥花はローテーブルの前に力なく座ると頭を抱えた。自分以外の誰かに妄想ではないと言ってほしい、そうでないと頭の中がおかしくなりそうだった。

 その時、咲弥花の脳裏に母親の顔が浮かんだ。そうだ、実家に戻ってるかもしれない。

 咲弥花は這うようにしてベッドの上のリュックからスマホを取り出すと、必死に指を動かして母親の携帯に電話した。

 ――トゥルルル、トゥルルル、ガチャッ

「お母さん!」

『…………』

 スピーカーの奥からは何も聞こえない。

 咲弥花は左耳に集中する。ブーン、微かに蛍光灯の振動音だけが聞こえる。しばらくして、

『……コツ……』

 振動音とは明らかに異なる短く響く音……コツ……コツ……徐々に大きくなるにつれ、それは廊下を歩く跫音だと分かった。


 ……コツ……コツ……コツ……。


 更にはっきりと聞こえる跫音に咲弥花は息を飲んだ。手に持っていたスマホがすべり落ちる。その跫音は|右耳からも聞こえるのだ《・・・・・・・・・・・》。

 咲弥花は薄暗がりの中に沈む玄関に目を遣る……コツ……廊下を進む音が真っ直ぐに咲弥花の部屋へと向かってくる……コツ……耳を塞ぎたいのにそうすることができない。


 ……コツ。


 跫音が扉の前で止まる。咲弥花は息を潜めて鉄扉を凝視する。心臓が激しく鼓動する。

 コン、コン――玄関ドアがノックされるのを聞いた瞬間、咲弥花は意識を失った。



   3



 雀の声を聞いて今が夜ではないことを咲弥花(さやか)は感じた。しかし、厚く閉ざされたカーテンの向こうが、本当は朝なのか昼なのかは分からない。

 照明が消えた部屋はただただ暗い。マンションの廊下に響く黒い影の跫音(あしおと)を聞いてから何日経ったのか、朦朧とする咲弥花には理解できないでいた。

 黒い子供の影が部屋の前まで来ている――もう外には出られない。咲弥花はずっと部屋の隅でうずくまっていた。スマホが振動音を発した時もあったが、壁に投げつけてからはこの部屋で音を発するものはない。

 屋外もしんと静まった頃、喉の渇きを覚えた咲弥花は顔を上げた。目の前のローテーブルに飲みかけのペットボトルがぼんやりと見える。手を伸ばすと思いの外体力が落ちていたのか蹌踉(よろ)けてテーブルに突っ伏してしまった。

 乗っていたペットボトルやチラシがフローリングに散らばる。その中の1つに目が止まった。それは(えのき)が書かれた絵馬だった。

「――ああ」

 絵馬を見た瞬間、咲弥花はあの神社のことを思い出した。

 縁切榎――悩み事や困り事などの悪縁を断ってくれるという、榎を御神木とする大六天神。

 その名前をネットで見つけたのはゴールデンウィーク中のこと。

 きっかけも思い出せない些細なことで喧嘩をしてしまった咲弥花は、姉に言い負かされた鬱憤を晴らすために「縁切り」というキーワードでネット検索をしていた。

 最初は軽い気持ちだったが、幾つかページを読んでいくうちに縁切り神社が全国にあることが分かった。更に調べてみると通学区間を途中下車すればすぐに行けるような場所に縁切榎があった。

 榎が「縁切り」として祀られるようになったのは江戸時代の頃、武家屋敷にあったこの榎の下を花嫁が通ると必ず不縁になる、と噂が広がり信仰の対象となった。当時は茶屋の子供にお願いして榎の樹皮を手に入れ、それを煎じたものを縁を切りたい相手に知られないように飲ませた。「縁を切りたがっている」と周囲に知られると成就しないからだそうだ。現代では絵馬に詳細を書いて奉納するだけでいいらしい。

 ちょっとした悪戯心が咲弥花の中で囁いた。そして好奇心がそれを後押しした。見れば気分が晴れるかもしれないし――そう言い訳をしながら縁切榎へと足を運んでしまった。

 しかし、突然爆発した感情は時間と共に急速に萎む。先走った感情にようやく理性が追いついたからだ。なので、実際に神社を目の当たりにした時にはその小ささに気が抜けたし、絵馬を買ってみたものの使う気にはなれなかった。

