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るかから忠告を受けて、数日。
彩花に、自分の気持ちを知られてはいけない。
それを意識すればするほど、ぎこちない態度になりそうだったが、それでも日常は進んでいく。
今までと同じく、朝の挨拶をし、夕方に家に帰り、ふたりで晩ご飯を作る。
時にはふたりで買い出しに行くこともあったし、リビングでテレビを観ることもあった。
当然、会話もする。
しかし幸いながら、彩花から何か指摘されることはなかった。
今までどおり、他人でありながらも兄妹の形を保てていると思う。
「兄さん。ちょっといいでしょうか」
だから彩花に真面目な顔で声を掛けられたとき、理久はぎくりとした。
学校から帰ってきたあとの、ある日の夕方。
彩花はリビングで洗濯物を畳んでいて、理久が飲み物を取るために冷蔵庫を開けたときだった。
彼女の手伝いはしたかったが、諸々の事情で洗濯物を畳むことにはあえて不参加である。
できるだけ、そちらのほうも見ないようにしていた。
けれど、声を掛けられてはそうはいかない。
彩花はひどく真剣な表情で、畳み終わった洗濯物を脇に置く。
彼女は学校から帰ってきたあとも着替えておらず、制服姿でカーペットの上で正座をしていた。
お茶とコップを手に取っていた理久は、冷や汗をかく。
なんだろう、この緊張感は。
いっそのこと逃げ出してしまいたかったが、おそるおそる、「なんでしょう……」と彩花のそばに近付く。
「座ってくれますか」
こわい。
こわいけれど、言われたとおりに彩花の向かいに座る。
正座で。
彼女の背筋はぴんと伸びており、それに沿うように長い髪が揺れている。
涼し気な半袖のセーラー服は彼女によく似合っていて、見惚れるほどに可憐だった。
そんな彼女の前に座っているのに、何も嬉しくない。
いったい、何用だというのか。
まさか。
まさか、とは思うが。
バレたのだろうか。
この気持ちが。
正直、理久は自信がない。彩花のことを好いているのはどうしようもない事実だし、幼馴染のるかにはわかりやすくバレてしまった。
四六時中いっしょにいる彩花にこの感情が漏れてしまっていても、何ら不自然はなかった。
でも、もしそうだったら。
いったいどうなってしまうのだろう。
この関係は、どこにいってしまうのだろう。
内心で冷や汗をかいていると、彩花はそっと言葉を紡いだ。
「お願いがあるんです」
なんだろう。
変な目で見ないで、とか、もう近寄らないで、とかだったらどうしよう。
理久はごくりと唾を飲み込み、彼女の言葉を待つ。
そして、彩花は緊張した面持ちでこう告げた。
「わたしに、ホットケーキの作り方を教えてくれませんか」
「……うん?」
あまりにも斜め上の言葉に、頓狂な声が出てしまう。
思わず、なんで? と問い返すと、そこでようやく彼女の肩の力が抜けた。
「中学校で今度、文化祭があるんです。うちの中学校はチケット制ですが、一般公開をしていまして。うちのクラスはホットケーキ屋さんをやることになったんです」
「かわいい」
「かわいいですよね」
ふふ、と口に手を当てて彩花は笑う。
中学校でホットケーキ屋さんって。ほのぼのすぎる。
しかし、彩花は拳にきゅっと力を入れた。
「それで、わたしは調理班に回されそうなんです。なんだか、料理ができそう、と思われたみたいで……」
「あー……」
確かに彩花は雰囲気的に、文武両道というか、なんでもできてしまいそうというか。
男子の多分な願望がこもっていそうだが、料理はできそうだ。
しかし。
「彩花さん、まだ料理は勉強中なのに」
「そうなんです。でも、なんとなく断れなくて」
頬に手を当てて、ふぅ、と彩花は小さく息を吐く。
彩花はまだまだ、料理に慣れたとはとても言い難い。
野菜を切るのだって、今でもおっかなびっくりだ。
その状況で調理班に回されるのは、憂鬱にもなるかもしれない。
その感情を振り払うように、彩花はぐぐっと前のめりになった。
「それで、兄さんにお願いなんです。兄さんなら、ホットケーキも作れるんじゃないかと思いまして。よかったら、作り方を教えてほしいんです」
「いいですよ」
「ほんとですか⁉」
二つ返事すると、彩花は顔を明るくさせて両手を合わせた。
その嬉しそうな顔に、理久のほうが笑みを浮かべてしまう。
「ホットケーキなんてすごく簡単だから。一回作ってみたら、すぐ要領掴めると思いますよ。何なら、今から作ってみます?」
「はい、ぜひ! ……あ、でも。材料ってありますか? ないなら、わたし行ってきますけど」
今すぐスーパーにひとっ走りしそうな彩花に苦笑しつつ、理久は材料を頭に思い浮かべた。
「そんな凝ったもの作らないよね? 普通でいいなら、ホットケーキミックス、牛乳、卵があれば作れますよ」
「わ、簡単!」
彩花は嬉しそうに感嘆の声を上げた。
理久は立ち上がって、キッチンに向かう。
キッチンボードを開けて、ごそごそと漁った。
「るかちゃんが来たとき、たまーに作るんですよ。ホットケーキ。だから、ホットケーキミックスは残ってると思うけど……、あ、あった」
ホットケーキミックスの袋を取り出して、彼女に渡す。
彩花は興味深そうに、まじまじと袋を見つめていた。
「そこに書いてある作り方を読めば、本当にだれだって作れますよ。文化祭の飲食店としては、ちょうどいいかもしれないね」
先生の提案なのかな、とさえ思える妙案だ。
彩花は「わ、レシピありますね!」と、それさえも大発見のように目を輝かせていた。
彩花がレシピを熟読している間に、理久は必要なものをカウンターに置いていく。
ボウル、泡立て器、計量カップ、フライ返し、フライパン、フライパンの蓋。
ある意味、彩花にとって一番難しいのは、どこに何があるか把握していないキッチンで、調理道具を見つけることかもしれない。
そこさえクリアしてしまえば、ホットケーキなんてすぐに作れる。
大して教える必要もないが、理久は隣に立って彼女を見守った。
こわごわと卵を割ったり、ホットケーキミックスをどこまで混ぜていいかわからなかったり、焼くときに蓋をかぶせたせいで、「これ大丈夫ですか? 焦げてないですか?」と何度も聞いてきたりと、なかなかに大騒ぎだったけれど。
それさえも、理久にとっては微笑ましく、楽しい時間だ。
そして、すぐにホットケーキが焼き上がった。