38
九月一日。
新学期。
夏の暑さもわずかにやわらぎ始めた頃、楽しい楽しい夏休みがついに終わってしまった。
新生活にはまだ慣れたとは言い難いが、それでも学校には行かなければならない。
理久は久方ぶりに制服に袖を通し、部屋を出た。
一日中、部屋着でうろつく毎日も終わりだ。
その事実に肩を落としながら、理久は階段を下りていく。
「わ。理久くん、制服だ。似合うねえ。あ、おはよう」
リビングに入ると、突然そう声を掛けられて驚く。
香澄だ。
彼女はテーブルの上にコップを運んでいる最中だった。
「お、おはようございます」
ぎこちなく挨拶を返す。
夏休み中、理久が起きる頃にはいつも香澄は出勤していた。
今みたいに、朝の挨拶をするなんて滅多にない。
彼女はスーツに身を包んでいて、メイクも終えている。普段よりも、きりっとした面持ちだった。
その隣にはスーツ姿の父もおり、ふたり並んで朝食の準備をしている。
それも初めての光景で、ちょっと面食らってしまった。
「お。おはよう、理久。今日は寝坊しなかったな」
「普段からそんなにしてないでしょ……」
「夏休み中はかなりいい加減な生活してただろ。父さん、心配してたよ」
父は朝から朗らかに笑っている。
恥ずかしいから、香澄の前であまりそういうことは言わないでほしい。
父と香澄は話しながらも、手早く朝食をテーブルの上に運んでいた。
朝はトーストと目玉焼き、それとコーヒー、と簡素なものだが、朝ならこれくらいでちょうどよい。
ただ、三人の皿の上にはトーストが一枚だったのに対し、一皿だけ二枚載せられたものがある。
それは彼女の定位置に置かれていた。
「おはようございます」
その定位置の主である彼女の声が、涼やかにリビングに響く。
彩花が下りてきたようだ。
理久は振り返って彼女を見て、その姿に息を呑んだ。
言葉が出ないというのは、このことだと思った。
ただただ、見惚れてしまう。
「おはよう。彩花ちゃんが制服着てるの、なんだか新鮮に感じるね」
「あぁそっか、彩花も制服見せるの初めてだもんね。引っ越してから初登校」
父のしみじみとした声と、香澄の笑みの混ざった声が重なる。
そう。
彩花は今日、制服を着ていた。
白と紺のセーラー服だ。
長い髪がセーラー服の前で流れていき、彼女の清楚な印象がより強くなる。
あどけない顔立ちが学生という枠組みにハマることで、パズルのピースがパチりと埋まるかのよう。
普段、私服やパジャマ姿で、丁寧な言葉遣いと動作をする彼女といると、時折彩花が年下の中学生であることを忘れてしまう。
しかし今は、その制服によって、彩花が中学生であること、年下であることを強く意識してしまった。
そして何より、理久が一目惚れしたときと同じ姿なのだ。
周りを照らすような、ぽかぽかの笑顔を浮かべていたあの子。
髪や顔が汚れ、泥だらけの制服でもだれよりも美しかったあの子。
心を一気に持って行ったあのときの彼女が、すぐ目の前にいる。
「な、なんだか恥ずかしいですね」
彩花は照れた表情で、長い髪を指でいじっている。
彼女に見惚れるのはもう何度目かわからないが、今日はさらに眩しく見えた。
今はあのときよりも、心臓の鼓動が強くなってしまっている。
「兄さん?」
すっかり固まっていると、いつの間にか彩花がこちらの顔を覗き込んでいた。
ひそかに拳の中で爪を喰い込ませながら、理久は慌てて返事をする。
「おはよう、彩花さん」
「おはようございます」
花が開くように、彼女はパッと笑う。
大丈夫だろうか……、こんな子に笑顔で話し掛けられたら、クラスの男子はすべて恋に落ちるのでは……? いや、もう落ちてる? 大丈夫か、中学生……。
しかし、そんな無駄な心配ができるほど、朝はのんびりしていられない。
ほかの三人が席に着いたので、理久も慌てて自分の席に腰掛ける。
彩花が嬉しそうに、いただきます、と手を合わせた。
彩花は元々、中学校には徒歩で通っていたらしい。
今回の引っ越しで距離は離れてしまったが、自転車で行けない距離ではないそうだ。
中学三年生の二学期ということもあり、転校はせずに今の家から通うことになっていた。
なので、理久よりも早く彼女は家を出て行く。
もしかしていっしょに登校できるのではないか、と少しは期待していたので、ちょっと残念だ。
とはいえ、もしそうなったとしても、ふたりきりの登校にはならなかったのだが。