 物心ついた頃から、姉はおっとりした顔のまま上から目線で正論を言う。それが咲弥花の神経を逆なでする。口も聞きたくないし顔も見たくなくなる。それが嫌だとなぜ分かってくれないのか――しかしそれは、何も言わなくて自分のことを分かって欲しいと甘えているだけ。どれだけ姉を嫌おうが憎くはない、本当はその逆。

 改めてそう気づいたのに、縁切榎を見に行ったせいで最後の喧嘩をしてしまい、黒い子供の影が現れたせいで消えてしまった。

 ――「守る」と言って消えてしまった姉の面影を求めて、咲弥花は部屋を見渡した。

 玄関がすぐに見えるワンルーム、テレビはなく、シングルベッドとローテーブルと木製のチェストだけが薄暗がりの中に存在している。チェストの天板には姉と撮った写真が飾られていた。

 咲弥花はよろよろと立ち上がると写真立てに手を伸ばそうとした。その時、


 ……ペタ……ペタ……。


 軽い跫音が外の廊下に響いた。刹那、咲弥花の体が硬直する。黒い子供の影――咲弥花の呼吸が速くなった。

 咲弥花は音の先を凝視する。薄闇に溶けこんでいた玄関ドアの輪郭が徐々に露わとなり……ペタ……跫音と重なった。

 ドアノブが鈍く光り、下に向かって半円形を描く。無音でドアが開くと縦長の隙間が広がっていく。


 ずるり――隙間から唐突に滑り出る異様に大きな頭。


 咲弥花の呼吸が止まる。這い出た小さな手が隙間をこじ開ける。壁を伝って入り込んだ黒い影は、細い体に巨頭を乗せた黒い子供の形へと変化した。

「――――!!」

 心臓が激しく脈打つ、息がしたいのに呼吸ができない。

 ……ペタ……黒い子供がキッチンを抜ける……ペタ……顔は闇色で覆われ何も見えない……ペタ……黒い子供は咲弥花の前に立った。

 見上げることしかできない咲弥花の顔面に枯れ枝のような細い腕が伸びる。

「お゛え゛」

 黒い子供の手が開く。乾燥した木の欠片が咲弥花の顔に降り注いだ瞬間、


「おねぇちゃん!」


 ――絞り出した救いを求める声、と……コツ――、


「榎の樹皮を渡すところ、わたしが見たわよ(・・・・・・)


 咲弥花の背後から探し求めていた声。同時に風莉(かざり)の手が黒い子供の腕を掴む。

「縁切りを成就させるには相手に見られちゃいけないんでしょ」

 風莉の手を振り払った黒い影は怯えたように体を震わせる。

 咲弥花を庇うように風莉が前に出ると、黒い子供は交互にふたりを見た。

「咲弥花との縁は切らせない」風莉が更に一歩踏み出すと、

「お゛え゛ん゛あ゛あ゛い゛ぃ゛ぃ゛……」

 何も無い顔から濁った声が漏れ、黒い影の輪郭が大気に溶け出した。そして一瞬にして巨大な頭も細い肢体も霧散してしまった。

 咲弥花は声も無くその場にへたり込んだ。

「もう大丈夫だからね、咲弥花」呆然とする咲弥花を風莉が優しく抱きしめる。

「ひとりで不安だったでしょ、怖かったでしょ、よく頑張ったね」

 姉の優しい声が耳に流れ込んでくる。幼い頃、よくこうやってくれたことを思い出した。

 自分がどんなことをしても最後は必ず受けとめてくれる存在、だから本当は大好きなのだ。

「ゴメンね。ゴメンね、お姉ちゃん。私が変なことお願いしようとしたせいで」

「いいのよ、わたしはちゃんと分かってたから」

「悪いのは私なのにいつもきつく当たってごめんなさい」

 風莉は返事の代わりに背中に回していた手に力を込める。それだけで咲弥花は許された気持ちになった。

「――わたしの方こそ許してね」

 抱き合うふたりの間に、ぽつりと風莉の言葉が零れる。

「本当は咲弥花が羨ましかったの。思ったことはなんでも口にして、周りにそれが許される。何をやっても咎められないし、なんでも出来ると思ってる」

「お姉ちゃん?」

 風莉を見ようとしたが締めつけられて頭が動かせない。

「昔からそうだった。出来ないなんて夢にも思わない。だって、咲弥花にはどこにでも行ける足、どれだけ動いても元気な体があったものね。おんなじ双子だったのにわたしにはなかった」

