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「前に来たことがあるのか?」
そう質問されていた。
……まぁ当然と言えば当然で、いくら彩花がそれらしい行動を繰り返そうとも
、「まさか、この家に住んでいるのではないか?」と突飛な発想をするのはあり得ない話だ。
そういう意味では、後藤の考えは実に現実的というか。
むしろ、理久たちが非現実な生活をしていることをより実感するというか。
彩花は少しばかり悩んだようだが、その考えに乗っかることにしたらしい。
「う、うん……。実は、何度か。小山内さんやるかさんに勉強を教えてもらったりとか」
「そうか。どおりでな。やけに道にも詳しいと思ってたんだ」
本当に迂闊だな、この人。
多分、迷うそぶりも見せずにまっすぐ来ただろ。
彩花は気まずそうな表情で、「う、うん」と目を泳がせる。
そこでフォローしようと思ったのか、彩花は慌てた様子で口を開く。
「ご、後藤くんも、たまにこの辺を走ってるって言ってたね」
「あぁ。河川敷のほうをな。今はもう部活をやってないから、ごくたまにだけど」
彩花はそれを聞いたあと、ちらちらと理久を見た。
どうですか、兄さん、とでも言いたげだが、何が……? としか思えない。
彼は別にランニングしていることを知られてもいいけれど、あなたはそうじゃないでしょう……。
かといってそれを言えるはずもなく、ううん、とおかしな顔になってしまう。
しかし、そこで佳奈が戻ってきて、「だれも勉強道具を広げてないじゃない」と呆れて見せた。
それで「そろそろ勉強しようか」という空気になり、ほっと息を吐く。
本来の目的である、勉強会に入る。
といってもそれほど大仰なものではなく、単に各々で勉強するだけだ。
中学生三人は受験勉強で、自分たちの好きなように勉学に励んでいる。
理久も中間テストのことを考えて、今のうちに勉強することにした。
「わたしは特にすることないから、本でも読んでる~」
歌うように言いながら、るかはソファに身体を埋めた。
手に持っているのも参考書の類ではなく、ただの文庫本だ。
それに対して、佳奈が眉を顰めて物申す。
「るかさんも中間テストの勉強、しないでいいんですか」
「今やること特にないんだよね。あらかた片付けちゃった」
「………………」
佳奈は不満そうにしながら、るかを何とも言えない目で見る。
こんなときくらい勉強に参加したらどうだ、とか、空気が乱れるだろう、といった訴えなんだろうけど、るかの場合は多分本当にやることがない。
それに、あれは「自分は空いてるから、いつでも聞いていいよ」というポーズでもあった。
それが伝わるからこそ、佳奈は微妙な表情になっても何も言わないのかもしれない。
「……じゃあ、るかさん。早速ですが、ここ訊いてもいいですか」
その気遣いを感じ、佳奈は早速力を借りようとした。
きっとほかの人物だったら、「お、いいよいいよ。任せて」とソファからすんなり降りて来ただろう。
けれど、相手は佳奈だ。
「……いいよ~」
カチン、と身体を硬直させてから、おそるおそる移動する。
無表情の早口で、言葉を続けた。
「佳奈ちゃんだけでなく、彩花ちゃんも後藤くんも、それに理久も。遠慮なく聞いていいからね」
後藤は無言で頷き、彩花はきょとんとした顔をしていた。
あれは多分、「いっぱいいっぱいになったら助けてね」、っていうメッセージだと思う。
何かあったら、自分が声を掛けよう、と理久は内心で頷く。
緊張しながらも、佳奈の隣に座るるか。
途端にるかは、ふにゃっとした笑みを浮かべた。緊張はしつつも、隣に座れて嬉しそうだ。
そんなるかに対し、佳奈は怪訝そうな目を向けていた。悪印象を抱いた様子はないけれど。
気を取り直して、「ここなんですが……」と英語の文章を指差す。
「……ふんふん。あぁ、なんでこの答えになるか理解できないってこと? 簡単だよ、この動詞を見てね……」
いざ勉強モードに入ると、るかは落ち着いた口調で説明を始める。
すらすらと解説するるかを、佳奈は食い入るように見ていた。
時折、「あっ」「そっか……」と納得するような声が聞こえてくる。さらにるかは、「じゃあ今度は、この問題に当てはめてごらん」とやさしく誘導をした。
佳奈は目をぱちくりとし、その問題に見入っている。その表情にはしっかりと感心の色があった。
これで佳奈も、少しはるかのことを好ましく感じるだろうか。
「……あの。るかさん。もう戻ってもらっていいんだけど」
「えっ……。佳奈ちゃんが問題解くの……、見てちゃダメ……?」
「……よくわかんないけど、なんか気持ち悪いから嫌です。近いし。邪魔」
……いやどうだろう。
ふたりのやりとりを聴いていて不安になる。
るかは佳奈の真横で、じろじろと顔や手を見ている。確かにあれでは邪魔そうだ。
邪険にされているのに、るかはへらへらと嬉しそうだが。
何とも心配ではあるものの、ずっと見張っているわけにもいかない。
仕方なく勉強に戻ろうとすると、彩花と目が合った。
彩花もふたりのことが気になっていたのかと思ったが、そうではないらしい。
ちらりと佳奈たちを見てから、小声で「にい……、小山内さん」と呼び掛けてきた。
「どうしたの?」
「すみません。わたしも教えてもらいたい問題があって……」
ノートを指差す。
どうやら、るかの邪魔をしたくなかったらしい。
よし、と理久も腰を浮かせる。
るかほどの学力はないにせよ、理久だって志望校の先輩だ。
それだけに、後藤や佳奈の前で格好悪いところを見せたくないな……、と思っていたが、ちゃんと説明できる問題で助かった。
ほっとしつつ、ノートに指を這わせる。
「あぁ、これはまずカッコの――」
そう説明していくと、彩花も理解できたようだ。「あっ、なるほど……。ありがとうございます」と言ってから、くすくすと笑い始めた。
「え。なに?」
「いえ。小山内さん、すごくほっとした表情をしていたので。そんなに緊張しなくても……、と思ってしまって」
「いやだって。ここでわからなかったら、格好悪いじゃないですか」
理久の言葉に、彩花はさらにおかしそうにくすくすと笑った。
なぜかはわからないが、彼女のツボに入ったようだ。
その穏やかな笑顔にこちらまで心が温かくなる。
以前の姿が嘘のように、彼女はこうして笑顔を見せてくれるようになった。
その事実がとても嬉しいし、その笑顔に見惚れてしまう。
だからこそ理久は、佳奈や後藤にじっと見られていたことに最後まで気が付かなかった。