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「彩花さん。どこにいたんですか?」
辺りを見回してみても、奴の姿は見受けられない。
だが、一瞬でも目を離せば隠れてしまうのが奴だ。
重要なのは、この部屋から出さないこと。彩花には気の毒だが、この部屋で必ず決着をつけなければならない。
硬い声で問いかけると、彩花も緊張した面持ちで答えた。
「あ、あそこです……!」
彩花が壁を指差す。
そこにいたのか……! と理久は身体を固くしながら、そちらに目を向けた。
そこで、え? と困惑してしまう。
「……彩花さん、あれ?」
「そ、そうです! 何とかして頂けますか……!」
「あれって……、クモ、だよね」
壁に張り付いていたのは、小さなクモだった。
ゴキではないし、大きさもそれほどでもない。
アレに対して、怯えていたのか? と理久は彩花を見る。
すると彼女は目を瞑りながら、理久の腕を掴んだ。
「お願いします……。わたし、虫が本当に無理で……」
何かの間違いではなく、あのクモが嫌で嫌で仕方がないようだった。
いやまぁ、女の子にはそういう人も多いという。
実際、学校で虫が出たら、結構な剣幕でギャアギャア言う女子もいる。
るかは案外平気だし、(嫌そうにはしているが、昔は触れた)理久と父の二人暮らしだったので、その辺の感覚はイマイチ鈍い。
とはいえ、黒いあいつじゃなくてほっとしたのも事実だ。
死闘を覚悟していたのに、完全試合も余裕の相手となれば、肩の力も抜ける。
「じゃあ、部屋から本か何か持ってきて、外にぺってしちゃうね」
殺すのもどうかと思い、外に逃がすことを提案する。
彩花はいなくなればなんでもいいらしく、こくこくと頷いていた。
この部屋にも本はいっぱいあるが、これだけ怯えている虫を私物の本で処理されるのは嫌だろう。
だから部屋から本を持ってこようと踵を返したのだが。
その瞬間に悲鳴が上がった。
「兄さん! 虫が……! あ、あぁ……!」
この世の終わりのような声が聞こえ、理久は振り返る。
すると、クモがススス……、と棚の裏に消えるところだった。
唖然とした表情でそれを見送り、彩花はゆっくりこちらを見る。
あぁ……、と両手で顔を覆ってしまった。
「………………」
無念ではあるし、申し訳ないが、何もできない……。
黒いあいつもそうだが、物陰に隠れた虫を見つけ出すのは並大抵のことじゃない。
どうしようもないので、仕方なく彩花に言う。
「……ごめん。ええっと、じゃあ次に出てきたらまた呼んでください。そのときに処理するんで……」
「えっ……、い、いてくれませんか……? つ、次出てくるまで……。ここにひとりでいるの、嫌です……。兄さんを呼んでいる間にまた逃げていくかもしれませんし……」
怯えの混じった表情で、腕を掴まれてしまう。
大げさでは? と思わないでもないが、これがもし黒い奴だったら、と想定すると、理久も同じような考えになる。
あいつが潜んでいる部屋でひとり。
しかも、自分ではとても抵抗できないというのなら、だれかにいてほしい気持ちは十二分にわかる。
しかし、だがしかし。
……いいんだろうか。
ここは理久の家だが、同時に彩花の部屋でもある。
ある意味、ここは不可侵領域というか、かつては彩花が唯一安心できる場所だったはず。
女の子の部屋にいる、というのは、大きな意味があるようにも思えてしまうが……。
そう感じはするものの、自分たちは家族であることも思い出す。
夢のないことを言えば、この役割は香澄であっても父であっても構わないのだ。
まぁそれならいいか、と納得させた。
「ご飯作るまではまだ時間ありますし。大丈夫ですよ」
答えると、彩花は心からほっとした顔になった。
けれど、少しだけ困ったような表情で自分の部屋を見渡す。
「……ええと、すみません。この部屋にはクッションとかはないので……、ベッドに座っていてもらっていいですか」
「…………………………。……はい」
いいのか? 大丈夫? 本当に???
これ香澄がいたら怒られない?
いや、香澄がいたら最初から香澄を頼るか……。
微妙な迷いを感じながらも、理久は素直にベッドに腰を下ろした。
彩花が普段寝ているベッド……、と考えると意識しそうになるが、何とか堪える。
シーツはシワなく整えられているし、枕もなんだかしっかりしているものに見えた。
そういえば、彩花はしょっちゅうシーツを洗っていて、積極的に布団も干している。
理久はその辺を面倒で疎かにしがちなので、「マメな子だなあ」と思っていたのだが。
そんなベッドに座るのは、ちょっとだけ罪悪感。
そして、彩花はその隣にぽすん、と腰を掛けた。
「………………???」
なんで???
なんでわざわざベッドに隣同士に座るの? 椅子は一脚あるのに?
理久は困惑しながら、隣にいる彼女の熱を感じていた。
なんというか、心がかき乱される。
いやもちろん、理久が彩花に対して何かすることは決してない。
決してないけれど、それは無関心というわけではないのだ。
堪えるけれど、抑え込むのだってエネルギーはいるわけで……。
なぜこんなことを……、と思って、彩花の表情を見て、悟る。
「……………………」
彩花は目を細めて、じっと壁に目を配っていた。
時折、顔が左右に揺れている。
めちゃくちゃ警戒している。
何か動くものを見つけた瞬間、多分センサーみたいに声を上げると思う。
ただ単に、クモを見逃したくないのと、棚に近い机のそばにいたくないらしい。
勝手に内心で大騒ぎしていた自分が恥ずかしくなる反面、一匹の虫に翻弄され続ける彼女に和みそうになる。
こんな心情、バレたら「兄さんっ!」と怒られてしまうだろうけど。
とはいえ、少し前まで完全な他人で。
ちょっとした誤解で、本気で怯えられていたときのことを考えると。
緊急事態でやむを得ないとは言え、彼女の部屋で隣同士に座っていられるのは、嬉しかった。