 咲弥花の背筋に冷たいものが走った。先ほどまで温かかった姉の体に熱を奪われる。

「咲弥花の自慢話を、わたしはいつも病院のベッドの上で聞いてるだけ。わたしはいつも笑う振りをしてたけど、本当はそんな話、聞くのも嫌だったの」

 自慢話? 違うよ、いつも病院で寂しそうにしてたから笑って欲しかったんだよ――そう言いたいのに体が震えて声にならない。部屋の温度は変わらないのに体の中が凍っていくようだ。

「わたしは病院にいて何も出来ない、それなのに咲弥花はわたしの気持ちなんて知りもしないで外で愉しんでる――羨ましい、あなただけ――狡い、どうしてわたしだけ――憎くてたまらなかった、わたしの妹が――」

 姉の声が呪詛のように咲弥花の耳に入り、激しく鼓動する心臓に絡み付いた。手脚の先から感覚が冷たく消えていく。

「やめてっ」最後の力を振り絞って突き飛ばす。

 倒れた咲弥花を、立ち上がった風莉が見下ろした。

「やめない」薄く開いた口の端が吊り上がり、目の端と繋がる。


「縁なんて切らせない。死んでも一緒だよ、咲弥花」


 ……コツ……パキッ、傍らに落ちていた絵馬が2つに割れた。

 チェストの上の写真立てには、病室で撮った咲弥花とベッドの上の姉が映っていた。



   4



 母親の静恵がマンションを訪れたのは、咲弥花(さやか)の着信があってから3日後のこと。

 折り返してみたもののスマホは繋がらず、メッセージアプリにも返信がこない。夫は静観した方がいいと言ったが静恵にしてみればそんな訳にもいかず、様子を見ようと新幹線で5時間掛けて上京したのだ。いろいろ吹っ切るためにも東京でひとり暮らしをするのもいいのではないかと、多少強引に勧めた後ろめたさもあった。

 幾つかの地下鉄を乗り換えて咲弥花の住む街へと着く。そこから地図を片手に歩いて10分程度、自分たちの町とさほど変わらない閑散とした住宅地を進んだ先に4階建てのマンションがあった。

 咲弥花の部屋は2階、階段を上ってインターフォンを鳴らす。留守なら合鍵を使って入ろうと思っていたのだが。


「はーい――えっ、お母さん!?」インターホンから漏れる咲弥花の驚きの声。「どうしたの突然? とにかくいま開けるね」


 ああ、よかった、と静恵は内心胸をなで下ろした。

 生まれたときから病弱だった姉の風莉(かざり)が亡くなったのは昨年。その生が長くはないことを静恵も夫も心のどこかで意識していたので、いつか来るべき日を覚悟していた。しかし、双子の妹である咲弥花はそうではなかった。あまりにも姉に懐いていたのでその日が来ることを話す機会を逸していた。

 葬儀が終わった後、咲弥花は両親を恨むことはなかったが、そうと知っていれば違う接し方をしていたと後悔しているのは見て取れた。それだけに、自室に閉じ籠もったままの咲弥花にかける言葉が見つからなかった。

 そんな咲弥花がぽつりぽつりと話し始めるようになったのが大学の推薦合格が決まった頃。時々ひとり言のように呟いては笑っている時もあったが、徐々に本来の明るさを取り戻していく咲弥花を見て、悲しい思い出があるこの土地に縛られるよりはと急いで入学の手続きを進めたのだ。

 町を出たのがよかったのかもしれない――インターフォン越しに咲弥花の元気な声を聞いてそう思った。

 ガチャリ、静恵の前で玄関が開いた。


「お姉ちゃーん、お母さんが来たよ!」


 肩まで届いた髪を揺らしながら、咲弥花はおっとりとした顔で満面の笑みを浮かべた。



   了





ここまでお読み頂き本当にありがとうございます。

久しぶりの短編ホラーですがいかがでしたでしょうか。


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[良い点] 花散里って源氏物語にあったなあって思います。花は散っても根は深い、そういうところ。では「さやか」ってなんだろう?フムン…
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